そのマンションの最上階には美女が住んでいる。
「なあ、警備員さん教えてくれよ」
「い、いえ、住人のプライバシーにかかわる事ですから…」
その1階のフロアで年若い警備員と初老の男性がなにやらもめている。男性は先ほどヨガを終えたばかりの噂好きのメンバーの一人だ。そしてその背後には同じくメンバーの中年女性二人。
「あらあら、ちょっとおやめになさって…」
「いいや、俺は気になってしょうがないんだ、最上階に住んでいる美女がせめてどんな容貌かくらい教えてくれたって…そちらの旦那には教えたんだろう?」
「あの時はたまたま…つい『怖いくらい美しい人でしたよ』って口走って…そ、それも本当はいけないんですから!勘弁してくださいよもう」
「そうよ落ち着いて、警備員さんが可哀そうだわ」
息子くらいの年齢の警備員を不憫に思ったのか、はあ、と息を吐いて離れる初老の男性。
「しかし、一目見たいなあ…」
これみよがしに未練がましく呟く初老の男性。まあまあ、と困り顔で宥める二人の女性。噂好きのこのメンバーは大の仲良しの様で、警備員が立ち去って行ったフロアでまたお喋りを続ける。『最上階が…』『美女が』となにやらひそひそと語り合い、その内眼鏡をかけた女性が、あ、と声をあげた。
「私、いいアイディアが浮かんだわ!これなら美女に会えるかも!」
******
「噂?」
「そ、噂、たぶんというか絶対あんたのことよ」
スーツを脱ぎながら、美樹さやかは横目で悪魔に向かってそう呟いた。口を尖らせているのは、先ほどの不愉快な件を思い出したからだろうが、美しい悪魔は知る由もなく。
「私が?」
小首をかしげ、その美しい悪魔―暁美ほむら―はさやかを見つめた。変身を解いて一足先にソファでくつろいでいる彼女からはもう先ほどの圧倒的なまでの禍々しさと威圧感は感じられない。人として暮らすために身に付けた処世術とでもいうか、ある程度の抑制が可能なのだ。
「このマンションの最上階に美女が住んでるんだってさ、さっき一階のフロアで…ってな、何さいきなりニヤニヤして!」
クローゼットにスーツをしまい込みながらお喋りを続けていたさやかが振り返り、そしてワンテンポ遅れてからギョッと身体を強張らせた。くつろいでいる美しい悪魔がこちらを見て笑顔を浮かべていたからだ。
「あら、だって嬉しいもの」
黒のドレス姿で足を組みひじ掛けにもたれ頬付けをついている姿はまるでモデルの様で。さやかを眺めながら、再び艶のある唇を開いて言葉を続ける。
「貴方が私のことを美女と言ってくれるなんてね」
「ちが、それは私が言ったんじゃなくて…」
だが、それから言葉は続かず、美樹さやかはただ惚けたようにほむらを見つめる。
なんとも奇妙というか必然というか、この蒼い髪の女性は事あるごとに暁美ほむらに見惚れてしまうのだ。つい先ほど玄関先で鉢合わせた時もそうだったのだが、今もまさにそれで。
頭をぶるぶると犬ように振ると、さやかは深呼吸してパタン…と妙に静かにクローゼットを閉じた。その一挙一動を面白そうに眺める悪魔。
「…じゅ、住人がそう言ってたのよ、別に私がそう思ったわけじゃ」
「あら、じゃあ貴方はどう思ってるの?」
「う…」
挑発的な笑みを浮かべるほむらにぐうの音も出ないさやか。
――こいつ絶対からかってる!
そう、悪魔はこの10年さも嬉しそうに鞄持ちをからかい続けている。それ以前、心を閉ざし、頑ななまでにたったひとつの願いのためだけに生きてきた暁美ほむらと、事情を知らないさやかとは険悪な間柄だった。だがそれはあの日から変わったのだ。
『神の理に抗うのは当然のことでしょう?』
あの時のほむらの顔が脳裏から離れない。たぶんあの瞬間から関係が変貌したのだとさやかは考えている。険悪から、揶揄い――どうしてこのような形になったのかは彼女には未だわからない。ただあの時さやかはまさに悪魔に魅了されたのだ。そして今も。
――しっかり、私!
