「エルザ……。なんでテメェがここに来やがる」
「少し散歩をしていたところよ。それで楽しそうな音が聞こえたから来てみれば、聞き捨てならない会話が聞こえたから割り込ませてもらったの」
「依頼した物の持ち主がいるとは思わなかったけど」と言葉を添え、ふっと薄く笑むのはエルザ。苦労して作った話し合いの場を簡単に蹴散らした彼女は、口元を不気味に歪ませている。
不意な乱入に恐怖し、表情が凍りつくスバル。大剣が納刀された鞘を背から地面に落とし、ナックルを握りしめるハヤト。エルザが放つ異様な空気にたじろぎ、支配された空間に萎縮するフェルト。
その三人を見つめては、エルザは品定めの視線。まるで目の前に出された料理に手をつける順番を決めているような双眸が場にいる全員の心臓を鷲掴み、息を飲ませた。
ーー最悪だ
それまでの考えを一刀両断、全意識をフェルトからエルザに向けたハヤトが心の中で呟く。彼女との再戦に昂る感情を塗りつぶす困惑があるせいか、その表情はいつになく硬い。
そうなるのも当たり前だ。だって彼は今、原作とは全く違う物語を体験しているのだから。本格的に事が動くのは夕刻以降なはずなのに、全てが崩れてしまっている。
めちゃくちゃだった。自分の知る展開が上書きされて、知らない展開が次々と書き綴られていく。自分という異分子がいるせいで、あるべき道筋が当然のように捻じ曲がっていく。
否、それに関してはとっくに腹を括っているから動揺はない。『空白』の未来を歩むと、そう親友と少し前に固く誓った。何が起きても、臨機応変に対応してやろうと。
尤も、動揺しない事と困惑しない事が繋がるわけではないらしい。一章の時点でコレだ。これからもこの心臓の悪い現象に悩まされるとなると、先が思いやられる。
「面倒くせぇな」
言って、浅く吐息。
その二つで困惑を割り切るハヤト。狙いを自分に定めてくる殺人鬼を前に握力の調子を確かめ、軽く跳ねる。フェルトと戦って温まってきた肉体を感じると、拳を構えて臨戦体勢。
気持ちを戦闘一色に染め上げた途端、体の輪郭を覆う黄金色の帯が纏われた。無限に漲る闘志の可視化と言っていいそれは、彼が本気で戦う時に使用するアクラの効果に違いない。
目に見えてハヤトの気配が変化した。先程までのはお遊び、否、お遊びにすらならなかったのかとフェルトに思わせる彼は「
「お前の依頼人が来ちまった以上、お前の仕事は失敗だ」
「はぁ?! なんで……」
「徽章の持ち主、その身内を連れてこられたとなりゃ取引なんてできないだろ。当然の話だ。なるべく話し合いで解決しようとしたが、一応、俺は徽章を奪い返す側の人間だからな」
「そんな相手が場に居たら、この女は実力行使に出る」と。全てを見通したような口ぶりのハヤトに、フェルトは何かを言おうとして黙る。実際、さっきの自分がそうだったからだ。
持ち主が来たら取り返しに来たのだと思うのが盗人の普通で、強奪されないように相手を黙らせようとするのも普通。それは、盗人と繋がっている依頼人でも同じこと。
目の前に敵がいたら、刃を振るうのが世界の常識だ。例えそれが、なんであろうとも。
「随分とよく解っているのね、あなた。私のことも、私の考えも、見透かされてぞくぞくしちゃう。その上、名前まで知られているなんて。そこまで有名になったつもりはないのだけれど」
「テメェみてぇな快楽殺人鬼、知らない方がおかしいぜ。お前、王都で指名手配されてんの知らないのか? 王都の騎士がみんなお前の身柄を狙ってんぞ」
「捕まったら卑猥なことをされてしまうのかしら。過去に一度、似たような経験があるわ。——勿論、その人のお腹も裂いたけど」
「知るか。誰もテメェの過去なんざ聞いてねぇよ」
冗談じみた言葉を低い声で冷たく切り、ハヤトはエルザを睥睨。相手の心を直接刺激するそれは本能的な恐怖心を煽るが、熱っぽい声を出したエルザの態度は崩れない。
