書けるうちに書き、更新できる時に更新。4月の頭は数日間だけ書く暇があるので、更新です。
ーー聞いてた話と違う!?
目の前、こちらを睨んでくるフェルトに対してスバルが一番初めに思ったことはそれだった。来る時までに心の準備をしようとした矢先の出来事、衝撃的すぎて言葉が出ない。
ハヤトが話した通りなら彼女は夕刻以降にこの場所に戻ってくるはずなのに、どうしてここいる。時間的に余裕はあるはずだったのに、なぜ自分の前に立っている。
展開が変わった、そう思うのが妥当。しかし、それ一つで納得できないだけの衝撃が今、スバルの胸を一直線に突き抜けていた。
「黙ってねーでなんとか言えよ。それともなんだ? 話せない事情でもあんのか?」
動揺するスバルの態度が気に食わなかったフェルト。自分の家を勝手に覗き見されていた時点で怪しすぎる上、そうやって黙り込まれればその警戒心は必然的に高まった。
睥睨する赤色の瞳を鋭利に尖らせて威圧。油断ない姿勢をとり、表情が固まるスバルを完全に敵視。少しでも妙な真似をすれば柄を握りしめた手で短剣を引き抜いて斬ってやる。
臨戦体勢なフェルト。争いの多い貧民街の暮らしに慣れた人間からすれば当然の対応にスバルはゴクリを生唾を飲む。なにか、なにか言わなければと緊張する思考を無理やり動かし、
「お、お前がフェルトか?」
「ああ? なんでアタシの名前を……」
言葉を作る時間稼ぎとして名を呼び、知られていたことにフェルトに訝しがられた。小首を傾げる彼女は頭の上に疑問符を伸ばし、スバルのことをまじまじと観察。
記憶に該当する存在がいないか確認する中、ほっと一安心のスバルだ。今のやりとりで自分が彼女に記憶されていないことが判明し、徽章関連で襲われる心配は消えた。
その代わり、自宅前を彷徨く不審者という意味合いで襲われる危険性が生じたことに焦りを覚える。話をするならば、まずは彼女の警戒心を解いて自分が安全であることを示す必要がある。
数秒の沈黙。記憶を漁り続けるフェルトは、その中に目の前の存在を見つけることはできなかったのだろう。「あのさ」と前置き、
「姉ちゃん、アタシとどっかで会ったか?」
「そう言われるとここじゃない、今とは別のどこかって答えるしかないんだけど……。それもかなり一方的な出会い方」
「ーー? 頭イカれてんのか?」
「どストレート!」
意味の分からない言い方に直球で返されたのは辛辣な言葉。容赦のない感想を真顔のマジトーンで言われると心にぶっ刺さった。が、その言葉が彼女が自分を知らない何よりの証拠だ。
年上を敬う心が未熟なのは置いとくとして、それが分かればよろしい。胸に添えた手で心痛を大袈裟に表現するスバルは勢いで緊張を誤魔化しつつ、今後の展開を脳内で構築開始。
どうにか警戒を解き、徽章の話を持ち出す。近くで見守るハヤトがいるから命の危機は皆無、故に、恐れず大胆に。
「いやでも。姉ちゃん、どっかで見たような気がすんだよな」
「うぇ?! い、いやいやいやいや! そんなわけないって! それはきっとアタシに似た誰かだな! うん! そうに違いない! こんな普通オブザ普通みたいな女、探せばいくらでも出てくるし!」
「なんでそこまで卑屈なんだよ。ま、普通っちゃ普通だけどな。その鋭い目と服装は普通とは………」
言えねーけど。
そう言おうとしたフェルトの声は、最後まで続かなかった。この少女に存在を記憶されていないと安心していた心を揺らすそれにスバルの饒舌が重なるも、目を凝らす少女の耳には届いていない。
言ってて思った。確かに変な服装だと。鋭い目つきはともかく、この辺りでは全く見ない服装だ。一度でも見れば忘れることなんてない。
見たことがあるのなら尚更、思い出せるはず。
「そ、それよりさ! アタシ、フェルトに用があって来たんだけど……」
「ちょっと待てって。思い出してる最中だから話しかけんな」
過ぎ去ったはずの心配が帰ってくる感覚に彼女の意識を逸らそうと話題を切り出したスバルだが、軽く突っぱねられた。動揺が形になって一滴、冷や汗が額から垂れる。
