マンションの最上階に美女が住んでいる――
そのマンションにこんな噂話が起きたのはつい最近のことだった。どこにでも人が集まる所噂話はつきものだが、この話はマンションの住人を虜にした。何しろここはマンションといってもハイグレードマンション、超とまではいわないがいわゆる高級マンションなのだ。
15階からは価格も跳ね上がり、最上階にいたっては相当な額、そんな最上階に美女が住んでいるというのだから、一定数のマンション住人が色めき立つのは仕方のないことだった。
「一度でいいから私も見てみたいなあ、その最上階の美女」
「どうやら会社の社長の愛人みたいよ、とても若いんですって」
「え?私は資産家の娘って聞いたけど…」
「若い男と暮らしているんじゃなかったっけ?」
そんな噂話に興じて今日も好き放題に語り合う数名のマンションの住人達がいた。ここはマンションの共有スペース、つい先ほどまでヨガ教室が行われていたのだが、それが終わって特に用事もない者たちが残り自然と噂話に発展していったのだった。
「主人が言うには、ほんと見惚れるくらいに綺麗らしいのよ」
「お宅のご主人見たのかい?」
「いいえ、警備員さんから聞いたんですって」
3人の中年の女性と1人の初老の男性が楽しそうに噂話を続けている。プライベートを固くなに守りたくて人付き合いを避ける住人も多いのだが、このようにコミュニティを築きたい者たちもまたいるのだ。尾ひれをつけっぱなしの噂話が続いている時、ふと中年女性の一人が何か気づいたように入口の方へ視線を向けた。
「あら、あのひと」
そこには黒いスーツ姿のすらりと背の高い女性が、ちょうど共有スペースを横切りエレベーターへ向かう所だった。肩まで伸びた蒼い髪、中性的な容貌にはどこか人好きのする魅力があって。と、その女性もまたこちらに気づいたのか、爽やかな笑みを浮かべ会釈してくる。
「時折朝見かけるのよ、気持ちのいい方よね」
「どの階に住んでいるのかしら」
エレベーターに乗り込む女性を見守りながら、女性達が話し込んでいる。
「案外あのひとが最上階に住んでいるかもしれないわね」
「まさか!確かに若い女性ではあるけど、ちょっと美女とは違うんじゃ――」
―――違って悪かったわね!
初老の男性の声を聞きながら、美樹さやかは心で叫んだ。
「まったくもう…」
口を尖らせ、つい一人呟いている間にエレベーターの扉が閉まり、すうっと上昇していく。10、11、とランプが点灯し20でポン、と音が鳴り、扉が開いた。
一歩進むと、バチバチッと音を立てて軽く静電気の様なものがさやかの体に走る。結界だ。相方の黒髪の女性が作り出したもので、さやかの目には幾何学模様の光の束が幾重にも重なって見えている。歩く度に静電気が走るが、特にさやかは臆することなく歩き出した。コツコツ、と玄関へ向かって進む。特に鍵を取り出すことなくさやかはドアノブに手を掛けた。
――が、開かない。
「あれ?ちょっと」
ガチャガチャ…と慌ててさやかはドアノブを回す、普段は鍵を掛けていない、結界があるのでさやか以外の者が入ってくるのは不可能だから。だが、今は掛かっている。
ガチャガチャ…ガチャガチャ…
真剣な表情で必死にドアノブを回すさやか。その表情は次第に焦燥から恐怖のそれに変わっていく。傍目から見たら滑稽だがこの締め出しでそうなるくらいの思いを何度も味わったさやかなら仕方のないことだった。…繰り返すようだが、傍目から見たら滑稽ではあるのだが…。
「ちょっと、ほむら、ほむら!」
ドンドン、とドアを叩きながらさやかは相方の名を呼んだ。この10年で共闘し共に暮らす様になった女性の名を。まるで容疑者の家宅捜査時の刑事の様に(実際刑事だが)激しいノック、だがそれでもドアの向こうはうんともすんとも言わない。恐怖から途方に暮れた様子に変化していくさやかの表情。
「マジか…」
締めだしは今日に始まったことではない、時間を司る能力を持っている所為か、元々の性格か悪魔となった今でも黒髪の美女は時間にはものすごくうるさい。約束を破った後のさやかの末路は悲惨なもので、朝まで家に入れずに座り込んでいたなんてざらである。ぶるっ、とさやかは身体を震わせた、こんな寒い日に締め出しされてしまっては――