本気になったハヤトの殺意を受けても怯まぬ精神力。背を向けて逃げ出したくなる闘気に怯むどころか紅潮していく一方で、手の中で器用にククリナイフを回す様子は軽口を叩く余裕すら醸し出していた。
ジャグリングのように回るククリナイフ。得意げに回すそれがピタリと止まると手の中で柄が正しく握られ、危険を知らせる本能に従って懐からもう一つの刃が姿を現す。
一刀から二刀に切り替えたとき、それはエルザの本気を意味した。並々ならぬハヤトの脅威を肌で感じ取ると「そうね」と、取り出したククリナイフの刀身を眺め、
「確かに、あなたの言う通り。私がその子に依頼したのはあくまで徽章だけ。持ち主まで一緒に連れて来いだなんて言ってない。つまりは、交渉決別。この依頼は破棄」
「な………っ」
「依頼した内容もまともに熟せないのだから、当然でしょう? そんな子に報酬を払う価値なんて無い。貧民街の仕事ぶり、その程度が知れる良い機会だった。どうもありがとう」
嫌味な言い方をしてくるエルザにフェルトは押し黙る。煽られたら絶対と言ってもいいほどに噛み付くのが彼女だとしても、攻撃的な羅列に心臓が締め付けられて表情が分かりやすく歪む。
やはり琴線に触れるものがあるのだろう。その反応の濃さは前回同様。心に深々と突き刺さり、傷口から悲哀の情が漏れ出すと、声にならない苦鳴が喉の奥で弾け飛ぶ。
「だから予定は変更させてもらうわね。この場にいる者は皆殺し。お腹を裂いてから徽章を持って帰ることに決めたわ。——もちろん、そこに隠れる女の子も漏れなく」
がた、と。
フェルトの寝床の中から音が立ったと同時、喉を引き攣らせた「ひぃっ」と言う掠れ声が鳴る。ハヤトがフェルトに襲われる間、戦闘の余波が届かないようにと中に押し込まれていたスバルの声だった。
エルザを正面にするハヤトがチラと横目で確認——額から冷や汗をいくつも垂らしながら、漏れた声に慌てて口を両手で押さえるスバルが見える。強張る体は小刻みに震えて、ひどく怯えた様子。
その反対にいるのは、両手を震えんばかりに握りしめたフェルト。紛糾する感情を必死に抑えているようにも見える。依然として、曇った顔が晴れる気配はない。
一瞬にして少女二人の動きを封じたエルザ。言霊に宿る殺気のみで身動きを縛る化け物には相変わらず驚かされるハヤトだ。
故に、彼は大きく出る。
「がたがたうるせぇんだよ。この野郎」
一歩。
威勢よく前に踏み出し、握ったナックルを打ち鳴らす。既にエルザの射程圏内、今更間合いを詰めることなど怖くもなんともない。それに、この間合いは自分の射程圏内でもあるのだ。
互いの射程圏内で睨み合うハヤトとエルザ。どちらかが飛び出せば戦闘が開始する緊迫した空気が途端に漂い始めると、ハヤトは「気にすんな、フェルト」と口を開き、
「お前は、ちゃんと俺らから徽章盗んだじゃねぇか。それはつまり、自分の与えられた依頼を全うしたってこと。俺を前にしても奪い返されないように向かってきたしな。盗みは悪いことだが、その努力は
「だからよ」と、こちらを見るフェルトの手を取ると自分の方に引っ張る。「おわわ」と小さく声が漏れるのを聞きながらスバルが隠れる寝床の中に優しく押し込み、
「あんなヤツの言うことなんざ聞く必要はねぇ。自分のしたことに対して堂々としてろ。俺はお前の盗む姿、普通にすげぇと思ったしな。あんな早技、今までに見たことねぇよ」
視線はエルザに一直線なハヤトの言葉は、フェルトからすれば温かさしかないものだった。盗んだ本人に言う言葉にしては優しすぎるものだった。
なんの含みもない純粋な賞賛。正直な話、目で追うことこそできるが、流石にあの速度が自分に出せるかと聞かれれば曖昧な脚力。出せたとしても制御できるかどうか。
