彼女のセブンMy Favorite Seven   作:skav

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最終決戦~開戦~

栃木県ツインリンク・もてぎはフォーミュラ・ガイア最終戦で熱気に包まれていた。

沙羅を含め、チャンピオンの権利を残している者は4人。金曜日のフリー走行から接戦を繰り広げ、各人火花を散らしあっていた。

午前のフリー走行が終了し、昼休みに入った誇之と沙羅は食事をとりながら作戦会議を行っていた。

「車の調子はどうですか?」

「特に問題はない。…ただ遅いな。」

「まあ、そういう車ですから。とりあえず予選のセットを詰めましょうか。」

ツインリンク・もてぎはコース幅がそれなりに広いにも関わらず、オーバーテイクポイントが少ない。抜きづらいサーキットで勝つためには予選の順位も重要になってくる。

「週末はピーカンで雨雲一つありませんね~。」

「ピーカンなんて言葉どこで覚えた?私も一瞬分からなかったぞ。」

「美春さんが教えてくれました。」

最近の誇之の日本人化が進んでいる原因は美春が一枚噛んでいるようだった。

「全く、あの人は…。で、予選はどんな作戦でいく?」

「Q2進出ですかね。沙羅さんが得意なサーキットらしいですから予選はとことん攻めてください。両方ともソフトで行きます。」

「それは嬉しいことだが、大丈夫なのか?」

Q2に出るということはソフトタイヤでそこそこ攻めないといけない。ただ、そうすれば決勝でタイヤがすぐ終わってしまう心配がある。

「はい、ですからアタックラップは一周だけです。」

「一周か…また難しい注文だな。」

「……二周にしましょうか?」

「だれができないと言った。お前がやれと言うのなら私はやるだけだ。」

少し不安そうな顔をする誇之の頭をクシャクシャと撫でてから、沙羅はピットへ向かった。

 

 

「わざわざお迎えに来ていただいてありがとうございます。」

サーキットへ続く山道を美春のS2000が走る。その助手席には愛華の姿があった。

最終戦決勝日。今日はゲストという形で愛華はチーム・レネンに呼ばれていた。

「いや、今日君は大事なお客さんだからね。これくらいはさせて欲しい。…卯月君じゃなくて残念だったかい?」

「いえ、そんな…。」

早朝の山は白い霧に包まれていて、少し肌寒い。関係者用の駐車場に車を止めて、愛華は美春についていく。

決勝前のフリー走行のために、暖気をする音が早朝の山中に響いていた。

ピットに入るとその音はさらに大きく響く。カートとは比べ物にならないその音は獰猛な獣の唸り声を彷彿させる。

後ろの方から背伸びをしてその様子を伺っていると、二台のマシンの調子を確かめるようにエンジンを覗き込む誇之の姿があった。

その顔は普段のふにゃりとした雰囲気ではなく、まじめな顔つきだった。

「はい、間違ってボタンを押さないようにね。」

「ありがとうございます。」

美羽からヘッドセットを受け取り装着する。

『そういえば今日は岬が来るそうだな。』

『ええ、美春さんが迎えに行ってくれてます。』

もうここにいるんだけどなーと思いつつ、愛華は黙って二人の会話に耳を傾ける。

『Q1のタイヤで良かったですね。あのセットの方が綺麗に減ってますから。』

『Q2は少し攻めすぎたからな。誰かの行いが良かったんだろう。』

『燃料は満タンです。後半スティントを重視してセッティングを確定させましょうか。』

『了解、行ってくる。』

沙羅がバイザーを閉じ、ピットから出ていった。それを見送った誇之が振り返ると愛華と目が合った。

「なんだもう来てたんだ~。ごめん、気が付かなくて。」

するといつものふにゃりとした雰囲気で話しかけてきた。

「大丈夫。予選から調子いいね。」

「うん、沙羅さんが頑張ってくれて何とか6番手に食い込めたよ。あとは決勝だね~。」

果たして決勝で何をするつもりなのか、愛華は誇之の顔をじっと見ながらその真意を読み取ろうとした。

「あはは、そんなに見つめても秘密だよ~決勝までのお楽しみ。」

「なんだ、残念。」

見つめ続けたせいか妙に照れくさくなり、愛華は視線を外しながら言った。

 

 

