「はい、越境しました。ここから先はゲヘナです」
スズミはそう言って、何故倒れていないのか不思議なほどに斜めに曲げられている道路標識を一瞥した。錆と煤で汚れた境界線を示す標識は交通量が極めて少ない幹線道路に設置するには不釣り合いなほどに立派なものであり、そうだからこそ視界に入れるだけで憂鬱になりそうな雰囲気を纏っていた。
「セリナさん」
「現在時刻、8時10分です」
「ありがとうございます」
スズミはセリナに向かって礼を言うと、片手でハンドルを握りつつ、もう片方の手で運転席の脇に掛けてあった愛銃のアサルトライフル「セーフティー」を手繰り寄せた。さらに席の下に仕舞っていた鞄を取り出し、それを膝の上に乗せる。淀みない仕草で戦闘準備をしつつも、何てこともないかのようなひどく落ち着いた声で独り言ちた。
「さて、来るでしょうか」
「どうですかね」
ウイも愛銃のスナイパーライフル「ボリュームサプレッサー」を両手で抱え、スズミと同じように他人事のように返事をした。声からはやる気が感じられないが、細められた目からは鋭い光が放たれている。若干隈が残っているし顔色は不健康の極みといった具合であるが、それでかえって迫力が増していた。
「演習場は……境界線を越えて進めば、車だと20分もあれば到着するね」
「はい、境界線から然程離れていません」
ミカが窓を眺めながらため息交じりに言うと、セリナが即座に返事をした。ミカとしては誰かに返事を求めたつもりはなかったが、それでもセリナの即答がありがたかった。誰かと会話をしていた方が気が楽だ。
そう思ってしまうほど、気分は何処までも憂鬱だった。鉛色の雲を見上げつつ、ミカは愛銃を構える。
今更戦闘を恐れたりはしないが、ゲヘナ自治区で自分がゲヘナ生徒と戦うことになるかもしれないという可能性そのものが、ミカの心に小さな棘となって食い込んでいた。
ゲヘナと戦争をする。自分がクーデターの時に掲げた計画。結局、先生に向かって悪役面を作って高らかに言い放った癖に、宣言から数十分で頓挫した。いや、最初から計画として始まってすらいなかったのかもしれない。
その後に、こうして自分は戦争をするわけでもないのに、ゲヘナの道路を走る車に乗っている。目の前に見えるゲヘナの風景は、優雅さの欠片もないバラック小屋の群れは、自分が本当に戦争を仕掛けていたら、まず間違いなく消滅していたはずの風景だった。自分の計画では塵と化すはずだった街並みを、水筒と銃片手に車の中からのんびり眺めている。
ここで暮らすゲヘナの生徒たちにも、殺意どころか嫌悪すら湧かない。滅ぼそうなど、到底思えない。寧ろ遅刻なんてしたくないからゲヘナ生徒は自分たちを無視してほしい、などと考えている。不要な戦闘などしている暇などない、と自然に考えてしまう。滑稽すぎて、もはや自嘲するのも億劫だった。
「言うまでもないことでしょうが……」
そんなミカの心境など知る由もないスズミが、片手運転で器用に道路に空いた穴を避けながら淡々と言った。声は平坦だが、不思議と冷たさは感じられない。先程と同様、流れるように戦闘を準備しつつも、リラックスした声だった。
鞄からスズミが取り出したのは、キヴォトスで一般的に流通している
「私たちのすべきことは、時間までに演習場に到着することです。仮にこのエリアで戦闘を仕掛けられても、反撃や敵の無力化よりも先に進むことを優先します。余程のことがない限りは車は止めませんし、降車して戦闘をすることはありませんので、そのつもりでお願い致します」
スズミの声に、ミカを含めた3人が異口同音に同意を示した。スズミの言葉は口調こそ丁寧だが、実質的な命令だった。演習場に着くまでは、この4人のグループはスズミをリーダーとすることに全員が同意していたからである。無論、ミカも納得している。
スズミはトリニティ自警団の一員である。自警団はトリニティにおける非公認の治安維持組織という、トリニティでも異色の武装集団だ。トリニティ最大の治安維持機関である正義実現委員会がティーパーティーの直下組織であるが故に、時に敵対派閥のために動くことが出来なかったり、ティーパーティー内部の意見対立によって機能不全に陥りやすいため、これを補完する組織として設立されたのが自警団である。
