ふと気づくと、目の前にはごく普通の一軒家が立っていた。
周囲に人は居らず、春先の暖かい風がハジメの白髪を撫でていく。しばらく呆然と我が家を眺めていたハジメは、キョロキョロと辺りを見回した後に首を傾げた。
「ここは、俺んちか? 懐かしいな……懐かしい?」
幼い頃から過ごしてきたはずの我が家に対する感情としては違和感が過るが、気の所為だろうと片付けたハジメは何の警戒もなく玄関へと足を踏み入れた。
「───。───!」
奥からは誰かの話し声が聞こえる。何やら盛り上がっている様子にハジメは真っ直ぐリビングに向かった。
「ただいま」
「おう、おかえりハジ、メ?」
帰宅の言葉を発しただけのつもりなのだが、リビングで菫と談笑していた愁は、ハジメの顔を見るなり目を見開いて固まってしまった。
「何だよ?」
「……いや、気にするな。父さんもハジメくらいの年の時はそうだった」
「だから何が?」
何かを悟ったような表情で「分かる、分かるぞ〜」と肩を組んできた父親に少しイラッとしながらも、一向に理由を話そうとしない愁から視線を外し、同じ様にニヤニヤしている菫に視線で問いかける。
「何って……ぷぷっ」
笑みを漏らしながらも、菫は指でちょいちょいと自分の右目を指差す。
ハジメがウンザリしながら右手を顔まで持ってくる。すると、そこでようやく右目を何かが覆っていることに気付いた。
謀ったかのようなタイミングで愁が手鏡をハジメに向ける。
「に、似合ってるぞ。その眼帯」
そこにはさながらどこぞのアニメの主人公のように漆黒の眼帯を付けこなしているハジメの姿があった。
「ち、違っ!? これは!? そうじゃなくて!! つーか俺いつこんなの付けたんだ!?」
一気に羞恥心が込み上げてきたハジメは慌てて眼帯をむしり取って地面に叩きつける。眼帯の下には傷一つ無い
「良いんだ、ハジメ、たとえ幾つになっても、俺達はちゅうに……ゴホンッ。漢なんだ。眼帯くらいたまに付けるってもんだ」
「だから違うって言ってるでしょ!?」
ガシガシと乱暴にハジメの
「僕もう何歳だと思ってるのさ!? 流石に眼帯なんか付けないよ!?」
「「付けてたじゃん」」
「うぐぅ!?」
ぐうの音も出ない反論にハジメは顔を真っ赤に染めて唸るしか出来ない。
面白いおもちゃを見つけたと言わんばかりにハジメに握り寄る二人だったが、それを止める者が居た。
「もう、お二人共。あまりハジメ様を虐めないであげてください」
台所からひょっこりと現れた少女。
年齢はハジメと同じくらいだろう。儚げな印象を持たせる薄水色の髪に、吸い込まれそうな翡翠色の瞳。料理の最中だったのか、アニメのキャラがプリントされたエプロンを着用している。
「お母様。お鍋、そろそろ良さそうです」
「あら! ありがとうね、エルスちゃん!」
「エルスちゃんの料理は最高だからなぁ!」
少女──エルスは菫と愁の言葉に笑顔を浮かべた後、ハジメに向き直った。
「おかえりなさい。もう食事が出来ます。配膳、手伝って頂けますか?」
「うん、もちろんだよ」
幼い頃からずっと一緒に居る少女の言葉に、ハジメは照れながら頷いた。
◇
職業柄、あまり普段の生活習慣が褒められたものではない我が家だったが、ある日を堺にエルスがうちで食事を作るようになってから、かなり健康的な生活を送るようになっていた。
朝食を毎日食べるのはもちろんのこと、毎食健康を考慮して野菜もしっかり摂るようになった。
「ハジメ様。お弁当どうでした?」
「え? う、うん。美味しかったよ」
「なら良かったです」
昼食はほとんどがゼリー飲料で済ますことが多かったが、今では毎日エルスが弁当を作ってくれている。あの時は当たり前だったが、エルスの料理の腕前を知った今となってはもうゼリーでは満足出来ない確信すらあった。
「美味い! また腕を上げたなエルスちゃん!」
「本当ですか、お父様」
「ええ、これならいつでもお嫁で行けるわね」
「ふふ。ありがとうございます、お母様」
「……嫁」
盛り上がる三人の会話に、おかずを口に運ぶ手がピタリと止まった。
とてもじゃないが自分の身の丈には到底合わないと思う。十人がすれ違えば、十人が振り向く完璧な容姿を持った少女。告白を受けた回数は数知れず、他校では彼女のファンクラブすら出来ているという。
幼なじみでもなければ、きっと一生関わることも無かった。ただの一クラスメイトとして記憶の片隅に置かれる程度の存在で終わっていたことだろう。
