彼女のセブンMy Favorite Seven 作:skav
大学の夏休みも終盤を迎え、もう少しで10月になるというのに残暑というものは何としつこいことか。
吹き込む風の湿度は下がったものの、未だその温度は変わらず高いままだった。
「こんにちは~!」
そんな暑さもどこ吹く風で、遠藤モータースにハイテンションの女性が現れた。
今日はミウラのレストアが終了し、オーナーの状態確認も兼ねた試運転の日だった。
「どうも三浦さん。とりあえず、乗ってみてください。」
「は~い。」
誇之がドアを開けて、ユリを中へ座らせた。誇之も助手席に乗り込んだ。
「じゃあ、エンジンをかけてください。キャブじゃないのでそのままで大丈夫です。」
「…え?キャブじゃないの?なんで?」
「あなたアイドルでしょ?忙しい時あんなことする暇なんて無いでしょうし、せっかくレストアするなら新しくするべきです。乗り続けていくためには変えるべきこともあるんですから。ただし、ランボルギーニらしいところは残してます。」
「わ、本当だークラッチ重ーい。じゃあ、早速出発ー!」
エンジンスターターを押すと、勢いよくセルが回り始め12気筒のエンジンが目を覚ました。
「…あれ?思ったより音小さい?」
「エキマニにサイレンサーをつけてます。スターターの下にあるスイッチで切り替えできます。試しにやってみてください。」
ユリは誇之の言う通りサイレンサーのスイッチをオフにした。その瞬間ガレージ内に爆音が反響し、床に散らばった瓶が震えて転がった。
「うわぁ!」
びっくりしたユリが飛び上がり、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「住宅地じゃちゃんとオンにしてくださいね。この音ちょっとした爆発ですから。」
少し顔をひきつらせたユリが再びサイレンサーをオンにした。
「よし、じゃあ行ってみましょう!」
「は、はーい。」
慎重にクラッチ操作をされたミウラはゆっくりと、動き出した。
「うわぁ…すごい、これが本当にあのミウラ?」
「一度ねじ単位まで分解して、すべての部品をチェックして。だめな部品は総取り換え、ない部品は新しく作りました。」
「ホントに一から作ったの?信じられなーい!」
市街地を抜け、車は峠道に入った。坂道や急カーブが続き、エンジンやサスペンションの能力が試される。
「すごい、すごい。気持ちよく回るし、曲がっても変にぐにゃぐにゃしないね。」
「余分なところは削って、足りないところは補強して。やるべき内容を確実にこなしていっただけです。」
オレンジ色に塗り替えられたミウラはあっという間に頂上付近の駐車場にたどり着いた。
「どうですか?なにかリクエストとかありますか?」
「車の仕上がりについては花丸だよ、これ以上ないくらい完璧。…だけど、一つだけ教えてほしいことがあるの。私のミウラがどんな過去をたどってきたのか、教えてくれないかな。」
さっきまではしゃいでいた空気が一変し、ユリは誇之の眼をまっすぐ見つめた。それに誇之はゆっくりと頷いて見せた。
「はい、もちろんです。えっとですね…。この車は、過去に三回大きな事故でボディを歪ませてました。横から二回、前が一回。前のゆがみは少しだけ直した跡がありましたが、横からのダメージはそのままでした。おそらくそのせいでかなり安く取引されていたのでしょう。それと長い間風雨にさらされていたのか、かなり錆びてました。落としたさびでバケツ二杯でましたよ。しかも錆の上から新しく塗装されてました。」
初めてミウラを見たとき、スクラップ工場へ連れていかれなかったことがとても不思議だった。それくらいこのミウラは状態が最悪だった。
それでも誇之は元の…いや、オリジナル以上の仕上がりを目指してやれること、持てる技術をすべてこの車に使った。
「私がこのミウラを見つけたのはね、テレビの番組で廃墟に行く機会があったときなの。それでこの子を見つけたとき何かこう…声が聞こえたような気がしたの。」
「声ですか?」
「うん、すごくか細い声で助けを呼ぶ声。本当だよ、本当に聞こえたんだから!」
誇之はユリの言葉をしっかり受け止めるように、真剣な表情で答えた。
「信じる信じないは別として、劇的と言うか運命的な出会いだったんですね。」
「そう!だから、誇之くんにはすっごく感謝してるの!」
ユリは誇之を見て、ミウラのシフトノブをやさしくなでた。
「やっぱり車は走らせないとかわいそうですからね。壊れたらまた直せばいいんですから。」
