誰も知らない池の中 たとえば、いま君の手の中に、君たちが言う幸せがひとつ、あるとして――幸せというものは、えてして形を持っているものだ――それがなにで出来ているかというと、物である以上、分子の集まりだ。
たとえば、いま君の手の中に、君たちが言う不幸せがひとつ、あるとして――不幸せというものも、えてして形を持っているものだ――それがなにで出来ているかというと、物である以上、分子の集まりだ。
分子とはなにか。いくつかの原子が連なって出来ているものだ。この国では原子というけれど、広く使われている名称、atomはatomosを語源としていて、つまりそれ以上分割不可能なものを意味するそうだね。では原子は分割できないのかな。いや、原子は原子核と電子によって成り立つ。原子核は陽子と中性子によって成り立つ。原子核の周囲に、電子が存在しているわけだけれど、それがどのような形で分布しているのか、言葉で君たちに説明するのは難しい。
いいかい、君たちが幸せと呼んでいるものも、不幸せと呼んでいるものも、突き詰めればそういうものだ。それがたとえ、人の形をしていようと。猫の形をしていようと。りんごの形をしていようと。たいやきの形をしていようと。
世界が、小さな小さな量子のゆらぎから生まれたとするならば。全ての事物を構成するものが、そこから生まれたものだとするならば、その二つの間に、いったいなんの違いがあるんだい。
君たちはそれをなかなか受け入れられない。あらゆるものに線を引いて、幸せと不幸せをわけて、人類とそれ以外をわけて、それこそ、人類同士でさえ。君たちはもともと、一人の女性から生まれたと言われているのを知っているかい。そこからまだ、ほんのわずかな、宇宙からしてみれば、まばたきにさえみたない時間しか経っていないのに、自分と自分以外を区別し、争い合っている。あまりにも多くのものを人類は区別し過ぎた。
それを為したのは、君たちの業?
それを為したのは、君たちの知性?
それを為したのは、ひとえに君たちが持つ、感情じゃないかな。
多くの人は、宇宙に思いを馳せると、好奇心と同時に恐怖を覚えるそうだね。君はどうだい。恐怖とはなんだろうね。僕にはよくわからないけれど、多分、未知への警戒なのかな。
じゃあ、宇宙とは、本当に未知の存在かい?
見上げた空は。踏みしめた地面は。空を飛ぶ鳥は。道端で寝そべる猫は。君のいる部屋は。君が大事だと思う人は。君のその指先は。どれもこれも、宇宙の一部ではないのかい?
感情というものは、何故それを認めようとしない?
それは、君たちの持つ感情が、世界から、宇宙から、あらゆる存在から、独立しているからなんじゃないのかな。
ただの神経細胞同士の電気信号のやりとりと考えるには、あまりにも不可解なんだ、君たちが持つ、感情というものは。
(幕間)
大変だ、大変だ
お姫様が逃げ出した
藍色のベッドは嫌だと言って
抜け道通って消えちゃった
大変だ、大変だ
お姫様はコロコロと
坂道転がり大慌て
真珠のドレスに銀の靴
象牙の櫛に貝の爪
ぎんぎらぎらぎら猫の目石
極楽鳥の羽飾り
すべてなくしてお姫様
とぷんと黒い池の中