「人魚の冷凍ができあがるかしら?」
「わっ」
すぐ近くで艶のある声がして、驚いたさやかは前のめりに飛びあがりドアに激突する。
女性の笑う声。いつの間にかさやかの傍には黒髪の女性が立っていた。とても美しい女性。黒の喪服の様なドレスを着ており、その背中には大きな黒い羽が生えている。マンションの住人が見たら映画の特撮とか何かだと思われるだろう。だがその羽は本物だ。ゆらゆらと女性の長い黒髪と同じように風に揺れて。右手で流れる黒髪を抑えながら、女性はさやかを横目で眺めていた。
「随分とお間抜け顔ね、さやか?」
端麗な横顔の口がニイ、と裂けたように割れた。恐ろしい妖艶な笑み。
「ほむら」
額を抑えながら、さやかは『恐ろしいくらいに美しい』悪魔――暁美ほむらの名を呼んだ。
******
暁美ほむらとの関係をさやかは今でもどう言い表していいのかわからない。一言で表すにはあまりにも複雑すぎるし、根が深いものだから。ただ、あれから――ほむらが世界を改変してから――10年という歳月が流れる中で様々なこと…本当に様々なことが起きたのだ。危機に直面し、身も心もボロボロになったさやかが、この敵とも言えず、だからといって仲間とも言い難い黒髪の女性に救われたことも何度かあった。そこから、時折訪れる奇跡的な平穏な日にささやかな交流が始まり、険悪だった二人の仲には微妙な変化が訪れたのだ。今では関係の軋轢は徐々に解消されていき、足しげくほむらの家に通っていたさやかは、こうして彼女の住むマンションに居候するようになるまでに至っている。
「貴方が慌てふためく様、見てて楽しいわね、まるで家に入れない子犬みたいよ?」
「もう…み、見てたんなら言ってよ!」
頬に手を添え、くすくすとさも楽しそうに肩を揺らす悪魔と羞恥で頬を赤くしながら子供の様に口を尖らせるさやか。こういうやりとりは昔も今も変わってないようで。
「ったく…ていうか、あんた、もしかして魔獣と戦っていたの?」
「ええ」
だから留守だったのか、と気づいたさやかはしかしちょっと寂しそうに。
「私も呼んでくれればいいのに」
「あら、心配してくれているの?」
「そういうわけじゃ――」
「素直になればいいのに」
「う」
流し目で囁いてくる悪魔に言葉を詰まらせる元鞄持ち。
――うう、これが困るのよ!
そう『これ』がだいぶ困るのだ、これとは彼女の持つ『美貌』。悪魔と化したこの女性が持つ特有の威圧感にはだいぶ慣れてきたさやかであるが、この『美貌』には一向に慣れることができない。見惚れてしまって思考が停止してしまうのだ。自分でもまずい(何が)と思っているのだが、さやか自身どうにもならなかった。なにせ14歳の頃から「すっげー美人」と評していた美少女が、10年という歳月を経て順当に…いや、規格外な美女へと成長を遂げているのだから。しかもついでに言うなら悪魔故か滲み出るような妖艶さまであるときたもので。同性である自分がこうなのだから、異性はなおさら大変だろう、と思いかけ、さやかは自分の置かれた状況を思い出し、戸惑ってしまう。
いや、そんなもの関係なくて、たぶん私が一番こいつのことを――
「どうしたの?おまわりさん、顔もだいぶ赤くなってきたわね…発情した?」
「ぶ…っ!は、はつ…って人聞きの悪いこと言わないでよ!」
ある意味それは図星で。悪魔は愉快の絶頂期に入ってしまった。さも楽しそうに笑いながら、体ごとさやかにもたれかけてくる。ほんの少しだけさやかの方が背が高いため、その肩に悪魔は甘えるように頭をのせて。
――この小悪魔!
これ以上ないくらいさやかは顔を赤くして、肩にもたれこちらを見上げている悪魔を睨む。だがやはり、秒ももたずにそっぽを向いた。嬉しそうな笑い声、ぱちん、と指を鳴らす音。ドアがひとりでに開いた。
「さあ、開いたわよ、中へどうぞ?」
からかうような声にはあ、とため息ひとつ返事して。困り顔の美樹さやかは笑顔を浮かべる悪魔と共に中に入っていった。ぴったりと寄り添いながら。
このマンションの最上階には美女とその美女にめっぽう弱い鞄持ちが住んでいるのである――