その特殊な環境は、そこで生きる者にとっては、世界そのものに他ならないのだ。
難儀なものだよ。
ペラリ、と紙のめくる音が不規則に部室に響く。それは雪ノ下が読書をしているということである。
材木座の依頼の日から、それなりに経った。あの後も戸塚彩加のテニスの技術向上の依頼を受けたが、それっきりで奉仕部は再び閑古鳥が鳴いていた。
そんなものだから各々が暇つぶしの方法を見つけるしかない。例えば雪ノ下や比企谷であれば読書、由比ヶ浜であれば携帯弄り。では俺はというと、特になかった。何分コーヒー以外に趣味がない、という訳でもないのだが部活動の際にもできるような趣味はない。彼らのように読書をするという手もあるのだが、俺という人間はどうにも読書が苦手だった。
なので家での暇つぶしの手段と言えば、主にスマホでネットサーフィンでもするか、寝るか、コーヒーを飲むかぐらいしかない。
プライベートですらこの有様なのだから、部活動ではお察しである。
何かしらやることを毎日見つけなければならないので、本当に暇な日もあるのだが、今日は幸いやることがあった。
「田島くんなにそれ」
隣に座っている由比ヶ浜がこちらに話を降ってくる。
基本的に我が奉仕部メンバーの座る位置は決まっている。長机を中心に、左から比企谷、俺、由比ヶ浜、雪ノ下となっている。比企谷と雪ノ下がそれぞれ端に座っているので、俺と由比ヶ浜の位置は近くなる。なので自然と彼女と話す事が多い。そもそも奉仕部部員で一番喋るのが彼女なのだ。だから、雪ノ下においても比企谷においても、俺と同様に由比ヶ浜と話すことが一番多いのではなかろうか。何せ由比ヶ浜は以外は自分から喋ることが滅多にないからな。
一度ペンを動かす手を止め、由比ヶ浜の方を向く。
「職場見学の提出物だ、そろそろ提出しろと急かされてな」
「あ〜、どこにするの?」
「そうだな……無難な所だと近場の市立図書館あたりとかだな。本を読むのは好きじゃないが、レポートを書くのが楽そうだ」
「理由が消極的すぎる……」
我が校は進学校だから、意外と見学をしっかりと考えている生徒は少なくない。それぞれの将来を見据えてその為に進路を決めている生徒が多いものだから、俺のような適当な生徒は意外と少数だったりする。
返答を聞いた由比ヶ浜が呆れ顔のまま携帯弄りに戻る。彼女はスマホが出回っている今、少々時代遅れのガラケーを使っており、どピンクにデコレーションされたソレは少し目に悪い。ジャラジャラとストラップなんかも着いてるし、使用感に難がありそうなものだが、そこの所どうなのだろうか。疑問だ。
そしてなにか思いついたかのように顔を上げた。
「そうだ、ゆきのんはどこに行くか決めた?」
「そうね……私はシンクタンクか、研究開発職かしら」
「へ〜」
なるほど〜と言わんばかりに返事をするが、その顔は全くもって理解してない間抜けな顔だった。
「シンクタンクは説明すると長くなるが、簡潔に言えば政治だとかそれ以外にも色々と分野があるんだが、そういったものの政策立案やら提言なんかを行う研究機関の事だ」
「そ、そうなんだ……そ、それでヒッキーは?」
「自宅」
俺の説明を聞いても理解できなかったのか、由比ヶ浜は話を逸らすために話を振る。振られた比企谷がそうあっけらかんと言うと、奉仕部には微妙な雰囲気が流れる。自宅って、コイツまだ本気で言っているのか。言っているんだろう、やはりアホだ。
「あなたまだ諦めてないの?」
「まだワンチャンあるかなって」
「ないだろ…」
コイツそのせいで平塚先生にこの前呼び出されて、部活に来るのが遅れて来たの忘れたのだろうか。正直比企谷のこういうところは材木座とどっこいどっこいだと思う。類は友を呼ぶとはいうが、比企谷と材木座が仲が良いのはこの辺にシンパシーを感じるからかもしれないな。
「いやほんとないから。それで結局どこ行くの?」
「んー、グループになったやつが行きたいとこに行くんじゃねえか」
「なんなん、その人任せ感」
「そりゃあお前……万年余り物のコイツがグループの中で発言権がある訳ないだろう。それくらい察してやるのが良い女というものだ」
「あ、ああ〜。や、なんかごめん」
「ガチで謝るなよ……」
