幸福に至る法則
かぁん、と。あるいは、もっと鈍い音。ギィん、と、いうような、そんな音。
厚い雲の垂れこめた、薄く濁ったような空気の中に、反響するその音。グラウンドから、それなりに離れているはずの旧校舎の屋上まで届く、金属バットが時速百十キロほどの軟球を、真芯で捉えたときのそれ。
暁美ほむらはフェンスに背を預けたまま、音のした方向に一瞬、視線を向ける。高いフェンス。遠くの街並み。グラウンドは見えない。ここからは、残念ながらというべきか、実際は、それほど残念とも思っていないけれど、その音を奏でたのが誰であるか、わからない。しかしほむらは知っている。それが誰であるのか。脳裏に赤い髪が翻る。相変わらずね、と思う。
相変わらず、というのが、果たしていつの彼女と相して変わらずと言えるのかを、ほむらは考える。考えて、それほど時間をおかずに、無意味なことを考えていると思い、やめる。それがいつであっても――たとえ、この現在を遡れたとして、そこにすでに存在しない彼女であったとしても――そのことが今の彼女に、この世界に、何を与えることもない。
意味とは、何かに対して、変化を促すことができる、という存在、もしくは、概念である。無意味とは、ただそれだけで完結し、独立し、孤立しているものである。ただそれだけで完結して、独立して、孤立して、閉じてしまっているから、それが外に対して、それ以外の何者に対して、何を与えることも、変えることもできない。だから、この世には意味のあるものばかりだ。どんなものでも意味を持つ。本当に意味のないものは、目に映すことも、手で触れることも、その存在を感じることができない。認識とは常に、主体と対象の相互関係によって成り立つからである。だから、言葉にさえしえない。しかしそれが、この世界のどことも因果の繋がっていないものならば、果たしてそれは無意味と言わずに、なんと言えるだろうか。
空を見上げた。今にも雨が落ちてきそうだ。しかし、落ちてくるのは雨とは限らない。落ちてくるのは空かもしれない。それは杞憂ではなく、空というものは、事実落ちるものだと、ほむらは知っている。すべてのものは落ちていく。空も、音も、星も。神様も、悪魔も。
「落ちるって、どういうことかしら」
ほむらはつぶやいた。ような気がした。誰かに伝えるつもりはなかったので、それを声に出したか否かは、彼女自身にとっても些か問題にはならないことであった。事実屋上に、他に人の姿はない。
「それは、この地球上でのことかい」
けれど、答える声はあった。その声をほむらは知っている。それが人の声でないことをほむらは知っている。しかし彼女が声のしたほうに視線を向けないのは、そのためではない。その必要性を感じていないからにすぎない。
「地球と、それ以外とで区別する意味は?」
ほむらは声の質問には答えずに、さらに質問を重ねた。
「この地球上、正確に言えば地球に限らず、星の近くであれば、『落ちる』とは、重力に逆らわないことと言えるんじゃないかな」
「そう、そうね。じゃあ、星のない、なにもない、ただの空間では?」
「なにもないなんて空間はありえない、というと、そこで話が終わってしまう。泡構造の宇宙における、ボイドの中心と仮定して、星、あるいはそれに準ずるもの、知覚できる存在として存在し得るものの影響が極めて少ない空間とするなら、それは重力でなく、偏在する斥力に逆らわないことだ」
今のところは、とその声は付け足した。
「面白いわ」
「何がだい?」
「群れるものはより群れて、孤独なものはより孤独になっていく、その仕組みが」
大きな力の流れに、逆らことはできずに。重力。引力。斥力。流されるままに、あるべき場所へと、姿へと還っていく。落ちる。落下する。
「孤独であればあるほど、そこから抜け出すには大きな力が必要になる。逆もまた同じ。孤独でないものが孤独になるためにも、きっと同じくらいの力が必要なんだわ」
「比喩表現にすぎないね。スケールが違いすぎる上に、定型化はできないだろう」
「そうかしら。私は、あながち間違いではないと思うわ」
「……いや、そうだね。君のやったことを考えれば、その表現にも一定の理解はできる」
ため息をつくようにその声はこぼした。それっきりほむらは何も言わなかった。だから答える声もいつしかなくなって、ほむらはそのとき、確かに孤独の中にいた。