由比ヶ浜のいない部室は静かだった。雪ノ下がいつものように文庫本ではなく珍しく雑誌を捲る音がするのみで、部室は環境音以外、耳に入る音はない。
ポットに入れた湯が沸いたので、インスタントコーヒーの粉末をカップに入れ、そこに湯を注ぐ。マドラーでコーヒーを混ぜながら席に着いても、俺たちの間に会話はない。
こうした沈黙が流れ続けるのは随分と久々だった。由比ヶ浜が来なくなったのは精々一週間程度だが、それがやけに違和感を覚える程度には俺も雪ノ下も比企谷ですら奉仕部の騒がしさに慣れ切っていたようだ。
由比ヶ浜が来るのかと、雪ノ下は先程までチラチラと部室の扉を見ていたし、比企谷も現在進行形でボケーッと扉を見つめていた。
「由比ヶ浜さんなら今日は来ないわよ。今メールが来たわ」
携帯を見ながら雪ノ下はそう呟く、その声色には少しばかりの落胆の念が篭っているように聞こえる。
「そ、そっか……べ、別に由比ヶ浜のことなんて気にしてないんだからね!」
「気色悪いな。なんだ?ツンデレ、というやつか?お前にそんな需要があるとでも?」
「いや、そこまで言わなくてもいいだろ……それにちょっとくらい需要あるかもしれないだろ」
「微生物にすら需要はなさそうだがなあ……」
俺たちのやり取りを他所に雪ノ下はひっそりとため息を吐く。
「由比ヶ浜さん、もう来ないつもりかしら」
「どうだろうな。本人には聞いたのか?」
「聞くまでもないわ。私が聞いたらあの子は行くってきっと答えるもの。たとえ来たくなくても……たぶん、来るわ」
「確かに……由比ヶ浜はそういう女だったな」
由比ヶ浜結衣とはそういう女だ。無理して他人に合わせようとする性格、それは優しさというよりかは他人からの失望を恐れるもの。だからこそ人の顔色を窺う。奉仕部に入ったことによりその性質も改善されつつはあるが、三つ子の魂百までとも言う、まあそう簡単には消えない性質だろう。
そして何より、きっと彼女は雪ノ下が悲しむ顔を見たがらない筈だ。だからこそ、無理してでも奉仕部にやってくる。
雪ノ下は奉仕部の中で由比ヶ浜と一番関わりがあるだけあってかその性質をよく理解している。
寧ろそれを理解できていないのは俺から見て左にいるこの男かもしれない、なんて思い比企谷の方を見る。図らずもそれは雪ノ下も同じだった。
「な、なんでしょうか」
「あなた、由比ヶ浜さんと何かあったの?」
「いや、何も」
即答だった。
「何もなかったら、由比ヶ浜さんは来なくなったりしないと思うけれど。喧嘩でもしたの?」
「いや、してない、と思うが」
いつもだったら屁理屈の一つや二つは出るであろう比企谷が珍しく言葉に詰まる。どうやら本当に何かあったらしい。
比企谷のこの様子にも驚きだが、雪ノ下がわざわざこうして質問するのも驚きだった。雪ノ下はあまり個人の事情に深入りしないタイプかと思ったが、親しい人間が関係しているとなるとそうでもないのだろう。それを見なかったのは単に彼女に親しい人間がいなかったからだ。
しかし喧嘩か、比企谷の反応を見るとどうも違うような気もする。喧嘩なら比企谷が多少なりとも悪感情を持っているものだが、そういったものは見受けられない。
「そうやって言葉に詰まるということは、何かあるのは間違いないようだが。確かに喧嘩というわけじゃないようだな」
「……そうだな、別に喧嘩してるとかじゃない。どっちかっつーと……」
「ふむ……そうだな、諍い……いや、すれ違いあたりか?」
「それだ。それが一番しっくりくる」
すれ違いか。由比ヶ浜と比企谷の間で何をどうすれ違ったのか。判断材料が少ない。なにぶん俺たちはお互いのプライベートまで探りを入れることはない。俺はちょっとした予想なら立てることはあるが、あくまでその程度で実際に質問するなんてことはない。それはきっと雪ノ下も同じだろう。
「そう、なら仕方ないわね」
雪ノ下は諦めたかのように小さく溜息をつき、それ以上比企谷に対して何か問うことはなく、再び静寂が部室を包む。
