この世界には雪と呼ばれるものは存在しない。
どの時期であっても一定の暖かさがあり、冬が訪れても雪が降ることは無い。
けれど言葉として存在することから、かつてこの世界にはそういった気候の場所があったのかもしれない。
僕が知らないだけで、今もどこかに存在しているのかも……しれないけどね。
しかし、そんな歴史や事実などは僕には関係ない話だ。
何故なら今の僕にとって重要なことはただ一つだけなのだから。
「寒いっ!!」
寒風吹きすさぶ中、僕は今年一番の寒さに耐えかねて叫んでいた。
「寒いよー!!」
傍に居るキリエも僕と同じように叫び声を上げているが、その顔は満面の笑みだ。
「さ、寒いですわー!!」
僕たちと行動を共にしているエンマさんの叫びも聞こえてきたが、まだ気恥ずかしさを感じさせるものの、その表情はやはり笑顔だった。
「あはは! エンマもだいぶ慣れてきたじゃん!」
嬉しそうに笑うキリエの言葉に、エンマさんは照れ笑いを浮かべる。
「そ、そうでしょうか?」
「うん! 最初はあんなに恥ずかしがってたのにね!」
そう言われると恥ずかしいらしく、エンマさんは頬を赤く染めてしまった。
その様子を見ていた僕とキリエは、顔を見合わせて笑い合う。
何故、僕たちがこの寒さの中で一緒に歩いているのかと言うと、エンマさんのお仕事見学と配達体験の為なのだ。
お馴染みとなったお茶会の席で、誰かさんが自分の誕生日が近いことをそれとなく、だけど絶対に忘れるなと言わんばかりにアピールしていたからである。
そこでお祝いをしようと思い立ち、本人を含めたサプライズ感ゼロの計画を練っていたところ、エンマさんから提案というお願い事があったのだ。
「わ、わたくしにもお仕事をさせて頂けませんか!」
本人曰く、友達を祝う為に自分たちの力だけで何とかしようとしている僕……僕たちですね、ハイ。
その姿に心を打たれたらしく、エンマさんも自分の力でキリエをお祝いしたいという気持ちが芽生えたそうだ。
その気持ちはとても嬉しく、また同時に応援してあげたい気持ちになった僕らは、快く承諾したのだ。
とはいえ、普段から僕たちと親しく接してくれているが、本来は貴族という立場のエンマさん。
それに加えてご両親が健在ということもあり、事情を説明してきちんと許可を貰う必要が出てきたのである。
もう一つ、仕事そのものについても問題があった。
なにせこの年齢だと働く場所が無いからだ。
三人寄れば文殊の知恵というユーハングの諺を聞いたことがあるが、今回は三人で考えても良い案は浮かばなかった。
そんな時、キリエが何かを振り切ったかのような表情で口を開いたのだ。
「考えてもなーんも浮かばないし、とんぼ便のおっちゃんにお願いしてみようよ!」
彼女のその言葉に、僕たちは驚きながらも他の案が浮かばないこともあり賛成することにしたのだった。
◇◇◇◇
結果として、エンマさんのご両親から短期間であればと許可を頂くことができ、仕事についても、とんぼ便のおじさんにお願いすることで無事に解決したのだ。
ただし、エンマさんが配達をする際には必ず僕たちが付き添うこと、お給料は三等分することという条件付きでだが。
そんなわけで、実質僕とキリエはタダ働きのような状態なのだが、エンマさんに仕事を教えているキリエは本当に楽しそうであり、二人が喜んでいるのならそれでいいかと思えてしまうのだ。
昔、僕に仕事を教えてくれた頃のキリエなんて、切れ味抜群のナイフのように尖っており、まるで近づく者すべてを傷つけると言わんばかりの雰囲気だったのだから。
今ではすっかり丸くなり、よく笑うようになったのだから、本当に良かったと思う。
エンマさんの配達は届け先の人々にも好評で、「あ、あの……こ、これどうぞ……」と頬を染めながら荷物を渡してくる彼女を見て微笑ましく感じる人も多いようだ。
特にご婦人方からは可愛がられているようで、おばさま達の間ではアイドル的存在になりつつあるらしい。