心で自分を鼓舞し、何故かきっ、とほむらを睨む。凛々しい表情を浮かべているつもりなのだろうが、どこか間の抜けた感じは否めなくて。おそらくほむらもそう思ったのだろう、くすくすと肩を揺らし笑い始めた。
「変なひと」
そう囁くと、すう、と立ち上がり音もなくさやかの元へと近づく。一気に距離を詰められてたじろぐさやかと口元を緩めたままのほむら。その構図はかつてのあの頃の様で。
「ちょ…」
さやかの目が見開かれる。あの頃の美少女の面影を宿した美女の顔がどんどん近づいて。
「正直に言っていいのよ?」
艶のある声、面白いように固まるさやか。10㎝も満たない距離まで詰められてそう囁かれたらたまったものではない。それが暁美ほむらの様な絶世の美女ならなおさらだ。
「な、何を」
必死に声を絞り出すも、もうさやかには抵抗する術は無い。既に魅了されているのだから、この美しい悪魔に。さやかの耳にくすくすと美女の笑い声が聞こえるが、近すぎて表情はもう見えない、見えるのは綺麗なアメジスト色の瞳だけで。
――綺麗
まるで吸い込まれそうだとさやかは思った。その瞳に自身のどこか惚けた顔が映し出されて。と、そこで悪魔の動きが止まった。ちっ、と舌打ちが聞こえ、さやかの視界から美貌が遠ざかる。腰に手をあてながら険しい表情を浮かべる黒髪の女性。
「ど、どうしたのさ」
「誰か来るわ…」
「え」
ほむらの切れ長の目が細められ、そのタイミングでガチャ、と音がする。ドアをロックしたのだ。代わりに周囲の結界が解除されていくのをさやかは感じた。
「マンションの住人…無害な人間の様ね」
「魔獣じゃないのね」
安心したように息を吐くさやか。結界は対魔獣用(ごく稀に不審者対策)なので、マンションの住人相手だとかえってこちらが不審に思われてしまう。その為ほむらは解除したのだ。しばらく二人は黙ったまま見つめ合う。と、
ピンポーン
インターホンのチャイム音が鳴る。
「わ、初めて聞いたかも…」
「しっ」
人差し指を唇にあてるほむら、口を抑えるさやか。聞こえることはまずないのだが、絶対とも言えない。
――どうする?居留守するつもり?
――もちろんよ
二人念話に切り替えて話し合う。そうしてまた黙って見つめ合う。まるでパントマイムの様で。
ガタン…ガサガサ…
と、数秒後音がした。ドアに何か投函したらしい。美しい眉をひそめ目だけをそちらに向けるほむらと目を丸くして顔ごと向けるさやか。
……
静寂に包まれて約3分、ようやく悪魔と鞄持ちが動き出す。人間の来訪者に戸惑いを見せる様は珍しくも、どこか微笑ましいもので。だが当の本人達はいたって真剣な表情でドアまで近づいていった。よく見るとドアの下に何やら落ちている。
「チラシ?」
さやかが俯いてA4サイズの一枚の紙を拾い上げた。寄り添うようにその肩越しから覗き込むほむら。
健康体操実施中!
さあ、あなたも30分の運動で健康になりませんか?
魔法を使ったわけではないが時が止まった様に動かなくなる二人。しばらくしてから、ようやくほむらがぽつりと囁いた。
「……30分の運動で健康になれるならいいことね」
*****
「残念ねえ、会えると思ったのに」
「でもいいアイディアだったわ、健康体操の勧誘と称して会いに行くなんて」
「そうそう、最上階に行ってインターホンを押すだけでも、俺はなんだかワクワクしたなあ」
エレベーターの中では『妙案』を実行した三人が和気あいあいと話し合っていた。
「でも来てくれるかしらねえ」
「『是非来てください!お待ちしています』って書いてきたから、顔ぐらいのぞかせてくれるかもよ?」
「だったらいいなあ」
そうして三人は期待を抱いて1Fのフロアに戻っていったのだった――
――是非来てください!お待ちしています 最上階の方へ――