「全国のモータースポーツファンの皆さまこんにちは。本日は最終戦決勝日。いよいよ日本一が決まります。」

「昨日は三嶋選手頑張ってましたね。決勝は期待できると言ってもいいと思います。」

「今季最高グリッドからスタートするレネン陣営。何かと話題のチームですが、今日はなんとピットにあの選手がゲストで来ています。」

モニター上に愛華の姿が映し出された。

「レネン陣営に取材したところ、やはり岬選手を来年起用することを考えてるみたいです。もしそうなったら来年は楽しみですね~。」

「前戦では素晴らしい作戦で見事優勝しました三嶋選手、この最終戦ではどのようなレースを見せてくれるのか。昨日の予選六番手。今季最高グリッドでスタートです。これは非常に楽しみなところ…おっと、ここでその三嶋選手のところに高橋さんが向かっているそうです。」

グリッド上にこれから走るマシンたちが、エンジンを止め、息をひそめた状態で待機している。その一台一台を取り囲むように取材陣やファンたちがひしめいている。

「今季最高グリッドでのスタートということですが、これは前線よりも期待してもいいのではないですか?」

「そうですね、ただ今日は雨が降る気配がないので少し残念ではあります。」

「前戦のレース戦略は流石に予想外でした。今回も期待してもよろしいでしょうか?」

「真正面からぶつかっても勝てないのは分かってますから。」

無表情の沙羅がにやりと、不敵な笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。…以上三嶋選手でした。」

 

中継が終わるや否や、沙羅はおもむろにマシンに乗り込んだ。

フォーミュラマシン特有の必要最低限に設けられた狭い運転席に乗り込むと、先ほどまでの緊張による熱さがスッと冷たく引いていく。まるで、自分と車が同化していくように。

「落ち着きました?」

「ああ、大丈夫だ。」

ボードを持った誇之がマシンの横に立つ。

「上位はポイント争いをしている人たちが団子になってるので、上位勢のクラッシュに巻き込まれないように。それだけは注意してください。」

そう言って誇之はコース図が書いてあるボードを沙羅に見せる。

「どこが怪しい?」

「V字コーナーを抜けたヘアピンですね。立ち上がり重視のマシンと、突っ込み重視のドライバーが鉢合わせになった時が怪しいです。」

「ということは、3番手と4番手の二人が争った時が一番怖いな。」

その二人はタイヤもエンジンも異るが、来季のシートをかけて争っておりレース中も火花が散る可能性がとても高い組み合わせだ。

「まったく、チャンピオン争いをしているこちらの事も考えてほしいな。」

「沙羅さんは複数年契約ですからねー。まあ、レースですから。」

「そうだな、こちらはこちらで仕事をしないと。」

スタート5分前がアナウンスされ、選手以外はピットへ戻っていく。

エンジンのアイドリングだけが取り残され、場内は騒がしい静寂に包まれる。

一分前。

沙羅はもう一度自分のするべき仕事を一からおさらいしていく。

「大丈夫、車は最高の状態。タイヤもグリップする。あとは冷静に一つずつ作業項目を潰していけばいい。

30秒前。

ハンドクラッチを切り、ニュートラルから一速へギアを入れる。

15秒前。

回りはエンジンをふかしたりしたりする中、沙羅は何もせずにただその時を待つ。

シグナルブルー。

ウォームアップランが始まり、次々と走り出す。沙羅もゆっくりとクラッチを繋ぎ車を進める。

先頭の車が走り出すのを確認して、アクセルを煽る。最低限の回転数でゆっくりと発進させる。

『路面温度が25度、予想よりかなり低いですね。うちのタイヤでギリギリといったところです。』

「了解。」

 

このタイヤでギリギリか…ならかなり入念に温めた方が良いな。

 

マシンを左右に蛇行させたり、急ブレーキをかけるなどしてタイヤを温める。コーナーを抜けていくたびに車が路面に吸い付くような感覚が強くなっていく。

「よし、これなら問題ない。」

このタイヤのアドバンテージを生かすために、一周目から勝負を仕掛けた方が良い。

頭の中で前の車を抜くためのラインを思い描きながら、グリッドにつく。

目を閉じるとエンジンの振動が体全体に、そして耳から伝わってくる。

 

自分の体と車を一体化させろ。

 

レッドシグナルが一つづつ灯されていく。4つ灯ったところでアクセルを踏む。エンジンの唸りが徐々に高まっていき、適正の回転数まで達する。やがて全てのシグナルランプが点灯した。