「なんかあたしの時と全然態度が違うんだけど!」
「そりゃだって……」
「なんだよ、ハッキリ言えよ」
「『ん!』って荷物を渡されるのに比べれば……」
「あ"ぁん?」
「すみませんなんでもないですごめんなさい」
……訂正、やっぱりこの人怖い。
◇◇◇◇
キリエの誕生日。
お祝いをする場所は、例の如く九七式が置かれている倉庫である。
流石に場所ぐらいは大人の力を借りても良いと思ったのだが、本日の主役はどうしてもこの場所を頑として譲らなかった為、結局はいつもどおりになってしまったというわけだ。
ここに初めて訪れたエンマさんは、目をキラキラと輝かせており、興味深そうに辺りを見回している。
彼女は貴族のお嬢様なのだから、こういう場所に足を踏み入れる機会など無かったのだろう。
「では皆さん! 今日は私の為に大変たいへーんありがとうございます! 乾杯!」
音頭を取るのは、もちろん我らが主役殿だ。
それに合わせて全員がマグカップを掲げる。
中身が温かな紅茶に変化したのは、エンマさんの頑張りによる成果と言えるだろう。
キリエは僕の作ったパンケーキを頬張り、その横に座るエンマさんが時折、頬についたものをふき取るなど、甲斐甲斐しく世話を焼く姿が見られる。
その仲睦まじい様子はまるで姉妹のようでもあり、見ているこちらまで幸せな気持ちになってしまうほどだ。
僕の視線に気づいたキリエはにっこりと微笑み、エンマさんは恥ずかしそうに顔を伏せる。
その仕草もまた可愛らしく思えた。
そんな中、何かを思いついたらしいキリエは、イタズラ心に満ちた笑顔を浮かべると、ナイフとフォークをテキパキと動かし始める。
そして一口に切り分けられたパンケーキをフォークに刺すと、それをエンマさんへと差し出したのだ。
「はい、エンマ。あーん」
突然の出来事に驚いたのか、それとも羞恥心からか、顔を真っ赤に染め上げたエンマさんだったが、やがておずおずと口を開くと差し出されたパンケーキを口にしたのだ。
もぐもぐと咀嚼し飲み込むと、頬を赤く染めたまま呟くように言葉を紡ぐ。
「……とってもおいしいですわ」
それを聞いたキリエは満足そうに笑うと、同じようにして今度は僕の方へと差し出す。
「はい、リエト。あーん」
僕は一瞬戸惑いを見せるものの、断ろうものなら後が怖そうなので素直に口を開けた。
そこに差し込まれる一切れのパンケーキ。
柔らかな生地に包まれた甘味が口の中に広がっていく。
それは普段食べ慣れているはずなのに、いつもより美味しく感じられたような気がした。
僕が感想を述べようとする前に、悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女が言葉を続ける。
「どう? 美味しいでしょ?」
「……うん、そうだね」
少し気恥ずかしくなった僕は、思わず視線を逸らしてしまった。
そんな様子をニヤニヤしながら見ていたキリエに反撃するため、僕はエンマさんに協力を求めることにしたのだ。
キリエに聞こえないように耳打ちすると、エンマさんは満面の笑みと共に大きく頷いたのだった。
幸せなイタズラを成功させたキリエが満足そうな笑顔をさせている間に、エンマさんが優しくキリエからフォークを回収する。
そのままくるりと反転させると、お返しとばかりにキリエの口元へと持っていく。
「はい、キリエ。あーんですわ」
「う、うえぁ!? え、エンマ!?」
「ふふっ、仕返しですわ」
そう言いながらクスクスと笑うエンマさんと、顔を真っ赤にして口をパクパクさせるキリエ。
予想外の展開だったのか、慌てふためく彼女の様子を見た僕らは声を出して笑ってしまった。
結局観念した様子のキリエは、ゆっくりと口を開きパンケーキを食べさせてもらうことになったのだが、その表情は恥ずかしさのあまり真っ赤になったままだ。
しかし、それでも幸せそうな表情をしているのだから、彼女も本心では嬉しいのだということが伝わってきた。