青春ラブコメ憂鬱譚   作:FAN男

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人は変われると君は笑って言った。
人が変わるのは簡単な事だと、君は笑って言った。
だから、私の事なんて忘れてねと、君は笑っていった。


二十話 或る夜の話

 月明かりが小川に反射して、水面が夜空の星のように煌めく。穏やかな川のせせらぎ、時折聞こえる虫の声が、耳に心地よい。

 林間学校一日目の夜、誰もが寝静まったこの時間。

 静謐が支配するこの小川のほとりで今、俺は鶴見留美と邂逅を果たした。

 こんなところに人がいるとは思わなかったのだろう、彼女は驚いた顔した後踵を返そうとする。

 

「まあ、待て。別に取って食おうというわけじゃない」

 

 俺はその背中に声をかけた。別にこれで足を停めなくても、止めてもいい。少なくとも、俺にとってはどちらでも良かった。

 それでも声を掛けたのは、奉仕部としての責任か、あるいは単なる気まぐれか。それともまた別の理由なのか。声を掛けたのは俺のはずだと言うのに、その理由すら分からなかった。

 ただ今わかるのは、この縁を逃してはいけない。そんな予感だけだ。

 俺の声に鶴見は足を止める。そうして少しの怯えと、困惑を込めた顔をしながらこちらへと振り向いた。

 

「何?」

 

 俺にその感情を気取られないように、素っ気ない素振りをしながら、鶴見は要件を問う。

 

「一期一会。こんな言葉を知っているか?」

「……知ってる。一生で一度の出会いって意味でしょ」

「その通り。元々は茶道の心得の用語になる。どんな茶会であれ、一生に一度のものだと心得て、誠意を尽くすべきという考えさ」

 

 鶴見は俺の言葉に対し、不思議そうな顔をしながら、しかし興味を持ったのか少しだけ距離を近づける。

 掴みは上々、後は釣り上げるだけだ。

 

「それが、何?」

「つまり俺たちのこの出会いも、一生に一度のものかもしれないということだ。故に、……だから鶴見留美」

「……」

「少し、話でもしようじゃないか」

 

 一瞬の逡巡。

 俺は喋ることなく彼女の言葉を待つ。数秒も経たないうちに彼女は俺の目を見て、口を開いた。

 

「知らない人とは喋っちゃいけないって言われてるから」

「うん?比企谷達とは喋ったのだろう?」

「……八幡の知り合いなの?」

「ああ……そうか、今は帽子を被ってないんだったな」

 

 暑いのと、あまり目立ちたくないのもあって、林間学校中は基本的にキャップを被っていたのだ。それもかなり目深く。

 そりゃあ俺の顔を見てもピンと来ないのも仕方がないだろう。

 

「なら自己紹介だ。俺は田島実、比企谷と同じように、ここに君たちの手伝いとしてやってきた、まあ……ただのしがない高校生だよ」

 

 そうして俺はニヤリと笑うのだ。

 

 

 予め焙煎されたコーヒー豆を、コーヒーミルの中に入れて、ハンドルを回してゴリゴリと挽く。

 焙煎はハイローストで、挽き方は中細挽きだ。中細挽きとは一般的な挽き方で、苦味と酸味がどちらも普通程度に味わえる挽き方となっている。

 その隣ではバーナーの上にケトルを置いて、温度計を付け湯を沸かしておく。

 

「何やってるの?」

「コーヒーを淹れるんだ。その為に今は豆を挽いて……要するに細かく砕いている」

「ふーん……」

 

 鶴見留美は結局戻っても眠れなさそうだから、眠くなるまではここにいると、言って今は俺の隣で体育座りをしている。

 もう一つ、ベンチがあれば良かったのだが……さすがにこうなるのは想定していなかった故に彼女には我慢して欲しい。勿論譲るなんて思考は毛頭なかった。

 

「普段コーヒーは飲むのか?」

「お父さんが飲んでるのは見た事ある。でも、粉にお湯かけるだけのやつだった」

「なるほどな」

 

 挽き終えたら、ドリップホルダーにペーパードリッパーをセットし、チタンマグの上に載せる。

 ミルの中のコーヒー粉はまだ出さず、お湯が湧くのを少しの間待つ。

 

「それで、鶴見、お前はどうしてここに?小学生の就寝時間はとっくにすぎているぞ」

「……早めに寝たせいで、目が覚めたの」

「そうして目が冴えて眠れなかったからここに来た、というわけか」

 