沙羅はその赤いランプを見つめてその時をただじっと待つ。待っている時間が永遠にも感じる。やがて全てのシグナルが―

 

消える

 

クラッチを繋ぐ。タイヤが空転するギリギリのところまでアクセルを踏み、ギアを上げていく。

乗用車とは比べ物にならない、加速が沙羅の背中を押し出す。

第一コーナーがみるみるうちに迫っていく。

沙羅は車をアウト側に振り、早めにブレーキをかける。

右前にいる車が外側に膨らむのを確認してラインをクロスさせてイン側に飛び込む。次の次のトンネル前のコーナーではイン側につくポジションだ。

ストレートからのブレーキングで5番手に上がる。

 

まずは一台。

 

問題の二台が案の定争っていた。

前の車が立ち上がりでホイールスピンを起こしたことで、立ち上がりが鈍る。

タイヤの温まりが悪い一周目で二台は並んでS字コーナーに侵入した。

イン側のマシンがタイヤをロックさせる。これから起こる事態を予測した沙羅は、イン側をキープしたラインを選択した。

二台が接触した。外側のマシンがコース外へ弾き飛ばされ、イン側にいたマシンはフロントウイングを吹き飛ばしながらスピンした。

 

アウト側にパーツが散乱したな…頭に入れておこう。

 

カーボンでできたパーツは固く鋭く、まるでナイフのようである。そのため誤って踏んでしまった場合、タイヤが切れてしまう可能性があるのだ。

 

「三嶋選手オープニングラップの混乱に乗じて3番手に浮上しました。」

「良いですね、でも前の二台はもうグリップが来てるみたいですよ。ちょっとずつペースが上がってる。」

「ですが、三嶋選手もペースを上げてきました。二番手と…1秒差ですね。」

画面に2番手と沙羅のセクターごとのタイム差が表示されている。

「三嶋選手かなりハイペースですね、タイヤは大丈夫なのかな?」

 

「我々のタイヤの特性が良い方向に生きたようだね。」

「そうですね。あの二台の接触も事前に可能性を示唆してましたし、沙羅さんも冷静に対処してくれたみたいです。」

誇之は無線機に手をかけた。

「沙羅さん、ピットのタイミングはそちらに任せます。」

『了解。』

 

ピットガレージ内で愛華はじっとモニターを見つめていた。

「…すごい。」

沙羅のマシンはまるでレールの上を走る列車のように同じラインをトレースしていた。

コーナーを抜けるマシンの挙動は、同じ映像を繰り返しているのではないかと錯覚してしまうほどだった。

それは沙羅のドライビングスキルと、誇之が開発したマシンのポテンシャルが噛み合った結果だった。

『あと3周で入る。』

ヘッドセットから沙羅の声が聞こえた。

タイミングモニターを見ると、沙羅のセクタータイムが少しずつ上がっていた。

ピットが慌ただしくなる。タイヤが並べられ、燃料ホースを担いだクルーが待機する。

インパクトレンチを持ったクルーはタイヤ交換のシミュレートをしていた。

レースの映像を見ると沙羅と前の車の差が縮まっていた。タイミングモニターを見ると、タイム差が0.3秒以内に迫っていた。

愛華は先日のテストを思い出した。おそらく沙羅は最後のラップ―インラップでさらにペースを上げてくるはずだ。

愛華の背中に緊張の冷たい汗が流れ、興奮で心臓が強く打ちつける。

沙羅が得意とする第二セクターへ侵入する。

S字コーナーを抜けて、V字コーナーを抜けると沙羅は前の車にぴったりとついた。

ヘアピンのブレーキ、コーナーリングでもその詰まった差は変わらない。

ダウンヒルストレートでもスリップストリームを生かして、イン側へ並ぼうとするが前の車はそれを阻止する。

沙羅はアウト側へ車を振る。二台が並んで90度コーナーへ侵入する。

ここで抜いてもどうせ抜き返されると判断した沙羅はブレーキで一歩引く。そしてピットロードへ入っていった。

クルーの緊張が一瞬にして高まる。

ゆっくりと走る沙羅の車がフロントジャッキが丁度かかる位置で止まる。

ジャッキが上がる。すぐにタイヤが交換され、燃料ホースをセットする。

全てのタイヤが交換されて前後のジャッキが下ろされる。燃料を入れ終え、ホースが外されると同時にクルーがサインを送った。

すぐさまクラッチを繋いで沙羅は動き出す。

比較的早い段階でピットインしたため、すべての車に抜かされてしまう。結果、沙羅の目の前には一台の車もなかった。

しかし、沙羅の眼には余裕の色が見えていた。

 

