「うわぁぁぁぁ!」
手術着のような服を着た赤い髪の青年が、突如として背後に現れた悪魔に捕まる。そんな叫び声も悪魔にとっては興奮を覚えるらしく、紅潮した顔で舌なめずりをするのが見えた。
「逃がしませんよ?それが私の役割。存在意義のようなものなのですから」
「い、イヤだ!こんなところで死にたくな…あ、へぇ……♡」
最初の方こそ必死に抵抗していたものの、逃げ出せるすんでのところでまた捕まってしまってからは諦めたように嬌声を出すだけの存在と化す。もはや抵抗の意志がないと悟るや否や、その全身を使って青年を抱きつつむとその体が蠕動のように動き始めた。
「あひぃぃぃぃ」
途中で見てられなくなった私は、そんな声を上げながら気を失ったのが見えたところで背中を向けて見て見ぬふりをする。やはり何度見ても襲われる瞬間だけは格の違いを感じてしまう。その前後もある程度差異があるとはいえ、完全なる格上に襲われるとなるとこうも一方的になってしまうのだろうか。
「おいおい、お前が目をかけていたからといって必ずしも成功するなんてことはないだろ?それにしてもまた面倒なことになったもんだな。これでまた面倒な手続きをやらんといけねえか・・・」
そういってもう一人その光景を見ていた私の上司はぶつぶつとつぶやきながら手元の書類を見始める。この光景も、この者の運命も何度も彼は見ている。だがそのたびにそうした手続きをしているから、実際は本人が言っているよりも大したことは考えていないのだろう。だが私に彼が必要であるからこそわざわざ忙しい身にもかかわらず姿を見せ、アドバイスを送っているのだろう。それが無駄であるとわかっているのにもかかわらず。
「ですが……あなたが、私を救ってくれる存在になってくれることを信じております。カズヤ様」
こうして失敗してしまった世界線とはまた違う、別の世界にいるその者の名前をつぶやきながら、静かに女性は祈りをささげる。それがいつか、意味のあるものになると信じて。
真っ暗闇だ、とふと思った。まるでテレビの電源が切れたときのように。体の感覚的には目を開けているはずなのにそんな部屋?空間?いったいどこなのかはわからないけど、そんなところにいるのに妙に落ち着いている。何度もここに来たことがあるかのような…
なんてことを考えていると、急にどこからか声が聞こえてくる。いや、声の主はとても近い。それも前にいるということがわかったが、その姿は一向に見えなかった。
「…まず、第一段階は成功と言ったところでしょうか?初めまして、それともお久しぶりというべきでしょうか?」
女性の声だ、とはっきり聞こえるようになってから思った。とても澄んだ耳に残るような声。だけどどうしてだろう、その言葉は僕に妙な感覚を覚えさせる。何度もこの声を聞いたことがある…それこそ、彼女が言うように初対面であるはずなのに。
「混乱していると思います。ですがここは意識のはざまである『まどろみ』の中。寝ている間に見た夢のように儚く、すぐに忘れてしまうようなところです。貴方はただ、私の言葉を集中して聞いているだけで結構です。そうでなければ」
返事をしようとして声が出ないことに気付く。夢のようなものであるなら考えたことを話すことくらいはできるはずなのにそうできない。その理由が判明することになるのは、その女性の姿がはっきりと見えるようになってからだった。
「おっと、ご挨拶を忘れていました。私の名前は冥羅(めいら)。『冥府の間』の主の秘書をやっているものでございます。短い間ですが、覚えていただけると幸いです」
そういい終わると同時にその姿が見える。それを見て、この冥羅と名乗った女性が癒えないようにしているんだという確信のようなものを持つことができた。
何せ、その背中の髪だと思われていたものが冥羅の胴体ほどもある大きな狐の尻尾で、それが9本も備えていたからだった。…だけど、やはりというべきか僕はそんな化け物の姿を見ても落ち着いていた。ここがまどろみだから?それともそういう魔法のようなものを使われているから?そんな疑問もすぐに消え、冥羅は口を開く。
「…やはりあなたは特別ですね。中には私を見ただけで叫びだしてしまう方もいましたから。さて、本題に入りましょう。あなたのお名前をお聞かせ願いますか?」
「…カズヤ。僕の名前は、カズヤだ」
自分でも驚いている。それまで一切動くことがないだろうと思っていた口が、自分の意志で動かすことができたからだ。これまでできなかったのにどうやって?