しかし、由比ヶ浜の比企谷への態度を見るに何かしらの因縁というか、繋がりはありそうなものだが。彼女のような少女が比企谷のような男をただ同じクラスメイト、と言うだけでここまで気にかけるとは到底思えない。
比企谷はいつだったか、由比ヶ浜の事を優しいと言っていた。それは確かに真実だ。しかしその優しさにだって強弱はあり、向ける対象がある。実際、雪ノ下や比企谷に対して由比ヶ浜は壁がほぼないが、俺に対してはある。未だに苗字呼びだからな。とはいえあのネーミングセンスであだ名をつけられたいとは思わないが。
もしかしたらその認識の違いが、何か比企谷と由比ヶ浜の間ですれ違う要素になったのだとすれば───。
俺がさらに深い思考の沼に沈もうとするタイミングで雪ノ下が口を開く。
「今日はもう、終わりにしましょうか」
その声色は弱々しく、諦観を帯びたものだった。
「……いいのか?依頼人、来るかもしれないぞ」
「……田島くん、平塚先生からは何か聞いているかしら」
「あ?そこでなぜ俺が出るのかは知らんが……特に何も、ない、筈だ……恐らく」
正直平塚先生との会話はあまり真面目に聞いていな事の方が多い。いや勿論彼女が時折重要な事を言っているのは分かるのだが、それ以外がアニメやら漫画やらゲームやらのネタでよく分からないのだ。なので、少しばかり記憶に自信がない。
「……あなた、自信や気力、プライドがないだけじゃなくて、記憶力までないの?ないない尽くしもここまでくると病気よ。一度信頼出来る病院に掛かることをオススメするわ」
「水を得た魚のように隙を見せたら罵倒し始めるのはやめろ。先程までのしおらしい雰囲気はどこにいったんだ?全く……仕方がないだろう、話の内八割はネタが古いのか知らんが、理解できん話ばかりだ」
「あー、ちょっとわかるわ。だから先生結婚できないんだよって───」
「ほう?誰がなんだって?」
乱雑に扉が開けられる。それと同時に比企谷のヒュっと小さく息を飲む音が聞こえた。
「先生、ノックを……」
「いや何、私も顧問だからね、由比ヶ浜の様子を見ることも兼ねて来てみたのだが、随分面白い話をしているじゃないか比企谷。それで、誰が、結婚できない、だって?」
「ひ、ひや、平塚先生とは一言も言っていないし、大体それで先生が自分だと思ったならそれは先生自身自覚してることで、い、いや、ぼ、暴力反対!」
「チェエエエストオオオオ!」
自分から墓穴を掘りに行く辺り阿呆だ。比企谷の汚い呻き声を聴きながら啜るコーヒーは格別だった。他人の不幸は蜜の味。全く、格言だな。
◇
「君たちは月曜日までにもう一人、やる気と意志を持った者を確保して人員補充したまえ」
そして当初の予定通り今日の部活はここまで、と俺たちは平塚先生によって部室から追い出された。人員補充、ね。平塚先生もなかなかどうして無茶を言ってくる。この三人の交友関係など高々知れているだろうに。
鞄を背負い直していると、雪ノ下が去ろうとする平塚先生に声をかける。
「平塚先生。一つ確認しますが『人員補充』をすればいいんですよね?」
「その通りだよ、雪ノ下」
そう、ただ一言だけ返答し平塚先生は去っていく。そんな彼女の背中を一瞥して、俺は二人のほうへと顔を向ける。
「しかし人員補充と言ってもどうする?生憎と俺には心当たりなんかないぞ」
「あなたに期待なんかしてないわよ。でも、入ってくれそうな人に心当たりならあるわ」
「誰?戸塚?戸塚か。戸塚だよな?」
「あいつはテニス部だろうが」
戸塚であれば頼めば入ってくれるかもしれないが、望みは薄いだろう。何せ彼はテニス部の発展に尽力している。最近だと彼の頑張りに感化されてテニス部全体が積極的に練習などを行うようになったらしい。そんな彼をこちらに引き抜くのはさすがに忍びない。
「もっと簡単な方法があるでしょう?」
「簡単って……どんな?」
「わからない?由比ヶ浜さんのことよ」
「……なるほどな」
確かにそれなら簡単だ。
由比ヶ浜を説得することが出来るのであれば、の話だが。とはいえそれも難しい話ではないのかもしれない。隣でアホ面を見せている比企谷次第にはなるだろうが。
「は?や、だってやめるんでそ?」
