4月。雄英高校登校初日。
飯田が1年A組の教室を訪れると、そこには一人の少女がいた。
「やあ」
彼に限って、遅刻なんてありえない。不測の事態に備えて誰よりも早く来た自信があったが、目の前の少女は彼より一足早かったようだ。
それ自体はショックではない。ただ、その声、その姿を認めた瞬間に、彼は思わず放心した。
彼女は教卓の上に座っていた。入試当日に出会ったあの時の服装は目立っていたが、今は雄英高校の女子制服を着ている。そう。彼女こそ、ほんの少しの間だったが言葉を交わした安心院なじみだ。
彼女は右足を両手で抱え込み、膝の上に頬を当てて彼の方へ顔を向ける。
アルカイックスマイルが妖艶さを醸し出しており、それを見ただけで飯田は仄かに顔を紅潮させた。
体勢を変えたことで歪むスカート、揺らめく長髪。何もかもが蠱惑的だ――そんな思考が彼の頭を過る。自身が女性の髪や衣服にフェチを持っているとは信じたくなかった。
何も後ろめたいことはないはずなのに、見てはいけないものを見たような気分になる。逸る鼓動を抑え、落ち着け、と自分に言い聞かせる。今この場に性的な要素は微塵もない。
「体が火照るってなんか響きがいやらしいと思わないかい?」
「なっ!?」
前言撤回。彼女の発言が場の空気を一変させた。
「突然何を言っているんだ君は!」
平常心を保っていれば、「淑女としてあるまじき発言だ」とでも叱責していただろう。今の彼には、そんな余裕は無かった。
「だってカラダがホテルなんだぜ?」
飯田は意図が掴めずあたふたしていたが、赤面したのを悟られたが故の話題だと気づくと、更に赤くなった。
真面目君とはいえ彼も健全な10代の男子高校生。異性に全く興味が無いわけではない。ただ、ヒーロー志望という大きな夢だけを見据えて生きてきた彼は異性関係や性的なコンテンツを遠ざけてきた。それゆえに耐性が無く、安心院の悪戯は劇毒だった。
「揶揄うのはやめたまえ! それと、教卓の上に座るとは行儀が悪いぞ」
「これは失礼。感慨深くてつい教卓に座っていたみたいだ」
よっ、という掛け声と共に教卓の上から飛び降りる安心院。
以前にも聞いたことがあるような言い回しである。少々無理のある言い訳に、彼女の発言をまともに取り合っていては身が持たないと学習する。飯田は咳払いをして、この場の主導権を握ろうと新しい話題を振る。
「……君もA組なんだな」
「おいおい、受かったことに対しての反応は無しかい」
安心院は人差し指を立てて口元に添え、目を細める。一々所作にドキッとさせられる飯田である。
「君ならば受かるだろうと思っていたんだ」
「僕のことを随分高く買ってくれているようだけど、その根拠は何かな?」
数回言葉を交わしただけだ。互いの個性も知らないのだから、判断材料など本来無い筈である。
「雰囲気だ」
「理詰めで考えそうなのに意外だね」
他とは違う態度に余裕を見たからだ。決して、出会いに運命を感じた、などということはないはずだ。彼の心の中で言語化されそうなその説は、浮かび上がり輪郭を持とうとした先から理性が揉み消していく。
「何にせよ、改めてよろしく頼むぜ。飯田くん」
早くも高校生活に暗雲立ち込める飯田であった。
1年A組の面々は、入学初日だというのに入学式も無く個性把握テストなるものを受けさせられていた。
おまけに、8種目トータル成績最下位は除籍という横暴ぶり。
「個性を使った体力テスト、人によって大きな差ができそうだ」
先程50m走を走り終えた飯田。両脚から生えたエンジンからによる推進力を得て3秒04という記録を叩き出した彼自身が、正にそれを証明してみせた。
「安心院さん。君の個性は知らないが、大丈夫なのか?」
「おや、心配してくれるのかい」
「最下位は除籍処分という話だからな」
