カァン、と。
いや、もっと鈍く、ギィン、と、そんな音だったかもしれない。雲のない空に響いて、広いグラウンド中に、あるいはさらに遠くまで届くほどの、高らかな音。金属バットが、時速百十キロほどの軟球を、きれいに真芯でとらえた音。
「アイツまたやってる」
昇降口で、上履きからローファーに履き替えていた美樹さやかが、左足のかかとに指をかけたままの姿勢で、下駄箱に手をつきながら苦笑をもらす。ここから、音をひびかせたものなんであるか、誰であるかを、見ることはできない。しかしさやかだけでなく、その場にいた鹿目まどかも、志筑仁美も、暁美ほむらも、その音を奏でた人物が誰であるか、見るまでもなく、わかりきっている。
「助っ人、頼まれてあげればいいのにね」
まどかもまた、苦笑いを浮かべつつ言う。さやかはそれに対して、靴を履きおえてから、手を横に振りながら否定した。
「いやー、ないない。アイツ、そういうの苦手でしょ」
「それに、野球部だけではないのでしょう? サッカー部も陸上部もバスケットボール部も、彼女を欲しがっているって噂、聞いたことがありますわ」
「そうそう。どっかの助っ人受けちゃったら、別のとこも受けなきゃいけなくなるじゃん」
仁美の言葉に応えるさやかの声は、どうしてか、どこか自慢気である。話題の人物の一番の親友を自負している彼女にとっては、その名の高さが我が身のことのように誇らしいのかもしれない。
「人気者は辛いわね」
三人の後ろ、未だ上履きを片手に持ったままのほむらは、長い後ろ髪に手櫛を通しながら、他人事であることを全く隠す様子もなく呟いた。その言葉にさやかが振り返る。
「おうおう、もう一人の『人気者』が、なにか言ってますよ?」
「やめてちょうだい。あなたのその言い方、癪に障るのよ」
「……相変わらずズバッと言うなぁ、ほむらは」
わざとらしく肩を落とすさやかに、ほむらは視線を送ること無く、他の三人と同様にローファーに履き替えた。まどかと仁美は、そんな二人の様子に顔を見合わせて、困ったように笑う。
いつもの風景。いつもの、下校姿。
「暁美さんも、陸上部に誘われてらっしゃったのでは?」
「そうね。でも、断ったわ」
「ええー、なんだかもったいない……ほむらちゃん、足速いのに」
「部活で、しっかりと記録を測って、大会に出て、となると、ただ走るのとは違うものよ」
「そうなのかなぁ」
よくわからない、といったふうに首を傾げるまどかに、ほむらは目を細めてから、先に靴に履き替えていた三人に並ぶ。ほむらにとって、鹿目まどかという存在は、生まれてはじめて出来た友達であり、他の友人との橋をつないでくれた、孤独からすくいあげてくれた存在であり、つまり誰よりも、大切に思いたい存在である。そんなまどかに、なんであれ自分のことを認めてもらえることを、ほむらはうれしいと思う。それと部活に入るか否かは、別の問題ではあるけれど。
「カナエ、諦めてないみたいよ。絶対暁美さんを入部させるんだーって」
「あ、それわたしも聞いたよ」
さやかの口から不意に出てきた、カナエという名前に、ほむらは聞き覚えがあった。同じ学年、別のクラスの、陸上部員である。ほむらを陸上部に誘ったのが、他ならぬ彼女だった。
「……残念だけど、諦めてもらいましょう」
「いいじゃん、入っちゃいなよ。ほむらなら入部即エースまちがいなしだよ。そしたら校内人気もうなぎのぼり! 大会で結果を残せば、推薦もらえて受験もスルー! 薔薇色の人生がほむらを待っている!」
さやかは言葉の途中から、身振り手振りを交えて、演説でもするかのように高らかに言う。しかしさやかのそれが大仰になるにつれて、ほむらの視線はだんだんと、冷めたものになっていく。
「……あなた、彼女から何をもらったのかしら?」
「失礼な、まだもらってないよ」
「さやかちゃん、まだって……」
「なるほど、成功報酬ってわけね」
「あ、しまった! ちくしょうあたしのケーキが!」
大げさに悔しがるさやかに、ほむらははっきりと呆れのまじったため息をこぼした。