「うん、調子が悪くなったらまたお願いできる?」
「もちろん、いつでもお待ちしてますよ。別に調子が悪くなくても遊びに来ても…あ、できるだけ人目を避けて頂けたら。」
「あははは、大丈夫だよ~カメラマンなんてこのミウラだったら簡単にまいちゃうんだから。」
何を思ったのかユリはミウラのエンジンを始動して急発進した。突然のことに誇之はシートから体がずり落ちてしまった。
「ごめんごめん、ちょっと気になる車があったから。」
「あの銀色のヴィッツですか?」
「別の取材だろうけど、念のためね。反対車線だし、オレンジラインだから簡単には追ってこられないよ。」
慣れた様子で回りの確認を済ませたユリは、進行方向を遠藤モータースへ向けた。
「ありがとう、誇之くん。桃瀬ユリじゃなくて、三浦桃枝としてお礼を言うね。」
「…ご期待に沿えることができて良かったです。」
一目惚れの車が満足以上の完成度で帰ってきたことに、ユリは期待以上の満足感を覚えていた。
「おじさん、いま戻ってきたよ~。」
「あら、お帰りなさい誇之くん。あのミウラはもうすぐ退院かしら?」
遠藤モータースの中枢部、すなわち台所になぜかここにいるはずのない人物がいた。
「…何やってるんですか?白鳥さん。」
「ちょっと聞きたいのだけれど、この人はいつも冷凍食品とレトルトカレーなの?」
桜の視線の先にはなぜか出前表の前で正座させられている遠藤がいた。
「だから今日は出前を取ると…。」
「そんなこと聞いていないわ。普段ちゃんと栄養バランスを考えた食事をしているの?」
「……。」
「えっと、最近はそれに素麺が追加されました。」
遠藤が段ボールいっぱいに素麺を持ってきたとき、さすがに誇之は絶句した。このままでは自分ではなく、遠藤の体の方が心配だった。
桜は「はぁ…」とため息をついて冷蔵庫に移動した。下の野菜室を開けるとビールとつまみがぎっしりと詰め込まれていた。
「食べ盛りの、成長期の同居人がいるのに、全然配慮がないのね…。あなたが倒れても構わないけど、誇之くんに何かあったらどうするつもりなの?」
「いえ、寮ですから三食全部食堂で済ませてるんですけど…。」
「あなたの通う学校は一年で寮を出るのでしょう?一通り覚えておいて損はしないわ。」
そう言ってビニル袋から野菜や肉を取り出した。
「誇之くん、私の指示通りに料理してくれる?この状態じゃ手が届かないの。それに、あの男の手に付いた油を取るのは時間がかかりそうだから。」
「はい、もちろんです!」
袖をまくり、手を洗うために誇之は流し台に移動した。
「あなたは冷蔵庫の中のビール類を全部出して。まさか冷えたビールが飲めないから嫌とか言わないでしょう?」
「……ワカリマシタ。」
誇之の健康という絶対的主張を前にして、遠藤は従わざるを得なかった。
夕食のメニューは冷やし中華だった。
「ん~~!美味い!コンビニ以外の冷やし中華って初めて食べました!」
「そう、それは良かったわ。じゃあ、私はそろそろ病院に戻るわね。誰かさんのせいで、思ったよりも長居してしまったわ。」
じぃ…と桜は遠藤を静かに睨んだ。睨まれた本人は目を合わせないようにして、コップに注がれたビールを飲んだ。
「タクシーはもう読んである。車いすが積めるやつだから安心しろ。」
「ありがとう。ああ、それと誇之君雑誌見せてもらったわ。今週頑張ってね。病院で応援してるわ。」
先日のテストの結果が早速雑誌に掲載され、Rennenのシーズン途中のニューマシン投入はかなり注目されていた。タイムを犠牲にしたレース重視のアップデートにより、残りの二戦をどのように戦うのか。タイトルを諦めないチームの姿勢に雑誌は期待している様子だった。
「はい。ありがとうございます。」
「それじゃあ、失礼するわ。」
かつての栄光があった場所、そして二度と戻れない場所。決して未練が無いわけではないが、桜はしっかりと向き合おうとしていた。
「あの様子ならもう大丈夫そうだね。あとはおじさんが車を作ってあげれば全部解決だよ。」
「……。」
「おじさん?」
誇之言葉に答えず遠藤はただ黙って桜の去って行った方を見つめていた。
フォーミュラガイアは日本のトップフォーミュラの一つだ。どんどんハイテク化が進む上位カテゴリーのフォーミュラプラスに比べて、ドラーバーの技量がシンプルに試されるガイアシリーズは年々ファンが増え始めている。
しかし、今年の気難しいシャシーに振り回される状況は例年とは少し違う様相を見せている。
