「いらいらするのよ」
胸ぐらをつかみながら、彼女はそう言った。そこには、言葉どおりのいら立ちが、たしかに含まれていたけれど、それにしては、冷静な声だった。冷静であろうとする声だった。
背中に、制服を通してつたわる、コンクリートの無機質なつめたさ。それが心地よい、と場違いにほむらは思う。間近に彼女の顔。ふだん、明るく、はつらつとしていて、ころころと表情をかえては、まわりに笑顔を作っているその顔に、今は感情がうかんでいない。うかべていない。つとめて、感情をうかべないようにしようしている。そんな顔だった。
そんなめずらしい彼女の表情を、間近で見られたことに対して、よろこばないといけないかしら、なんて。そんなことを思う。やはり、場違いに。笑ってしまいそうになった。思わず、口元がゆるんだのが伝わったのかもしれない。胸ぐらをつかむ彼女の手に、力がはいったのがわかった。
「あんた、あたしになにしたの」
彼女は、美樹さやかは、やはり冷静であろうとする声で、言った。その唇の動くのを、ほむらは見ていた。すこし声が震えていた。その震えが、はたしてなにからきているのだろう、と考えながら。怒りだろうか。焦りだろうか。それとも――恐怖だろうか。なにに対する? 自分に対する?
「なにもしていないわ」
笑ってしまいそうになるのをこらえながら、ほむらは答えた。
「なにも」
彼女の手に、また力がはいる。すこし息苦しさを覚えた。
校舎裏。大きな建物に、陽の光はさえぎられて、ほの暗い。風はほとんど通らない。ほかの場所とくらべて、すこしじめじめしている。肌寒い。
人の姿はない。こんなところを人に見られたら、彼女はなんと言い訳するのだろう。すこしだけ気になった。気になっただけ。
「いらいらするのよ」
また、彼女は言った。さっきよりも、いくらか輪郭のはっきりしたいら立ちが、今のそれにはあった。
「あんたを見てると、いらいらする」
すこしずつ、すこしずつ。力のはいっていく手は、そのままにしていたら、自分を絞め殺してしまうかもしれない、とほむらは思った。思って、なお、笑ってしまいそうになった。
「あんたを見てると、あたしがここにいちゃいけないような、そんな気持ちになる。なにか大事なことを、忘れてるような気がしてくる。あんたを許しちゃいけないような、そんな気持ちになる」
すこしずつ、すこしずつ。彼女はもう、ほむらのほうを見ていない。あるいは、彼女自身に問いかけるように、つぶやくように、言葉をこぼしている。それはきっと、はたから見れば、理不尽でしかないのだろうけれど。
ほむらは知っている。それが、理不尽ではないことを知っている。知っているから、ただ彼女の、つぶやくみたいな声を、こぼれおちていく言葉たちを、じっと聞いている。見つめている。その口元を。
「あたしにはもっと、なにか、いるべき場所が、ほかにあるんじゃないかって、やるべきことが、ほかにあるんじゃないかって、でも、それを、あんたに奪われたみたいな、そんな――」
「でも、私は、なにもしていない」
一瞬、彼女の顔に、あきらかな怒りがうかんだ。また、彼女の手に力がはいる。息苦しさを覚える。笑ってしまいたくなるほど。
「……苦しいわ」
彼女の手に、ほむらはそっと、自分の手をそえて。そう言うと、はっとした様子で、彼女は手を離した。離して、ばつの悪そうな表情を浮かべて、しかし怒りは、まだたしかに、そこに残っていた。
「ねえ、美樹さやか」
ふたりの間に生まれた、ちいさな距離。そこを、ゆるく、ゆるく、ないに等しいくらいの風が、ささやくように、吹き抜けていく。しわになってしまった制服の胸元をのばしながら、ほむらは問いかける。
「あなた、今、たのしい?」
「……は?」
その問いが、突飛なものだったのだろう。ばつの悪さも、怒りも、忘れてしまったみたいな顔で、さやかがほむらを見た。その表情に、今度こそ、ほむらはそっと、しかしはっきりと、ほほえんでみせた。
「巴マミの家で紅茶を飲んだり、佐倉杏子とゲームセンターに行ったり、志筑仁美と買い物をしたり、上条恭介のヴァイオリンを聴いたり――鹿目まどかと、笑い合ったり」
さやかは答えない。答えないことが、なによりの答えになっていると、彼女自身、そんなこと、わかっているはずなのに。
「それが、あなたの居場所でしょう?」
「それ、は」
さやかは答えない。答えられない。そのさきの言葉をつむげない。
「いるべき場所。やるべきこと。あなたはそう言ったけれど、それを決めるのは、誰なのかしらね」
さやかは答えない。答えられない。答えられないことをわかっていて、ほむらは問うているのだから、それは当然のことだった。
「私は、なにもしていない。元に戻しただけ。もともとその場所にあったものを、あったところに」
ほむらは、ほほえみを浮かべながら、彼女に背を向けた。胸元のしわは、完全にはのびきらなかった。それをのばすことをあきらめて、なびいた髪に手を通す。
「……悪魔みたいだ、あんた」
その背中に、さやかがひとこと、そう投げかけた。ほむらは自分の浮かべている笑みが、よりはっきりしたものになったことを自覚する。しかし、それを見ているものは、彼女をふくめて、いない。
「光栄だわ」
校舎裏。ほの暗く、肌寒いそこに、ひとり残された彼女は、はたして、なにを思うのだろう。ほむらは考える。考えて、自分にはわかるはずもないから、すぐにその思考を手放す。
元に戻しただけ。なら、そのもともとの場所を決めたのは、誰?
かわりに、さきほどの自分の言葉に、自分で問いを投げかけてみた。返ってくる答えは、ない。