 ニヤリと笑ってそう言うと、鶴見はバツが悪そうに目を逸らした。

 

「別に責めてるわけじゃない。俺とてこうして、皆が寝る中抜け出して、コーヒーを淹れているわけだからな!」

 

 からからと笑う俺を、鶴見はじっと見つめる。そう見てもコーヒーはすぐに出来上がらないぞ。

 ケトルに突っ込んだ温度計はまだ目標の数値ではない。普通のやかんにいれて沸騰を待つだけの時のように、ポーっと音が鳴るならば、判別もつきやすいのだが、そうもいかない。そこが面白くはあるのだが。

 

「……(みのる)はさ」

「……なんだ?いきなり呼び捨てか?礼儀のなってないヤツめ。俺の事を呼ぶ時は親しみを込めてさんをつけて呼ぶがいい」

「めんどくさ……」

 

 面倒臭くて結構。ガキのうちに敬称を使う事ぐらいは覚えておいて損はない。

 鶴見は一度地面を見たあと、かったるそうに重いため息を吐き、その後ゆっくりと顔を上げる。

 

「実……さん、はさ」

「なんだ」

「どうして一人でいるの?」

 

 その質問の意図はなんだろうか。俺が一人でいる事、それは今現在一人でいる事か。それとも、俺のスタンスについて言及しているのか。

 それについて問おうかとも思ったが、鶴見がなにか言葉を続けようと口を動かすので、俺はそれを待つ。

 

「こういうのって、友達とする事じゃないの?」

「ああ……そういうことか」

 

 鶴見はそう聞いてから、バーナーの火を見つめる。

 確かに俺がやっているようなことは、小学生からすれば大人数でやるのかもしれない。俺はそうではなかったが、友人の家族と一緒にキャンプをするという家庭もあるそうだ。

 

「それは偏見というものだ……偏見は分かるか?」

「えっと……」

「言い換えると、お前のその考えはちょっとした思い込みだということだよ。世の中にはソロキャンパーという、一人でキャンプを楽しむ人種もいるそうだ」

「そうなんだ」

 

 鶴見は納得したような、していないような顔で、また所在なく視線をうろちょろとさせた。

 さて、今の問いかけを含めて考えると、最初の質問の意図が見えてくる。

 

「つまり、俺が何を思って一人でいるのかを聞きたいわけだな」

「そう……かも?なんか、良く話しかけてきた男の人と、それと八幡達とも違う気がして」

「その質問には、そうだな……」

 

 葉山とも、比企谷達とも違うか。

 確かに俺は望んで一人でいる人間だ。だが、決して常に一人ではない。俺には一色がいるからな。あいつは友達と言うのにはなんというか、関係性がかなり特殊なのだが。

 だから俺ではこの子に寄り添えない。そもそも俺はこの子のように孤立させられたわけではない。自分の事で精一杯で周りに目を向けている余裕がなかったから、俺は小学生の時に一人になったのだ。

 鶴見はもしかしたら寄り添って欲しいのかもしれない。誰かに理解して欲しいのかもしれない。彼女自身の想いを。

 鶴見の求める答えは俺では出せない。ならばありのままを伝えるしかない。

 

「俺は望んで一人でいる人間だ。お前が話した比企谷や雪ノ下とはまた違ったタイプの人間になる」

「そう、なんだ……」

「だからお前の望んでいることはきっとできないだろう」

 

 比企谷達と彼女がどんな会話をしたのかは俺は詳しく聞けていない。雪ノ下にあんな噛みつき方をしてしまったからな。少し、ほんの少しだけだが気まずかった。

 だからこれは俺なりに、彼女を知る為の機会。彼女を理解する為の時間。そして、俺のできることを見つけるチャンス。

 ならば俺は誠意を持って彼女に尽くすだけだ。

 

「さて、少し待ってもらえるだろうか」

「……?うん」

 

 ケトルの中のお湯がいい感じ温まったのが分かったので、俺はバーナーの火を止める。

 その後ペーパーをドリッパーにセットして、バーナーの上に乗せお湯を注ぐ。

 

「……コーヒー入れないの?」

「これはドリッパー、これからコーヒーをセットする容器を温めるんだ。途中で冷めてしまうと味がかなり落ちるからな」

「へー……」

 

