暁美ほむらは頬杖をつく。自らの頭の重さ。自らの掌の体温。そこに伴わない現実感に、無意味なことをしているという自覚をずっと抱き続けている。浮遊している。この世界から、何処とも接地せずに、ただぐるぐると循環して、どこに還ることもない何かが。しかし何が無意味なのか、その感覚を向ける対象については、はっきりと自覚できずにいる。ずっと、という点に関しても、果たしてその始点がどこにあるのか、正確に語る舌を持っていない。もしかしたら、今日の朝、家の扉を開けた瞬間からかもしれないし、昨日の夕刻、道行く子供に何気なく視線を投げかけた瞬間からかもしれないし、一年前、不意に蹴った小石が側溝に転がっていった瞬間からかもしれないし、あるいはもっと前、産まれた時から――この宇宙が――かもしれない。ただ、日々の営みの中で、由来のわからない虚無感に似た意味の薄弱さを、いつからか抱き続けていることだけが、実感として確かなのだった。
その対象は、わからないなりに、あえて自問するならば、これから先使う機会があるか定かではない数字の羅列や、昔のヨーロッパの皇帝の名前などの、学校の勉強に対してかもしれない。非生産的で場当たり的で無意識に(時には意識して)打算的な、クラスメイトとの交わりに対してかもしれない。それらをひっくるめて、学校生活そのものかもしれない。もっと言ってしまえば、こうして存在していること、そのものについてかもしれない。
国語教師が方丈記の冒頭を読み上げている。しかし、川は堰き止められるのだ。そこでは元の水が、澱み、腐敗し、異臭を放ちながら、枯れ果てる日を夢見ている。
暁美ほむらは頬杖をつく。自らの頭の重さ。自らの掌の体温。そこに伴わない現実感。現実感というのは幻想のことだ。人が人として生きるために、最も重要だからこそ、最も進化した幻想。ここにいるという感覚。ここに在るという感覚。それが許されている感覚。誰もが当たり前に抱いて、意識することのないもの。触れたものの固さ。柔らかさ。温かさ。重さ。聞こえたものの響き。空気の振動。分子の運動。見えたものの色。形。眩しさ。電子雲の反発。素粒子間のやりとり。クォークの生成と消滅。不確かなものによって支えられているはずの、現実という名の幻想で生きていくために重ね塗りされた幻想。
ほむらは知っている。それがいかに強固であるか。同時に知っている。それがいかに、薄く頼りないものか。セロファンを通して見る世界の真っ当さ。それを取り去ったところに見えてくる、暗く澱んだもの。忘れられたもの。それは過去ではない。流れることのないもの。今も、この無意味さの隣に、ひっそりと、しかし確かに、存在しているもの。或いは無意味さとは、その塊に触れているが故なのかもしれない。
暁美ほむらは頬杖をつく。幻想を外から眺めている滑稽さを押し殺しながら。それが人として必要なものだとするならば、それを失いつつある自分は今、どういう存在なのだろう。考えるまでもないことを考えている自分自身に、ほむらは声を上げて笑いたくなった。しかしそれをしないのは、もっと浅く、大きな、目に見えている部分で、自分がまだ人間であろうとしているせいかもしれないと、ほむらは思う。
均衡を喪っている。この世界のように。