ーーやばいやばいやばい
頭の中で着々と完成しつつあった構想を押し除け、スバルはどうにか彼女の意識を逸せないかと思考をフル回転。このまま何もせずに黙っていては確実に思い出してしまう気がする。
そうなれば交渉の余地無し。ハヤトに任せられた役目をまともに果たせずして、彼にバトンタッチ。否、それは嫌だ。何か一つでもハヤトの役に立ちたい。いいところを見せたい。
そんな彼女の思いは、
「お前、徽章奪った姉ちゃんと一緒にいた女か!」
今、儚く散った。
記憶を漁った末、フェルトの脳裏に映し出されたのは懐に忍ばせた徽章を奪った瞬間の映像。
徽章を奪うのに意識が向いていたせいで顔までは確認できなかったけど、この格好をした人間の横を駆け抜けた覚えがある。珍しい格好、間違えなくこの女。
途端、踵で地を蹴り上げるフェルトが大きく後退。短剣の柄を握りしめた手を素早く引いて抜刀。臨戦体勢が戦闘体勢に変わった瞬間、それが交渉の余地は無いことを示唆した。
けれど、まだスバルは諦めない。
「ちがっ……人違いだ! アタシじゃない可能性もあり得るって思わないのかよ!」
「思わないな。そんな服装してる奴なんざテメー以外に見てねーし。……思い出した、思い出したぜ」
声を荒げて食い下がるスバルだが、フェルトの心に響くことはなかった。大した効果を生まない必死な訴えは虚しく空振るのみに終わり、一歩通行な言葉は簡単に拒絶。
フェルトが戦闘体勢に入った時点で、既に交渉の場は壊れたようなもの。元から怪しまれていたのに加えて、徽章を奪った人間の関係者だと断定した彼女に付け入る隙はないのだ。
「テメー、アタシを追っかけた三人の使いっ走りだろ! アタシが覚えてねーと思って上手いこと利用されたな? だったら残念だったな! 薄汚い小娘だと思って舐めてんじゃねーぞ!」
「だから、そんなんじゃないって……」
「うるせー! 問答無用だ!」
確信めいた乱暴な言い方に否定が重なった瞬間、短剣を携えるフェルトが前方に飛び出す。敵意を宿す双眸でスバルを睨み、八重歯を剥き出しにした凶暴な表情が距離を詰めにかかった。
もはや、スバルに抵抗の二文字はない。彼女の口から出る言葉の一切を遮断したフェルトには何を言っても無駄。その証拠に、静止を呼びかける声を押し除けながら少女は向かって来ている。
衝突まで五秒もない。性別が同じ女で、こちらの方が体格で勝っていたとしても、貧民街で培った戦闘力にはスバルも勝てないだろう。なにせ、彼女と違ってか弱い女だ。
尤も、ハヤトが助けに来ると知っているから恐れはない。
「ーー!? 今度はなんだよ!」
接触間近。
向けた剣先がスバルの心臓に狙いを定めた瞬間、フェルトとスバルの間に白い物体が乱入。突然のそれに慌てて距離を取るフェルトが見たのは、数十分前にも見た顔。
スバルの思いを反映したような登場の仕方——真横から滑り込む勢いで割って入ったハヤトだった。彼の登場に無意識に張っていた緊張の糸が撓み、強張るスバルの頬が緩む。
スバルからすれば最高の援軍。フェルトからすれば最悪な相手との遭遇。立場によって捉え方が逆転する登場をしたハヤトは「ふっ」と浅く息を吐き、
「ダメだったか」
「うん。普通にバレちゃった」
「まぁ、仕方ねぇよ。気にすんな」
背にしたスバルを気にかけるハヤトだが、その視線はフェルトに固定。一度、彼女のトップスピードをその目で見ている彼は体を運ぶ足元に意識を置き、油断の隙は見せていない。
相変わらずの堂々たる立ち姿。鍛え抜かれた猛者でも近寄り難い圧迫感と威圧感のあるそれと向かい合わされるフェルトは「ちっ」と舌打ちし、
「盗みが早く終わったから一休み程度に戻って来たのが間違いだった……! アタシの寝床に張り込むとか、やってくれるじゃねーか。兄ちゃん」
苛立ちげに吐き捨て、携えた短剣の柄を強く握りしめる。問答無用の言葉とは裏腹に男を前にしたフェルトは特攻せず、放たれる存在感に気圧される様子を漂わせた。
