チャイムが鳴る。他の時間のものよりも、少しだけ張り切っているように聞こえる、午前の授業の終了を告げるチャイムが鳴る。ウェストミンスターの鐘が奏でているメロディ。遠い異国の地で鳴り響くはずのそれは、今、この場所でも、日々の中に溶け込んでいる。高らかに。なに食わぬ顔で。
パタパタと教科書やノートを閉じる音が、出来の悪いパーカッションみたいに交じる。だとするなら歌声は、早口で今日の授業をまとめようとする教師のそれか。しかし、チャイムと同時には終わらない。音の残香が、じりじりとした空気に溶けるころ、今日はここまでにしとこうか、と、ようやく出てきたその言葉を合図に、教室はざわりと震えだす。日直の、起立、の合図でわずかに取り戻された静寂も、礼、の言葉を言い終わるか否か、しかしすぐに喧騒は教室を満たして、秩序は失われる。そういう、よくある風景。どこにでもある。何食わぬ顔で。
「ふぁ……よく寝た」
隣の席の杏子の声が、どこか遠くの方から、くぐもったように聞こえたのは、鼓膜が弛緩していて、漫然と、鈍く震えたせいかもしれないとさやかは思った。それとも聴覚器官はきちんと動作しているのに、それを処理する脳が判然としていないせいかもしれない。あるいは、さやかのほうに原因はなく、実際に声が、そういう音色だったのか。声が伝う空気――世界と言うべきか――そのものが、判然としないのか。
正解がどれかなどわからないから、教科書を鞄にしまいつつ、さやかはあくびを噛み殺した。
「お、さてはさやかも寝てたな」
「寝てないっつーの失礼ね」
目ざとくその様子に気づいた杏子の言葉を、さやかは言下に否定する。アンタじゃあるまいし、と続きそうになった一言は、それを口にできるほど、さやか自身普段の授業態度がよろしいとは言えないので、飲み込んだ。
「あたしは頑張って耐えてたってのに、隣で気持よさそうに寝ないでよね。なんど引きずり込まれそうになったことか」
「ほほう、てことはずっと起きてたのか。えらいえらい、褒めてつかわす。てことでさ」
「言っとくけど、ノートは見せないからね」
「ちくしょうまだ何も言ってないのに! 鬼! 悪魔! さやか!」
「そこにあたしの名前を並べるな!」
さきほどの、不快感というには形も大きさも曖昧な、薄ぼんやりとした違和感は、いつの間にか消えてしまっている。それとも、消えてしまったわけではなく、ただ馴染んだだけなのか。今もこの教室の喧騒の中に、形を変えて漂っているのか。何食わぬ顔で。当たり前のように。
ばたばたと教室を出て行く人。机の上にランチボックスを広げる人。パンをかじりながら雑誌をめくる人。それを覗きこむ人。何もせずにぼんやりしている人。それぞれが思い思いに動きまわり、あるいは立ち止まり、教室の空気を撹拌するから、ほんの少し、一滴の水を落としたくらいの波紋は、他の様々なものにかき消される。
「ま、いいや。そんなことより早くお昼にしようよ。腹減った」
「そんなことって、アンタねえ」
「まどかは?」
「スルーするし……まどかなら、先生のところじゃない? 昼休みに少し用事あるって言ってたし、なんなら先に屋上行っててって話だけど」
「お言葉に甘えよう」
「はいはい。マミさんも待ってるだろうし、行きますか」
だから、さやかは気にしない。鞄から取り出した弁当箱の包みを片手に持って立ち上がると、まるで何事もなかったみたいに――いや、事実、何事もなかったのだ――杏子と連れ立って、他の誰かがそうしたのと同じように、教室を後にした。
雲の流れは速い。青々と高い空を、いくつもの球が連なったみたいな形をした大きな雲が、西から東へと滑っていく。
「卵焼き食わないのか? もらっていい?」
雲の流れは、風の流れだ。強く吹き抜けた風に攫われる髪を抑えながら、ぼんやりと空を眺めているさやかの、弁当箱の片隅で手付かずのままの卵焼きに、隣に座っている杏子が手を伸ばす。
「だめ」
ぺしん、と軽い音。空を見ていても、声は聞こえる。さやかにはたかれた手を大げさに振りながら、ちぇ、と杏子は舌打ちをした。
「アンタのお弁当にも、同じの入ってたでしょうが」
「もう喰っちまった」
「なら我慢しなさい」
ねだれば欲しいものが手に入るなんて、そんなことめったにないのだから。右手に持った箸を、確かめるように一、二度開いては閉じてから、さやかはしっかりと卵焼きをその先でつかみ、口に運んだ。杏子の恨みがましい視線。