大きくため息を着いて比企谷は再び本に目を落とす。よく見ればソレは一昔前の少女マンガのようだった。こいつも結構多趣味だな。
そうこうしている内に陽は落ちてきて斜陽が窓から差し込んでいる。そろそろ部活も終わりの時間だ。コーヒーをグイッと飲み干すのと、雪ノ下が本をパタリと閉じるのはほぼ同時だった。
いつ頃からだったかは忘れたが、雪ノ下がそうやって本を閉じるのが部活動の終わりの合図となっていた。比企谷や由比ヶ浜が帰りの準備を始めるのに合わせて、俺もマグカップをインスタントコーヒーが置かれている机に置く。
その時だった。部室の扉がコンコン、とノックされる。
如何せん部活動は終わりのつもりだったので、肩透かしを食らった気持ちだ。
「どうぞ」
いつも通りノックに対して雪ノ下が返事をすると、部室に入ってきたのはこれまた随分と爽やかな男だった。
顔に見覚えはある。というか恐らく名前も知っている。ともすれば、こんな胡散臭い部活の部室にいるには場違いと言わざるをえない男だろう。まあそれは前評判だけならば雪ノ下もそうであるのだが。更に言えば由比ヶ浜もだ。むしろ相応しいと言えるのは俺と比企谷ぐらいなものだろう。我ながら嫌な自己評価である。
「こんな時間に悪い。ちょっとお願いがあってさ」
エナメルのバッグを床に置くと、男は自然な所作で「ここいいかな?」と断りを入れ、長机を挟んで俺と由比ヶ浜の前に座る。
「いやー、なかなか部活から抜けさせてもらえなくて。試験前は部活休みになっちゃうから、どうしても今日のうちにメニューをこなして起きたかったぽい。ごめんな」
爽やかな笑みでそう告げる彼に嫌味なところはない。
「能書きはいいわ」
しかし我らが部長雪ノ下というと、何故だか妙に苛立っていた。こうも感情を抑えきれていない態度をとるのは珍しい。雪ノ下雪乃と言えばクールビューティー……とはいうが、最近だと由比ヶ浜の押しにたじろいでいる様子を見せているのでそうとも言いきれないか。
ともあれいつもよりも棘のある態度には、比企谷も些か疑問に思うところがあるようで雪ノ下の方を見ていた。
「何か用があるからここに来たのでしょう?葉山隼人君」
そう冷たく呼ばれた男、葉山隼人はしかしその笑顔を崩すことがなかった。雪ノ下のこの態度に顔色を変えないとは、なかなかやり手、いやもしかしたら慣れてるのかもしれない。確か戸塚の依頼の時に、俺の苦手なタイプの女を引き連れていた覚えもある。
そうして葉山隼人の依頼の話が始まった。携帯電話を取り出し画面を見せてくる彼曰く、近頃二年F組のクラスの中で『チェーンメール』なるものが出回っているらしい。
携帯の画面を見ればチェーンメールの内容を見ることが出来た。
『戸部は稲毛のカラーギャングの仲間でゲーセンで西高狩りをしていた』
『大和は三股をかけている最低の屑野郎』
『大岡は練習試合で相手のエースを潰すためにラフプレーしていた』
長々と書いてある文章を要約すると、上記の三つが主に言いたい内容だった。俺たちが微妙な顔をしてその文面を見ていると、同じように葉山も微苦笑をうかべる。
「これが出回ってから、なんかクラスの雰囲気が悪くてさ。それに友達のことを悪く書かれてれば腹も立つし」
微苦笑を浮かべるものの、その声色はチェーンメールにうんざりとしたもので、先程携帯を弄りながら顔を顰めていた由比ヶ浜に通ずるものがある。
捨て垢によるメールだ。相手が誰だか分からない以上、それを止める方法も安易なものではない。彼らが鬱屈とした気持ちを溜めてしまうのも無理はないだろう。
「止めたいんだよね。こういうのってやっぱりあんまり気持ちがいいもんじゃないからさ。あ、でも犯人探しがしたいんじゃないんだ。丸く収める方法が知りたい。頼めるかな」
葉山は気持ちの良い笑顔をこちらに向ける。
良い奴、と簡単に葉山の人間性を評するならばそうなのだろう。爽やかで、明るく、きっとみんなに好かれている。俺とは正反対の人間だ。羨ましい限りだよ。
だが、完璧な人間なんてこの世にはいない。何故ならば人はみなまだ完璧ではないからだ。だからこそ発展し、進化し続け、その歩みを止めることがない。だとすれば、この男にだって何らかの欠点、あるいは影がある。それがなんだろうと別になんだっていいのだが。