だからすごい。自分にできないことをする少女がすごい。そんな意味合いを持つ言葉に目を見開くフェルトの顔が少しだけ和らぐのを感じるとハヤトは「ふっ」と横顔で笑いかけ、
「スバルも、そんな顔すんな。言ったろ? 負けねぇって。もうあんなことにはならねぇし、させねぇ。俺がいる限り、お前が不安がる必要はない」
見せた笑みを内側に引っ込め、代わりに真剣な表情が浮き出てくるハヤト。前回、エルザと戦う寸前で見せていた昂りに支配された笑みが見えないのは、彼が慢心の二文字を心から消しているからだ。
昂っていないわけじゃない。前回やられた相手と再戦することができて歓喜に震えそうな思い。けれど、その高揚感に身を任せた結果があの惨憺たる結果を招いたのだと彼は心に刻んでいる。
慢心はもうしない。ラムとエミリアが来るまで耐え切る。盗品蔵が戦闘の場でない以上、来てくれるのか微妙だけど、戦闘音を聞きつけてくれると信じて。
可能なら、自分一人で撤退まで追い込む。
「隙を見計らって逃げろ……と言いたいが。そんな隙を作れるかは微妙だから、事が落ち着くまでそこから出るな。出たら死ぬぞ」
「どの道、死ぬことになると思うのだけれど。三人まとめて天使に会わせてあげる」
「言ってろ」
話に割り込んだエルザを鼻で笑い、ハヤトは寝床から見守る二人に向けていた僅かな意識をエルザに。己の全てを敵対する存在に向けた瞬間、彼の戦闘準備は整う。
不本意ながらに、フェルトとの戦いで解れた肉体。準備運動にはちょうど良い戦闘を終えた彼の調子は万全。否、久々の戦闘で肉体が精神に追いつかない中での万全。
どこまでやれるか分からない。けど、やるしかない。二度目のループは勘弁してほしいし、一度殺されたかもしれない相手に再び殺されるなんて、そんな醜態を晒すつもりは毛頭ない。
「一つ、聞かせてほしいのだけれど」
戦闘前に必ず訪れる濃密な静寂。思わず生唾をごくりと飲み込んでしまう緊張感で作られた空間にエルザが声を投げかけ、戦闘前最後の言葉が響き渡る。
その聞き方、ハヤトには聞き覚えがあった。この脳内に保存されている記憶と合致する音声。一言一句違わず、声色まで重なっているそれ。
敢えて同じ文章を聞く必要もないだろう。ハヤトは言葉を作るための酸素を肺に取り込み、
「安心しな。お前のその懸念は要らねぇ懸念だ。いいからとっとと早く始めようぜ。御託はもういい」
細められた黒目が、返された言葉に対するエルザの心情を語っていた。こちら側の思考を読んだかのような返し方を平然としてくる男に違和感を抱くが、それも刹那で消える。
それさえ確認できれば、それでいい。自分が注意する人間でないと分かっただけでエルザの心は目の前にいる存在——心身ともに震え上がりそうな闘気の滲み出るハヤトに惹き寄せられた。
堂々たる佇まい。視界に入れた時から刹那の揺らぎもない態度に「素敵だわ」と意図せず唇が綻び、
「『腸狩り』エルザ・グランヒルテ」
「カンザキ・ハヤト。お前を倒す男だ」
名乗りを上げ、両者は飛び出す。
開いた間合いは五メートル程度。故に、駆け出す両者が接触するのは名乗りを上げた直後。勇ましく声を荒げるハヤトが即座に突っ込む。
小細工なしの正面突撃を好むハヤトが一気に間合いを詰め、迎え撃つエルザの双剣が飛び込む肉体の動線上に入り込む。跳躍の力を乗せた二振りの刃は速く、直撃は即死を意味する凶器だ。
瓦割りが如く脳天をかち割る二つの斬撃。このまま何もせず突っ込めば間違えなく死ぬそれに、ハヤトの動きは至極単純だった。
「しっ!」
短い呼気が鳴ったと同時、左足を思い切り踏み込むハヤトが前に流れる慣性を力で殺しながら急停止。刃の射程圏内半歩手前、縦線を描きながら落ちる剣先が鼻先を掠める距離で一瞬の停滞。