「わかってはいたけれど、さやかってだいぶバカよね」
「暁美さん、もう少しオブラートに包んであげたほうが……」
「仁美それフォローになってないから!」
女三人よれば姦しいという。ましてや、四人ならばなおのこと、会話は途切れることなく、揃ってグラウンドへと向かう。そこにいるであろう彼女を、迎えにいくために。
「だーかーらー、こうして練習に付き合ってやっただけでも、ありがたいと思いなよ」
「そこをなんとか! 頼むよ、今度の試合は絶対勝ちたいんだって!」
グラウンドの脇、部室棟の、野球部の前で、練習着姿の野球部員が、紅色をした長髪の少女に向かって、必死に頭を下げている。彼は野球部のキャプテンである。
少女は男子生徒よりも頭ひとつほど背が低く、着崩した制服姿で、鞄を肩にかけて、口の中で棒付きの丸いキャンディーを転がしながら、うんざりした表情を隠さない。傍から見るとなかなかに滑稽な光景であるものの、他の運動部員は一様に、野球部のキャプテンに向けて、どこか同情的な眼差しを向けている。頭を下げたくなる気持ちは、彼ら、もしくは彼女らにも、十分にわかるからである。
「佐倉がいれば勝率はずっと上がるんだよ。うちのエース、あれでもこのあたりではかなりの実力なんだぜ。アイツから軽々打てるってことは、このあたりなら打てないピッチャーいないって!」
「そんな簡単なもんじゃないでしょ。それに、あたしが出て勝ったとして、次の試合はどうすんだ? またあたしが出るのか?」
「それは……まあ、出てくれるならありがたいっていうか」
「だったらなおさら、イヤだね。言っとくけど、めんどくさいってだけじゃないからな。部員が足りないってんなら考えてやらないこともないけど、部員は揃ってるんだろ? だったらソイツを使ってやんなきゃダメだろ」
佐倉杏子は口の中のキャンディーを取り出して、それを相手の眼前に突きつけるようにしながら言った。彼がわずかに顔を赤くしながら、すぐに顔を逸らしたのは、彼女の口に含まれていたものを意識したため、ばかりではない。
「でも、川端も、佐倉が来てくれるならって納得してるんだぜ」
「口ではなんとでも言えるよ。てか、そもそもそれを言わせちゃダメだって話だってば」
杏子はそう言いながら、川端という人物の顔を思い浮かべようとする。隣のクラスに、確かそんな名前の野球部員がいたはずだった。しかし数回練習に参加しただけの自分には、顔までは浮かばない。話の流れから、その人物が、自分が出ることによって控えに回る選手であろうことは理解できたけれど。
「悪意で憎まれ役になるのは、別に構わないさ。でも、善意のふりして他人の努力を蔑ろにする役回りは、勘弁だね」
キャンディーを口にくわえ直しながら、毅然と杏子は言い放った。彼は頭を垂れながらため息をこぼし、しかしすぐに、どこかすっきりとした表情で、杏子に向き直った。
「……そうか、うん。悪かった」
「別にいいよ。悪気があったわけじゃないんだろ?」
そう言いながら、杏子はキャプテンの肩をパンと叩く。先ほどから敬語も使わず、態度も横柄ながら、杏子にとっては一歳年上、学年で言えば、一つ上の上級生である。杏子の態度が許されるのは、彼女の運動に関する総じて高い実力と、そのキャラクターによるものが大きい。彼女の飄々とした、大人びている、ともまた違う言動は、相手に年齢を意識させない空気がある。容姿の恩恵も、少なからずあるのだろうけれど。
「ま、練習ならいつでも付き合うからさ。つまり、その川端ってやつがあたしより上手くなれば、なんにも問題無いわけだろ?」
「簡単に言ってくれるよな」
後ろ頭をかきながら苦笑する彼の肩を、杏子がもう一度叩いたところで、彼女の背後から、その名前を呼ぶ声がした。杏子はその声に振り向いてから、そこにいる四人の姿を確認すると、んじゃ頑張れよ、と最後に彼に笑いかけて、踵を返した。
後に残った彼は、その後姿をぼんやりと眺めている。しばらくして、彼女が四人の女子生徒の輪に加わるのを見届けてから、グラウンドへと足を向けると、そこで練習を続けていた部員たちに、練習メニューの追加を大声で告げた。
