夢の先に エンマとの場合
夢の先には、一体何が存在すると人は思うだろうか?
この広い世界には沢山の場所があり、それぞれ様々な人間が生活を営んでいるだろう。
夢を持つ人、希望を抱き進む人、挫折し絶望する人、何かに囚われ抜け出せない人、多くの人がいるに違いない。
そんな中でも、夢を見ることで人は前へ進むことができるのだろうと思う。
もちろん、努力は必要になるけれど、諦めなければ可能性は無限大に広がるのだから。
ただ、可能性が広がるからこそ、現実という名の壁にぶち当たる人も多いはずだ。
例えば、そう、いま目の前にいる彼女とか……。
「リエト、何処を余所見しておりますの? わたくしとソメイヨシノを愛でる約束でしょう?」
「ごめんごめん。エンマの横顔を眺めていただけだよ」
「まったくもう……わたくしの顔を見つめたご感想は如何かしら?」
「そうだね、とても綺麗だよ」
「あら? 素直ですわね? リエトのことですから、『桜より君を見つめていたいよ……』などと仰ると思っておりましたわ」
「流石にそこまでキザなことは言わないよ!?」
エンマは少し意地悪そうな顔をしているけど、口元が笑っているから本気で発言しているわけではないことは明白だった。
普段は大人しいのに、僕をからかう時は活き活きとしている気がする。
多分、僕へのちょっとした悪戯心なんだと思う。
「冗談ですわ。さて、わたくし達もお茶にしましょう」
エンマは慣れた手つきでティーセットを準備し始める。
ここは、エンマの実家であるお屋敷にある庭先。
彼女の尽力もあってか、ソメイヨシノが久しぶりに花を咲かせたのだ。
折角の機会を逃すわけもなく、コトブキ飛行隊のみんなは既にお花見を済ませてあったので、こうして二人だけのお花見を楽しむことにしたのだ。
「ほら、リエト。早くこちらにいらしてくださいまし」
「うん、わかったよ」
僕が席に着くと、エンマは手際よく紅茶を注ぎ、カップを渡してくれた。
早速、口をつけるとまろやかな味が広がり、鼻腔を突き抜けていく芳醇な香りが心地よい。
「やっぱり、エンマが淹れてくれた紅茶が一番好きだなぁ」
「ふふっ、幼い頃からリエトの胃袋を掴んでおりますから。当たり前ですわ」
僕の真横に椅子を置き、寄りかかるように座るエンマ。
いつの日からだろうか、二人で庭先で紅茶を飲む時はいつもこうなっていたことを思い出す。
最初は、少し距離が近すぎる気がして戸惑ったものだが、今ではようやく慣れてきた自分がいた。
心地良さを感じるようになってしまっているあたり、僕は既に彼女に染まっているのかもしれない。
「ねえ、エンマ」
「なんですの?」
「僕達って、恋人同士だよね?」
「ええ、勿論ですわ。貴方がわたくしを選んでくださった時は、それはそれは天にも昇る想いでしたのよ?」
「僕も同じだよ。答えを決めるのに待たせてごめんね」
「謝らないでくださいまし。それだけわたくしのことを想ってくれた証拠なのですから。でも、一つだけ不満がありますわね」
「え!? 何か不満があったかな?」
「ありますわよ! 告白して下さった時に言ってくれた言葉は嘘だったのですか?」
「うっ……」
実は覚えているんだけど、いざ面と向かって言うとなると照れてしまうんだよな……。
しかし、ここで言葉を濁してしまうわけにはいかないだろう。
「……愛しているよ、エンマ」
「……まあ及第点といたしましょうか」
「あはは……」
恥ずかしくてつい顔を逸らしてしまったが、隣に座るエンマは嬉しそうに身体を密着させてくるのだった。
「ねえ、リエト」
「ん? どうしたの?」
「最初にここで出会って以来、様々なことがありましたわね」
「そうだね、懐かしいよ」
桜泥棒の濡れ衣を着せられたり、一緒に配達の仕事を経験したり、他にも色々なことがあったね。
今となってはどれも大切な思い出だ。