 温めたら、先程挽いたコーヒー豆を入れていく。入れ終えたらドリッパーを揺すって、表面を真っ直ぐ平坦にしておくのだ。

 そうしたら、スマホで時間を測りつつ、ゆっくりと真ん中から円を描くようにお湯を注いでいく。お湯を注ぐ際は、三回に分けてやるといい。一回目には蒸らしという工程も含まれている。蒸らしは全体が均一に濡れるようにすると良いぞ。

 

「お湯は時間、重さ、温度。そのどれかが欠けただけコーヒーは不味くなる。コーヒーというのは繊細な飲み物なんだ」

「…へー」

 

 今度は随分と興味なさげな返事が戻ってくる。

 コイツ、と思いつつ俺はお湯を注ぎ切る。後はコーヒーがポッドに落ちるのを待つだけだ。

 

「もう終わり?」

「ああ」

「意外とあっさりなんだね」

「ここから少し時間がかかるんだ」

 

 ふーん、と彼女は気の抜けた返事をして、ドリッパーから落ちるコーヒーを眺めている。

 

「これはドリップ式と言って、豆からコーヒーをお湯の重さと重力によって抽出する方法だ。だからこうしてコーヒーが落ちていく」

「……難しいね、コーヒー」

「そこがいいんだろ」

 

 理解できないような顔するが、直ぐに鶴見はコーヒーを眺めるのに戻った。

 しばらくしてコーヒーが落ち切る、前に俺はドリッパーを外す。ドリッパーの中からペーパーと、コーヒ豆を持ってきたゴミ袋の中へと入れておく。

 本当は全部ここで洗いたいが、それは無理そうなので明日の自由時間に洗ってしまおう。

 

「俺がマグカップを二つ持って来る男で良かったな」

 

 以前外で飲む機会があった時に、マグカップが一つしかないのに台無しになったことがある。それ以来、俺は外でコーヒーを飲むことになった時にはこうして二つ持っていくのだ。

 中学生の時だったかな。少し、懐かしく思って、また一つ、憂鬱になる。

 俺はポットの中に入った、コーヒーをマグに注ぐ。少し少ないが、それでも二人分程度の量だった。それに鶴見は小学生なのだし、そもそも飲めるかも分からない。これくらいで良いだろう。

 

「そら、目が冴えるぞ。飲むがいい」

 

 俺は鶴見にコーヒーの入ったマグを差し出す。

 

「私、眠くなる為にここにいるんだけど」

「……まあ、良いじゃないか」

 

 彼女は俺が差し出したカップを受け取り、その後ジッと中身を眺める。

 そんなに覗いたところで、コーヒーはきっと何も映さないだろう。コーヒーの黒は何者も映さない黒なのだから。

 

「コーヒー、あんまり好きじゃないんだよね。前飲んだ時苦かったし」

「インスタントか?それとも缶コーヒーか?」

「缶コーヒー」

「なら世界が変わるぞ。飲んでみるがいい。男も女も、最終的には度胸だよ」

 

 度胸を決めたから、俺もこうして鶴見を呼び止めたのだと思う。たとえ無力でも、俺なりにできることがあるのではないかと、探す為に。多分、そうだ。

 鶴見は意を決したように、コーヒーに口をつける。

 その後、顔を顰めるが、しかしそれは一瞬刹那のことであり、その後はほうと息をついた。

 

「苦い」

「だろうな」

「でも……嫌いじゃない、かも。なんか、飲みやすい?のかな。缶コーヒーの時とは違う感じがする」

「ほ、ほう……なるほど。ブラックでも行けるとは、なるほど。お前……さては見所があるな?」

「なにそれ、意味わかんないし」

 

 その後も彼女はチビチビと小さく口元にコーヒーに運び、ゆっくりと飲む。しかし先程のような抵抗感は見られない。それを見て、俺も同じようにコーヒーを啜った。

 うん、美味い。我ながらコーヒーを淹れるのはいい腕をしていると、少しだけ自負したい。

 

「……さて、こうしてコーヒーを飲んだことで、一つ世界が広がったな」

「どういうこと?」

「コーヒーは美味いということを、知れたということだ。それを知ることが出来たぶん、お前の世界は少し広がった」

「……よく分かんないんだけど」

「なら考えろ」

 