「あれ、野球部のキャプテンだよね。二人で何話してたのかなぁ? 杏子ちゃんは」
杏子が合流するなり、さやかは開口一番、意地の悪い笑みを浮かべながらたずねた。それに対してぽかんとした表情を浮かべたのは、杏子だけではなくまどかもそうで、仁美はまあと口元を抑え、ほむらは呆れた表情を浮かべる。杏子の答えを待たずに五人は校門へと歩き出した。
「なにって……説教?」
歩きながら、なんでもないふうにそう答えた杏子に対し、さやかはがくりと肩を落とす仕草をする。そんなさやかに言葉を投げたのは、ほむらだった。
「下世話なのよ、さやかは」
「いやだって、中学生よあたしら。男子と女子がふたりきりで密談なんて、そりゃそこに何かしらの匂いを感じるでしょうが!」
というか下世話って、ほむらは言葉のチョイスがキツい! 嘆くさやかを、ほむらはいつものように後ろ髪を梳くことで流した。そこに至って、ようやくさやかの言葉の意図を掴んだまどかが顔を赤くするけれど、当の杏子は相変わらず首を傾げたままである。
「あなたの思考回路を、まるで女子中学生全員がそうであるかのように一般化しないでちょうだい。全国の女子中学生に失礼だわ」
「……アンタって、あたしに恨みでもあるわけ? いいの? さやかちゃん泣いちゃうよ?」
「泣けばいいじゃない。私は笑うわ」
「鬼か!」
「ふふ、仲いいね、さやかちゃんとほむらちゃん」
「まどか、いくらあなたでも言っていいことと悪いことがあるわ」
「ちくしょう、いつかほむらにさやか様って言わせてやる……」
ある意味では息のあった、さやかとほむらの二人のかけあいと、それを見ながらにこにこと笑顔を浮かべるまどかの背中を、杏子と仁美は、一歩下がったところから眺めている。
「なあ仁美、結局、さやかはなんの話してたんだ?」
「佐倉さんは人気があると、そう言いたいんですわ」
「なんだそれ」
釈然としないといった様子の杏子に、仁美は意味深な笑みを返すばかりである。杏子は、彼女のこういうところが少し苦手だと思う。何かを見透かした上で、それをはぐらかすようなところ。同時に、そこがまた彼女の魅力で、好きなところでもある。
「しっかしさー、杏子はなんで部活入んないの? ほむらもだけど」
ほむらとのじゃれあいに一段落ついたのか、振り返りながらさやかが杏子に尋ねた。杏子は考える素振りすら見せず、言下に言葉を返す。
「家の手伝い」
「家って、杏子んちは教会だっけ?」
「ああ。妹もまだ小さいし、手伝うことが多いんだよ。とてもじゃないけど、部活で毎日放課後潰されんのは困るんだわ」
「はー……杏子って意外と真面目だよね」
「意外とってどういう意味だオイ」
口の中のキャンディーを転がしながら、杏子が凄んでみせる。そういうところだよ、と杏子以外は思う。
「佐倉さんはもう少しきちんと身なりを整えたほうが良いですわ」
誰も指摘しないそれを、あえて口にしたのは仁美だった。
「ええー、あたし、きちっとした格好って苦手なんだよね」
「それでも制服なんですから、決められたとおりに着ないと」
「なんだよ仁美、そういうのは――」
杏子の言葉がそこで止まった。その先に続けるべき言葉が、すっぽり抜け落ちたような感覚だった。仁美はそんな杏子の様子に首を傾げる。
「いや、なんでもない。わかったよ、明日はちゃんと着てくるから」
「よろしい」
かなわないな、と杏子は苦笑した。それをどこか、にやにやとした笑顔で眺めていたさやかは、しかしなにも言わない。
「それで、ほむらは? なんで部活入んないわけ?」
「あら、知らないんですのさやかさん」
「へ?」
「ほむらちゃん、部活入ってるよ」
「へ!?」
さも知っていて当然と言わんばかりの仁美とまどかの言葉に、さやかはほむらではなく杏子を見た。杏子はキャンディーを口の中でもごもごさせたまま、ただこくんと頷いてみせた。
「そういえば、さやかにだけ言ってなかったわね」
「なんで!?」