「貴方はどうしてあそこまでわたくしの為に尽くしてくださいましたの?」
「尽くした……という記憶はないんだけど、当時は友達の為になにかしてあげたかったんだと思うよ」
「なるほど……確かに、出会ったばかりの頃、貴方からはそういう印象を受けましたわ」
「自分で出来ることを精一杯、探していただけなんだけどね」
僕の言葉に偽りはない。
当時の僕は自分の出来ることを探して、出来そうなことを行っていただけに過ぎないのだから。
「それでもわたくしは嬉しかったのですよ。今だってそうですわ」
「そう言ってくれると嬉しいな」
「本当ですわよ?」
ふと横を見ると、頬を少しだけ膨らませている彼女が目に入る。
その姿が少し可愛くて笑みが溢れてしまった。
「……なんで笑うんですの?」
「いや、普段は美人さんなのに、たまに見せる幼い仕草がとても可愛いなって」
「むぅ〜!! そういうところですわ!」
顔を真っ赤にしながら怒る彼女は本当に可愛かった。
怒ったフリをして照れ隠しをしていることも知っているから余計にそう思うのかもしれない。
それに、こんな風に気兼ねなく過ごせる時間は幸せだと思うんだ。
「リエトはわたくしの乙女心を弄んでいますわよね?」
「恋人同士になる前は、よくエンマに弄ばれたからね。そのお返しだよ」
「そうでもしなければ、ライバルが多すぎますもの。少しでも意識して頂かないといけませんし」
「そういうことだったのか……」
待たせてしまった事を含めて、申し訳ない気持ちになってしまう。
きっと、今までの振る舞いの中で色々と不安にさせてしまったこともあったんだろうと思うと、いたたまれない気持ちになる。
「ふふっ、そんな深刻な顔をしないでくださいまし。もう過去の話ですから気にしないでくださいませ」
「ありがとう」
「今はただ貴方と一緒に居られるだけで幸せなのですから」
エンマは本当に優しい娘だと思う。
こんなに素敵な女性に好きになってもらえたなんて、未だに信じられないくらいだ。
「そういえば、エンマはいつから僕のことが好きだったの?」
「初めてお会いした時からですわよ?」
「あーうん。僕も同じ質問をされたら同じ返事をすると思うけど、きっかけというか、具体的な時期を教えて欲しいかなって」
「んー、内緒ですわ」
「…………」
どうやら教えてくれないようだね。
とはいえ、恥ずかしい気持ちはわかるよ。
僕だって自覚するまで時間がかかったんだからさ。
「逆にお聞きしますけど、リエトは何時頃からだと思いますの?」
「えっ!?」
思わぬ質問返しをされてしまい、思わず狼狽える僕。
「まさか、考えていませんでしたの?」
「いや、そんなことないよ!!」
慌てて誤魔化すように答える僕だが、完全に逆効果である。
「じゃあ、聞かせてくださいまし。因みに、ちゃんと言葉にしてくれないとわからないですわよ?」
意地悪な笑みを浮かべながら迫ってくる彼女。
ああ、この表情も大好きだなぁ……。
「ええっと……想像なんだけど……」
「はい」
「『お嬢様学校』へエンマを迎えに行った下りの時かな……?」
「そこはわたくしの第一位ですわね。ですが過程が重要ですわ。三つほど思い出して欲しいですの」
「第一位なんだ……第二位と第三位はなんだろう……?」
「ヒントを差し上げましょう。わたくしがまだ清らかな乙女であった頃に、リエトがわたくしの身体に触れたところですわ」
「それ絶対違うよね!?」
「あら、違いませんわよ? なんでしたら再現致しましょうか?」
そういうとエンマは僕と向き合い、手を取り自分の胸元へ僕の手を引き寄せた。
彼女の胸の柔らかさに一瞬ドキッとするが、すぐに我に返ると彼女の顔が至近距離にあることに気づいた。
そしてそのまま顔を近づけてきて……。
「んっ……ちゅ……」
彼女と唇が重なり合う感覚を味わいながら目を閉じる。