真正面から馬鹿正直に向かってくる相手に対し、咄嗟に選択する行動はエルザも一緒だった。同じく正面から迎え撃つ。ハヤトのような小細工を嫌いそうな男がすればより単調に思えるから尚のこと。
突っ込むと見せかけて、寸前で急停止。相手の攻撃を空振らせて、刹那で反撃に転じる。作戦というほど立派なものではないが、ハヤトがこれをやると初見ならば殆どが引っかかるのが面白いところ。
事実、ベアトリスも、ドラゴンも引っかかった。
「らぁ!」
突然の行動にエルザが反応するより、力を溜めたハヤトの右拳が彼女の顔面に捩じ込まれる方が速い。挙動の変化があった刹那にはナックルが鼻の骨を砕く異様な音を上げ、貫通する衝撃に細身が軽々しく吹っ飛んだ。
陥没したと錯覚するほどの威力。一撃一撃が必殺級の威力を持つハヤトの本気の打撃は、まともな人間が直に受ければ一撃気絶の危険性を大きく孕んだ純粋な破壊。
一発目から手応えあり。しかし、ハヤトは吹っ飛んだことで開いた距離を追撃に縮める。一撃必殺のそれが直撃したにも関わらず攻撃の手を緩めないのは、エルザがその程度の一撃では怯まないと理解しているからだ。
「いい。今のはすごく良かった。顔の骨が砕けたかと思ったわ」
砕けているのが普通なのだが、エルザは——エルザという人外はまるで砕けない。体どころか意識すら吹っ飛びかねない打撃に、口から出た声は安定していた。
空を見ながら地面と平行に飛ぶ彼女は空中という身動きの取りずらい空間で手の平を地につき、両足を振り上げてバク転。簡単に体勢を立て直すと後方に流れるがまま飛び退き、薙がれた右脚のつま先が眼前を通り過ぎる。
地に足をつけたエルザが正面を睨む。直後、目と鼻の先にまで迫っていた右拳を首を横に傾けるだけの最小の動きで回避し、回避の先を狙ったもう一つの拳の行き先に腕を曲げる動作で左の刃を割り込ませた。
一瞬の閃光。ナックルの直進を防いだククリナイフが火花を散らし、白い爆発が視界の端から端までを刹那だけ埋め尽くす。視界が開けた瞬間、初撃を担った右拳が三撃目となって腹部に突き進んでいるのが見えた。
直撃は数瞬後。回避の選択肢などエルザにはない。豪風を纏いながら伸びる右腕に残る右の刃を振り下ろし、直撃の激痛と引き換えに拳と腕を切り離す狙い。
が、左の刃に直進を止められた拳が落ちる腕の真下に滑り込み、逆に直進を止められる。手の甲が真っ直ぐ落ちる腕を受け止め、目論見の外れたエルザの腹部に重たい打撃が沈み込んだ。
骨が砕け、内臓が押し潰される豪快な打撃。痛覚が悲鳴を叫ぶ感覚に、口内を真っ赤に染めながら喉元から迫り上がる血を吐き出すエルザ。悶絶不可避なそれに、彼女の行動は痛みを意に介さないものだった。
右拳は腹部に直撃、左拳は右の刃の対応に使わせた。なら、左の刃を防ぐ手立ては回避以外にない。
否、曲げた腕を伸ばす僅かな動きで薙ぐ神速に近しい斬撃を、この至近距離で避けれるものなら避けてみろ。攻撃の間隔は無い。拳が捩じ込まれた直後には既に振られている。
「お返しするわ」
「ちぃーー!」
一切の揺らぎを感じさせぬ緩やかな声色がエルザから漏れ、眉間に皺の寄るハヤトが伸びる両腕を引き戻す動作で身を引いたと同時、狙い澄ました鋭い一閃が胸板を抉った。
斬撃の事実に遅れて気づく肉体が血を吹き、眼前のエルザが返り血を浴びる中、ハヤトは傷の度合いを確認しながら後退。浅く息を吐き、呼吸を整える。
白服に赤色の横線が一筋。衣服を貫通して皮膚に届くそれは決して浅くはないが、致命傷というわけでもない。許容範囲。余裕で動ける範囲内。
まだ、戦える。
「まだ終わりじゃないでしょう? もっと楽しませてちょうだい!」
「あぁ、存分に楽しませてやるよ!」
口角を釣り上げるエルザの笑みが接近し、額から汗を垂らすハヤトが槍のような勢いで顔面に刺突する刃を身を小さく傾けて回避。追撃に跳ね上がるもう片方の刃には拳を振るって迎撃。真下に叩き落とす。
