「ほら、起きて」
金糸雀のような声が微睡んでいた俺の背中に掛かる。
顔を上げれば、秋の穏やかな陽気には似つかしくない、太陽が大地を照らすように明快に笑う彼女がいた。
「もう……おはよ、みのるくん」
「ん、おはよう」
腕を上げて凝り固まった背中を伸ばすかのように伸びをする。その後ゆっくりと息を吐いた。
軽い仮眠程度だったが、随分と眠気は取れたように思う。ただ、欠伸は出るようで。それに対して彼女はツンと俺の頬を指で突いてきた。
「ダメだよ〜?寝てちゃ。ほんとにお仕事してたの?」
「してたよ。終わったから寝てたんだ」
「あはは、知ってたけどね」
「だったら言わないでもらえるか?」
やれやれと肩を竦めれば、何が面白いのか声を上げて笑う。
「……笑うことはないだろ」
「ふふふ、いやごめんね。ちょっと、楽しくて」
「はぁ……。まぁ、楽しいならいいよ。それで、そっちの進み具合は?後輩となんかやってたみたいだケド」
「上々〜。完璧、とはいかないけど。それでも結構上手くいったよ」
「そりゃいいね」
となれば、もしや結構寝てたのか?と思い壁にかけられたホワイトボード近くの時計を見れば確かに結構な時間だった。外は茜色に染まっていて、もう夕方になっているのが分かる。
仮眠のつもりだったんだけどなぁ。思ったよりも寝てしまったみたいだ。そりゃあ彼女も怒るわけだ。怒ってるようには見えないけれど、きっと怒っているんじゃなかろうか、多分。
「もう、こんな時間か」
「うん。打ち合わせしてたら思ったより時間かかっちゃったよね」
「お疲れ様」
確か、ダンスイベントとか何とかだったかな。好きそうなやつを独断と偏見で集めたそうな。実際、皆協力的でよくやってくれている。
「あとはいろはちゃんが来るの待つだけだ〜」
「後輩は何してるんだ?」
「ええとね、私踊るの苦手じゃん?」
「ああ見たよ。ヘッタクソだったな」
「や!や〜、そこまで、ではある……のかな」
「あるね」
笑って言えば、プンスコと頬をふくらませながら怒るのだから思わず苦笑してしまう。その仕草一つ一つがどうにも可愛らしいものだから困ったものだった。
「って、私の踊る上手さは別になんでもいいんです!とにかく、いろはちゃん結構そういうの得意みたいだから、ダンス隊のとりまとめお願いしたんだよね」
「そいつは大変だな」
「すっごい嫌がってた」
「だろうな。あいつはそう言う大役を任せられるの嫌がるタイプだ」
あいつは普段はあざとさ満載の小悪魔みたいな女で適当なやつだが、こと責任感に置いては人一倍だ。根は真面目なんだよ。だから、嫌がる。あまり人にそういう面を見せたくはないのだろう。
本人に言ったら「そういうのダサいじゃないですか〜」とか言いそうだ。まぁ、本心でそう思っているかどうかは不確かだが。
それはそれとして、信頼のできる人間にそういったのを任せるのは間違いじゃない。とかく、一色なら色々と上手くやるだろう。男人気も高いし。
「いろはちゃん遅いね〜」
「絡まれてるんだろ。男に」
「あ〜いろはちゃんモテるもんね」
「お前もだろう?」
「え?そうかな」
何も自覚していないその様子にはため息が出る。誰も彼もから好かれてる代表みたいな女だろうに。全く。
俺たち二人以外は誰もいない会議室だったが、漏れ出たため息はあまり響くことはなかった。いや、ため息が響く様子すら気にならないほどに。俺は、この時間が────。
カラリ、と軽い音を立てて引き戸が開かれた。そちらの方を見れば、黒髪の後輩が立っていた。ちょっとばかし疲れた表情をしていて、取りまとめが大変だったことが伺えた。
「あ、いろはちゃん」
「ただいま戻りました〜……。は〜。マジ疲れました」
「お疲れ」
「はい。お疲れ様ですって……あれ。先輩」
「なんだよ?」
先程までは至っていつも通りのあざとい小悪魔フェイスだった一色だが、俺を視界に捉えると突如鳩が豆鉄砲でも食らったかのようにポカンとした顔をする。
そして、そのまま一言告げた。
「なんで寝てるんですか?」
「は?」
「もう、先輩ったらダメですよー?寝てちゃ。ちゃんと起きていないと」
「待て何を言って────」
訳が分からなかった。
ただ、助けを求めようと彼女へと顔を向けるとそこには誰もいなかった。
「ほら、微睡んでないで起きて下さい田島さん。ちゃんと目を醒まして見つめないと、ダメですよ?」
グラリ。
視界が揺らぐ。頭が回らない。後輩の言葉が上手く聞き取れなかった。俺は、何を言われたのだろうか。
口を開くが、自分が何を言っているか分からなかった。身体が思うように動かない。水の中を必死でもがいているようなそんな感覚がする。
グラリと揺れる。そして段々とスローモーションみたいにゆっくりになって。目の前に立っていた一色の顔が見えなくなって、輪郭だけしか分からなくなって。そして、消えた。