その様は、強敵を前にした人間のそれに違いない。フェルトは今、自分が出会って来た中で最も強い相手と相対している。それも、更新されることがないであろう化け物と。
いつ襲い掛かられてもおかしくない。腰を低く構えて駆け出す体勢をとると、
「ちょっと待てや、フェルト。俺は別に、お前と戦いたくてお前の家に来たわけじゃない」
「あんたみてーな貴族が気安くアタシの名を呼ぶな、気持ち悪い」
気持ち悪い。
前回に引き続き、今回も言われた直球な罵倒に「ぅ」とハヤトが呻く。根はいい子だと分かっているから被害は少ないものの、どうしても心に響くものはあったようだ。普通に辛い。痛い。
遠慮のない罵倒に「君、本当に配慮という言葉を知らないよね!」とハヤトの背中からスバルの声が上がり、「知らねーよ、んなもん」と鼻で笑うフェルトが一蹴り。
ーーさて、こっからどうする
二人のやりとりに挟まれながら、ハヤトは考える。
警戒心と嫌悪感が全開の今では、まともに話せる空気がまるでないフェルト。ただでさえ貴族を嫌うのに重ねて敵対した地点からスタートした関係、ロム爺の口添えが無い今、どうやってその二つを解消するべきか。
前回は、フェルトが世界で最も信頼するロム爺の言葉があったから彼女の心をこちら向けられたようなもの。彼の助力が無ければ、短時間の解決は難しかっただろう。
故に、その難易度はぐんと跳ね上がる。関係値がゼロどころかマイナスに振り切ってるのをどうにかゼロに戻すところから始めて、話し合うきっかけを掴まなければならない。
ーーマジで、どうしよう
「んで? テメーらは二人揃って、アタシが盗んだ徽章を取り返しに来たってことかよ。こんな貧相な場所までご苦労なこった、貴族様ってのも大変だな」
「その大変な思いをさせてんのが自分だって自覚あんなら、返してくれてもいいが?」
「ざけんな! アタシはアタシの仕事をしてんだ! テメーらの指図なんか聞けるかよ!」
「じゃあ、戦うのか?」と、手加減に手加減を重ねた脅し口調のハヤトにフェルトが小さく息を飲む。肌で感じ取れる相手の圧倒的な圧に身を固め、威勢のいい声が喉元で止まった。
戦わずに逃げる選択肢も彼女にはある。ついさっき自分はあの男の追跡を容易く振り切って、逃げたのだから。今この瞬間にも飛び出し、加護の恩恵を受けてしまえばいい。
にも関わらず、フェルトの足は動かない。逃げ足には絶対的な自信のある自分の足は、金縛りにでもあったように動いてはくれなかった。
それはきっと、あの男を見ていると「追いつかれるのでは」なんて事を思わせられるせい。言葉にしようのない脅威が、あの男から放たれるせい。
これは、本当にヤバい相手かもしれない。
「戦いたくないなら、そうしない手もあるぜ?」
逃走本能を思いっきり逆撫でする覇気にたじろぎ、言葉にできない焦燥感に身を焦がされる相手にかけられた唐突な慈悲。
予想だにしないそれに威嚇するフェルトが「は? なに言ってんだよ」と仁王立ちのハヤトを睨み、
「俺は、できればお前とは戦いたくねぇ。結果が目に見えてるとかそんなんじゃなくて、ただ純粋に戦いたくねぇんだ」
「意味分かんねーこと言ってくんなよ。その武装で盗んだモン取り返しに来て戦いたくないだ? マシな嘘のつき方も知らねーのか」
「嘘じゃない。戦う気なら今すぐにでも飛びかかってる」
戦闘体勢なフェルトに、戦う気配を一切見せないハヤト。言われて当然の言葉に淡々と返す彼には、確かに戦う気が無いようにスバルには見えていた。
側から見ても、彼が戦う意志が無いことは一目見ただけでも分かる。敵意を隠そうともしないフェルトの雰囲気が尖りすぎるから尚更、その態度の差は目立つ。
フェルトとて分からないわけではない。噛み付く自分に対して余裕の様子でいる男からは、明確な戦う意志が感じ取れないのだ。その背中にでっかい剣を背負っておきながら。
ただ、
「誰がテメーの言葉なんか信じるか。上っ面ばっか飾って、綺麗事を適当に並べて、アタシらを冷たい目で見下す連中の言うことなんて聞く気ないっての」