そのように言えば聞こえはいいが、実際は有志が自警団を名乗って知人友人と連絡を取りつつ、好き勝手に動いているだけの組織である。故に組織としての体裁をなしていないとすら言える「集団」であり、明確な指揮系統すら確立されていない。一応、自警団団員ごとに担当エリアを決めてパトロールをしていたり、場合によっては他の団員に協力するため連絡網程度は確保されているのだが、基本的にはそれぞれの団員が独自判断で誰からの命令も了承も得ずに動いている。当然非公認なので、自警団団員による不良生徒の取り締まりは「私刑」に過ぎない。それでも問題視されないのは、自警団の存在と活動はティーパーティーの認可を得ていないが「黙認」はされているからである。
トリニティにおいて派閥や政治的思惑など完全に無視できる存在であるため、場合によってはティーパーティーの敵対派閥に躊躇なく協力し、正義実現委員会と対立はおろか、実際に交戦することすらある。敢えて悪く言えば、「正義実現委員会が頼りにならないから、こっちはこっちで好きにやらせてもらうぜ」という考えで生まれたのがトリニティ自警団なのだから、正義実現委員会と対立するのも無理もない話である。
言い換えれば、自警団は正義実現委員会と異なり、ゲヘナとの戦争など考える組織ではない。実際にゲヘナがトリニティ自治区に侵攻すれば立ち上がるだろうが、少なくともゲヘナとの戦争が起こったとしても、正義実現委員会のように真っ先に駆り出されることはない組織である。
このため同じ治安維持組織でも、自警団はゲヘナに対しては無関心な者が多い。そうだからか、スズミはゲヘナの街並みを無感動な瞳で見つめていた。
スズミの発言は全くもって正しいし、同意できる。しかし、まるで「ゲヘナ生徒に会っても喧嘩を売ったりするな」と念を押されているような気分になって、ミカは小さくため息をついた。明らかな誤解である。正確に言えば、卑屈な自分の心による曲解である。意図的にシャーレ部員の発言を、自分への文句に変換してしまう自分の脳にうんざりしつつ、ミカは胸の奥に立ち込めてきた感情を隠すためにスズミに問いかけた。
「ところで、道路は大丈夫? コンディションが悪いとかじゃなくて、IED(即席爆弾)とかが仕掛けられていたりしないかな?」
「IED」は有り合わせの銃弾や砲弾、道具を使って作られる手製の爆弾のことである。手製であるが故に作動方式や破壊力はバラバラで、探知も予測も困難という厄介な代物だった。キヴォトスでは強盗が獲物の車が通行予定の道路に予め仕掛けておくことが多い。
車ごと吹っ飛んだところでこのメンバーならかすり傷を負う程度だろうが、足がなくなって遅刻してしまうことは避けたい。ミカにとっては初めてのシャーレ演習なのだ。初回が遅刻など格好がつかないにも程がある。格好がつかないだけでなく、他の部員に迷惑がかかるだろう。是が非でも避けたい事態だ。
「無論、確証は提示出来かねますが、IEDや地雷は心配ないと思います。この道路はこのエリアで暮らす生徒たちも日常的に使用している幹線道路ですから、無差別に起爆する地雷や爆弾は設置できないはずです。
遠隔操作で起爆するIED等にしても、高速で移動する車を巻き込むには常時道路を監視し、適切なタイミングで起爆させる必要があります。予め私たちがここを通過することを把握した上で襲撃の計画を立てて用意しているのなら兎も角、たまたま私たちを見かけて即座に用意するのは難しいでしょう。
それにこの手の車両を狙うタイプの強盗の場合、狙うのは輸送トラックや現金輸送車両が多いです。有り合わせの物で作る手製爆弾とはいえ、ローコストですがタダではないですし、小型の装甲車に使うのはもったいないと感じるのではないでしょうか。
小型の装甲車を足止めして襲ったところで、得られるのは乗員の持ち物くらいだと思いますよ。装甲車なら乗っているのは間違いなく武装組織に所属する生徒かPMC等で、一般住民の可能性は著しく低いですから、人質にとるのも大変だと思うでしょうし」
ミカの問いに、スズミは動じることなく即答した。
「成程ねー。じゃあ、考え得る襲撃ってどんなものなの?」
ミカが今更といえば今更な質問をすると、スズミは特に気を悪くする様子も見せずに再度即答した。
「例えば厄介なのは、計画性のある強盗ではなく、計画性の
「……あー、何となくわかった」
ミカは思わず背もたれに身を預け、ため息をつきながら車の天井を睨んだ。自分で聞いておいて酷い態度だとミカ自身わかっているが、把握してしまえば馬鹿らしいと思わずにはいられない。
「つまり、『取り敢えず目についたから対戦車擲弾なり無反動砲なりぶっ放しておくか』と考えて、しかも即実行するタイプの奴ってことだね」
