「……誰も、貴女が先生の敵だなんて言っていないわよ」
何かを諦めたような表情を浮かべるミカを見つめ、ユウカはコーヒーカップを持ったまま音を立てずに立ち上がった。
「……ティーパーティーとして、先生を補習授業部の顧問にするよう桐藤ナギサさんに呼び掛けたのは、貴女だそうね……ミカさん」
一瞬だけ、その言葉を肯定しようとしたミカは、口を開いて閉じた。立ち上がったユウカが背中を向け、そのまま歩き出したからだ。ユウカはコーヒーメーカーの前で立ち止まり、カップにコーヒーを入れ始めた。カップに注がれていくコーヒーを眺めながら、ユウカは先ほどから変わらない平坦なままの声で話し続ける。
「貴女のクーデター未遂の情報を入手するのには、なかなか骨が折れたわ。互助会はあくまで先生のための組織に過ぎない。複数の学園の生徒たちが一致団結して先生のために動いているとはいえ、各学園の情報全てを曝け出しているわけじゃない。シャーレの部員で一番事情を把握していたのは正義実現委員会の人たち、あとはゲヘナの風紀委員所属の部員かしらね。正義実現委員会のメンバーも風紀委員会のメンバーも、あの頃はエデン条約に関することで皆立て込んでいたから、シャーレのオフィスに顔を出すことも、連絡を取り合う機会も減っていたし……。
そして先生も、貴女の行いや貴女の態度を、シャーレの部員に言いふらすような人じゃない」
カップになみなみとコーヒーが注がれていく。コーヒーメーカーの稼働が止まっても、ユウカはカップに手を伸ばすことなく、ただカップを見下ろし続けていた。ソファに座ったままのミカからは、ユウカの表情がわからない。
「とはいえ、トリニティが補習授業部という突然生えてきたような部活の顧問に先生を就任させたころから、色々不審に思っていたから……
元々ミレニアムの『そういう職務を行う組織』は、情報収集よりも技術漏洩の防止やスパイ対策に特化していたから……私とノアが動かせる権限を可能な限り行使したけど、信頼できる情報が一定数集まったのは、結局エデン条約調印式の日よりも後だった。その後はミレニアムが総力を挙げて大規模テロを行ったアリウス分校のことも調べなくちゃならなくなって……お陰でまともに貴女の行動を評価できる程度の余裕が出てきたのは、貴女の脱獄騒ぎが解決した後だったわ」
そこまで言って、漸くユウカはコーヒーカップを手に取った。ミカの方へ向き直り、ゆっくりと歩き出す。感情を意図的に隠した瞳が、ミカを見下ろしていた。
「そうして貴女の一連の動きを私なりに一通り分析してみたけれど。まぁ、結局のところ貴女の本音や真意になんてあまり興味はなかったわ。結局、公式には貴女は
そして貴女はゲヘナを嫌うあまりにアリウスと手を組んでホストの座を強奪しようとして失敗し、アリウスは貴女を利用してトリニティとゲヘナを同時に潰そうとした。調印式のテロについては貴女は無関係で、ただ武器の調達や隠れ蓑などで利用されただけ。恐るべきは正気を疑うような攻撃を行い、多数の被害者を出したアリウスだと、メディアでは話題になったわね」
「……つまり、感情のままに動いた挙句に、テロ集団にいい様に利用された私を警戒しているってことかな?」
ひたすら夜の海のような昏い瞳でミカを見下ろし続けるユウカを見上げながら、ミカは自嘲するように大袈裟に笑った。
「警戒している……というわけではないのよ。私のような一部の者を
ミカさんだって、どうせトリニティの外の自治区なんて、自分の世界から切り離して考えているタイプの人でしょう? ティーパーティーなんて特にそう。トップの者は周囲を自分の派閥の重要人物で囲い、派閥に属している者は自分にとって都合の良い人を囲い込み、都合の良い人がいなければ都合の良い神輿を作って祭り上げる。だからトリニティでは、権力者の周りには権力者に興味がある者しか集まらない。一般的な、つまり政治に興味なんて持っていない大多数のトリニティ生徒とは『世界』そのものに隔たりがある。
自分たちが暮らしている自治区の外のことなんて、殆どの生徒は聞いた瞬間に忘れるし、言った瞬間にどうでもよいものに変質する。シャーレの部員だって例外じゃないわ」
ユウカはコーヒーを零さないように慎重にソファに座り、コーヒーカップをゆっくりと傾け、静かにコーヒーを啜った。
「じゃあ、やっぱり……先生が傷付いたことで、私を受け入れがたいって思っている感じ?」
「……っ!」
言った。言ってしまった。
ミカは目を見開き、咄嗟に自分の口を両手で覆った。
ユウカから指摘されるのが怖くて言ってしまった。何という卑怯な真似を。後悔が大嵐となって胸を襲う。
少しでも先生の力になりたいと思い、シャーレに応募した。先生には感謝しているし、もっと仲良くなりたいと思っている。その気持ちに嘘はないはずだ。決して先生への罪悪感を消すための逃避行動ではないはずだった。
シャーレのメンバーに、敵視されるかもしれないなという予感はあった。先生は多くの生徒に慕われているだろうなという確信もあった。どの面下げて先生の近くにいるんだと罵倒されるかもしれないと考えていたし、殺意の籠った目で見られる程度で済めば良い方かなと納得すらしていた。殴られたり銃で撃たれる可能性もあるかなと他人事のように推測していた。
しかし、いざシャーレの部員の前に座って、感情を抑えている目で見つめられ、この期に及んで逃げ出してしまった。