「それは僕以外も同じだろう。何故僕だけ心配するのかを聞いてるんだぜ」
「そ、それは君が一番付き合いが長いからだ」
「付き合い? 僕と君は付き合ってないけど」
「そういう意味じゃない!」
またしても赤面する飯田。そういう初心な反応をするからますます揶揄われるのだと気づくのは何時になるのだろうか。
あと早朝の教室の時とは違い、このやり取りは他のクラスメイトにも聞かれている。
特に女子生徒達から視線を集めていた。硬派な方だと思っていましたけど意外とそうでもないのでしょうか、東京はお盛んなんやね、などなど。あと葡萄頭の少年は嫉妬に駆られている。
「さて。とは言ったものの、僕はどうしようかな」
安心院は少し考える。
『個性を作る個性』――ということになっている、彼女が持つおよそ一京のスキル。
まさか一京の個性を持っていると申告するわけにもいかないので偽ったわけだが、何も考えずに一京のスキルを使いまくれば
「位置について、ヨーイ――」
「よく考えたら考えるのも面倒臭ぇな」
スターターピストルの発砲。
「0秒13」
誰もが目を疑った。スタート地点にいた安心院が、文字通り瞬きの間にゴールへ移動していたのだから。
「高速移動、いやもう
赤い髪の男子、切島鋭児郎の言葉は表面上は間違っていない。ただ、瞬間移動という狭い枠には収まらない。
安心院が持つ一京分の一のスキル、『
実際に50メートルを走ることよりも、脚力強化や高速移動など何のスキルを使うか迷うことの方が煩わしい。汎用性が高く使用率の高いスキルで解決するなら、これに頼らない理由はない。
「瞬間移動の個性だったのか。俺を超える記録を出すとは思わなかったぞ」
「個性把握テストのレギュレーションは知らないけど、フライングを食らうことを恐れてしまったぜ」
陸上競技において、0.1秒未満でスタートした場合はフライングになる。これは医学的な人体の反射速度の限界に基づいている。
「十分ギリギリを攻めていたと思うが……?」
「まさか。コンマ13秒もオーバーしてる」
「?」
微妙に噛み合わない会話。
飯田は理論上の反射速度ギリギリの0.1秒を目指したかったのだと受け取ったが、安心院の意味するところは違う。
論点は、個性を用いた場合も同じルールになるのか、ということ。それこそ反射神経の個性があればこのルールは前提から破綻する。今回は特に説明もされなかったので従来のルールに則って0.1秒を攻めたが、このルールの撤廃が明示されていれば0秒00を攻めるつもりでいた。
反射速度の限界によってできるできない云々はそもそも安心院の考慮に入っていない。そこが二人の認識の齟齬を生んでいた。
かくして劇的な記録を残した安心院であったが、第二種目握力テストでは28Kgと大人しかった。続く第三種目立ち幅跳びでは『
そして第五種目ボール投げ。
建物の影から、生徒達を見守る者がいた。
ナンバーワンヒーロー、オールマイトである。
見込みなしの生徒達を多数除籍処分してきた相澤が1年A組の担任と知って、緑谷が心配でこっそり見に来たのだが……実の所、彼がここにいるのはそれだけが理由ではない。
彼の視線の先にいるのは、安心院なじみ。
オールマイトは頬を伝う汗を拭う。その手が力んでいたことに気付いて、なるべく音を殺して息を整える。知らず知らずのうちに、全身の筋肉が緊張していた。
それもこれも、安心院の個性が原因である。
個性の複数持ち。嫌でも連想せざるを得ない、オールフォーワンを。
「(まさか、健在なのか。再び動き出したのか、あの男が)」
書類上では『個性を作る個性』となっているが、それもどこまで本当か分からない。
オールマイト含め雄英教師達が、オールフォーワンが送り込んできたスパイと疑うのも当然の帰結だった。