「俺がどんな奴かも知らないのに、そんなことが言えるのか」
「知る必要がない、って話なだけだ。貴族はみんな一緒で口先ばっか。今まで見てきた奴らは全部がそうだった。テメーだって同じに決まってる」
ハヤト、というよりも貴族に分類される人間の言葉に聞く耳を持たないのがフェルト。嘘だと言うのも嘘だと決めつける彼女の心は決して開かず、戦う意志が無いことすらも嘘だとした。
自分を見下してきた貴族にしてはとても目が真っ直ぐな気もするけど、絶対に騙されてたまるか。もう、自分は騙されない。貴族はみんな、嫌な奴ばかりだから。
「ハヤト……。これ、結構厳しいと思わない? あの子、完全に貴族アンチ……戦う気しかないけど。ハヤトが良い奴だってのはアタシも分かるけどさ、あの子に限っては話すら聞いてくれないカンジだよ」
守られる背中から顔を出し、フェルトを見ながら小さく語りかけるスバル。その声はどこか弱々しく、諦めが含まれた声色。
実際、彼女には諦めが生じつつある。少ししか聞いてないが、それでも彼女の貴族嫌いがよく伝わってくる羅列を耳にした心から、最初はあった対話の二文字は消えているのだ。
貴族に親でも殺されたのかと思ってしまうほどに、フェルトは貴族を嫌っているのがよく分かった。ハヤトという人間云々ではなく、貴族に分類される人間の全てが彼女は嫌い。
これでは、ハヤトがどれだけ優しく歩み寄ったところで無意味な気がする。だって向こう側が、始めから拒絶しているのだから。
「……それでも俺は戦いたくない。お前が俺を信用しなかろうが、俺は戦いたくないと言い続けるぞ。お前が話を聞いてくれれば、必要以上に事を荒立てることもなくなるしな」
「事を荒立てることもなくなる……?」
軽く言われた言葉を聞いた瞬間、フェルトは自分の中にある敵意が勢いよく弾けたような音を聞いた。膨らんで膨らんで一気に爆発して、途端から噴火する激情が咆哮を予感させる。
今更、なに綺麗事を言っている。この場所じゃ、そんな言葉なんて通用しない事を知らないのか。
見下すことしかしてこないくせに。下に堕ちた人間が卑しい生活しかできない国しか作らないくせに。大切な物を盗まれたこの期に及んでも、まだそんな可愛いことを平気で言ってくるのか。
「どこまでアタシらを舐めてやがるーーッ!!」
咆哮。
短剣の柄を握り潰さんばかり握りしめ、感情に解き放たれたフェルトが突撃。ハヤトに気圧されていた心を真っ赤に燃ゆる激烈な感情が支配し、彼女に飛び出す勇気を与えた。
跳躍の音は無音に等しく、一秒もかからず接近する身は羽のように軽い。瞬間的に凄まじい初速を発揮する小柄な肉体が兎のように跳ね、小さな砂埃が舞った。
走り出した直後、スバルにはフェルトが消えたとしか思えなかった。それ程までにフェルトの足は速く、風を纏いながら疾風する少女の速度は人間業を遥かに凌駕し、常人ならば目で追うことすら困難だ。
常人ならば。
「っらぁ!」
正面、振りかぶられた短剣がハヤトの顔面に一閃。疾走の瞬間に目に飛び込むそれは、例え切れ味の低いナマクラであろうとも彼女の速度が加わればいっぱしの刃と成る。
しかし、当たるハヤトではない。体感的には数十分前に彼女よりも速い化け物を相手にしているのだ。初見殺しな足の速さには目を見張るばかりだが、目で追えないわけじゃない。
「このやろっ……!」
忌々しげに吐き捨てた直後、フェルトは飛び退く。短剣を握る手、その手首を軽々しく手の甲で受け止められた彼女は攻撃を中止し、反撃の手が伸びる前に離脱した。
再び疾走。一歩目で身に風を纏い、二歩目で加速、三歩目にはトップスピード。僅か三歩で己が出せる最高速度に達する彼女はハヤトと彼に守られるスバルの周りを目まぐるしく駆ける。
自分の持ち味を活かした立ち回り。視界のあちらこちらで砂埃が舞い続けるのは、惑わす彼女が不規則な動きをしているからだろう。
「話し合いは無理なのかよ」