景色は物凄いスピードで目まぐるしく変化していった。教室が住宅街に。茜色の空が曇り空に。眩しかった斜陽は降りしきる雪に。そして、降り積もる白色と、広がっていく赤色が。
なにより目の前に横たわる君が。
「みのるくん。私の事、ちゃんと忘れてね」
◇
「っ!?」
まるで悪いものから逃げるかのように跳ね起きた。起きた際に布団を蹴りあげてしまったようで、はらりと掛け布団がベッドから落ちた。
息が荒い。それと、寝汗も酷い。
悪い夢だった。全くもって出来の悪い夢だった。
頭がクラクラする。まだ夢を見ているかのような感覚が消えない。一体何が現実で夢なのか。境界線があやふやではっきりとしない、夢の世界で生きているような感覚だった。
それと、猛烈な寂しさに襲われていた。孤独感が身を支配する。そのせいで、思わず部屋に誰かいないか探してしまった。しかし自室なのだから当然ここには俺一人しかいなかった。
ちらりと窓にかかったカーテンの隙間から朝日は差しておらず、まだ外は暗いことが伺えた。
今は、一体何時だろうか。
枕元に置いてあったスマホを見て、今が朝の五時半時であることを確認する。もう時期明るくなる時間だ。
とりあえず、今日はそれなりには眠れたらしい。寝覚めが悪いことから熟睡はできていないのは確かだろうがな。
「シャワーでも浴びるか」
今日は特に出かける予定はない。
しかしこうも汗をかいてしまうと、季節的にも気温のせいで冷えて風邪をひいてしまいそうだ。
それに、少しさっぱりとしたい。未だに眠気もなくならないし、何より寝たはずなのに疲れがとれていない。なんなら風呂でも入れようか。昨日は面倒でシャワーで済ませてしまったしな。
「しかし、まぁ……。随分と懐かしい夢を見た」
夢ではあるが、確かに昔の記憶だった。昔と言うほど昔ではないが、俺にとってはもう遠い記憶のようにも思える。このまま忘れていけると楽なのだが。
きっと今が体育祭の準備期間なせいで、色々と記憶が刺激されたのだろう。事実、奉仕部がその依頼を受けるとなって少し思い返したこともあった。
深層意識だが、無意識だかは知らないが、夢というのはそういうものなのだろうさ。
……未だに、忘れることも、流すことも出来やしない。
こんなざまでは、この先が思いやられるというものだ。
俺は替えの服を衣装棚から取って、風呂場へと向かった。
◇
風呂から上がって、ある程度さっぱりした俺は朝食を適当に作り済ませてから特段やることもなくただ惚けていた。
だが、こうして何もしていないと、どうにも憂鬱になることばかり考えてしまう。体育祭のことや、相模のこと。
それと、今朝の夢のこと。我ながら未練がましく女々しいがやはりどうして忘れることなど出来そうになかった。
……気分転換でもした方がいいな。
古い革張りのソファーから立ち上がり、まだ婆さんが生きていた頃からずっとある大きめの食器棚へと近づく。
コーヒでも淹れようか。
一瞬、何で淹れるか迷ったが、今回は凝ったものではなく普通のもの、しかし少しだけ違った淹れ方にしようか。
……決めたぞ。今日のコーヒーはネルドリップで淹れることにしよう。
ネルドリップとは、いわゆる布ドリップだ。フランネルと呼ばれる起毛した織物で作られているフィルターを使って抽出する方法だ。
ペーパーフィルターと比べると面倒、と呼ばれることも多いが、それを補ってあまりある良さがある淹れ方となっている。
ええと、確か婆さんが新品のものをこっちの棚に保管していたはずだ。俺は棚から布で作られたポイのようなものを取り出す。
ネルフィルターと呼ばれるこのフィルターの特徴は、手触りが柔らかいこと、そして布でできてること。それと、片面だけ起毛されてることだろう。もちろん両面のものもあるが、片面の方がよく見るし実際に作られているものとしては多い。
寿命の方はまだ、問題なさそうだ。ネルはどうしてもその性質上寿命が早まりやすい。起毛面を外側にすることで防げるものではあるが……、それではネルを使うメリットが薄まってしまう。
なので基本は起毛面は内側で使うのを俺オススメしたい。
さらにネルフィルターを使うにあたって必要なものがある。
やぐらと呼ばれるフィルターの固定機器だ。
紙のものと違って布でできているこいつは自立しない。そのため、固定してやるものが必要なのだ。それにネルフィルターに着いている柄を持ちながら、抽出したコーヒーにフィルターが浸からない位置を調整しながら抽出する、というのはなかなかどうして面倒である。
便利な道具があるならばそれを使う。何事も、そういうものだろう。
これも同じ棚の列にあったので拝借する。
ネルフィルターなんて久々に使うからな。味が悪ならなければ良いが。