「(私が雄英高校の教師となることをどこかから知って、ワンフォーオールの継承者を選ぶ頃合いだと察したのか……!?)」
最悪の可能性がオールマイトの頭に浮かぶ。もしそうなら、彼女の役割は緑谷出久が継承者であることを暴くこと。更には、緑谷を誘拐できるよう中から手引きすることも。
「(しかし雄英に自身の手駒を潜入させるのが目的なら、こうもあからさまにするだろうか)」
オールフォーワンによって複数の個性を与えられた少女を潜入させる。なるほど生徒を内偵とするのは良いアイデアだ。だが何らかの方法で書類を偽装したのなら、そもそも『個性を作る個性』などという複数個性を扱うことを誇示する設定にするのは辻褄が合わない。
彼女がオールフォーワンとは無関係である可能性も十分残っている。
「(いかんな、つい疑いの目を向けてしまう)」
オールマイトとしても、罪なき少女を疑いたくはなかった。オールフォーワンの手先だと確証を得られるまでは普通の生徒と同列に接する。彼の進言と校長の意向によって決定した安心院の取り扱いだ。
言い出しっぺの自分がこれでどうする、とオールマイトは自責する。
そして安心院に注意を向けるのは、オールマイトだけではない。
「(安心院なじみ、『個性を作る個性』だったか。入試の成績、本気を出せばもっと稼げた筈だが……)」
1年A組担任、相澤消太は安心院の背中を睨む。
入試成績はヴィランポイント61。レスキューポイント3。文句なしの合格である。機械を操る個性を効率的に使えばほぼ全ての仮想ヴィランを独り占めすることも不可能ではなかった。明らかに手を抜いている。真の実力を隠すのがますます怪しい。だが隠していることを隠そうともしないのが逆に怪しくない。
ちなみに、たとえ0点だったとしても彼女は合格する手筈になっていた。学校側がそのような特例……いや言葉を濁さず言おう。不正を仕組むことなど本来あってはならない。彼女の個性を知った公安が、オールフォーワンの手先であるならいっそ雄英で監視対象とするのが最善と考え、圧力をかけてきたためだ。
結果として不正なしの合格にはなったのだが……手違いがあったのか、1年A組の生徒が21人になってしまったのはそのせいである。
「(担任として普通に接しつつも、こいつを見張る。それが俺に与えられた任務だ)」
安心院のボール投げの記録、14メートル。はたして手を抜いているのかどうか、相澤には判断できない。
今は泳がしておこう、と相澤は安心院へ向けていた注意を解く。
必然、その視線は現在圧倒的最下位の生徒、緑谷へと向かう。
「緑谷君は、このままだと不味いぞ」
「ああ? たりめぇだ、無個性の雑魚だぞ」
「なっ、無個性!? 彼が入試時に何を為したか知らんのか」
必要以上に緑谷に辛辣な爆轟と、飯田が話しているのを傍らで聞く安心院。
「
その緑谷の記録、46メートル。気合十分、思い切り力んで投げられたボールがポテンと落ちる音は虚しい。
「今確かに個性を使おうって……」
「個性を消した」
相澤の眼が赤く光る。
「あのゴーグル……そうか! 見ただけで人の個性を抹消する個性。抹消ヒーロー、イレイザーヘッド!」
緑谷は相澤の正体に気付いたが他の生徒達には心当たりが無いようで、その素性について憶測が飛び交う。
後がない2投目。爆豪の予想に反して、高射砲もかくやというスピードで放たれたボールは、天高く飛んで行った。予想を超えてきた緑谷を少しは見直したのか、相澤の瞳孔が開く。陰から見守るオールマイトも不安げな表情が一転、笑顔で感激していた。これまで一度も個性を見せなかった緑谷の初の個性使用に、生徒達はどよめく。
そして。
「流石に露骨すぎるぜ」
他の生徒達から一歩引いた所で、安心院は呟いた。