この世界で、一番大切なものはなんだと思う?
その質問に、杏子は確かに聞き覚えがあったけれど、それを以前耳にしたのはいつのことであったかまでは、まるで思い出すことができなかった。子供の頃、父親に投げかけられたのかもしれないし、何かの本に同じような文字が並んでいるのを見たのかもしれないし、あるいは記憶がすっかり間違えていて、その問いに出会ったのは、これが初めてのことだったのかもしれない。実際、過去の自分がその問いになんと答えたのか、まったく記憶にないのだから。
「なに、哲学の話? それとも宗教?」
茶化すように言う。それに対して、質問を投げかけた当の彼女は、風になびく後ろ髪を煩わしそうに抑えながら、どちらでもないわ、と気にしていないふうに返した。
彼女の髪からもわかるとおり、屋上には風が吹いている。生ぬるい風。この季節に、こんなに肌にまとわりつく風は珍しい。空を覆う雲の厚さは、太陽の位置がわからないことからわかる。雨が降るのだろう。そう遠くないうちに。
杏子は質問のことを考えた。いつか同じことを考えたかもしれない自分を想像し、そのときの自分がなんと答えたのかを想像した。今の自分が考え、今の自分がなんと答えるのか、考えることはしなかった。したくなかった、といったほうが、きっと正しい。
「アンタはなんだと思ってるんだ?」
この世界で一番大切なもの。
たずね返したのは、答えが思い浮かばなかったから。答える必要のある、なにか意味のある質問だと思えなかったから。あるいは、問いから逃げたくなったから。
彼女はすこしだけ眉をひそめて、しかし何もいわず、ただ遠くを見た。その視線の先を、杏子は追う。なにもない。鳥さえ飛んでいない。そこには雲しかない。ただ彼女の目は、その雲の向こうがわにある何かを――あるいは誰かを――見ようとしているみたいだと思った。
「大切なものなんて、この世界にはないわ」
ひとりごとみたいな言葉が、つむがれたそばから空に向かっておちていき、ともすれば杏子はそれを聞き逃してしまいそうになる。
「退廃的だね。いや、ペシミスト? なんていうんだっけ、そういうの」
「そういうわけではないわ。ただ……そうね、逆なのかもしれない」
「逆?」
そのとき、その日はじめて、彼女の視線が杏子の視線とからみあった。杏子はその目をしっているような気分になる。彼女と目をあわせたことなんて、数えるくらいしか、数えるくらいも、ないというのに。
「私にとっては、この世界のすべてが等しく大切で、同時に等しく、どうでもいいのよ」
彼女は笑った。
「……ずるくね? それ」
その笑顔が、美しいと思う。おなじくらい、悲しいとも思う。そのどちらの感情も、どんな理由に根ざしているのか、わからないまま。
「それを言うなら、あなたの答えを聞いていないわ」
「……さてね、今日の晩飯のメニューじゃないか」