回避と迎撃を同時に行い、微妙な緩急をつけたそれを完璧に凌いだ彼への攻撃の手は緩まない。回避直後の刺突がハヤトの耳元の大気を突き刺し、一撃で満足しないそれが真横にある首に狙いを定めた。
執拗に命を付け狙うそれを、エルザは手首のスナップだけで振るう。首を両断できるほどの火力は無いにしろ、無防備に直撃すれば深々と切り込む一撃。当たれば間違えなく血の噴水の完成だろう。
相変わらず悪寒を走らせる器用な斬撃に、ハヤトは再び回避行動。踵で地を踏み締めて上半身のみを後ろに傾け、風を斬り裂く剣先が回避に間に合う喉笛を掠めた。
間一髪。浅い傷痕から血が垂れるハヤトが「今のは危なかった」と呟く本能の声を聞きながら、止まらない蓮撃に息を詰める。眼前、回避の余韻が残る肉体に身を大きく回すエルザの双剣が迫っていた。
迎撃の暇はない。なら、回避の余韻を次の回避に繋げてしまえばいい。視認が困難な域に達しつつある剣速を辛うじて目で追うハヤトが踏み締めた地を蹴り、斬撃の範囲から肉体を逃す。
直後、攻撃の勢いで身を回すエルザが突如として視界から消える——右膝を曲げて凄まじい勢いでしゃがみ込み、旋回する体のまま右足を軸に左脚を滑らせて足払い。
超低姿勢、地を這う脚が山のように不動で頑丈な体勢を崩さんとする。が、ハヤトの対応は至極冷静だ。迎撃の選択肢を一時的に思考から除外した体が縦に跳ね、足元を空振る打撃が砂埃を立てる。
——好機。
「おらぁ!」
着地と同時、素早く身を回すハヤトが立ち上がるエルザの体目掛けて蹴りを放つ。押し出す足裏が攻撃直後の持ち上がる顔面に向かって容赦なく突き進んだ。
直撃。否、交差する両腕に目的地への到達を阻まれたせいで決定打には至っていない。全身の筋肉を総動員して放った渾身の力は、寸前で完成した防御に受け止められた。
しかし、衝撃を散らすことまではできなかったエルザ。腕から全身にかけて響き渡る打撃の威力が体を突き抜け、後方に吹っ飛ばされる。難なく着地し、数歩程度のステップで体勢を立て直した。
それから、刃にねっとり付着した返り血に恍惚とした笑みを浮かべて、
「強い。あなた、本当に強いのね。ここまで昂ったのは久々だわ。ぞくぞくしちゃうくらい素敵よ」
「そうかよ。だが、まだまだこっからだぜ?」
息つく暇もない、痺れる至近距離戦闘。互いの精神力を削り合う、瞬間の攻防。刹那でも気を抜けば食われる戦場に、二人の態度に乱れはない。乱れたとすれば、若干ハヤトの息が上がってきたことくらい。
依然として真剣な表情を保つハヤト。今この瞬間の興奮に笑みが溢れるエルザ。双方、目まぐるしく激化する激闘に怯むどころか昂る一方向。
戦いの場は前回と違っても戦う人間は違わないのだから、そこに変わりはいない。むしろ、遮蔽物の少ない開放的な空間が戦いの場なことでより一層のこと暴れ回れるため、激化の勢いは前回よりも増すばかり。
「エル・ゴーア!」
盗品蔵という狭い空間では使用不可だった火のマナが主の呼び声に呼応し、握り拳程度の火球が十個、ハヤトの背後に出現。睨むエルザが「へぇ」と感心の声を呟いた直後、照準を定めた火球が放たれた。
ガトリング銃のように次々と放つそれが回避に専念するエルザの背を追い続け、一つ、また一つと地に着弾し、小規模な白い閃光を伴って爆発を引き起こした。
爆風があたり一面に広がり、立ち上る煙が煽られて視界を覆い隠す。鼓膜を殴りつけるような轟音が静かな貧民街に轟き、轟き、轟き渡る。
情け容赦ない十もの弾丸。しかし、いずれもエルザの体に届くものは一つとしてない。空間を所狭しと駆け回る彼女は人外じみた体捌きと足捌きで体を操り、全てを紙一重で躱していた。