 たとえ今分からなくても、それがいつか分かる時がくる。あるいは、役に立つ時が。

 そして知識を得るということは、自身の中の世界を広げることに他ならない。そして自分の中の世界が広がるということは、見える世界も広がるという事だ。

 学校というのは、そこで生きるものにとっては家以外の唯一の世界と言っていい。それは六年も続く小学校ならば、余計にだ。

 その狭き共同社会は、そこに生きるもの達にとって独自のルールを敷きそれを強要させる。そして、その社会が、そこが全てなのだと錯覚させる。

 少し外に目を向ければ、そこにはまた別の社会が広がり、世界が広がる。小学生にとって、本当の世界は広いはずなのだ。

 そして、そんな窮屈で、支配的で、理不尽な世界を作り上げるのは彼女たち小学生であり、そして同時に教師や親の存在もその一因を担うのだ。

 それは固定観念として彼らを縛り付け、思考を停止させる。

 それを崩すのは新しい知識であり、新しい視点なのだ。

 俺は再度コーヒーに口をつけた後、彼女の方を向かずにそっと口を開いた。 

 

「……俺はな。鶴見留美、君の今の状況を比企谷達から聞いている」

 

 それは鶴見が孤立しているという状況のみ。彼女がなぜ孤立したのか、どうしてそれに甘んじているのか。それを俺は知らない。

 

「……うん」

「だが俺には、君の現状をどうにかするだけの力はない」

「……」

「その上で聞くが、君は、今の君自身の状況をどうしたいんだ?」

 

 鶴見は俺の問いに、コーヒーを飲むのをやめる。そして両手でマグカップを持ち、その中身を見つめた。その手は、少し震えていた。

 

「わかんない……でも、何やっても変わんないでしょ?もう、どうしようもないし」

「何故、そう思う?」

「私、見捨てちゃったから。仲良くできないってわかったの。それで、また仲良くなっても、もしかしたら、またこうなるのかもって思ったら怖くなったんだ。なら、このままでもいいのかなって」

「本当に?」

「……無視されて、一番下なんだって思うのは、惨めで、嫌だけど」

 

 鶴見は嗚咽を堪えるかのように、声を震わせる。俺はそれを見て、込み上げてきたものを誤魔化すようにまたコーヒーを啜った。

 惨め、か。きっと彼女は知っている人間に無視されて、不特定多数に笑われる。そんな状況が、酷く惨めに感じるのだろう。今までいた場所から落ちて、そこにはもう手が届かないとわかってしまったから。

 最底辺にいるという気分はいいものではないだ筈だ。その実感がなければ問題ないが、今の彼女はそれを否が応でも感じてしまう。

 彼女がいる環境が故に。彼女が生きている世界が狭いが故に。

 ならばやはり俺には解決することは無理だろう。それは彼女の世界を変えることに他ならないからだ。

 そしてやはり雪ノ下達にも出来ないだろう。解決することは、だが。もしかしたら俺が思いつかない方法で状況を好転させることがあるかもしれない。解決に関してはあいつらに任せればいい。

 今、俺は俺に出来ることをやる。

 

「いじめというのは、基本的には人間だから起こるというわけじゃない。自然界においても、いじめというの当然のように起きる」

 

 鶴見は何も言わずに、またコーヒーに口をつける。

 

「人間の場合でも、自然に生きる生き物の場合でも、変わらずいじめというのは起きるんだ。だから、いじめというのはなくならない。起きないようにすることぐらいはできる可能性はあるだろうが」

 

 圧倒的な権力で支配する。常に人を監視し、なにかいじめの前兆を見つけたのならそれを罰する。あるいは極限までストレスを減らす。

 まあ色々あるだろうが、殆どは不可能なことだ。少なくとも現在の倫理観やら価値観ではほぼ不可能だといっていい。

 

「しかし君の場合は既にいじめは起きている。たとえ軽いハブだとしても、な」

「……私も、前にしてた。別に直接って訳じゃないけど」

「……ああ、聞いているよ」

 

 由比ヶ浜が、何も進まなかった議論の最中に、鶴見のいるクラスで誰かが仲間外れにされて、無視されることがよくあったそうだと言っていた。そして鶴見自身も、それをされた人間から距離を置いていたそうだ。

 だからこそ彼女はきっと、諦めている。自分自身は報いを受けているのだと。

 しかしそれでもなお惨めだと感じるのは、一重にかつて彼女も仲良くしていた子がいたからだろう。

 そんな状態で一気に、下まで落とされた。

 

「だからこそ、鶴見。君が満足するような解決方法を俺は知らない。君の取り巻く状況を、俺では変えられない。変えることはできない」

 

 今度こそ、鶴見は諦めたように下を向く。

 

「やっぱり、このまま我慢するしかないのかな」

 

