この黒が心を落ち着けてくれる
あれから奉仕部として、この一週間ほど放課後を過ごすことになったが、驚く程に部活動としてやることはなかった。
何しろろくに依頼というものが来ないのだ。
しかしそれも当然のことだろう。『奉仕部』等という怪しい部活に、誰が好き好んで自分の悩み事や困り事を相談しに来るのだろうか。余程の好き者か阿呆じゃない限りは相談しようとすら思わないだろう。
そもそも、この部活、公式のものかどうかも疑わしい。部活動とはそんな簡単に設立できるものなのだろうか。平塚先生の独断でやっている部活の可能性も高いだろうな。
とはいえ仮にも部と銘打っている以上、放課後は部室で過ごさなければならない。しかし前述の通り暇なので、読書ぐらいしかやることもない。全くもって無駄な日々を過ごしていると言っていい。なのだが、部員になった以上は行かねばならない。
渋々ながらも俺は教室を出て特別棟を目指した。
教室棟の外れ、特別棟にある元空き教室である我が奉仕部は相も変わらずそこまで行くのに少し時間がかかる。およそ人の喧騒というものが聞こえなくなり、己の足音だけが廊下に響き始めたところで、部室の扉が目に入ってくる。
立地としては中々どうして静かで悪くはないのだが、静かさを求めるならば街の雰囲気の良い喫茶店でも行けばいい。
部室にそれを求めること自体が見当違いというものだろう。
部室の戸を開けると、相変わらず乱雑に積み上げられた机や椅子が目に映る。
せっかく部活動として始まったのだから、内装ぐらい多少はらしくしようということで導入した折りたたみの長机ではこの部室の主雪ノ下雪乃が、相変わらずの無愛想で読書に勤しんでいた。
「こんにちは」
「ああ……こんにちは」
彼女の挨拶に対して、本当はもっと適当に返してやりたいのだが、以前『ああ……』だけで済ませたら手酷く罵詈雑言を飛ばされた。
やれ『ヒトの形をしているだけで文化レベルは猿以下』だの『挨拶という高度な文化は類人猿未満のあなたには不可能だったかしら』だの『知的なコミュニケーションをこれから一緒に学んでいきましょうね』だのよくもまあそこまでの罵倒のバリエーションが出てくる。確か最終的にはプランクトンまで格下げされたはずだ。
ただ罵られるだけなら全くもって問題ないのだが、哀れみを持たれ始めたあたりからさすがの俺も折れた。普通に辛かった。
嘆息したあと鞄を置いて、一度席から離れる。
「お前も飲むか?」
「いいえ、いらないわ」
「そうか」
一応雪ノ下に確認したあと、インスタントコーヒーの蓋を開ける。
以前部室に来た時にコーヒー缶をたかだか三本程度飲み干したぐらいで雪ノ下に文句を言われた時があった。その時にそんなに飲みたいのなら、缶コーヒーはゴミになるから自分で作れ、と妙に憤慨しながら言われたのでそれ以来自分でこうして作っている。
とはいえ雪ノ下の言う事にも一理あった。確かにその手があったか、と俺自身もそう思ったものだ。なのでとりあえずポットとインスタントコーヒー、それとマグカップは自分で持ってきた。雪ノ下が何やら頭に手を当てて唸っていたが、気にすることではないだろう。
今回持ってきたインスタントコーヒーは深煎りかつフリーズドライ製法のものだ。
コーヒーというのは時間が経つ事に不味くなる。本来のコクや旨み、苦味だけではなく、あとから出てくる酸味すらも全て劣化していくのだ。それもあって基本的にコーヒーは挽きたてかつ入れたてが一番美味い。しかしながら誰しもがいつでもそんな状態のコーヒーを飲むだけの余裕と設備があるわけじゃない。
そんな悩みを解決しようと偉大なる先人たちが多くの試行錯誤を重ねて生みだしたのが、このフリーズドライ製法というもの。一瞬で凍らせたコーヒー液を砕き乾燥させたもので、味や香りが出来うる限り再現されている。なので少し値段が張るのだが、不味いコーヒーを飲むよりはマシだ。もちろん出来たてのコーヒー程は美味くない。とはいえ缶コーヒーを馬鹿みたいに毎日買って飲むよりは余程健全と言えよう。
「……本当に好きなのね」
「中毒だからな」
雪ノ下が呆れるようにこちらを見てくるが無視だ無視。いずれは本格的なドリッパーやサーバー等を持ってこようと考えている。その時の雪ノ下の反応が楽しみだ。