「ぐぬぬぬ」
「えっと……杏子ちゃん、わたしの卵焼き食べる?」
そんな杏子を見かねてか、さやかの、杏子とは反対側の隣から、顔をのぞかせてまどかが言った。そのさらに向こうでは、仕方ない子ねといったふうな、お姉さん然とした様子で、マミが苦笑いを浮かべている。
「まどか、甘やかさないの。しつけは大事なんだから」
「犬かあたしは!」
「犬のほうがまだお利口かもね。ほら、お手の一つでもしてみなさい」
「がるるるる」
「あ、こら! 噛もうとすんな!」
賑やかに、華やかに、姦しく、時間はただ安穏と過ぎていく。雲が流れていくさまに合わせて。当然のように。
「……鹿目さん?」
ふいに、その騒々しさの中で、わずかに差異の混じった色のマミの声に、さやかと杏子の二人が、じゃれあいをやめて、名前を呼ばれたまどかのほうへと視線を向けた。そのまどかは、はっとしたような顔をして、そのときに掴みかけていた卵焼きをぽとりと、元あった弁当箱の中へと落とした。
「へ? あ、なに?」
「いえ、なんだかぼーっとしていたから。何かあったの?」
「先生に怒られたとか? まどか、何かやらかしたのか?」
「まさか、杏子じゃあるまいし」
「どういう意味だコラ」
まどかは笑う。笑って、なんでもない、という。事実、なんでもないとまどかは思っている。なんでもないのに、何か、焦燥感に似た感情が、こうして漫然とした時の流れを感じているときに、ふいに頭をもたげることがあった。それは何かとても恐ろしく、しかし同時に、今のこの、焦燥に似た感情の中には、たしかに安堵も含まれていることを、まどかは自覚している。それを、誰かに言葉にして伝えるだけの手触りを、まどかは未だつかめずにいる。だから、なんでもない、という。
「暁美さんも来ればよかったのにって、ちょっと思っただけだよ」
しかしそれは、でっち上げたわけではなく、不吉で心地よい塊とは別のところで、確かに思っていたことでもあった。
「暁美って、ほむらか? まどか、そんなにアイツと仲良かったっけ?」
「さっき、職員室から戻るときに廊下であったんだ。せっかくだから、お昼誘ったんだけど」
「まあ、来ないだろうね、アイツは」
さやかは苦々しい顔で言う。嫌悪、というほどでもない棘をそっと忍ばせた声で。
「確か、三人のクラスメイトよね。すっごく美人だっていう」
「まあ、美人だけど、変人だよね。誰ともつるもうとしないし、何考えてるかわかんないし」
な、と同意を求めた杏子に、さやかは答えない。どこか真剣な面持ちで、じっとまどかを見ている。だから、杏子はなんだか何も言えなくなって、口をつぐんだ。
「……まどか、アイツのこと気になるの?」
妙に重みのある沈黙が、ふと風にのってきたようだった。その風が吹き止むのを待って、さやかが口を開く。
「気になる、っていうか……どんな子なんだろうって。あんまり、話したことないんだけど」
そう言うまどかは目線をやや上に向けて、浮かぶ雲の中から記憶を手繰る。転入初日。渡り廊下でのやりとり。何故だか、あまりはっきりとは覚えていないけれど、しかしあれ以来、暁美ほむらという人間が、鹿目まどかという人間に対して、積極的に関わりを持とうとしてきたことは一度だってない。だからこそ、まどかはほむらを思い出すとき、あのときのことを思い出す。あのときの、思い出せない思い出のことしか、思い出せない。
「なんだよさやか。ほむらがどうかしたのか?」
「んー、別に? ただ、もしかしたらまどかが一目惚れでもしたのかなって」
「ひ、一目惚れって……」
「まどかはあたしの嫁なんだから、そんなのさやかちゃんが許しません! ってね」
「いつまどかがさやかの嫁になったよ」
「あ、ごめんごめん。あたしの嫁は杏子だったね」
「何言ってんだバカ」
「バカとは何よバカ」
それはいつものことだったのかもしれないし、誰かがいつもの空気を作りたいだけだったのかもしれなかった。それでも、そこにいるだれも、その誰かのことを指摘する必要も、ましてや咎める必要なんてないのだから、快くそこに身を浸すことしかしない。
「もう、ふたりとも早く食べないと、お昼休み終わっちゃうわよ」
鹿目さんも、というマミの声を聞きながら、しかしまどかは、雲の流れを、あるいはその向こうの、青一色の空を、しばらく見上げていた。