 発したその声は、込み上げるものを抑えるように、しかして抑えきれていない。そこには悔しさと、悲しさと、多くのものに満ちていた。

 

「そうしていればなにかがあるかもしれないな」

「でも中学に上がっても変わらないって……雪乃さんが言ってた」

 

 アイツ何を教えているんだ全く。リアリストなのも大概にした方がいい。

 とはいえ事実だろう。中学生に上がってもその状況が良くなるかは分からない。もしかしたら良い出会いをするかもしれないし、しないかもしれない。

 

「君は、そうやって我慢し続けることはできるか?もしかしたら友達が作れるかもしれないという可能性を信じて」

「だって、するしかないじゃん。私にはどうしようもないし」

 

 鶴見は、ギュッと小さな手でマグカップを握り込む。そして口を固く結んだ。

 

「そうか。だが一人は辛いぞ。俺がそうだったからな」

「……望んで一人になったんじゃないの?」

「ああ、それよりも……もっと辛いことがあると知っているから。だから、それを知っていてもなお俺は一人になっている」

 

 一人の虚しさよりも、誰かを失う方が俺はよっぽど怖い。だから、俺は一人でいたいのだ。

 だというのに一色いろはは俺につきまとう。その上変な約束までしてしまった。いつか、彼女ともケジメをつけなければならない。

 だがそれを考えるのは後回しだ。今は目の前の、孤独な少女をどうするかだ。

 

「特に君みたいな、なまじ誰かと仲良くしていた時期があった子は余計に辛いだろうな」

「なら、どうすればいいの?我慢するのも辛くて、でも周りも変えられないなんて、無理でしょ、そんなの……」

 

 彼女の本心の叫びの言葉は、やがて弱々しいものに変わっていった。

 結局、彼女は自分の取り巻く世界から抜け出したいのだ。それが孤立するにせよ、また別の誰かがいじめられることになるにせよ。少なくとも惨めな今は脱したい。

 それに、俺が何ができるだろうか。

 俺は真っ直ぐではない。正しくはない。優しくもない。ひねくれて、いるが、あそこまで自分に正直ではない。

 多分、できることは多くないだろう。こうして未だに自分を他人を比べてる以上。

 だから変わる必要がある。俺も、そして鶴見留美も。

 

「……ならば自分を変えることならば、できるはずだ。たとえそれが周囲の人間からどう思われてもな」

「変わるって、どうやって?」

「それは考えるしかないだろうよ。自分はどう変わりたいのか、どうなりたいのか。それを知るための一歩が、これだ」

 

 俺は手に持ったマグカップを彼女に見せる。彼女はそれを見て、自分の持ったマグカップへと視線を変えた。

 

「コーヒー……」

「コーヒーが美味いと今知ることが出来た。それを知ったことでもしかしたら将来コーヒー好きの友達が出来るかもしれない」

「……なんていうか、夢見すぎでしょ」

「そうだろうな。だが、何かを知るということは、自分の可能性を広げるということだ」

 

 自分の可能性を広げるということは、世界を広げること。そして、世界が広がれば取れる選択肢も増える。変わるための足掛かりになる。いつかを変える為の、布石になる。

 彼女は変わらず視線はマグカップに向けたまま、しかしより伏し目がちにして、呟いた。

 

「……それに変わったって、周りはきっと私を馬鹿にするよ」

「そういう時は笑ってやれ。お前たちが知らないような素晴らしいことを、私は知っているのだとな!」

「それ、我慢することと何が違うの?」

「人が自身を惨めに感じるのは、自分が他人よりも下だと感じるからだ。もっと自分を高めろ、自分が何者であるかを知るんだ。そうすれば───」

「そうすれば?」

「何かが変わるかも、しれない」

 

 彼女は俺の答えにガクッと、肩を提げて、期待外れと言わんばかりに口を尖らせる。

 

「やっぱり夢見すぎ」

「ハッ、将来のことなんて誰にも分からない。所詮はたらればだ。だったら、希望を持って挑んだ方が精神的に楽だろう?」

 