ただ触れ合うだけなのに、柔らかな唇の感触と甘い香りに頭がクラクラとする。
「……ふぅ。こういった経緯でお互いに恋心を抱き始めたわけですわね」
「手を引き寄せられたのは間違いないけど、口づけまではしてないからね?」
満足げな笑みを浮かべる彼女に抗議するも、軽く流されてしまう。
「さて、第三位は分かりましたわね? 次は第二位ですわ。思い出してみてくださるかしら?」
「待って!? 続けるの!?」
「当然でしょう? ここからが始まりなのですから」
悪戯っ子のような表情を浮かべてこちらを見つめてくる彼女は本当に楽しそうだった。
そんな姿を見るとついつい許してしまいそうになる自分がいる。
惚れた弱みというやつだろうか。
「……わかったよ」
こうして僕は観念したのだ。
「この流れで行くと、僕が『お嬢様学校』でエンマの弟役をやった時の話しかな?」
「正解ですわ。あの時はわたくしと会う為に慣れないことを頑張ってくれて嬉しかったですの」
「郵便屋の二人には感謝しないとね、『姉上』」
「ふふっ、あの時の呼び方が気に入りましたの?」
「新鮮であったことは確かだからね」
「わたくしはあの時のやり取りが好きでしたのよ?」
「そうなの?」
「ええ、二人きりの大切な時間でしたから」
「ああ、そうだね」
エンマは嬉しそうに微笑むとそっと抱きついてきた。
そんな彼女の背中に腕を回し抱きしめ返す。
お互いの体温を感じるような抱擁は心が安らぐ気がする。
「あの時、誰よりも先にリエトの夢が叶うことを教えて頂けたことは、今でも大切な思い出ですのよ?」
「大袈裟だなぁ……」
「そんなことはございませんわ。わたくしの中に眠る支配欲が満たされた瞬間ですもの」
「それってどういう意味なの?」
「あら、ご存じありませんの? 好きな人を支配したいという感情はごく自然なことですわよ?」
「……この調子で第一位を振り返ると一体どうなってしまうのだろうか?」
「それは勿論、わたくしが心底リエトに惚れ込んだ出来事になりますわね」
「やっぱりそうなんだ」
「うふふっ、当たり前ではありませんか」
そういって微笑むエンマの表情はとても艶やかだ。
きっと本気で言っているんだろうなと思うと同時に、少し照れくさくなる。
「最初に当てちゃったけど、『お嬢様学校』へエンマを迎えに行った話しだよね?」
「ええ、そうですわね。リエトが自身の将来を犠牲にしてまで両親の問題に立ち向かってくれた姿、そしてわたくしを迎えに来てくれた姿が眩しくてたまらなかったのですわよ?」
そう言いながら彼女が浮かべる笑顔はとても優しかった。
きっと当時のことを思い出しているのだろう。その目は遠くを見つめているように見えた。
「あの時、貴方を置いて寮へと戻らなけれはならなかったわたくしの気持ちを分かりまして?」
「夜間飛行をするわけにもいかなかったし、仕方ないんじゃ……」
「それでも! わたくしには心残りがあったのですよ!」
まるで子供のように頬を膨らませる彼女はどこか可笑しくて愛らしく見えた。
そんな表情を間近で見られることが嬉しくてたまらない自分は、末期なのかもしれないなとしみじみ思ったりもする。
「部屋に戻りましてもリエトのいない寂しさたるや筆舌に尽くしがたいものがございましたのに、翌朝急いで駆け寄ってみれば、貴方は呑気に眠っていたのですから腹が立ちますわよ?」
「星を眺めていたら寝落ちしていまして」
拗ねたようにそっぽを向く彼女を見て素直に謝るしかなかった。
それにしても、まさかあの状況で寝てしまうとは自分でも驚きだった。
我ながら図太い神経をしているのかもしれないと今更ながら思ってしまうほどだ。
「エンマにはルームメイトがいるから大丈夫かなと思っていたんだけど」
「リエト、二人きりの時に他の女性の話しを出すなんて無粋だとお思いになりませんか?」
「あ、ごめん」
そういえばそうだと思いなおすことにした。