「そういうことです。勿論、多少は利益が見込めると踏んで私たちを襲撃する強盗が現れる可能性もありますが」
スズミはそんなミカの態度を一向に気にせず、相変わらず淡々と答えた。
つまりは強盗のように日銭を得るために襲ってくる輩しかいないというわけでもないというわけだ。ただ視界に入った他人という理由で即座に撃つという連中もいるとか、性質が悪いにも程がある。
「ミカさんは意外に思うかもしれませんが、そういう人たちが出没するエリアはトリニティにもあります。寧ろ
声のトーンを低くしつつ、スズミが説明を続けた。
「珍しいわけではないのですよ、暴力の行使に理由を求めない、或いは必要としない人というのは。強盗とかお金を稼ぐためでも生きていくために必要だからというわけでもなく、相手が気に入らないとか嫌いだからでもなく、ましてや主義に則っているわけでもなく、ただ
疲れているのかもしれませんね。必要性や主義主張、感情に動かされて生きていくことに――」
ふぅ、と息を吐いて、スズミは
それを、ウイの鋭い声が遮った。
「スズミさん、前方……やや左です、屋根の上!」
「――っと!」
スズミが即座にハンドルを切った。車体が揺れ、ミカの横にいるセリナが姿勢を崩しそうになる。なお、ミカは普通に耐えつつキョロキョロと周囲を見渡している。
「攻撃ですか!?」
「狙撃です、うまく避け、いや、外れましたね」
セリナの声に律儀に返事をしつつ、スズミが大きく息を吐いた。
少なくとも擲弾や砲弾が飛んできた様子はない。恐らくは小口径狙撃銃を用いた狙撃だろう。
いつの間にか、ウイが窓を開けて腰を浮かし、愛銃を外に向かって構えていた。意外と反応が速いなと感心しつつ、ミカはウイに向かって尋ねた。
「次弾、来そう?」
「多分大丈夫です。……先程の銃弾は、全然見当外れな方に飛んでいったと思います。これ、多分狙ってませんね。たまたま試射したんだと思います」
ウイが腰を下ろして座席に深く座りながら、億劫そうに言った。
それを聞いて、ミカは眉を顰めた。朝とはいえ、普通に通行可能な道路に向かって狙撃用の長射程弾の試射とは。口からゲヘナへの罵倒が漏れ出そうになり、ミカはそれを抑えようと些か乱暴に水筒の中身をコップに注いだ。
「はた迷惑ですね。ハンドロードした銃弾でも試したのでしょうか」
「かもしれませんね。
流石のスズミも眉を顰めながら恨めし気に前方を見ている。そんなスズミの声に、ウイは答えながら大きなため息をついた。
内心でスズミの意見に同意しつつ、ミカはコップの中身を一気に呷った。保温性に優れた無駄に高級な水筒の中身はまだまだ熱かったが、そんなことは気にならなかった。
隣のセリナが心配そうにミカを見つめていたが、ミカはそれに気付くことなく、大きく息を吐いて愛銃を構え直した。そして窓の方に顔を向け、バラック小屋の街並みを睨みつける。
「ハンドロード」とは、弾薬を購入せずに自分で空の薬莢に雷管、発射薬、弾丸を取り付け、弾薬(実包)を作ることを指す。「プレス機」という専用の機械を用いて行われる。
新品の薬莢を態々購入して手製の弾薬を作る者もいないわけではないが、大抵の場合は自分が使用したり清掃ドローンが片付ける前に拾い集めた空の薬莢を再利用することが多い。ちなみに、使用済み空薬莢を再利用してハンドロードを行うことを「リローディング」及び「リロードする」とも言う。
ハンドロードをする理由は人によって異なるだろうが、主に2つに分けられる。まず、ハンドロードで作成した弾薬はローコストであるから、という理由だ。
超が100個でも足りない超ド級の銃社会であるキヴォトスでは、銃本体は勿論弾薬も相当安い。しかもガンショップどころか、コンビニでも雑貨屋でも自販機でも買える。しかし、安価であってもタダではない。シャーレや各自治区の治安維持組織などの組織に所属していれば、仕事で使用した分は勿論
単純な話、
キヴォトスでは落ち葉の何倍も多く落ちている空薬莢を清掃ドローンが回収し、リサイクルした薬莢を使用したリサイクル弾薬が新品の弾薬よりもさらに安価で売られているが、セルフでリローディングをすれば、それ以上に安価で弾薬が手に入る。
日銭を稼いでその日暮しをしている不良生徒の中には、食費どころか明日の弾薬を購入する費用も節約したいと考えている者も少なくない。キヴォトスでは中古のプレス機が安価で売られているのが普通なので、不良の集団が資金を出し合って1台のプレス機を購入し、複数人で共有しているというケースがよくある。このため不良がリローディングで手に入れた弾薬を携行しているのは、然程珍しくないことである。