さて、一仕事始めるか。

 

ガレージ内では運ばれたタイヤを愛華が観察していた。

タイヤは4輪とも見事にすり減っていた。いわゆる美味しい所を全て余すところなく使い切った状態だった。

「綺麗に使ったなー三嶋先輩。」

特に後輪の使い方は見事としか言いようがなかった。

「さて、この後はどう出るのかな?」

愛華はレースの様子をじっと見つめる誇之の背中をガレージから見つめた。

 

「さあ、上位陣のなかで初めにピットインを行った三嶋選手。ピットストップは25秒…少し長めでしたか?」

「そうですね、おそらく燃料を多めに入れたんでしょうね。」

「このタイミングは正解と言っていいですか?」

「そうですね、今三嶋選手の前には誰もいませんから。これは終盤が楽しみですね。」

 

「……嘘でしょ?」

タイミングモニターを見つめながら、愛華は今日何度目かの驚きの声を漏らした。

沙羅のラップタイムがコンマ2桁までぴったりそろえられているのだ。

まるで機械が、プログラミングに沿って走さをしているような正確無比の運転だった。

「こんなの…私じゃ真似できない。」

この状況から考えられることは沙羅はこのままタイヤ無交換、無給油で走り切るつもりだということ。

上位二台は2回のピットストップを予定している。前回は突然の豪雨という状況があったため目立たなかったが、本来は非常にタイヤに優しいマシンという素性を持っているのだ。

今は重い燃料を積んでいるせいで、タイヤのダメージも多い。それにマネジメントもしなくてはならないという厳しい状況だ。しかし、燃料が軽くなるにつれてその状況はどんどん良い方向へ傾くはずだ。

沙羅の車がストレートを抜ける。1周目でコースアウトをしたマシンを抜かそうとしたその時、前の車から何かが吹き飛んだ。

黒い塊が沙羅の車のアンテナに直撃した。

塊は軌道を変えて沙羅に当たることは無かったが、マシンに何かトラブルが起きた可能性があった。

『沙羅さん、聞こえますか?』

『………!』

誇之の声がヘッドセットから聞こえてくるが、対する沙羅と思われる声はノイズにかき消されて全く聞こえてこない。

通信手段が途絶え、愛華の顔に不安の色が見え隠れする。

対する誇之はまだ余裕の表情を浮かべていた。

 

「さて、どうする卯月誇之君?」

「まあ、もうピットには入りませんからね。サインボードでギャップとラップタイムを教えるくらいで良いと思いますよ。」

「まあ、そうだろうけどね。」

なぜか美春は呆れたような顔をしていた。

「ただ、あの人は見かけによらずネガティブ思考になりやすいですからね……あ、そうだ。」

何かをひらめいたのか、誇之はサインボードがある場所へ向かった。

 

「聞こえるか?誰でもいい、聞こえる奴はいないのか?」

無線に呼びかけても、ノイズが走るだけで誰の声も聞こえる様子がなかった。

「…仕方がない。」

まだサインボードがあるし、これ以上ピットに入る予定もない。後はただ淡々とラップを刻むだけで良い。

どのように走ればどのくらいのラップで走れるのかも大体掴めてきている。

「よし、問題ない。」

やけに高鳴る心臓を押さえつけるように沙羅は自分に言い聞かせる。

そろそろ上位勢が二度目のピットに入るころだ。

 

「ここで先ほどの三嶋選手のリプレイ映像ですが…これはタイヤカスですか?」

スローモーションで再生された映像には、前の車のタイヤから剥離したタイヤカスが沙羅の車に当たる瞬間が映っていた。

「あんなに大きなタイヤカスが出るんですね。あ、これ無線機のアンテナに当たってる…。あー完全に取れちゃった。」

しばらくぶら下がっていたアンテナが風圧で完全に吹き飛んでしまった。

「無線…駄目でしょうね。あーこれは三嶋選手きついかもしれないなぁ。無線ってただの情報伝達じゃなくて選手の精神的支えにもなったりするんですよ。」

「思わぬトラブルに見舞われましたレネン陣営。さて、ここで上位2台が同時にピットインです。これはピットクルーも緊張が走ります。」

「さて、その間に三嶋選手がトップに立ちましたよ。」

沙羅が争うことなくホームストレートを走り抜ける。

「おっと、ここで2番手と3番手が入れ替わります。ピットで逆転に成功しました!」

「三嶋選手との差は…20秒ですか。ギリギリ追いつく計算ですね。」

残りの周回数は15週で、後ろの荷台は沙羅の車とは一周に付き1.6秒ほど速い。

「これは…三嶋選手はタフなレースが強いられそうです。」

 