やらかした。いくらなんでもこれはない。
なけなしの勇気を振り絞り、ミカはユウカを見つめた。
ユウカは変わらず、表情のない顔でミカを見つめていた。しかし彼女が持つカップは大きく震え、中身のコーヒーが波打った。
「……ふぅ」
ユウカが息を吐くまでの時間が、まるで永遠のようにミカには感じられた。ユウカはカップをソーサーの上に置き、こめかみに親指を押し当てた。
「……先生がミサイルの爆発に巻き込まれて、銃で撃たれたことだって……貴女は切っ掛けでしかない。
少なくとも、私はミカさんを恨んでいないわ。……本音を言わせてもらうと、こういう風に言えるようになるまでには時間がかかったけれど」
「…………うん、そうだよね」
わかっている。全ての発端となったのも、先生をトリニティの事情に巻き込んだのも、結局は先生に縋りついて助けを求めることが出来なかったのも、先生の言葉を信じ切れずに勝手に暴走したのも全部自分だ。
ミカは俯き、中身が殆ど減っていない目の前のコーヒーカップを見下ろした。
「安心してちょうだい。私たちは、決してミカさんを信用していないというわけではないわ。貴女の能力は信用できる。特に戦闘能力についてはね」
怒鳴りつけられ、殴られた方がマシとすら思えてきた。自分の翼がプルプルと震えるのを自覚しながら、ミカは涙だけは流すまいと必死に堪えた。
◆
早瀬ユウカは完全に後悔していた。
やはり自分には荷が重かったのだ。数学では他者の行動や心理を推測できても、自分の本性を計算することが出来ない。ミカを精神的に追い込むために、この場を設けたわけではないのに。
頭の中では何度もシミュレートした。聖園ミカが何時かはシャーレに応募してくることは何となく想像できていた。何せ先生が関わった事件に関係のある生徒で、シャーレに応募していない生徒はマイノリティを通り越して絶滅危惧種となっている。そのうちシャーレの部員名簿だけで本棚が埋まるかもしれない。
そして聖園ミカが入部申請を出してきた場合、事前の説明は自分がやろうとユウカは前から決めていた。仕方がないのだ、他に任せられる人がいない。
まさかゲヘナの生徒を説明役として付けるわけにはいかない。そもそも大半のゲヘナ生徒は嫌がるだろう。何せゲヘナを潰すためにクーデター未遂を仕出かした相手だ。
トリニティの生徒も立場上やりたがらないだろう。一般人にクラスチェンジした、かつて自分より立場が上だった相手に先輩としてあれこれ教示するとか、もはや罰ゲームの領域である。
シャーレへ入部の際に事前説明役になるのは、シャーレ部員の中でも古参の者の役割となっていた。別にそのような規則がシャーレの内部で作られたわけではないが、いつの間にかそうなっていた。そしてこういう明確に規則化されたものではないほど、例外を設けて前提を崩し始めると、見るも無残に崩壊してしまうものなのだ。ここは自分がやるしかないか、とユウカは重い腰を上げざるを得なかった。
しかし、それでも自分の口からはミカを非難するような言葉しかでてこない。しかしユウカがミカに言った言葉に嘘はない。今は、ユウカはミカを恨んでいない。少なくとも、ユウカはそう思っている。
ユウカは先生がエデン条約調印式に来賓として招かれていたことを知っていた。だから燃え盛る会場の映像が目に飛び込んでからのユウカは恐慌状態だった。映像すら見れなくなるころには、胃の内容物を全て吐き切っていた。先生が負傷して救急車で運ばれたという情報が流れてきてから自分がどのように行動したのか、ユウカは思い出すこともできなかった。
あれから色々なことを考えた。情報を集め、考え、考え続けて結論を下した。そしてユウカは今、ミカの前に座ってコーヒーを飲んでいる。
すでにミカの入部申請は受理された。先生が決断した以上、ミカがシャーレに所属したという事実は変わらない。ならば、彼女を仲間として迎え入れ、これからも先生を支えていく以外に選択肢などない。
その意味では、ミカの戦闘能力を信用しているのも本当だ。エデン条約調印式の件で、ユウカは自分が油断していたことを認めていた。まさかトリニティの正義実現委員会委員長と、ゲヘナの風紀委員会委員長に同時に戦闘を仕掛けるような輩がいるとは。しかもファーストインパクトとしてミサイルを撃ち込んだ挙句に、ゾンビのような軍団で力押しをしてくるとは。どう予測しろというのだ、こんなもの。
だからこそ、ユウカは先生を無傷で脱出させることに失敗した正義実現委員会と風紀委員会を責めるつもりはなかった。あの場にいなかった自分が言えることではないだろうと、それくらいの分別はできるだけの冷静さが残っていた。しかし同時に、この事態を反省し、次に生かさなければならないと奮起する程度の熱意もあった。
そう考えると、ミカの応募は渡りに船と言えた。単純に考えればシャーレの戦力が増える。ユウカは見たことがないが、ミカはトリニティ最高クラスの武闘派らしい、との情報もあった。生徒会に武力を求めてどうするんだとユウカは呆れ果てたが、強いことに越したことはない、と思い直した。なお、ユウカ自身がシャーレに入ってからはどんどん戦闘経験を積んでおり、自分もまたミレニアムきっての戦闘のプロとなっていることは完全に棚に上げている。
兎も角、事前説明を最後まで進めなくては。
ユウカはまだミカに渡していないファイルを見下ろし、半分以上減ったコーヒーを啜った。