「ったりめーだ!」
諦観気味なハヤトの呟きが怒り浸透なフェルトに拾われ、直後に響くのは薙いだ足が腕に受けられる鈍い音。そして、戦闘の余波からスバルを逃すためにハヤトが彼女をフェルトの寝床に押し込んだ音。
「うわっ」と声が背中から上がる中でも、フェルトの猛攻は止まない。攻撃の応酬が迫る前に離脱、跳ねる肉体が近場の家屋に足裏を合わせて跳躍、空振る刃が身を傾けるハヤトの目の前を通り過ぎる。
相手の反撃を受け付けない一撃離脱の戦法。突風が吹き抜ける度にハヤトの体に軽い一撃が走り、走り終えた直後に離脱。建物が近場にあるこの場では、壁をも足場とする彼女の動きは変則的だ。
「なんで、全然当たんねーんだよ! クソがッ!」
それを、ハヤトは巧みな足捌きと片腕一本で確実に凌いでいく。
打撃が受け止められ、斬撃が空振り、曲芸が見切られ、圧倒的な実力差の前では攻撃の悉くが無効化されてしまっていた。
当たり前だ。あれだけエルザの神速を相手にすれば流石に目に耐性がつく。短時間で濃密すぎる戦闘を経験した今に繋がり、これまでに鍛えられた動体視力と反射神経に更なる磨きがかかった結果である。
確かに速い。が、速いだけ。自分なりに鍛えたのが分かる戦闘だが、動きの線が素直で見えやすい。故に、彼女の武器さえ見切ってしまえば、凌ぐことは容易。
それが、フェルトの心を余計に荒立たせる。
「さっきっからなんで反撃してこねーんだよ! なんだよ! アタシで遊んでんのか! ふざけんのも大概にしやがれッ!」
苛立ちのまま突撃。胴体を斜めに撫でる剣先が虚空を切り裂くと離脱——否、反撃の可能性を捨てた蓮撃が次々と繰り出された。一撃離脱の戦闘から肉弾戦に切り替える一閃が回避する肉体を追いかける。
興奮し、憤慨するフェルトの怒涛の攻撃は、しかし一太刀も届かない。どれも最小限の動きで対応されてしまう。フェルトからすれば、自分がハヤトに遊ばれていると思っても仕方のない戦闘展開だった。
だから、本質は全く違うことに気づけない。彼の表情が至極真剣なことなど視野に入らない。
「だから、お前と戦いたくないだけだ、っつってんだろうが! なんでそれが分かんねぇんだよ!」
そして、ハヤトはその本質を叫ぶ。
フェルトの感情に触発でもされたか。荒ぶる彼女以上の声が貧民街に轟き、突然のそれに殴りつけられた本人、更には寝床から顔を出すスバルでさえも驚いた。
自分は本当に、フェルトと戦いたくない。五ヶ月という長い時間を越えてやっと出会えた推しと戦いたくない。戦いたいわけがない。争いたいわけがない。
その気持ちに、嘘偽りはない。絶対だ。
「お前が貴族を嫌ってんのはよく分かった。過去になにがあったのか知らねぇし、教えてくれねぇと思うが、それは嫌でも理解できた! でも、俺の言うことを信じてくれ! 戦いたくないんだ!」
「大事なモン盗んだ相手によく言うぜ! あの姉ちゃんの使いっ走りなくせして、アタシと戦いたくないって? どうせ油断させて奪うつもりだろ! 見え見えだっての!」
「それなら、自分より実力で勝ってる時点で無理やり奪おうとしてくるはずだ、って考えられねぇのか! 俺ならお前を強引に押さえ込んで力ずく奪える。そうしないのは戦う意志がないから——それが分からないお前じゃないだろ!」
「知ったような口聞ぃてんじゃねー! テメーみたいな人間にアタシのことが分かってたまるか! この場所に住むアタシらのことが理解できるわけがねー!」
真剣な目をしたハヤトの必死な訴えと、牙を剥いたフェルトの感情に任せた怒号が殴り合う。善意のみの一方的な優しさは届かず、貴族に対して完全に心を閉ざした少女への思いは一向に効果を見せる気配がない。
それでもハヤトは言葉を紡ぎ続ける。徐々に疲れが見え始めたフェルトの幼い猛攻を、彼女の体に傷一つ付けないよう気を遣いながら凌ぎ続けて。
感情的に、叫んだ。
「分からない……あぁそうだ、今日初めて会ったお前のことなんざ分かりやしねぇ! だが、俺だって一歩間違えりゃ、ここで生活するかもしれなかった人間だ。……ここで必死に足掻く人の心くらいは分かるぜ」
