そこにある(かもしれない)ものに触れるための唯一の方法。
冬も近い朝の空気は、柑橘系の香りがする。日の出の頃の、うすい橙色の名残のせいか、ほんのわずかに。それとも、どこかの庭先に、金柑か柚子か、そういったたぐいが実際に植わっていて、それらがふかく、呼吸をしているせいかもしれない。
めいっぱい、その空気をあびながら、見あげた空に、雲はひとつもない。青い。ふれることができたなら、指先だけでくだけてしまいそうなほど、透明な青。くだけたそのむこうがわには、はたしてなにがあるのだろう、と、想像させるほどの、青。
鹿目まどかは手をのばす。その、くだけた先を、自分は知っている気がするから。それは、とても曖昧で、ぼんやりとしていて、つかみどころがなくて、形をあたえたくても、名前をあたえたくても、あたえられないくらいの小さなしこりだったけれど、だからこそ、そのことが時折、自分をひどく不安にさせた。その形が、名前が、答えが、くだけた空のむこうに、あるような気がしたから。
でも、のばした手は、かわいた風をつかむばかりで、街路に立ちならぶ樹木の枝にさえ、とどくことはない。その先にとまっている鳥が、こちらを見ながら、首をかしげている。まどかにはそれが、自分を嘲笑しているように感じられて、わずかに赤面する。
「まどか」
手をおろしたそのときを見計らうように、うしろからかけられた声に、まどかは振りむいた。黒くて長い髪が、朝の空気をまとって、ふわりとゆれるのを見た。かすかな、柑橘系の香りに、彼女の香りがまじりあう。それを意識したのは、きっとはじめてのことだったのに、まどかはその香りを、いつかも感じたことがあるような、そんな気がしてならない気持ちになった。でも、そのいつかがいつだったのか、まどかにはわからない。わからないから、気づかないふりをした。
「ほむらちゃん」
名前をよぶと、彼女はしずかに笑う。きれいな笑顔だと思う。いつも、それを見るたびに。なにかを確かめるみたいに、祈るみたいに、懺悔するみたいに、花を手折るみたいに、笑うその顔。目をそらしたくなるほど、きれいな笑顔だと思う。
「もう、秋も終わるのね」
彼女はてのひらを上にむけて、そっとひろげた。そこに、朝の空気をふわりとのせて、その色や、手ざわりや、香りを確かめているみたいだった。そのてのひらの上に、ひらひらと、色づいた葉が一枚、落ちる。葉がそこに落ちてくることを、彼女はわかっていたのか、それとも、葉が彼女のてのひらにむかって、落ちてきたのか。
「まどかは、なにを見ていたの?」
「なにって?」
「さっき、空を見あげていたでしょう」
てのひらの上の葉を、もう片方の手の指でつまみあげて、くるくると弄びながら、彼女は問う。まどかはなんと答えればよいのか、わからなくなって、すっかりだまりこんでしまう。
「なにか、気になるものでもあったのかしら?」
「ううん……ただ、空が」
空が、青いなって。そんな当然のことを、いまさら口にするのもなんだかはばかられて、ひとりごとみたいに、まどかは言った。
「そう」
それは当然のように、彼女のもとまでとどいて、彼女もまた、空を見あげる。青い空。雲ひとつない、指先がふれたら、くだけてしまいそうなほど、透明で、青い空。
「かえりたい?」
「え?」
「ふふ……なんでもないわ」
彼女がまどかを見て、また笑う。それは、自嘲。誰が見てもそれとわかるほど、あからさまな。だからまどかは、なにも言えない。彼女の、その表情の理由が、わからないから。彼女のもとめているものが、わからないから。
「ただ、本当に、きれいな空ねって、そう思っただけよ」
彼女が、ふたたび空を見あげて、さきほどのまどかとおなじように、手をのばす。空にむかって。その指先から、ひらひらと、色づいた葉が、地面にむかって、落ちる。ゆっくりと。螺旋をえがきながら。
彼女がなぜそうしているのか、まどかにはわからない。まどかとおなじように、そのむこうがわを知りたいと思っているのか。それとも、もしかしたら、そのむこうがわを、彼女はすでに、知っているのかもしれない。知っていて、手をのばして、その先にふれようとしているのかもしれない。彼女は、ふれられるのかもしれない。
「空のむこうには……ううん、宇宙があるってことは、知ってるんだけど……」
彼女にならって、ふたたび見あげた空の青さに、思わずこぼれた言葉に、しかし彼女は、まどかのほうを見なかった。青い空を、見あげたまま。
「この空のむこうには、なにかもっと、べつのものが、あるような気がするの」
彼女がそっと、のばしたてのひらをにぎったから、まどかは彼女のほうを見た。まどかには風しかつかめなかったその手に、彼女は、なにをつかんだのだろう。
「……なにもないわ」
彼女が、空を見あげたまま、笑みをうかべたまま、言った。耐えるみたいに。諭すみたいに。おだやかな声で。
「なにも」
彼女が、にぎった手をひらく。そのてのひらの上から、きらきらとしたものが、ゆるりとふいた風にさらわれて、朝の空気にとけていったように、まどかには見えた。しかしあとには、なにも残らない。そこになにかが、本当にあったとしても、なにも。
「なにかがあるような、気がしているだけ。なにかがあるように、錯覚しているだけ。なにかがあるように、見せているだけ」
幼いこどもにむかって、残酷な真実を、言って聞かせるみたいに。
「なにもないのよ、まどか」
だから。と彼女は言う。そう言いながら、まどかを見る。
「それでも、まだ、手をのばすの?」
彼女が、まどかにむかって、手をさしだした。まどかは、その手にむかって手をのばしていいのか、わからない。ふれたら、くだけてしまいそうな、そんな気がして。
逡巡していると、しずかに手をおろして、彼女は笑った。満足そうに。痛みをうけいれるみたいに。どこまでもやわらかく。
きれいな笑顔だと、まどかは思う。目をそらしたくなるほど。