「結構でございます、カズヤ様。この空間の中でそこまではっきりと自分の名前を口にできるという意志の強さ。それほどまでの強さがあれば、これから起こる事柄に関しても『決意』を持つことができるでしょう」
決意?これから起こる事柄だなんて、急にそんなことを言われても訳が分からない。まるでこの先のことを知ってるみたいじゃないか…
「……そろそろお時間のようですね。聞こえませんか?あなたの名前を呼ぶ声が」
「起きて…カズヤ……」
「レイナ?」
僕の名前を呼ぶ恋人の声。その声に反応した自分の声が聞こえたとたん、急にそれまで立っていた地面が急に揺れるような感覚に陥る。いや、揺れているのは僕の体だ。体から急速に力が抜け始めてあしもとがぐらつきはじめる。立っているだけでも精一杯だ。
「短い間でしたが、またすぐに会うことができるでしょう。あなたにはそういった運命が宿命づけられている。それは決して変えられない未来…ですが、ここまでのことができるあなたでしたら。『決意』を持つことができるあなたでしたら。変えることができると信じております…」
冥羅が何か言っているのが聞こえるが、ほとんど聞き取ることができない。いや聞こえることには聞こえるのだが、それが頭の中に残らないのだ。さっきまで紐づけでもされているのではないかと思えるほどはっきりと自分の中に刻まれていたものがあっという間に零れ落ちていくような感覚。そしてそのまま、僕の意識は急速に遠のいていく…
「こうなったら………起きろ!カズヤ!」
「ぐわっはぁ!?」
突如として自分の体に降りかかった強烈な衝撃で飛び起きる。それと同時にそれまでの記憶がすべてリセットされ、どうして僕はそんなことになっているのだろうということしか頭になかった。
「あ、やっと起きた!まったく、ゆすっても叩いても起きないんだから…」
「あの、その割には腹パンなんてことをするのはよくないと思いますが…いや、それよりもレイナ、どうして君が僕の部屋の鍵を持ってるの…」
腹パンをやってきたことはいったん置いて、僕の記憶の中ではレイナが合い鍵を持っているという記憶はない。これがもし性別が反対だったら犯罪なんじゃないかと思ったけど、すぐにそのことは否定されることになる。
「そんなことまで忘れたの?先週一緒に作りに行ったじゃない、合い鍵」
「アハハ…そうだっけ?」
僕としては言われるまで本気で忘れていたことだったけど、そういった瞬間急に心配そうな顔になって大丈夫かと聞いてくる。チャンスと思った僕は握られっぱなしの主導権を取り返すために反撃することにした。
「んー…悪いけど覚えがないよ。誰かさんの腹パンがよく効いたからかな?思わず飛び起きる位の衝撃だったからなあ…」
「あ、アハハ…ごめん、カズヤ。ゆすっても全然起きなかったからさ。つい手が出ちゃって」
よし、効果があった。ここから反撃しようと次の言葉を考えている途中で思い出したかのようにレイナの方から反撃し返されることになる。
「あ、忘れるところだった!まさか約束まで忘れているわけじゃないわよね!?今日はミカたちと一緒に出掛ける約束なんだからすぐに準備してくること!もう二人とも外で車出して待ってるんだから!」
そういうか早いか、あっという間に部屋から出ていく音が聞こえてくる。これからしばらく尻に敷かれるようなことになりそうだなと思いながら約束なんてことをしていたかという疑問が出てくる。
(…いや、ちゃんと外出するための服に着替えてるじゃん…支度して二度寝してたんだな僕…」
ベットから起き上がった時の違和感の正体が、いったん行く前にパソコンを開いてSNSを見ていこうかなと画面を見たときに見えた自分の格好を見てすべてを思い出した。なんというか、ここまで自分が悲しく思えるようなこともないだろうなと思いながら何か飲もうとして冷蔵庫に向かおうとしたところで今日の朝とった新聞紙が目に入った。
「『教会がM.O.Wを要注意団体に指定!彼らの影に悪魔あり!』ね…宗教のことはよくわからないけど、昔お世話になったあの教会の神父さんも悪魔を倒していたりするのかな…」
冷蔵庫から取り出した水を飲みながらそんなことをつぶやくが、どこのメディアだっていい加減な記事を書いたりすることもあるということを思い出す。それに今の世の中で悪魔だなんて、ただの冗談としか思えない。確かにレイナの姿は昔どこかであったような気がするが、それも他人の空似というものだろう。なんてことを考えながらコップを前と比べると綺麗になったシンクに置きながら玄関に向かっていく。
……そういえば、とても大事なことを夢の中で告げられたような。妙にはっきりした夢だったのは覚えているけど、もう何も思い出せない。まあ所詮夢だ、大したことはないでしょとそこに置かれていた昨日のうちに準備しておいた荷物を持って外に出た。
「あ、カズヤ!レイナから聞いたよ?入ったら寝てたんだってね!」
「カズヤ…まったく、出かける用事があるっていうのに呑気なものだな?」
出てきたらちょうど入り口のところで親友のユーマとその恋人であるミカがそういってくる。僕は悪かったよ言いながらそちらの方へと小走りで近づき、助手席に乗って車が出発する。
…それが、最後にすべてが変わってしまう前にあった記憶。とある休日の朝。僕は親友と、それぞれの彼女の男女4人で山にキャンプに向かうはずだった。きっとお互いの関係が深まる素敵な休日になる。そのはずだった。…そうなるはずだったんだ。
冒頭の前で起こっていたであろうことも入れてみる。