沙羅が周回を重ねるたびに後ろとの差が着実に縮まっていく。

沙羅はアクセルを強く踏んだり、ブレーキを我慢してくなる衝動を必死に抑え込む。

燃料が減り、車重が軽くなったことで少し楽になったが、タイヤの反応は確実に悪くなってきている。

アンダーステアにもオーバーステアにもなる。

少しでも焦ったらこのレースは落としてしまう。

「これは…結構きついぞ。」

心の中にある不安の種が少しずつ大きく膨らんでいく。今自分がしている操作で本当に正解なのだろうか?もっと良い作戦を卯月は考えていないだろうか?

しかし、無線が断たれた今この状況では一人で何とかするしかない。

一度膨らんだマイナスな思考がどんどん膨らんでいく。

ホームストレートを抜ける。唯一の情報伝達手段であるサインボードには後ろとの差が示されていた。

タイム差は10秒を切っていた。

その時、サインボードの下の方にガムテープが張ってあるのを見つけた。

そこに書かれていたのは見覚えのある字。

猛スピードで走っている最中で、さほど大きな文字ではなかった。しかし、沙羅にははっきりとその文字を読むことができた。

 

そのちようし

 

その文字を見てフッと体が軽くなった。今まで感じていた重圧や緊張が全て吹き飛ぶ。

その瞬間沙羅の目の前にこの場にそぐわないハコ車が見えたような気がした。

コンパクトな車体、滑らかに下がっていき突然バッサリ切り落としたような独特なリアのデザイン。NSXを彷彿させる横長のテールランプ。

あの時のハイペースで走っていながらも感じた心地の良い感覚を思い出す。

 

そうだ、まだ負けたわけじゃない。ましてや今トップに立っているのは私なんだ。むしろ焦っているのはあちらの方だ。

 

頭に上っていた血がスッと冷めていく。主観的に見ていた自分の運転を客観的に観察する。

 

この状況を…楽しもう

 

「さあここにきて三嶋選手のタイムが再び安定してきました。」

「面白くなってきましたね。計算上はファイナルラップで追いつく計算ですけど、唯一のオーバーテイクポイントにはカーボンデブリがありますし…これはものすごいファイナルラップになりそうですよ。」

既に沙羅とその後ろの車が一つの画面に収まるまでに接近していた。

 

ダウンヒルストレートを抜け、90度コーナーに侵入する。タイヤを空転させないようにジワリとアクセルを踏み込んで、ヴィクトリーコーナーに入る。

ちらりとミラーを確認する。もう目と鼻の先に後ろが来ていた。

 

ファイナルラップで、マージンを…使い果たしたか。

 

ぴたりと後ろに付いている感覚が痛いほどに伝わってくる。しかし、この状況でも沙羅は冷静だった。

大きなコーナーを立ち上がり重視のラインを取り、ストレートスピードを稼ぐ。トンネルを抜け、得意のS字コーナーに飛び込む。

 

ここの侵入と立ち上がりは誰にも負けない。ここで差をつけて相手を焦らせる。

 

しかしこちらのタイヤも限界に近い状態だ。車を曲げようとしても勝手に外に膨らんでいく状態だった。

それをアクセルでリアを少しだけ空転させてオーバーステアを作り出すことで何とか対処をしていた。

少しだけ開いた差を利用してヘアピンを大きめに侵入し、脱出でイン側を走るようなラインを取る。

 

絶対にイン側には来させない。

 

執念のブロックラインが功を奏し、相手はアウト側にマシンを振った。

二台が並んで90度コーナーに侵入する。

触れるか触れないかのギリギリの感覚で並んだままヴィクトリーコーナーに侵入する。

イン側の沙羅が先にコーナーを抜ける。しかし、アウト側の利点を生かしてすぐに並び返される。

 

チェッカーフラッグが…見えた―

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