込み上げてきたものを隠すようにマグカップに口を着け、そして先程コーヒーを飲み干した事を思い出す。仕方がないから鞄の中からペットボトルを取りだし中の少ない水を呷る。夏に近いこの季節ではすっかり温くなっていた。
「つまり、事態の収拾を図ればいいのね?」
「うん、まぁそういうことだね」
「では、犯人を捜すしかないわね」
「うん、よろし、え!?あれ、なんでそうなるの?」
依頼人たる葉山の意向を完全に無視され、一瞬驚いた顔を見せたが、直ぐにそれを微笑みで取り繕って見せ、その意図を問う。
「チェーンメール、あれは人の尊厳を踏みにじる最低の行為よ。それが善意であれ悪意であれ、結果的には悪意を広げ、拡大し続ける。止めるならその大元を断つしかないの。ソースは私」
「お前の実体験かよ…」
雪ノ下によるクソほどどうでもいい実体験の話が始まった。チェーンメール、俺が中学の時にも確か一時期流れたらしいが、俺も俺であまり交友関係が広くなかったものだからさほど詳しくはない。
「とにかく、最低なことをする人間は確実に滅ぼすべきだわ。目には目を、歯には歯を、敵意には敵意をもって返すのが私の流儀」
「お前の流儀なんざどうでもいいが、犯人を捜すにしろ、葉山の意向通りに丸く収めるにしろ、ことの原因を理解しないと始まらないだろ」
「わかっているわ、だからそれも込みでこれから色々と聞くのよ。それで葉山君、私は犯人を捜すわ。そして一言言うだけでぱったりと止むと思う。その後どうするかはあなたに任せるわ。それで構わないかしら」
「……ああ、いいよ」
葉山は観念したように、さりとて納得は出来ていない顔で頷いた。とはいえ大元を潰すならそれが一番早いだろう。何しろ相手は匿名だ、身元さえバレてしまえば余程の阿呆じゃない限りは大人しく言うことを聞くだろう。
「メールが送られ始めたのはいつからかしら?」
「先週末からだよ。な、結衣」
葉山が聞くと、由比ヶ浜も頷く。
「先週末から突然始まったわけね。由比ヶ浜さん、葉山君、先週末クラスで何かあったの?」
「特に、なかったと思うな」
「うん……いつも通り、だったね」
由比ヶ浜と葉山隼人お互いに顔を見合わせる。
先週末、か。彼らとは別のクラスではあるが俺も考えてみる事にした。今回のチェーンメールの内容は、匿名の人間が三人のクラスメイトを対象にして行ったメールだ。三人、という所が鍵な気がするな。
ふと、机の上にある書類が目に入った。そういえば、確か職場見学のグループも三人だったか……ああ、そういう事か。
「見当が付いた、職場見学のグループ分けか」
「……うわ、それだ。グループ分けのせいだ」
「「え?そんなことでか?」」
どうやら葉山と比企谷には理解できなかったらしい。雪ノ下の方を見れば、彼女も同様のようだ。
「こういったグループ分けはその後の人間関係にそれなりに影響が出るものだ。今回もその例に漏れないのだろう」
「そのせいでナイーブになる人も、いるんだよ……」
「俺は昔それで関係が壊れたグループを見た事がある。故に合点がいった」
陰鬱そうな由比ヶ浜を見て、俺も昔を思い出した。確か一年の遠足の時期だった筈だ。グループの規定人数から一人溢れたやつが、結果そのグループとの仲が酷く険悪になりそいつに対してイジメが始まった。あまり過激ではなかったが、それでもいじめはいじめ、やがてソイツは学校に来なくなった。
由比ヶ浜があのような表情になるのもわかる。こと学校という狭い共同社会における人間関係というのは、複雑怪奇なのだ。
思い出すだけで憂鬱になってきた。もう俺には関係のない話だ。忘れるとしようよう。
そう思考を切りかえた俺と同じくして、雪ノ下が咳払いをし一度話を仕切り直すのだった。
長くなりそうだったので一旦ここで切ります。
この作品のメインヒロインを誰だと捉えてますか?
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雪ノ下
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松山千佳子
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