まず、新品のネルを使う時はコーヒー液に浸して置く必要がある。今回は……まぁ、そうだな。コーヒー粉を使って煮出そうか。
煮出す理由としては、新品のネルには糊が着いているのだ。このままコーヒーを抽出してしまうと糊と一緒にされてしまい、出来上がったコーヒーの味は散々なものになる。
それ故に、まずはその糊を落とし、かつコーヒー液に浸すことでネルをコーヒーに馴染ませてから抽出すると風味やら香味やらが良くなる、というわけだ。
本来ならコーヒーの出涸らしでやるのが良いと、昔婆さんが言っていた。俺は面倒だからそこまではしないが……。行きつけの喫茶店のマスターなんかはそれでやってるらしい。
鍋に湯を入れて、その中にコーヒー粉を淹れる。ちなみに、量は結構淹れる。昔は勿体ないと思ったものだ。だからこそ、多くの人は出涸らしで淹れるのだろう。今回は、用意するのが手間だからしなかったが。
フィルターを鍋の中に放り込んでおきこの隙に豆を挽いておく。今回の豆は粗挽きでいこうか。何せ焙煎度が深いからな。
煮出すこと20分、鍋から取りだしたフィルターを流水で濯いでしっかりと付着したコーヒー粉を落としておく。
これでようやく淹れる準備が整った。早速コーヒーを淹れるよう。
まずネルドリップはペーパードリップの時との違いはほとんどない。
違いはフィルターのセット時くらいだ。ネルは布なため、ペーパーの時と違って綺麗な三角錐に初めからならない。そのためフィルターを熱湯に通し固く絞って水気を飛ばしてから三角錐の形にしてセットするのだ。
セットしたらあとはいつも通り。本来であればフィルターに湯をかけて温めるのだが、今回は事前に熱湯に通してあるので問題無し。そういえばこの湯でフィルターを温める工程のことをリンスというらしい。
俺はあまり専門用語には詳しくない。何せ俺のコーヒー知識は婆さんから教えてもらったことそのままだからな。ガキに専門用語使う大人はいないだろう。
なぜ知っているかと言えば、留美が俺に教えてきたからだ。夏休み以降自分でもコーヒーを淹れるために色々と調べているらしい。
俺としても興味を持ってくれているのは嬉しくて、色々と使わない道具を譲った。古い電動ミルとか、ドリッパーだのポットだの。そういうのだ。
……そういえば、留美と言えば何かこの前話た気がするが。なんだったか。
まぁ、とにかく今は目の前のコーヒーに集中だ。入れたコーヒー粉にお湯をかける。一度目は殊更ゆっくりと。蒸らしの工程込でやるからな。二度目三度目と真ん中から円を描くように淹れる。お湯を注ぎきれば、あとはコーヒーが抽出されきってポットに落ちるのを待つだけだ。
「ふぅ……」
一心地着いてゆっくりと息を吐いた。
ソファーへと腰掛けてテレビを着ける。ちょうど昼前ということもあって……。もう昼前か。早いな。確かに風呂に入ったり飯を食ったり、コーヒーを淹れる準備などをしていたので色々と時間がかかってはいたが、もう五時間程度経っているとは。
時の流れは早いものだ。
テレビでは特に面白くもなく知らない番組の至って興味もない内容のワイドショーが映っていた。
特に他に見たいものもないのでそのまま流しておこう。
また惚けていること数分。ふと家のインターホンが鳴った。
「宅配は頼んでいないはずだが……」
若干のデジャブを感じながら、玄関のドアを開ける。道の向こうでは車が走り去っていったのが見えていた。
一瞬誰もいないかと思ったが、下へと視線を移せばいるではないか。そして、俺は呆れてため息を吐いた。それはもちろん自分に対してだ。
「おはよう実さん」
「……おはよう、留美」
我ながら阿呆もいいところだ。ここのところ忙しくてすっかり失念していたが、そういえばそうだったな。
今日は、今目の前に若干不機嫌そうにしながら背中に背負ったリュックサックの肩紐を両手で握りしめた少女。鶴見留美の勉強会の約束をしていた日だったことを、俺は彼女を目の前にしてようやく思い出したのである。
この作品のメインヒロインを誰だと捉えてますか?
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雪ノ下
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一色いろは
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鶴見留美
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松山千佳子
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材木座義輝
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戸部翔