 今がどれだけ幸せでも、幸せなんて容易く壊れるように、どれだけ今が不幸でも未来では幸せになれるかもしれない。そんなこと、俺たち人間では分からないのだ。

 だからこそ、今をより良くするために、未来をより良くするために、俺たち人間は生きていく必要があるのだろう。

 そんなこと知らなかった訳ではないのだが。前を向くということが、どれだけ難しいことかということを俺は散々味わっていた。

 人は過去に囚われて生きている。それはきっと逃れられることではない。

 鶴見もきっと、こうして仲間外れにされて、無視されて、笑われたという経験は彼女の心に深い傷をつける。たとえ癒えたとしても、それはどこかで疼くのだ。

 だからまた振り返る。振り返って、悲しくなって憂鬱になる。

 だから、前を向くのは難しい。

 でも彼女にとってそれは今だ。今起きている事なのだ。ならば歩いて行った先で、過去という鎖に繋がれないようにしなければならない。 

 

「……でもやっぱり変わるなんてどうすればいいか分かんない……」

「まあ、そうだろうな。難しい問題だ。俺も頭を悩ませている」

 

 そういうと彼女はハッと顔を上げる。驚きに満ちた目だった。

 変わるというのはなんだ?過去の自分を捨てるのか?それとも、周りに合わせて流されるのを変化というのか。

 そんなこと分からない。分からないからこそ俺は今もこうして、憂鬱なのだから。

 

「実さんも、変わりたいの?」

「変われたらいいと思っている。人に迷惑をかけるのはゴメンだ」

「そっか……」

 

 俺の言葉に、何かを考えるかのように彼女はもう少なくなったコーヒーへと口をつける。

 

「……惨めなのは嫌だ。私が一番下だって思うから。でも、それでもしょうがないかなって思った。また友達に裏切られるのが一番怖かったから」

「……」

「だけど、本当はまたやり直したいし、みんなと仲良くしたい……実さんと話してて何となくそう思った。前にみたいに、なんでもない話して、それで……コーヒーは美味しいって、話したいと思った」 

 

 そう言って、彼女は初めて俺の目を見た。

 何かを期待するかのような目で俺を見る。俺は一瞬目を逸らしそうになった。だってここまで焚き付けといて、未だに自信がないのだ。

 

「私、変われるかな」

「……さてな。だが、一ついい事を教えてやろう。君の前でこうして座る男は、奉仕部だとかいう、珍妙な部活に入っている男でな。その部活の内容はな。依頼をしてくれた人の悩みの解決を手伝うことだ」

「悩みの、解決」

「君は、どうしたい?鶴見留美」

 

 鶴見は何を考えるでもなく、残りの少ないコーヒーを飲み干した。

 そうして、俺の目を改めて見つめて、口を開く。

 

「依頼する。私が変わるのを手伝って」

「……良いだろう。その依頼、奉仕部全体と言うよりかは、俺個人としてだが……確かに承った。だが少し長い付き合いになるが、構わないか?」

「別にいいよ。また、コーヒー飲みたいし」

 

 月明かりが、まるで答えを出した彼女を祝福するように、俺たちを照らす中、彼女は俺にそう宣言をする。

 そうして控えめながら、年相応に笑うのだ。

 

 

 これが俺なりの答え。

 俺が彼女を救うのではなく、彼女が彼女を救うのを、俺が手伝うのだ。

 彼女の人生を俺が決めるのではない。彼女自身が選びとるために。

 

 

 その後、十二時回る前に彼女は戻っていた。明日の自由行動時間に、俺の連絡先を教えると約束して。

 結局随分長い間喋ってしまった。意外と最近の小学生というのは話題に尽きないというか、なんというか。眠い顔をしながら、言葉をひねり出そうとするので流石に帰らせた。

 一瞬送ろうかとも思ったが、俺といる姿を先生に見られたら何を言われるか分からんから、一人で帰らせた。ここは本館からさほど離れた場所ではないし、問題ないだろう。

 

「ふぅ……」

 

 喋り疲れと、色々頭を回して考えすぎた疲れと、その他多くの疲れが、ひとつの疲労感となって俺にどっとのしかかる。

 大きく息を吐いて、少しだけ深くベンチに座った。

 時計を見れば、時刻は十二時をすぎていて、自由行動の日は今日になっていた。俺も頃合を見て戻らなければな。

 しかし、今は。

 

「もう少しだけ、空を眺めるのも、悪くはないさ」

 

 コーヒーに口をつければ、まだほんのりと暖かさが残っていた。

 

「美味い」

 

 そうして俺は星々が燦燦と輝き続ける夜空を見上げるのだった。




次回、その結果のお話

この作品のメインヒロインを誰だと捉えてますか?

  • 雪ノ下
  • 一色いろは
  • 鶴見留美
  • 松山千佳子
  • 材木座義輝
  • 戸部翔
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