いかにシャシーの機嫌を取り、タイヤとセッティングを合わせることができるか…。ドライバーの感覚も大切ではあるが、どちらかと言えばチームの技量にかかっているシーズンであった。
「間もなく本機は大分空港へ着陸いたします。テーブルやリクライニングをもとの位置にお戻しください。」
東京から飛行機に乗り、誇之や沙羅を含めたチーム・レネン関係者たちは大分、オートポリスを目指していた。
「卯月、そろそろ起きろ。着くぞ。」
「んん…?もうですか、くぁ~…。」
隣で熟睡していた誇之の肩を揺すると、間の抜けたあくびが返ってきた。
飛行機はゆっくりと旋回して高度を落としていく。地上に近づくにつれ機体の姿勢調整が細やかになり、やがて滑走路にタイヤが接地した。
逆噴射の衝撃が終わると、速やかに誘導路に入って行った。
「それにしても凄い人ですね…さすが観光地。」
湯布院や別府といった温泉地を持つ大分県は全国から多くの観光客が訪れる。夏休みともあればなおさらでもあった。
「荷物は間違いなく持ったね?では、私たちは今夜の宿に向かうとしようか。レンタカーはもう手配してあるはずだよ。」
駐車場にはトヨタのハイエースが停められていた。
「はい、僕が運転しても良いですか?」
マイカーがない誇之は車の運転がしたくてうずうずしていた。
「別に構わないよ。じゃあ、私が隣で道案内をしよう。」
誇之が運転席に、美春が助手席に座り、沙羅以下他の面々は後部座席へ座る。
「このまま道をまっすぐに行けば高速道に入る。間違ってもETCに入らないようにね。」
「はーい。それじゃあ出発しまーす。」
ギアをドライブに入れて、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「そういえば君の車はどうするんだい?三嶋さんはスカイラインを検討らしいけど。人の車に夢中になりすぎて忘れてる、なんてことはないだろうね?」
「ははは、心配いりませんよ~。あっちで乗っていたNSXを連れてきてもらうことにしましたから。それと、とびっきりの隠し玉も一緒にね。」
「ああ、雑誌に載っていたあの車かい?それは楽しみだ。」
彼の口から出てきた車は、ドイツにて日本車の最速記録を作った車そのものだった。
「本当はこっちに来てすぐに届けてもらうはずだったんですけどね。その前に面白い車に出会ったので先送りにしました。」
面白い車はあのCR-Xのことであろう。それがホンダミュージアムに引き取られて、満を持して本来の愛車を受け取ることにしたのだ。
「これはまた雑誌が飛びつきそうだね。あ、次のインターを降りて。」
「はーい。てことは宿泊地は別府温泉ですか。楽しみですね~。」
別府インターを降りて、大通りを進むと。目の前に真っ白な煙が立ち上る建物が次々と現れた。決して火事などではなく、それらすべてが温泉の煙だ。
「おぉ…あれ全部温泉なんですか?」
「そう。あんな煙の出る煙突が普通の公園にもあるから不思議だね。」
「流石温泉の町ですね~。」
そんな湯煙立ち上る温泉街のとある宿に、ハイエースは入って行った。
長距離移動で疲れた体を温泉で癒し、大広間で夕食をとる。
「漬物も味噌汁も美味しい…やっぱり日本食は最高ですよ。」
当たり前のように箸を持ち、とても綺麗な正座の姿勢のまま茶碗を持つ誇之の姿はまさに日本人そのものだった。
「時々お前がドイツ人だということを忘れるよ。…本当に数か月前までドイツに住んでいたのか?」
「う~ん…だってソーセージってまんま肉だし、パンも美味しいけど白米の方が色々合うし…。」
「ちなみに卯月君が好きな食べ物は何かな?」
「サバの味噌漬けです。」
「……中身は本当に日本人だな。」
青い瞳の金髪の少年はここにいる誰よりも日本人だった。
「ああ、それと沙羅さん。スカイラインは見つかりそうですか?」
「そうだな、大体の目途はついた。どノーマルで色は白。ワンオーナーだが、ずっと車庫に停めてあったそうだ。つまりはほとんど新車だ。」
「どこから手を入れようか楽しみですね~。」
「ああ、そうだ卯月君。君の車が届くまで代車を用意しようと思うのだが、必要かな?」
美春がスマホから一台の車の写真を表示した。白い車体、ユーノス・ロードスターを彷彿するオープンボディ、エアインテークがボディ横にあるということはミッドシップエンジンだろうか。
「これって、MR-Sですか?」
「ああ、Vocの一人が是非君に乗ってほしいと。」
なぜVocがトヨタの車を薦めるのかと一瞬思ったが、誇之はある可能性を示唆した。
