きらきらとガラス質な音が、さほど広さのない店内に鳴り響くと、まばらに座る客たちは瞬間、その音の鳴ったドアのほうへと意識を向ける。その瞬間がほむらは少し苦手だ。形も色もない、未分化な誰かの期待を裏切ってしまったような気がするから。いらっしゃい、とカウンターから、初老の男性の声が聞こえる。
夕刻にかけて、街の空気はその熱を空を染めることに使うばかりで、人々を温めはしない。喫茶店の中の空気が、外のそれとくらべていくらか暖かく感じるのは、壁やテーブル、チェアに使われた木材の雰囲気のせいか、空間を満たすコーヒーの香りのせいか、黄色がかったペンダントライトの灯りのせいか。片隅に置かれた石炭ストーブや、ましてや壁の暖炉が使われている様子は、さすがにまだなかった。
「待ち合わせで」
カウンターの向こうにそう告げる。男性は少し頷いたような素振りをしただけで、特段何も言わなかった。
客たちは早々にほむらへの興味をなくして、それぞれ思い思いの過ごし方へと戻っている。本を広げる人間。携帯電話に向かう人間。珈琲カップをただ傾ける人間。ほむらはそんな彼らの中から、目的の人物を探した。とはいえ、探す、というほど大仰でもなく、実際、ほんの少し視線をさまよわせたくらいで、壁際の席で、入口に背を向けて座る彼女の姿を見つけることはできた。
「遅くなったわ」
近づきながら、彼女の背中へと一言声をかけると、振り向いた彼女はやや不満げな表情で、しかし何も言わずにコーヒーカップを手に取った。見れば、空になっている。遅い、という抗議のようだった。
「もう一杯頼むから、そっちはほむらのおごりね」
「いきなり呼びつけておいて、なかなか言うわね」
ほむらは苦笑しながら彼女の向かいへと腰を下ろす。それと同時に、彼女、美樹さやかが片手をあげて、カウンターに向かって声をかけた。
「私、まだメニュー見てないのだけれど」
「喫茶店のメニューなんて、どこも同じだし問題ないでしょ」
横目で見れば、なるほど確かに、ブレンドとアイスコーヒー、紅茶、アイスティーくらいで、ケーキもチーズケーキとチョコレートケーキ、シフォンケーキの三種類だけだと、一瞥したくらいでわかる。もう一枚、別のメニューには豆の種類がずらりと並んでいたけれど、その違いにこだわれるほど、ほむらはコーヒーという飲み物に対して、知識も熱も持っていない。
さきほどカウンターにいた、マスターと思しき男性が、伝票を片手にやってきた。さやかがアイスティーを頼む。ほむらは少し考えて、アイスコーヒーを頼むことにした。
「ケーキ頼んでいい?」
「以上でお願いします」
「返事すらなしかい」
男性は二人のやりとりに薄く笑いながら、アイスティー一つとアイスコーヒー一つ、とメニューを復唱して、カウンターへと戻っていった。今、彼には私とさやかが、どのように見えていたのだろう、とほむらは考える。仲の良い友人に見えたのだろうか。
「チーズケーキ食べたかったなー」
「自分で頼めばいいでしょう」
「ほむらにおごってもらったチーズケーキが食べたかったなー」
「一生食べる機会のないものね」
「一生ときたか」
ケチ、とさやかが口を尖らせる。おそらく誰の目から見ても、仲の良い二人の他愛ない会話。しかしほむらは、さほど心地よさを感じない。
「……それで?」
ため息をつくように、ほんの少しの辟易と、嘲笑じみた響きを含ませて、ほむらは頬杖をつきながら言った。
さやかはその響きに気づいていないのか、気づいていて気づいていないふりをしているのか、それとも気づいていてわざとそうしているのか。
「まあ、頼んだものがきてからにしようよ」
それまでと全く同じ調子でそう言って、メニューを手にとって眺めながら、チョコレートケーキも美味しそうじゃない? とほむらに笑顔を向けた。
アイスコーヒーは足つきのグラスに注がれている。透明な黒を湛えるその曲面には、店内のアンティーク調の雑貨類や、ほむらの顔が、歪んで映り込んでいる。ほむらはそこにささったストローに口をつける。
甘いわ、とほむらは言った。シロップも砂糖も入れてはいないはずだけれど、とメニューを手にとって見れば、アイスコーヒーの文字の下に「シロップ入り」と書いてあるのだった。
「あなたがメニューをちゃんと見せてくれないから」
「えー、いいじゃん、甘くたって」
ほむらはもう一口、アイスコーヒーを口に含む。チョコレートを思わせる香りとともに、柔らかな甘さが舌に触れたあとで、爽やかな酸味が喉を通る頃には、心地よい余韻として苦味が残る。一口目こそ想像と違う味に戸惑いがあったけれど、こういうものだと知れば、確かにこれで完成している。
「まあ、これはこれで美味しいけれど」
再度珈琲を口に運んだほむらに、さやかはなぜか得意げな顔を向けた。ほむらはそれが面白くないから、これ以上この話題を続ける気をなくす。もともと、そこで終わるものだったのかもしれないけれど。
「……アイスコーヒーのことは、もういいわ」
「じゃあ、まどかの話をしようか」
さやかは笑顔のままだった。ほむらは思い出す。笑顔は、威嚇行為が変形したものだ、という説があると、いつか聞いたことがある。とするなら、今の彼女のそれは、人が笑顔に今の意味を見出す以前の、もっと原初に近いものだ。
「あなたのそういうところ、私は嫌いじゃないけれど、さほど賢くもないと思うわ」
「ほむら、あたしを賢いと思ったことなんてそもそもないでしょ」
「それはそうだけれど」
アイスコーヒーを口に運ぶ。否定してよ、とこぼしてから、さやかもアイスティーにささったストローに口をつけた。ほむらのそれと違って、シンプルなストレートグラスである。ガムシロップやミルクポーションが添えられているのをみるに、それにはシロップは入っていないのだろう。実際さやかは、甘くない、と呟いた。
「まどかの、何を話すのかしら」
さやかはガムシロップの蓋を開けている。それをアイスティーにそそぐと、浮かんでいる氷が滲んで歪む。ストローでかき混ぜられたそれは、すぐに元通りに、何もなかったかのように、澄んだ琥珀色が渦を巻いて、静止する。
「……最近、まどかが『かえろうとした』のって、いつ?」
せっかく甘みをつけたアイスティーに、さやかは口をつけずに言った。かえる。帰る。還る。どの字をあてるのが正しいのだろう、とほむらは思う。それとも、そもそも、「かえる」という表現が正しいのだろうか。
「さあ、いつだったかしら。最近は彼女の存在も、安定してきたみたいだから」
「それは、こっちの? それとも、向こうの?」
ほむらはアイスコーヒーを口に運び、甘いわ、とこぼして、それきり口をつぐんでしまった。