「はぁ? なに言ってんだ?」
猛攻の勢い衰えたフェルトがハヤトから離脱。肩を大きく上下させながら息を切らす彼女は開いた距離でハヤトを睨み、乱れた呼吸を整え始めた。
対するハヤト。戦闘開始時からなに一つとして外側の乱れがない彼は、しかし内側は荒ぶっている。ロム爺がいない分をどうにか埋めようと感情が文章を高速で作り上げ、発する声が熱を帯びた。
「俺は、形としちゃ貴族っつー分類に入るが。あくまで形に過ぎねぇんだ。森で倒れてた俺を……俺たちを拾った人間がたまたま貴族だったってだけで。俺自身、そんな大層な身分を背負う器じゃない」
「そんな分かりやすい作り話……」
「もし、あのときに倒れてたのがあの
作り話だと一蹴りする声を押し除け、ハヤトはありえたかもしれない話を語る。
実際、あの夜に召喚されたのがロズワールの手の届く範囲じゃなく王都だったらそうなっていたかもしれないと、親友がしみじみとした様子で話していたのをハヤトは覚えていた。
もし、自分たちがロズワールに拾われなかったら。お金も、力も、知識もない。無い無い尽くしの自分たちが生きる術は見つからず、異世界召喚直後にどん底から這い上がる生活が始まっていたことか。
一生の運を使い果たすほどに、本当に運が良かった。ただそれだけ。けれど、そこで終わりではなかったから、ハヤトは自分の身の上話を持ち出したのだ。
「貴族に拾われたとしても、その後にかなり苦労したよ。なにもない俺たちが自分たちの居場所を作るには、屋敷での立場を作る必要があった。なにもできない俺たちが認めてもらうためには、一から力をつける必要があった」
今から四ヶ月前——自分と親友がこの世界に召喚されて、可能性を感じたロズワールに「騎士にならないか」と話を持ち出されてからのお話。
それからは、死ぬほど大変だった。使用人としてのお仕事に、騎士になると言ったからには力をつける必要があるために鍛錬の継続。不慣れな作業で疲労する体に鞭を打って努力していた記憶がある。
衣食住が安定する分、生活としてはなに一つ不自由なかったものの、それ以上に日々の暮らしが苛烈。自分の親友なんて、頑張り過ぎて何度かぶっ倒れたくらいだ。
倒れて、鬼の形相なレムに怒られるまでがセット。いや、今でも倒れることは偶にある。倒れて、レムとエミリアに正座させられて激怒されるまでがセット。それを見る
「少ししか力をつけてない段階で『中間試験』とか言われて、魔獣がわんさか彷徨く森に放り出されたことあるか? 毎日、人外を相手にして半殺しにされたことあるか? 冗談抜きで、全身痣だらけだったからな」
異世界スローライフなんて論外。楽々レベルアップなんて鼻で笑ってやろう。死にかけすぎて、最近だとそれが普通になってきたのが恐ろしい。
死に戻りを経験して、それを思い出したとき、その異常性がハヤトにはよく理解できた。異常を異常だと思えなくなった自分のイカれ度合いも。
始まりこそは良かったかもしれないが、そこからが厳しすぎる。慣れた今でもごく稀に「きちぃ…」と休みたくなりそうだ。違う、竜に追い回される始まり方が良いわけない。
始まりから今まで、ずっと濃密だ。ほのぼのな生活を送っていた裏で、過酷な環境に身を置かざるを得なかった。ほのぼのは、その癒し。
要するに、
「俺を、お前が見てきた歴史に囚われる頭でっかちな貴族の野郎と一緒にすんな。あんな連中と俺は違ぇ。お前には、俺が頭良さそうに見えるかよ」
衣食住の安定を除けば、今の暮らしは貧民街で生活するよりも過酷を極めるとハヤトは思う。だから、地位と権力に胡座をかいて下の者を虐げるだけの連中と一緒にしないでほしい。
それに、そんな人たちばかりが貴族でないことをハヤトは知っている。貴族にも良い奴がいることを彼は感じている。
途端、今の言葉を聞いたフェルトの目が見開かれた。心に響くものがあったのだろうか。何か言いかけた吸息音がハヤトの耳に弱く届き、しかし言葉は紡がれはしない。