ここは素直に謝っておこう。
「とはいえ、そんなわたくしの状況を察してか、タミルも貴方を部屋へ招こうと作戦を練って下さったのですよ?」
「え? そうなの?」
「わたくしの王子様を迎えるために色々と案を提示してくださいましたわ」
「そ、そうなんだ。今度会ったらお礼を言っておかないと」
「別に構いませんわよ。あの子の性格からして好奇心を抑えられなかっただけでしょうし」
そう言って溜息をつくエンマは、呆れたような表情を見せていたが、どことなく嬉しそうな雰囲気が漂っていた。
どうやら二人は今でも良好な関係を築いているようだと安心することができた。
「わたくしがリエトを好きになりました過程についていかがでしたかしら?」
「うーん、二つほど理解出来たことが有ったよ」
「あら、何かしら?」
こちらの肩に頭を乗せながら、彼女は興味深そうに尋ねてくる。
彼女の艶やかな金色の髪に指を通しながら、僕は口を開いた。
「一つ目だけど、僕が想像していた時よりも早くから好かれていたんだなって思ったことかな」
「ふふっ、そうですわね。あの頃はまだ無意識で自覚の無い頃ですから、貴方が思っているよりも早かったかもしれませんわね」
僕の腕に自らの腕を絡めて寄り添いながらエンマが笑う。
普段は凛とした態度をとっているのだが、二人きりになると途端に甘えた姿を見せてくれるのだ。
そんな姿を見るたびに愛しさが募っていくのが分かる。
ふとした瞬間に見せる笑顔が特に好きだったりする。
「二つ目は……なんだかんだで既に人生の半分近くを共に過ごしているんだなぁと実感したくらいかな?」
「確かに、その通りですわね」
出会った当初はまだお互い小さかったのだけど、気が付けば背も伸びてお互いに成長していたのだと感じることができた気がした。
だが……僕の腕を抱きしめるエンマの力がどんどん強くなっていき、そこから伝わる感触は柔らかなもので、正直なところ心地よいという感想しか浮かばなくなってきた。
「……ねぇ、わざとだよね?」
「なにがでしょうか?」
すっとぼけるエンマだったがその表情は非常に嬉しそうであることに気が付く。
多分、確信犯だろう。
だがしかし、この幸せから抗うことは出来ないため、そのまま彼女に身を委ねていると、耳元で囁き声が聞こえた。
「……ところで、先程は二つと申しておりましたが、もう一つ理解なさったことがあるのではないでしょうか?」
囁く声はどこか艶めかしい響きを持っており、それだけで背筋がぞくりと震えた気がする。
「……あー、うん。それは、まあ、ね」
視線を逸らしながらどうにか言葉を返すものの、頭の中はもういっぱいいっぱいであった。
そんな僕の様子をからかうかのようにクスリと笑い声をあげるエンマであったが、再び耳元に顔を寄せると再び囁いてきた。
「……わたくしたちは、もう子供ではなくなってしまいましたのよ?」
甘い吐息と共に吹きかけられる言葉は、脳髄を刺激するかのような危険な魅力に満ち溢れており、心臓が高鳴るのを感じる。
それが緊張によるものなのか、興奮によるものなのかはもはや分からなかった。
そんな状態の僕を知ってか知らずか、彼女は言葉を続ける。
「大人になってしまったわたくしたちが、どのような未来を描くのか、少しだけ見てみたくはありませんか?」
妖艶な笑みを浮かべながら紡がれる言葉に耳を傾けることしかできない自分のなんと情けないことか。
少しばかりの抵抗と考え、顔を背けようとするも顎を掴まれてしまい、強制的に視線が交差してしまう。
逃げ場はないと言わんばかりにこちらを見つめてくる双眸には強い意志が込められているような気がしてならない。
……きっと、エンマには一生勝てないんだろうなとぼんやりと思うのだが、それさえも愛しさに変わるのだからどうしようもない。
惚れた弱みというやつなのだろうか?