「その顔が見たかったからよ」
「……なんなのこの黒いの」
本日二度目、がくんと肩を落としてうなだれるさやかに、ほむらは満足したといったふうで、傍目にはわからない程度に口元を緩めた。
「ほむらちゃん、手芸部に入ってるんだ」
ね、と顔を覗き込むまどかに、ほむらは今度こそ、傍目からわかるほどの笑顔で、ええと頷いて答える。
「しゅげいぶ? 手芸? ほむらが?」
「なにその反応は。私が手芸したらいけないのかしら」
「いや、まあ、ほむらならなんでもそつなくこなすだろうけど、なんで手芸部……って、ああ」
隣を歩くまどかの顔を見て、さやかはすぐに納得した。
「なんていうか……ほむらも熱心だね」
「そうなの! ほむらちゃんね、手先が器用で、あみぐるみとか作るの上手くて」
「うん、そうなんだけど、熱心っていうのはそっちじゃなくてね」
「まどかに作り方を教えてもらったからよ」
「えー、でも、もうほむらちゃんのほうが上手いよ」
「私は好きよ、まどかの作るかわいいものとか、作っているときの、丁寧な手元の動きとか」
「そ、そうかな……なんだか、ちょっと恥ずかしいけど、ほむらちゃんにそう言ってもらえると嬉しいな」
「おーい、二人の世界に入らな――げふぅっ!?」
「ダメですわさやかさん、お二人の邪魔をしては」
さやかの後襟を唐突に引っ張ったのは仁美だった。無防備なさやかの首が、襟元によって見事に締められていることなど気にも留めず、仁美は睦言を交わすようなまどかとほむらに、恍惚とした視線を向けている。
「ああ、いけませんわ……それは禁断の愛の形……」
「ギブ、仁美、ギブ」
さやかはなんとか仁美の手をタップしようとするものの、なかなか届かずにもがくことしかできない。
「なんていうか、仁美も大概変人だよなぁ」
しみじみ言ってないで助けて、というさやかの視線に気づいたのかそうでないのか。杏子が仁美の肩をぽんと叩いて、ようやくさやかは解放された。
「ごほ……死ぬかと思った……なんか今日、あたしの扱いひどくない!?」
「愛だよ愛」
「愛!? 佐倉さん、まさかさやかさんのことを!?」
「戻ってこい仁美」
五人の足はいつしか学校を抜けて、いつものように、近くのファーストフードのチェーン店へと、誰が言うでもなく自然と向かっていた。
校門を出る瞬間、杏子だけが立ち止まり、ふと校舎を見上げたけれど、三秒にも満たない時間だったので、誰が気にすることもなかった。
「どうかした? 佐倉さん」
ふと、杏子は自分の顔を覗き込む誰かの存在に気がつく。辺りを見回すと、そこは見覚えのある場所で、怪訝な表情で、というよりも、心配を隠さない瞳が、じっとこちらを見つめている。
そうだ、ここは、あたしの部屋だ。
「いや、ちょっとボーっとしてただけ」
「そう? 顔色悪いわよ? 大丈夫? 風邪?」
「大丈夫だってば」
「そうは言うけど、あなたって時々無理するから……」
額に、ぴたりとなにかが触れる。彼女の手だ、と認識するよりも、その手の冷たさと、そのくせやけにふわふわとした柔らかさに、心地よさを覚える。
「熱は……どうかしら、少しあるような気がするけど」
やがて体温が融け合って、今度はその手の、温かさに気がつく。その温度に、感触に、鼻の奥、喉の上の辺りが、じくりと痛みを覚えるような心地がする。既視感に近い、しかしそれよりも、もっとぼんやりとしていて、それなのに、もっと切実な感覚。
「杏子、お友達にお菓子を持っていってあげなさい」
部屋の外から声がする。はーい、と返事をして立ち上がる。まだ彼女は、不安げな表情を崩さないまま、杏子を見つめている。
「心配しすぎ。でも、ありがと」
笑いかけると、ようやく彼女も納得したようだった。安堵の色を浮かべてふわりと微笑むその顔に、杏子は気恥ずかしさを覚える。
「運ぶの、手伝ったほうがいいかしら?」
「平気だよ。二人分だし」
ドアの向こうから、再度、杏子、と呼ぶ父の声。
「今行くよ」
その声に答えながら、ああ、自分はいま、涙が出そうなのだと自覚した。その理由もわからないまま。