次に考えられるのは、命中精度の高い弾薬を入手したい、という理由だ。
キヴォトスで溢れかえっている各種弾薬は、キヴォトス中に無数にある工場で日夜大量製造されている。勿論それらが粗悪品というわけではないが、自分で一つ一つ丁寧にハンドロードをすれば、自分の愛銃にぴったりの弾薬が手に入るのだ。当然ハンドロード、それも数百数千発の弾薬を丁寧に作るとなると(キヴォトスでまともに生活をするのであれば、弾薬など湯水のように消費しなければ暮らしていけない)、膨大な時間がかかる作業であるので、ここまでやるのは相当な「病気」の生徒くらいである。
しかし、例えば「切り札」として数十発程度ハンドロードで手に入れた弾薬を持ち歩く生徒、特に狙撃手はよくいる。
今回は、恐らく後者だろう。
つまり手製の弾薬の試し撃ちをしたところ、たまたま射線近くを、ミカたちの乗った車が通ったのだろう。
「仮にたまたまではなく最初から私たちを狙っていたとしたら、相当下手な狙撃手ですね。……次弾は、まだ来ませんか。私たちを狙っているにしろ狙っていないにしろ、もう遅いでしょう」
「確かに……即座に次の弾が来なかったということは、自動銃ではないか、そもそも私たちが標的ではないか、ですよね……」
安心させようとしているのか、スズミが穏やかな口調で言うと、セリナが全力で乗っかってきた。微笑みながら、少し大きめの声を上げている。
狙撃銃は主に「ボルト・アクション式銃」か「自動銃」に分かれる。自動銃は排莢、次弾装填まで自動で行うため、連射が可能である。
一方でボルト・アクション式銃はチェンバーを開閉する「ボルト」という部品を手動で前後に操作する銃である。
ボルト・アクション式の場合、ボルトには握りやすいようハンドルが付いていて、ボルトに蓋(栓)をする時はハンドルを下向きに固定しておき、チェンバーから空薬莢を排出する時はハンドルを上げてボルトを後ろに引っ張る。
このため連射も一応可能ではあるが、自動銃よりははるかに遅くなる。
とはいえ狙撃というのは基本的にじっくり狙って標的を一撃で仕留める場合が多く、複数の目標を一人で続けて撃つことは稀であり、連射性能など求められていないことが多い。特に遠距離からの隠密狙撃の場合、1発撃てば潜伏地点がバレるため、1発撃ったら即座に移動するのが基本である。
そしてボルト・アクション式の最大の利点は、自動銃の狙撃銃に比べて命中精度が高いことだ。ボルト・アクション式は撃鉄が存在しない。つまり撃鉄がある銃の過程(引き金を引いて撃鉄の
ボルト・アクション式の場合は、引き金を引けばすぐに撃針が前進して、雷管を打って撃発が起こる。撃鉄が撃針を打つことがないので振動が発生せず、発砲時のブレを最小限に抑えることが出来る。これにより、命中精度が自動銃よりも高くなる。
このため、遠距離からの狙撃を目的とする狙撃銃はボルト・アクション式が多い。そして連射ができないボルト・アクション式であれば、走行中の車を一度外して再度狙うなど不可能だ。必死に素早く再装填したところで数秒はかかる。そして車はその数秒の間に十数メートル進む。勿論、狙撃手が一人しかいない場合の話だが。
「さて、これであの狙撃手はもう脅威ではないでしょう。さぁ、もうそろそ――」
「あ」
またしてもスズミの声は遮られた。但し、今度遮ったのはウイではなく、ミカの呟きだった。
バラック小屋の屋根の上。バッと広がった煙のようなものが、ミカの視界に飛び込んできた。よく知っているものだった。
「――
ミカが声を上げた直後、スズミが車を一気に加速させた。
続いてミカの視界に飛び込んできたのは、黒い物体。対戦車擲弾の弾体だった。それは発射筒から放たれて数秒飛んだ後、弾体中間部のブースターのロケット燃料に点火し、急加速してこちらに向かってくる。
数秒後、弾体はほんの数秒前までミカたちを乗せた車が走っていた場所に着弾し、爆発した。周囲に火の玉が飛び散り、薄汚れた街を明るく照らす。
「対人用の破片榴弾です!」
「便利なものをお持ちな様で!」
後ろを見ていたセリナが叫ぶと、スズミがハンドルを握りしめて珍しく悪態をついた。
前方からではなく、横からの攻撃。待ち構えていたわけではなさそうだった。
「――計画性のない奴だよ、これ……」
ため息をついて、ミカは再度愛銃を握りしめた。