聞きなれた声で名前を呼ばれたから、ほむらは足をとめて振り返った。
夕暮れ。ここ数週間で、あるいは、ほんの数日間で、すこしずつ、あきらかに、日はみじかくなっている。それにつれて、街路をゆきかう人々の袖が、気づけばながくなっている。日々はめぐる。滞りなく。なんの問題もないかのように。事実、なんの問題もなく。なに食わぬ顔で。めぐり、巡る。今日は昨日になり、明日は今日になる。明日もいつか昨日になるだろう。当たり前のように。当たり前だから。それが正しいのだから。世界はつねに、正しいほうへと、あろうとするのだから。
自らの名前を呼んだその声の、聞きなれたその声の主を、ほむらはさがそうとして、しかしさがすまでもなく、人波のなか立ちどまっている彼女の姿は、とてもよく目立った。ゆきかう人々と同じように、彼女の袖もまた、めぐる日々を映して、ながくなっていた。そこでほむらは、自分の袖もまた、同じように、ながくしたことを思い出した。衣替えをしたのは、何日前だったかしら、なんてことを、ほむらは考えた。考えて、しかしどうでもいいことだと、答えを出す前に考えるのをやめた。
「暁美さん、でよかったわよね?」
ほむらと目が合うと、彼女は、その名前を呼びなれていない様子で、ほむらの聞きなれた声で、そう言った。すこしだけ首をかしげて、彼女の髪がふわりとゆれた。くるくると巻かれたそれは、しずみはじめた太陽の、ほのかに赤みがかった光を複雑に反射して、きらきらと光った。
「鹿目さんや、美樹さん、佐倉さんの、クラスメイトの」
ひとつひとつ、事実を確かめるみたいに、言葉をつむぐ。彼女は笑っている。やわらかく笑っている。ほむらはその表情をよく知っている。すこしだけ、記憶のなかのそれよりも、緊張の色がうかんではいるけれど。
「……あなたは?」
ほむらはたずねた。知っていたけれど、たずねた。そうすることが正しいから。あるいは、そうすることしかできないから。正しいことと、ほかの選択肢がないことは、すこしだけ似ていて、しかしまったく、違う。彼女ははっとした様子で、ごめんなさい、と苦笑いをうかべながら言った。
「マミ。巴マミよ。あなたと同じ学校で、ひとつ上の……なんて言ったらいいのかしら」
名前ははっきりと、そのあとを、こまったように、ひとりごとをつぶやくみたいに、彼女は言いよどむ。それでも、彼女は笑っている。やわらかく笑っている。その笑顔も、同じような表情も、何度かほむらは、見たことがあった。
「私、鹿目さんたちとよくお話するの。そこで、あなたの名前も出てくるから」
だから、見かけて、つい声をかけちゃった、と。いたずらをしたこどもみたいな。そのいたずらにかかる人を待つみたいな、あるいはそれがみつかって、咎められるのをおそれているこどもみたいな、そんな顔だった。
「そう、ですか」
ほむらは言葉を返す。それだけ。たったそれだけ。そうすることしかできないから。ほかになにを言えばいいのか、ほむらは知らないから。知らないことは選べない。選択肢になりえない。だから、そうすることしかできない。それは正しいことと、すこしだけ似ていて、しかしまったく、違う。
街の雑踏は、立ち止まるふたりをよけるようにして、その間には沈黙が流れている。沈黙は静寂に似ている。しかし沈黙には意思がある。彼女は、マミは、その表情に困惑の色を濃くしながら、それでもなにを言えばいいのかわからない様子で、何度か口を開きかけては、また閉じる。それを繰り返している。ほむらは口を開かない。なにも言うことがないから。なにも言えることがないから。
夕暮れ。日はだんだんとしずんでいく。めぐり、巡る日々の中で、みじかくなっていくそれ。揺れる彼女の髪が、きらきらと映す太陽の光も、だんだんとその赤色を深めていく。
今日という日に、明日が近づいてくる。あるいは、今日という日が、明日に近づいていく。どちらが正しいのだろうか。それともどちらも、正しいのだろうか。
「その……よかったら今度、暁美さんもお昼、一緒に食べない?」
沈黙のあと、彼女はそう言った。そう言って、また、首をかしげてほむらを見た。彼女の髪がふわりとゆれる。きらきらと、それは沈んでいく太陽の光を、複雑に反射して。
「鹿目さんがね、あなたと、仲良くしたいって」
その光が、その髪が、きれいだとほむらは思った。きっといつかも、同じことを思ったのだろうと、そう感じながら。そのいつかが、いつだったかなんて、ほむらにはわからない。それはもう、ここには、この正しいはずの世界には、なにもかもが正しくある世界には、過去にも、未来にも、どこにも、存在しないのだから。
「……用がないのなら、これで」
ほむらは、彼女の、質問のような形をした誘いに、なにも答えなかった。踵を返すと、あ、と彼女の声が背中に投げかけられる。それ以上はない。きっと彼女も、それ以上のことはしない。それ以外の選択ができないから。ほむらも、彼女も。
ふわりとゆれて、太陽の光を、きらきらと複雑に反射する、彼女の髪のきれいさが、ほむらの脳裏にやきついていた。まばたきのたびに、まぶたの裏にそれがうかんだ。しかしきっと、それもまた、今日が昨日になるうちに、明日が今日になるうちに、明日が昨日になるうちに、消えてしまうもの。
彼女はやはり、それ以上なにも言わなかったし、なにもしなかった。背中にその視線を感じながら、ほむらは歩きだす。彼女は今、どんな顔をしているのかしら、なんてことを、ほむらは考えた。考えて、しかしどうでもいいことだと、答えを出す前に考えるのをやめた。
振り返れば、すぐそこに答えはあったのに。