今も昔も隣に居るのが当たり前だった彼女だが、それが永遠に続く保証はない。いつかはそういう男性が現れるかもしれない。そうなれば……
「何一人で暗い顔してるんですか」
「え? いや、別に何でも……!!」
「心配しなくても、私はどこにも行きませんよ?」
「ッ!?」
何かを考える仕草を取った後、エルスはニヤニヤと笑みを浮かべながら耳打ちしてきた。
知っている。よく知っている。あれはイジりがいのあるものを見つけた時の表情だ。
「エルスちゃんは美人だからな。ハジメが心配する気持ちも分かるなぁ」
「ち、違うよ!?」
「今のうちにちゃんと掴んでおくのよ、ハジメ!!」
「だからそんなんじゃなくて……!!」
「照れなくても良いのに。ハジメ様かわいい〜」
「〜〜ッ!?」
面白いものを見つけたと言わんばかりに詰めてくる三人に、顔が熱くなっていくのを感じる。こうなると収集がつかないことを経験から知っているハジメは、早々に食べ終えて部屋に戻るのが最善か、と実行に移そうとした時「でも……」と続くエルスの言葉に今度は何だとジト目を向ける。
「安心してください。私の居場所はハジメ様の隣ですから」
硬直するハジメに「ていうか、そう思ってくれたことが結構嬉しかったり……」と表情を赤らめるエリスに危うく魂が抜けかける。
そんな二人を菫と愁があらあら、おやおやとニヤニヤしながら見守る。
何気ない日常。なんてこと無い日々の一日。
父親が居て、母親が居る。何よりも
(……ああ、幸せだなぁ)
思い描いていた幸せな未来。
願い続けた幻想の一時。
「父さん、母さん……俺、行かないと」
椅子から立ち上がったハジメは床に落ちていた眼帯を
「ハジメ? どこに行くんだ?」
「帰らないといけないんだ」
「帰る? 貴方の家はここよ?」
「違う……違うんだよ」
垂れていた髪をふわりとかき上げると、雪のような
「必ず帰るって誓ったんだ。だから、もう少し頑張らないといけない」
本当はずっとここに居たい。このまま幸せな日常に溺れていたい。でも、気付いてしまった。気付かない筈が無かった。
「何度も願ってたんだ。これは現実じゃないって。一人の世界に引きこもって……でも、いつまで経っても悪夢は晴れなかった」
信じていた人達に裏切られた。それが現実じゃなければどんなに良かったか。部屋に籠もり現実を拒絶した。
何度も、何度も、何度も、何度も……
「本当は最初から全部分かってた。こんなにも理想的で、こんなにも心が満たされる。こんな居場所、他にはきっと無い。でもさ、何もせずに幸せになれる、そんなこと絶対にありえないんだ」
幻想はあくまで幻想でしか無いことを。現実はいつだって残酷で無慈悲なことを。ハジメは強く痛感していた。
「ここはあの時に俺が願った……俺が欲しかったものを全部くれる世界なんだ」
もし、全てに絶望し、何もかもを諦めていたあの時だったのなら、受け入れてしまっていただろう。仮初だろうと、偽物だろうと、幸せならいいじゃないかと。
でも、光輝に殴られたあの日。シアと立ち上がったあの日。決めたのだ。
ハジメの手の中にはいつの間にかドンナーが握られていた。それを構え、壁に向かって引き金を引く。
「……あっちが現実なんだろ」
崩れた壁の先には真っ黒な闇が広がっていた。一筋の光も差し込まない漆黒の闇。ドロドロのタールのようなものが上下左右に渦巻き、足を踏み入れたものを引き込まんとその触手を伸ばす。
「そっちは辛いですよ?」
歩き出そうとするハジメの背に、エルスの声がかけられた。
「苦しんで苦しんで苦しんで……苦しみ抜いた先には何も無いかもしれない。全部無駄かもしれない」
「……ああ、そうだな。そうかもしれない」
絶望を乗り越えた先に、希望があるとは限らない。
たとえこの先に本当の幸せがあったとしても、それが求めた結末に繋がるとは限らない。
それなら、このまま仮初の幸せを享受していた方が正しい選択なのかもしれない。届かない希望に手を伸ばすよりも、すぐそばの日常に手を伸ばす方が賢い選択なのかもしれない。
「でも、悪いな。現実から逃げるのはもう止めたんだ」
闇へと足を踏み入れると、タール状の触手が四肢に巻き付き、ハジメを呑み込まんとその身を包みこんでいく。酷い不快感と嫌悪感が襲いかかるが、ハジメは歩みを止めない。
意識が遠のく。
夢が終わり、現実へと目覚めようとしている。
朦朧とする意識の中、ハジメは今も自身を見つめ続けるエルスを象った何かを振り返った。
「覚悟しとけよ。必ずそこに行くからな」
その言葉を最後に、ハジメの目の前は真っ黒に染まった。