雪ノ下は肩にかかった髪を払い、比企谷を見る。その瞳には確かな決意が込もっている。先程までの弱々しい彼女は、もうそこにはいなかった。
「だったらなに?もう一度入り直せばいいでしょう。平塚先生は人員の補充さえ出来ればいいと言っていわけだし」
「まぁ、そうかもしれんけど……」
「それに……つい最近気づいたのだけれど、私はこの二ヶ月間をそれなりに気に入っているのよ」
俺と比企谷が思わず顔を見合わせ、その後同時に雪ノ下を見る。まさか雪ノ下からこんな言葉が飛び出すとは思わなかった。
雪ノ下も変わりつつある、ということだろうか。そんな俺たちの視線に気づいたのか顔赤らめて、咳払いをする。
「とにかく、由比ヶ浜さんが戻ってくる方法を考えておくから。だから、比企谷くんは変な顔をしないでちょうだい」
「いや別に変な顔はしてねぇよ」
「してたわよ」
「してねぇよ」
「なぁ?」「ねぇ?」
「……俺に振るな」
思わずため息をつく。とはいえ、雪ノ下が珍しい様子を見せてくれたのだ。俺の方でも方法を考えてやるとするか。
◇
と、意気込んでから数日。もはや週末になったのだが、未だにいい案は浮かばなかった。何しろ比企谷と由比ヶ浜のすれ違いの原因が分からない。あと一歩、というところまでは来ているとは思うのだが、そこから先が分からなかった。比企谷に聞いてみたはいいものの『別に大したことじゃねぇよ』なんて言って煙に巻いてくる。
もちろん深く追求できるにはできる。平塚先生から人員の補充を命じられている以上俺にはその権利もあるだろう。だが、なんというべきか。軽々しく踏み込むものじゃないような気がした。第六感なんて馬鹿馬鹿しい。直感なんて信じるべきではない。が、世の中には虫の知らせという言葉もある。何より、踏み込んだとて俺が二人の問題を解消できるかどうかの自信がなかった。
なので原因が分からない以上は手詰まりだった。ここで物語の主人公であれば素晴らしい閃きを見せて問題の収拾をつけるのだろうが、俺にはそんなの不可能だ。できることと言えば、どうしようもない苛立ちを習慣となっているのピアノにぶつけるぐらいだった。
「……とはいえ、感情が乱れては良い音楽は奏でられない。だろ?」
そうぽつりと、つぶやく。
つまるところ、止め時である。雪ノ下には申し訳ないが、ここら辺で俺は匙を投げるとしよう。椅子から立ち上がり、ピアノ以外は何もない部屋を出た。
コーヒーでも入れようとリビングに戻ると、スマホのバイブレーションする音が聞こえる。
画面を見れば見知った電話番号だった。
「田島ですが」
『一色です。田島さん今大丈夫ですか?大丈夫ですよね!どうせ田島さん暇ですし』
相手は一色だった。電話越しでも変わらない甘ったるい声が耳に入る。
「……一言目から随分なご挨拶だな後輩」
『やだな〜怒らないでくださいよ〜』
「それで?要件はなんだ?世間話なら切るぞ」
『あれ、なんかホントにイライラしてます?』
「そう思うならそうなんじゃないか」
『あ、分かりました言いますから切らないでください!』
通話終了ボタンに指をかけようとしたら一色が焦ったように引き止めてきた。察しのいいやつだ。
『それで田島さん、明日なんですがお暇ですか?』
「明日?まあ、暇だな」
『それなら、デートに行きましょう!』
甘ったるい声で、一色は俺にそう告げたのだった。
次回こそデート回
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雪ノ下
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一色いろは
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松山千佳子
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材木座義輝
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戸部翔