否、それでいい。こんな安上がりの魔法が当たる相手だなんてハヤトは思っていない。体が暑いから羽織を脱ぐ時間を稼ぎたかった。ただそれだけ。
「あら、なんて逞しい体。その腸が見れると思うとより夢中になってしまうわ」
「テメェがまともな女なら、今の発言にも少しは揺らいだかもな」
「釣れない人ね!」
羽織を脱ぎ捨て、黒の半袖一枚となったハヤトの露出した肉体に頬が紅潮するエルザ。漂う黒煙を突き破る彼女は狼のように接近し、懐に侵入する双剣の切先が音を置き去りに、大振りで真下から真上に迫る。
音はおろか、エルザ本人の意識すら置いてけぼりにしかねない神速。が、瞬き一つ許さない必殺の斬撃は身を傾けるハヤトの服を撫でるだけに終わり、瞬時に反撃に出る右腕が豊満な胸に射出された。
一度の攻撃で素早い蓮撃を叩き込むことを可能とするハヤト。彼は『攻め』と『守り』の間隔が無に等しく、攻撃直後のエルザには回避という選択肢が与えられていない。
「ーーーッ!」
故に、その一撃を中断し、伸ばした腕を引き下げるがままに頭を引いたのはハヤトの本能としか言えない。
しゃくった顎があった場所をエルザの爪先——靴の爪先から仕込まれた小さな刃物が顔を出すそれが穿ち、下から上に切り上げる動作のままバク転する脚が弧を描く。
多分、釣られたのだとハヤトは思う。今のは、エルザ自身が己の攻撃をハヤトが避けると断定した動き。双剣を大振りで切り上げたのは、当てるためではなく即座にバク転するための予備動作。
本命は、今しがた通り過ぎた爪先の刃物だろう。あれで自分の顎をごっそり抉る予定だったはず。
「痺れることすんじゃねぇか! 今のはひやっとしたぞ! お陰で思いっきり舌噛んじまったよ!」
「そのまま噛み切る、なんてことにならなくて良かった。下手に死なれても困ってしまうもの。ちゃんと私に殺されて死んでちょうだい」
「っざけんな!」
総毛立つ攻撃の感傷を瞬き一つで切り捨て、地を蹴り上げるハヤトは間合いを一気に詰める。短い距離を詰めることに関してはエルザをも上回る速度を発揮する彼は、咄嗟に右の刃を突き出させた。
それは悪手だ。右拳を引き絞りながら右半身を逸らすハヤトの左拳が回避と同時にエルザの顎を打つ。視界が揺らぐ打撃に一瞬の停滞を許し、その顔面に解き放たれた右拳が直撃。
この一瞬で二撃、頬を斬られるという代償を払って打ち込む。
怯むエルザではない。数歩、よろけただけで崩れる体勢を持ち直す彼女は怒涛の攻めを継続するハヤトの胴を斜めに両断——寸前、側面に滑り込むハヤトの左腕が脇腹にめり込んで吐血し、自慢の神速が鈍った。
次いで、引いて放つ動作で薙がれた左拳に後頭部を打たれて体が前に沈み、待ち構える右拳が下を向くエルザの顔面を全力で殴り飛ばす。腕が完全に振り抜かれた時、エルザは宙を舞う。
左拳を放つと同時に右拳を引っ込め、右拳を放つと同時に左拳を引っ込める。攻撃と攻撃の隙を作らないが故に、ハヤトの攻撃は絶え間ない。
合計、五連撃。この瞬間に叩き込んでみせた。
「まだーーッ!」
頬から垂れる血を吐き出し、短い距離を吹っ飛ぶエルザを追うハヤト。
調子が出てきた彼は六連撃目に手をかけようと拳を強く握りしめ、縮まっては開く間合いを何度でも縮め、
「あまり調子に乗らないことね」
冷え切った声がハヤトの鼓膜に届き、その足元を旋回する細長い両足が蹴散らしていた。握る二振りの刃を手放すエルザが両手を地に合わせ、体にかかる慣性を回転力に逃した両足がブレイクダンスのような動きで暴れ回る。
ありえない動作。さしものハヤトもこれには対応できず、足を取られて顔面から地に転倒。自身の速度に振り回されて地を転がりに転がり、やばいと思った瞬間には無理やり真横に跳ね、
「がーーッ!?」