◇
「起きろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
戦場の空にハジメの咆哮が轟く。常人の喉ではとても実現不可能な声量。
“ゴスペル“の機能。実はそれ単体では本来の機能を十全に引き出すことが出来ない。その能力の本質は“ゴスペル“を持つ者同士の魂魄の共鳴現象にある。
“魅了“は数多の人物を自身の操り人形に出来てしまう恐ろしい力だが、その構築は非常に繊細で複雑だ。それこそ、完全に“魅了“に落ちる前に一定の衝撃を与えてしまえば解けてしまう程に。
“ゴスペル“を持つ者が常に互いに干渉し合い、一定の振動を魂魄に与え続けることで“魅了“による精神の揺さぶりを防御することが出来る。そして、その使用者が魂魄魔法の使い手となるとその効力も大きくなる。
「──ッ! ね、寝てませんよ!? ちゃんと起きてますよ!?」
「ご主人様よ! もっと強くやっておく…………さて、反撃といくかの」
意識を飛ばしていた面々がハジメの一喝で“魅了“から解き放たれる。
「取り繕えてないよティオ」
「香織。貴方もよだれ拭きなさい。何を見てたのよ……」
「龍太郎!?……良かった。筋肉が爆発してない」
「筋肉が爆発!? おい鈴!! 何を見たんだよ!?」
無駄口を叩き合いながらも、その動きに淀みは見られない。即座に“スカイボード“を再起動し、各々が態勢を立て直す。
そんな彼らの横に、頭上から急下降してきた光輝が並び立つ。
「みんな!! ようやく起きたか!!」
「どれくらい経った?」
「ほんの数秒だ!」
「そうか。まあ、よくやった」
光輝の物言いは、まるで最初から状況を理解していたかのようで……
「光輝……まさか貴方、起きてたの!?」
「ん? いや、俺も寝てた。皆よりも起きるのが早かっただけさ」
あのハジメですら囚われた強制力に、光輝が誰よりも先に目を覚ました。その事実に全員が驚愕する。
辺りを見回すと、幾人かの神の使徒が墜落していくのが確認できた。数秒とは言え、この場に限れば致命的な隙となる。いち早く“魅了“の
「もう自分に都合の良い夢は見飽きたからな」
言い切る光輝の姿に、香織をはじめとしたクラスメイト達は笑みを浮かべた。
元々肉体スペックと才能だけで言えば誰よりも逸脱していた。ただ、逸脱していたが為に取り残されていた未熟な精神が足を引っ張り、言動のチグハグさが表立っていた。
それが、カチリと嵌っている。大きいだけで噛み合っていなかった歯車が噛み合い、大きな力を生み出している。
「随分と変わったな」
緩みかけた空気がハジメの一言で引き締められる。
今もとてつもない存在感を放つ“
上半身と下半身を覆っていた翼が切り離される。現れるのはその人形のように生気のない青白い素顔。その首から下には幾つもの幾何学模様が刻まれた砲台が全方向に向けられている。
更に下半身。そこにはハジメ達が予想していたような足は存在しなかった。たとえるなら、一本の剣。天を衝かんばかりの剣を模した巨大砲塔。
「ファンタジー要素満載の天使かと思ったらゴリゴリの近代決戦兵器だった件について」
「ハジメくんが読んでるライトノベルにありそうなタイトルだね」
「ねぇよ」
「どうしますか、ハジメさん」
「……ひとまず、あのバカでかい砲台は気にするな。あのデカさだ。今すぐこっちに向くことは無いだろ」
どこからどう見てもメイン兵器ですと言わんばかりの存在感を放っている砲台だが、あれ程の巨大な砲身を旋回させるには時間がかかる。恐らくゲートに侵入する者を迎撃する為の最後の砦というところだろう。
「妾としてはあの砲台の方が厄介じゃの。あそこから幾つもの光弾が射出されておる。先に対処したいが……」
「下手に接近してまたあの眼を向けられたら元も子もないものね。全員で撹乱して的を分散するしかないかしら?」
「なあ、もういっそゲートまで突っ込むってのはどうだ? あれもゲート内までは攻撃してこねぇだろ?」
真面目に対策を練るティオと雫に、考えるのが苦手な龍太郎はいかにも脳筋な作戦を提案する。あんまりな内容に全員が呆れたため息をつき──
『
予兆は一切無かった。
「回避ィッ──!!」
ハジメの警告と全員が動き出したのはほぼ同時だった。
その後の態勢など気にしていられない。なりふり構わず身を投げるようにその場を離脱する。
その瞬間、ハジメ達が居た場所を極太のレーザーが通り過ぎた。
(いくら何でも規格外過ぎんだろ!!)