まだ、足りないか。
「だから俺は、生きようと、這い上がろうとして、ここで必死に足掻く奴のことがよく分かる。もちろん、お前のこともな」
「そりゃ、全部ってわけにはいかねぇけどよ」と。ハヤトは言葉を付け足して吐息。一度にたくさん話したせいで喉の渇いてきたのを感じ、唾を飲み込む。
それから、ふっと真剣な顔持ちに微笑みを混ぜた。
「見下さねぇよ。酷い扱いもしねぇよ。生きるために必死になってる奴を馬鹿にするヤツなんざ、クソ野郎だけだ。
「そんなこと、俺ができるわけないだろ」と、フェルトの目を真っ直ぐ見つめながら強く言い切る。上から見下されて卑しい生活をするのが当たり前な彼女の貴族に対する嫌悪感と、真正面からぶつかった。
そんな彼の言葉を聞き、フェルトは黙り込む。話を聞く中で頭に上っていた血が冷却され、興奮状態が自然と解かれているのだ。同時に、自分の心が凄まじく揺れているのを自覚する。
目の前の男——ハヤトと呼ばれた男の語る話があまりにも過酷ずぎて、言葉が出ない。先のように「嘘だ」と蹴散らすこともできるはずなのに、不思議とできない。
とても嘘を言っているようには見えなくて。自分のことを真摯に射抜く視線は、自分を見下してくる冷たい目とはかけ離れていて。初めて、上の人間が対等に扱ってくれたような気がして。
とても、温かかった。
「俺は、お前とは戦いたくねぇ。理屈とかじゃねぇんだ。純粋に戦いたくない。……俺の話を、聞いてくれないか?」
「頼むよ」と。
誠心誠意、頭を下げるハヤトにフェルトは息が詰まる。黙って話を聞いている存在感空気なスバルもまた、彼のひたむきな姿勢に胸を打たれるものがあった。
貧民街で育ったがために性格が捻れてしまった、根は良い子な少女、フェルト。悪意の蔓延る中で生き抜いてきた彼女には、その行為は予想外すぎて刺激的すぎた。
その優しさも、温かさも、真っ直ぐさも、どれもが受け入れ難い。そんな善意、あるはずがない。盗んだ相手に対する態度だとは思えない。嘘、嘘に決まっている。
けれど、目の前の男が自分の知る『貴族』とは確実に違う——それは分かった。自分の知る模範的なそれとは、大きく異なる。
コイツは、自分の知るそれとはなにか違う。
「……分かった。話だけでも聞いてやる」
返答は、言葉と行動で示された。
構えられていた短剣を下ろし、低く下げていた腰を上げる。踏み出す足裏から力が抜けて、崩れるはずのなかった戦闘体勢が崩される。
警戒心は解かれないものの、それが彼女の意志を語っていた。ハヤトの『戦いたくない』という意志をこれでもかと投げかけられた彼女から、戦う意志が薄れていく。
「無理やり取り返さねーなら、どうやってアタシから盗んだモン取り返すんだよ?」
様々なことに対しての疑念が宿る目に問われ、ハヤトは心の中でほっと一息。ロム爺の助けが無い中でもなんとか聞く耳を持たせられた彼女の態度に、変に安心してしまう。
ダメだ。そんな暇なんて無い。今はまだ、ほんの少しだけ彼女の心をこちらに傾けられただけに過ぎず、停滞した分だけ話し合いの機会を失うことに直結する。
スタートラインに立てたのならすぐ本題に入ろう。そうやってハヤトは安堵の情を断ち切って口を開き、
「それは——」
「その話、私も混ぜてくれないかしら」
その声音を聞いた瞬間、ハヤトとスバルの呼吸が戦慄に止まる。三人しか存在しない空間に気配もなく乱入したおっとりとした女性の声帯に、足元から背筋にかけて悪寒が駆け上がった。
不意に聞こえた声は横から。ハヤトとフェルトの間を通り抜けるように、ひどく聞き覚えのある声が、ハヤトとスバルの本能に命の危険を知らせている。
ゆっくり近づく足音。人間の恐怖心を煽るそれは、最悪の再来を意味するもので、
「依頼人を差し置いて、予定とは別の場所で話をされてしまうのは少し困る話だわ」
ククリナイフを片手に獲物を定める殺人鬼——エルザ・グランヒルテの鋭い双眸がこちらを見ていた。