その瞬間を狙って投擲されたククリナイフが、右肩に背中から刺さる。皮膚を強引に突き抜ける鋭い痛みに思わず表情が歪み、それでも体勢が崩れぬよう歯を食いしばった。
すぐさま起き上がり、真後ろから聞こえた地を蹴る音に振り返りながら右の裏拳を薙ぎ払う。そして、聞こえた音はナイフが地に落ちた音だとハヤトは理解する。完全に、読み違った。
ーー釣られた
そう思った時には遅く、視覚外から這い寄った回し蹴りが脇腹に直撃。お返しと言わんばかりのそれに骨が軋む音を聞いた直後、肩に突き刺さるククリナイフを引き抜かれて激痛が全身に走った。
何もしなければ死ぬ。そんな言葉に頭の中を塗り潰されたハヤトは前方へ飛び跳ねる。距離を稼ぎ、腕を振って反転、正面にエルザを捉える——血で染まるククリナイフを持った狂笑が眼前にいた。
振り下がるのは、逆手に携えられた一振りのククリナイフ。手放した分を懐から取り出すよりも、刺したのを使う方が早いと判断した彼女の一振りがハヤトの眼球に照準を合わせている。
数瞬後には刺さる剣先に、ハヤトの瞳孔がかっ開く。対応する猶予の無いそれに抗う思考が加速し、不意に訪れた絶望的な状況の打破を図ろうとして、
「させっかーー!」
瞬間。
真横から弾丸の如く突撃したフェルトがエルザに体当たり。風を纏う小柄な肉体が死の脅威からハヤトを遠ざけ、不意なそれに揺らぐエルザが強く押し出された。
一撃離脱のフェルトが大袈裟に後退。地を転がり、立ち上がるエルザの怒気を孕む殺気に睨まれて萎縮しながら、それでも「やってやった!」と言わんばかりに睨み返し、
「て、テメーがアタシを見限った以上、そ、その兄ちゃんはやらせねーぞ! 商談ぶち壊した挙句、その相手まで殺すとか、舐めた真似すんな!」
「ダメだ、フェルト! 俺の後ろで黙って見てろ! 死ぬぞ!」
フェルトの勇ましい言葉に叩き込まれたのは、状況を悟ったハヤトの必死な叫び声。自分の命を救ってくれた事以上に彼は今、底知れぬ恐怖をひどく感じていた。
エルザの向こう側にフェルトがいる構図になってしまった以上。仮に今ので標的が彼女に移った場合、自分が庇うのは難しいと本能的に解ってしまったのだ。ここから駆け出しても、きっと間に合わない。
その場合、あっさり斬られて死ぬ。だからあまりエルザを刺激しないよう叫んだ。
しかし、現実は非情。ハヤトの思いとは裏腹に「そう。分かった」と呟くエルザは鋭い眼光でフェルトを睥睨。彼女の心を殺意一つで縛り付けて身動きを封じ、あろうことかハヤトに背を向け、
「邪魔をするなら、あなたから先に始末してあげる」
「エルザぁぁーーッッ!!」
エルザが駆け出すのと、ハヤトが駆け出すのは同時。
地が爆ぜるほどの力で跳躍、取り乱すハヤトが凄まじい勢いで放たれ、それ以上の速度で獲物に接近するエルザは既にフェルトの目の前。
ダメだ間に合わない、拳を振るうには距離が遠すぎる。魔法、ダメだ間に合わない。起動して放つには距離が遠すぎる。ナックルを投げるか、ダメだ間に合わない。もう刃は掲げられている。
遠い、遠い、なにをするにも遠い。フェルトが警戒して大袈裟に距離を取りすぎたのが皮肉にも仇となってしまった。当たる。もう当たる。フェルトが反応できる速度なわけがない。
「フェルトーーッ!」
恩人の死の未来に戦慄で心臓が激しく動悸し、ハヤトは大口を開けて叫び続ける。もう二度と自分の前では誰も死なさないと決めたのに、また誰かがエルザに殺されてしまうのか。
いやだ。誰にも死んでほしくない。推しであるのなら尚更、命懸けで守らなければらない。
守らなければ、ならなかったのに。
「さよなら。天使に合わせてあげる」
上げた声は、届かない。
伸ばした手は、届かない。
ハヤトの必死な訴えを嘲笑うエルザが笑み、硬直するフェルトに上げたククリナイフが振り下ろされ——、
「——そこまでよ、悪党」
「——道を開けなさい、黒女」