「ああ、そうだ雪ノ下。お前、平塚先生からあの話を聞いているか?」
コーヒーを飲み、ようやく一息ついたところで雪ノ下に話をもちかける。
雪ノ下は文庫本から顔を上げ、不思議そうにこちらを見る。
「聞いているって、何を?」
「いや、俺自身もよく分かってはいないが……なんでも入部希望者がいるそうだ」
「いいえ、聞いた事ないわね。なんて言われたの?」
「今朝のことだ」
◇
今朝いつも通り登校した俺に、偶然廊下で顔を合わせた平塚先生が話しかけてきたのだ。
『やあ、おはよう。相変わらず早いな』
『早起きが趣味みたいなところがありますから』
『うむ、それは良い事だ。そういえば近々入部希望者を連れていくからよろしく頼んだ』
『は?』
その後平塚先生は言うだけ言って、白衣を翻し去っていた。
◇
「相変わらず勝手ね……」
「それには同意しよう」
雪ノ下はそう言うと文庫本に再び目を落とす。俺もコーヒーに口をつける。俺と雪ノ下の関係性はこの程度のもので、奉仕部に入部したあの時から毛ほども進展していない。会話も罵詈雑言が飛び交う時以外は、二言三言程度で終わる。それで言うと今回はまだ長く続いた方だ。
副部長、部長。普通であれば多少は仲良くなるものなのだろうが、俺と雪ノ下にかかればこんなものだ。とはいえ男女の関係性の現実という点で見ればこれほど的確に表しているものは無い。とかく男子高校生というものは夢見がちだが、やはり理想は理想なのだ。小説のような出会いなどは起こりえない。
いや、そう断じてしまうのは早計か。事実は小説よりも奇なりとも言う。何より自分自身がよく知っている。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
「……そう」
思わず込み上げた気持ち悪さを消すために、コーヒーに口をつける。少し冷めてしまって温いコーヒーはすこぶるにマズイが、今の自分にはこれぐらいがちょうど良かった。
窓からは夕陽が差し込み、心地の良い風が吹き込みカーテンを揺らす。あと一時間もすれば部活も終了だろう。
コーヒーの味に顔を顰めながら一気に飲み干すと同時に、からりと部室の戸が開いた。
そちらを向けば、平塚先生とまるで死んだ魚のような目をした、一言で言うなれば腐った目をした男が立っていた。彼は何を見ているのかは分からないが、主に視線を雪ノ下の方に向け固まっている。ボーッとまるで何かに見とれるように彼は立っていた。
「平塚先生。入る時はノックを、とお願いしたはずですが」
「ノックをしても君は返事をした試しがないじゃないか」
「それは先生がぼくたちが返事をする前に入って来るからでしょう」
思わず俺も不満を漏らす。この平塚静という女性はなんというかガサツだ。ノックをすると同時に扉を開けるのでノックの意味を成していない。そのせいで不満を貯める雪ノ下が俺に八つ当たりをしてくるのだ。『あなたの時もそうだったわ』だとかなんとか。鬱陶しいからやめて欲しい。どちらも。
「それで、そのぬぼーっとした人は?」
雪ノ下の罵倒の応酬を思い出して辟易としていると、彼女の冷たいその瞳が平塚先生が連れてきた男子生徒へと向く。その瞳を避けるように男子生徒はすこしばかり傷ついた、そんな表情をしながら斜め上の方を見ていた。
「田島から聞いていないか?」
「一応は聞いていますが、あまり詳しくは知りません」
「彼は比企谷。入部希望者だ」
平塚先生に促されるように、比企谷と呼ばれた男は会釈をし、自己紹介を始めた。
「二年F組比企谷八幡です。えーっと、おい。入部ってなんだよ」
彼は驚いたような釈然としないような。そんな顔でそう言うのだった。彼も、俺と同じ境遇な気がしてきたな。哀れだが諦めろ、平塚先生が入部希望と言ったらもうそれは決定事項なのだ。
俺は比企谷八幡に憐憫の念を送りながら、彼の為にせめてコーヒー位は入れてやろうと思うのだった。
私はコーヒーのブラックが飲めないにわかです。
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戸部翔