「今ならば、誰も見ておりませんわよ?」
「……ずるいよ」
そんなことを言われてしまっては抵抗する気力など無くなってしまうではないか。
それを分かった上での言葉だとしたら、やはり彼女には敵わないのだろうと思ってしまうのだった。
「ふふっ、いい子ですわね」
ゆっくりと唇が触れ合い、互いの熱を感じ合うような優しい口づけを交わすと彼女は幸せそうに微笑んだ。
「幸か不幸とでもいうのでしょうか。イケスカの戦いが終わり、『羽衣丸』が新造されるまで『コトブキ飛行隊』は副業可能となりましたが、搭乗する機体も無い始末」
「僕も含めて整備班が連日連夜で働かないと間に合わない程の状態だからね……」
「つまり、リエトは大変忙しいのですが、わたくしは暇ということなのですわ。それも一年近くずっと」
「いままでの分を埋めるように、最近はずっとべったりだよね」
「良いではありませんか。恋人同士なのですから。ですが……」
「どうしたの?」
「実は以前から考えていたことがありますの。聞いていただけますかしら?」
「もちろんだよ」
「ありがとうございます。わたくし、頂いた一年を無駄にしたくないのです。そこで、今後の予定を立ててみましたの」
「へぇーどんな感じなの?」
「まずは今年の六月あたりに貴方と結婚することに致しますわ」
「けっこ……結婚!?」
突然の告白に頭が真っ白になる。
そして遅れてやってきた喜びにより頬が紅潮していくのが分かった。
「え、あ、その、えっと……嬉しいけどちょっと待って! いきなりすぎる! プロポーズはおろか婚約指輪すら準備してないよ!」
「それでしたら次回のお休みに二人で見に行きませんこと? ついでにデートもしてしまえば一石二鳥ですわよ?」
慌てふためく僕を前に、余裕を見せるエンマの様子を見て少し悔しい気持ちになったので、僕も何か反撃しなければと思い立ち、言葉を紡ぐことにした。
「そっかぁ、エンマと結婚かぁ。考えていなかったわけじゃないけど、プロポーズにはあの言葉を言わないとだよね」
そう言いながらあたかもその可能性は頭の隅に入れてあったぞ。という雰囲気を出してみる。
内心では全くと言っていいほど意識していなかったのは公然の秘密ではあるのだが、ただ、少しばかり意地悪をしてみたくなったのである。
「あら、流石はリエトですわね。わたくしとの未来をきちんと考えていらしただなんて素敵ですわ」
しかし彼女はそんな僕の浅はかな考えは読み切っているとばかりに、得意げにそう答えた。
ここまで読まれてしまうと最早お手上げだ。
素直に白旗を上げることにしよう。
「ごめんなさい。恋人同士になれたことが嬉しくて、結婚についてはまだ先のことだと考えていたんです」
頭を下げて謝罪すると、今度は彼女の方から言葉が返ってくる。
「ふふっ、よろしいのですよ。わたくしも突然の予定を伝えただけでしたし、むしろこうして真剣に検討していただけただけでも嬉しいですもの」
そう言うと彼女は、僕の首筋に口づけを幾つも落としてきた。まるでマーキングをしているかのようだと感じた瞬間、ちくりとした痛みが走る。
どうやら痕を付けられてしまったらしい。
彼女の唇の感触がくすぐったくて身を捩ってしまうのだが、そんなことはお構いなしといった様子で彼女は続けた。
「それに、わたくしのお願いを聞いていただけましたら許して差し上げますわ」
首筋から顔を離した彼女は悪戯っぽく微笑むと、そっと人差し指を口元に当てた。
その姿は実に可憐であると同時に、艶やかささえ感じられる程に美しく見えたのだ。
その様子を見た僕は思わず動揺してしまったのだが、すぐに冷静さを取り戻すことに成功した為、平静を装って会話を続けることにした。
「僕にできることなら何でもするよ」
それを聞いた彼女は言質を取ったと言わんばかりの表情を浮かべながらこう返してきた。
「一年もあれば、家族を増やすことも出来るのではないかと思いまして」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で稲妻が走ったかのような衝撃に襲われたことをよく覚えている。
それと同時に脳内で様々な妄想が繰り広げられたのだが……。
「あ、あの……エンマさん……?」
あまりにも衝撃的な発言に困惑を隠しきれないまま恐る恐る声を掛けると、彼女は微笑みを浮かべたままこちらを真っ直ぐに見つめてきていた。
「何でしょうか?」
相変わらずの穏やかな笑みではあるが、この人は確信犯であるということを改めて認識させられた気がする。
いや、それよりも今はこの状況をどうにかしなければならないだろう。
「あー、ええと……何人ぐらい欲しいのかな?」
自分でも何を言っているのやらと思ったものの、聞かないことには始まらないだろうと腹を括った結果がこれだった。
我ながら馬鹿だと思う反面、こんな質問をされた彼女も驚いているに違いないと思ったのだが──それは思い違いであったようだ。
「リエトの望むがままに。何人でも」
微笑みながらさらりと答えるエンマの姿に、僕は見惚れてしまった。
この先、何度彼女を好きになってしまうのだろうかと思うくらいには虜になっている自分がいることに気づくが、
それでも良いかと思える程度には惚れ込んでしまっているのかもしれない。