天高く伸びる砲身は、籠もった熱を吐き出すかのように白煙を上げていた。
通常、砲弾を撃ち出す場合、その前に必ず砲口を敵に向けるという工程を踏まなければならない。それなのに……
(曲げやがった!!)
いくら異世界の技術とは言え、想定しろという方が無理な話かもしれない。
直径30メートルにもなるレーザーが
ミラービットなどの中継を用いることで軌道を歪ませているのなら分かる。しかし、指向性が存在するエネルギーを外的要因も無しに鋭角に屈折させるなど誰が予想できようか。
更にいき息つく間もなく次弾が打ち上げられる。今度は鞭のよう靭やかさを得て、四方八方を薙ぎ払った──そこに展開する結界ごと。
瞬間、轟音。空に向かって十の黄金の柱がそびえ立つ。
まるで世界そのものが光り輝くような光景に思わず顔を背ける。
光が収まり、目を細めながら注視した先には、黄金に輝くオーラに
「この、魔力は……!?」
「そうくるかよ……!!」
感じる魔力は間違え様もない……彼らと旅を共にしたユエのものだった。
数はおよそ十。多数の使徒を引き連れてハジメ達に迫る。
「やっぱこれ一か八か突っ込むしかねぇだろ!?」
「落ち着け龍太郎! 無策で突っ込んでも蜂の巣にされるだけだぞ!!」
「そうよ!! それに、ゲートを開ける時間も稼がなきゃ……!!」
「こんな状況で立ち止まったらそれこそ終わりだぞ!?」
最早一つ一つ対処している余裕は無い。一度は夢から覚めることが出来たが、次も同じようになるともは限らない。時間を掛ければ掛けるほど侵食は致命的な程に深く浸透していく。
(一旦退く……いやダメだ! 今退けば次はねぇ! “ゴスペル“が限界迎えんのを待つだけだ!!)
前方には光弾の弾幕と変幻自在のレーザー。退けば使徒の大群。さらにいつまた来るかも分からない“魅了“もハジメの焦りを助長させる。
(た、りねぇ……手数が……圧倒的に足りねぇ……!!)
この場を切り向ける戦力が足りない。この場を抑え込む駒が足りない。この状況を逆転させる一手を撃つ余裕が足りない。
(あと少し、なのに……)
ぎりっ、とハジメは歯を強く食いしばる。
(ようやくここまで来たんだ。もう目の前なんだぞ。くそ、くそ、くそっ!!)
どんな状況でも自らの力で切り開いてきた。どんな危機にも汎ゆる手段で対処してきた。
だが、“瞬光“で高速回転させる脳が何度計算しても同じ結果を突きつけてくる。
ハジメの脳裏に浮かぶ『敗北』の二文字。
その言葉が頭を埋め尽くし……
(……だれ、か)
それはハジメ自身も無意識にこぼした願いだった。
異世界へ来る以前までのハジメならば真っ先に思い浮かぶ選択肢。
自分ではない誰か。信じないと決めた他人。
それを頼ろうとする感情。
作戦に組み込んでいたわけじゃない。事前に救援を出していたわけでもない。
「情けないですねイレギュラー」
全員の鼓膜を震わす凛とした声。
ガバリと視線を上げたハジメの視界を白銀が遮った。
瞬間、ハジメ達に迫っていた光弾、レーザー。そして、使徒の大群の一部が。
その能力をよく知っている。使徒と戦う上で、最重要対策項目の一つでもあったからだ。
それが、敵に向かって放たれた。
「アハト。後方は任せました」
「了解しましたエーアスト」
ハジメ達に背を向けて上空より飛来した二人の天使は、両手に持った大剣を悠々と構えた。
ありえない光景に誰もが言葉を失う中、ハジメが呆然としながらも何とか口を開く。
「……なんで」
「正直、私達は貴方が気に入らない。恨んでいると言っても良い。それでも私達がここに居るのは……」
その顔は全く同じ造形の筈なのに、何故かこの二人だけは他とは違うと断言できた。
苛立ちを浮かべながら吐き捨てるアハトの言葉を、エーアストが引き継ぐ。
「
神の使徒エーアスト。神の使徒アハト。
神の従順な下僕だった天使達が天に噛みついた。
>エーアストとアハト
ユエとミレディが敵でエーアストとアハトが味方(一応)というレアな状況。
アハトは原作でもハジメに対して憎悪を抱いていたので、もしかしたらノイントを殺されたことを恨んでいたのかなと。エヒトの邪魔をしているからという可能性も十分ありますけど。