「まさかエンジン乗せ換えてます?」
「良く分かったね。そう、このMR-SにはK20型エンジンが載っている。乗りたい?」
「乗りたいです!」
「よし、じゃあレースの結果次第で考えてあげよう。」
誇之は目を爛々と輝かせ沙羅に詰め寄る。
「頑張りましょうね、沙羅さん!」
「お前、本当に調子がいいな。」
フォーミュラ二年目である沙羅はまだ新人、しかもチャンピオン争いに加わっていいるともなれば緊張をするのも仕方のないことだった。
しかし、誇之と他愛のない会話を楽しんでいるうちにその緊張が次第に解れていくのを感じた。
日本のトップフォーミュラの1カテゴリーであるフォーミュラガイアは、金曜日のフリープラクティスからメディアで大賑わいだった。
そんな中特に注目を集めていたのは、誇之たちのいるチーム・レネンだった。
シーズン途中に投入されたニューマシン。驚くべき連続周回記録を作ったマシンはついに一般の前で披露された。
そして注目されているのは何も車だけではない。近々フォーミュラガイアでステップアップしてくると言われている岬愛華の移籍先の大本命と噂されているのもこのチームなのだ。
先日のテストでレギュラードライバーよりも速いラップタイムで周回した岬愛華がチーム・レネンへ移籍するのはもはや決定的だと言うメディアもあるほどだった。
しかし、岬愛華が無事このチームへ移籍するためには沙羅がチャンピオンになることが最低条件だった。
「さて、残りのレースさくっと勝ってチャンピオンとっちゃいましょう。」
「そうは言うが…そんな簡単にいくとは思えないのだが。」
沙羅の反応は当たり前だったが、誇之はまるでこれから遊びに出かける子供のような表情で笑うだけだった。
「まだ始まってもいないのになんで逃げ腰なんですか。先輩が逃げ出すのはメディアと幽れ―」
「別に逃げてなどいない。」
話の腰どころか骨格を破壊するように沙羅はぴしゃりと誇之の言葉を遮った。
二人はモーターホームを出て、チームのガレージに入る。テストの時とは違い、RF002改は綺麗にスポンサーカラーを身にまとっていた。
そして、そんなマシンに向かってカメラマンがフラッシュの雨を降らせる。自分に向けられたものでもないのに、沙羅の顔が少しだけ引き攣った。
「沙羅さん、ちょっと早いですけどメット被っていたらどうですか?」
「あ、ああそうだな。」
少しでも気を紛らわすためにヘルメットを被るというのは彼女にとってかなり有効な手段だった。
視界が制限され、音も聞こえづらくなる。すると、自然とレースの事に集中できるのだ。
バイザーを極力下げて、カメラマンのフラッシュをできるだけ避けながらマシンに乗り込む。ベルトはまだ締めない。自分の体格に合わせて作られたシートは、一番居心地が良い。
目を閉じてゆっくりと深呼吸を繰り返す。
今日の仕事はこのマシンをベストなコンディションにセッティングすることだ。予選の事はあまり考えなくていい。
とにかく決勝レースに合わせたセットを見つけなければいけない。
前回のテストでこの車の素性は分かった。ただ、私好みのアンダーステアの味付けをするためには、準備が不十分だった。
卯月曰く、これでしっかりとオーバーステアが消えているらしいが。そこは走り出さないと分からないことだ。
時計を確認すると、そろそろフリー走行の一本目が始まる時間だった。
シートベルトを締め、グローブをしっかりはめる。ジャッキが下ろされ、タイヤが地面に着く。
右手を上げ、人差し指を回す。
外部セルモーターが差し込まれる、ガコンという衝撃の次に細かな振動を感じる。そして、エンジンに火が入った。
『さ、準備は良いですか?』
「ああ、問題ない。」
真横に誇之がいるのだが、ヘルメットとエンジン音にかき消されて無線機でしか会話をする手段は無い。
マシンが人力で押され、ガレージからピットへ出てくる。グランドスタンドには熱心なファンが自身が応援するガレージに熱い視線を送っていた。
『アンダーステア傾向になるようにはしていますが、気になるところがあったらどんどん言ってください。今日は準備万端ですから。』
「了解。」
『来年はあのランプが一番近い場所に行きましょう。』
レネンのガレージはピットレーン入り口付近。つまり最後尾だ。はるか遠方のピットレーンシグナルが赤から青に変わった。
「そのために、今日は重要な一日だ。…よし、行ってくる。」
バイザーを下げ、青いカラーリングのマシンはゆっくりと走って行った。