「あー。疲れた」
ゴキゴキと音を鳴らしながら首を回し、右手の指先で左肩を揉みほぐすハヤトが、コの字型の回り階段を下りながらため息をこぼす。
数十秒前まで真面目な雰囲気に引き締められていたはずの表情筋からは力が抜け、緊張に強張っていた頬は緩み、その表情はお疲れ気味だった。
階段を下りる様は、執務室に向かって上っていたときとはまるで対照的で。直談判の余韻が抜けつつある彼は今、ゆらゆらとした足取りで一段一段を下りている。
「一応、なんとかなったか……」
そこに、執務室を目指して階段を上っていたときの力強さはない。
あるのは一仕事終えた後に必ずやってくる、肩にのしかかる疲労感のみ。加えて、ハヤトの場合は安心感もやってきているのだから、気の緩みは必然的だろう。
時間にして約十五分程度の濃密な話し合い。それから解放された事が彼にとって、どれほど安心できることなのか。真に分かるのは彼だけだ。
「まずは一つ目の壁、突破ってな」
珍しく手すりに寄りかかり、壁に左肩を預けながらハヤトは歯を見せて笑う。得られた安心感に削られていた精神が回復していくのを感じ、肩に乗っていた
結果的に、当初の予定と全く違う形になってしまったが別に構わない。自分の立てた予定が狂うことなど今に始まった話ではなく、気にするだけ無駄。
思い通りにいかないのがこの世界の普通。故に、過ぎたことを引きずっていても仕方ない。決まったなら、決まった事として受け入れて、今後の展開に意識を向けるべき。
ならば、
「うし。俺も仕事に戻るか」
頬をパチンと叩き、ハヤトは気持ちを切り替える。少し休んでいたい気がないわけではないが、自分にもやるべきことがある。早朝の仕事という、今となっては手慣れた面倒な仕事が。
休憩している暇などない。問題が山積みな今の自分には、そんな余裕など一秒たりとも与えられていないのだから。流れ続ける世界の時間に置いていかれないように、頑張らなくてはならない。
実に、燃える展開だ。
「———あ?」
一つ目の壁を突破したことで、新たな壁が出現。その壁の多さと高さに心を燃やしている最中、最上階から三階に下りるハヤトが不意に喉を鳴らす。
低い声が鳴ったのは、彼の視界に三階の西棟と東棟を中継する踊り場が映った瞬間。三階に下りてすぐ目の前にある広い空間に、三つの影があった。
どうやら、窓際から外を見ながら話しているところだったらしい。見た感じ談笑の雰囲気。こちらに背を向けた影たちは、鼓膜に触れたハヤトの声に反応して振り返り、
「来たかしら」
「来たわね」
「来ましたね」
ツインドリルを揺らしたベアトリスと、ショートボブの前髪を揺らしたレムとラム。先程、話し合いを盗み聞きしていた三人がそこにはいた。
部屋を退出してから解散していたとばかり思っていたハヤト。あまり見ない組み合わせに彼は「まだ一緒だったのかよ」と笑いかけ、のろのろとした歩速で階段を下り切ると、
「珍しい組み合わせだな。いつも禁書庫に引きこもってるベアトリスはともかく、
「問題ありませんよ。朝食の準備でしたら既に完了しておりますので。あとはお皿に取り分けて、配膳するだけです」
「時間に余裕がないのに、ラムたちがこんなところで話すと思う? 少しはその頭を働かせなさい。いえ、働かせられる状態じゃなかったわね」
引きこもりと称されたベアトリスが「それ、無性にムカつく言い方かしら」と小言を突き刺してくるのを横目に、ハヤトは双子姉妹からの反応を胸に受ける。
嘘を言っている声色ではない。仕事と私情の優先順位を分けられない彼女らでもないだろうし、本当に時間に余裕があるから話していたのだろう。
朝の主な仕事といえば、朝食の支度程度。それが終わっているのなら、この状況にも納得がいく。
「つまり、暇っつーわけか」
「その言い方には語弊があるかと。メイドたるもの、常にご主人様のために身を粉にして働かなければなりませんから。暇と表すほどの時間はありませんよ」
「レムの言う通りだわ。それも分からないなんて、言葉の解釈、理解すらできないほどに思考が停止しているのね。……慣れないことをしたせいで」
「かわいそうに」と、薄ら笑いでこちらの努力を嘲笑ってくるラム。腕を組んで窓に寄りかかる様はどう見ても暇にしか見えないのだが、追及するのは面倒だから言わない。
代わりに、ため息を一つ。双子姉妹の冷たい反応に苦笑する裏で息をこぼし、ハヤトは「うるせぇな」と笑いが混じった親しみのある声で適当に返した。
それから、ラムとベアトリスの間に割って入るように窓辺に近づくと、
「んで? 三人してなに見てたんだよ」
開いた窓の縁に手をかけ、軽く身を乗り出すハヤト。外から中に流れてくる早朝の微風を顔に受けながら、彼は三階から見える景色で視界を埋め尽くした。
整えられた広い庭園、見えるのはそれだけ。にも関わらず良い眺めだと思えるのは、巧妙に作られたそれの完成度が極めて高い証拠だろう。
その世界に、ハヤトは二人の住民を見た。庭園の一角。僅かに傾斜があり、丘っぽくなっている場所に人影がある。ここからだと遠くてよく見えないが。
あれは多分、
「スバルとエミリアじゃねぇか」
目を凝らすハヤトが呟くのと、他三人が動くのは同タイミングだった。彼の右にいる双子姉妹と、左にいるベアトリスが窓の外に視線をやり、四人して光景を共有する。
視界の先にいる少女二人は、なにやら話しているようにも見える。談笑と言うべきか。分からないが、スバルが大袈裟な身振り手振りをしているのは確認できた。
「なんだ、意外と話せてるみてぇだな」
それを、ハヤトは都合よく解釈する。
この距離では二人の姿はなんとなくでしか分からず、なにをしているのか見当もつかないが。それでも彼の頭は『二人は仲良く話している』と判断。
頭の疲れが呼んだものか。無意識に思う願望が招いたものか。いずれにせよ、その解釈を聞いた真横にいる少女たちの目が、すっと細まる結果に変わりはない。
「……やはりハヤト君のお考え、レムには理解しかねます」
少女たちが三者三様の感想を心に抱く中、不意にレムが口を小さく動かす。心情を考えれば不意とは言えないそれを聞き、ハヤトは声の方向に顔を向けた。
こちらを見てくるハヤト。その目を見ないレムは鋭く細めた青の双眼で、
「どうしてあのような女をアーラム村に住まわせたいのですか? 事情を聞く限り、徽章の件には強引に介入してきたようですし。完全に無関係ですよね。そのような女、放っておいても構わないとしか思えません。あるいは………」
そこから先を言いかけて、レムは踏み
それでも彼女の中で言葉は続いたのだろう。喜怒哀楽が希薄な表情を僅かに歪ませて、一度だけ「はぁ」とため息。
感情の抜けた声で「いいえ」と呟き、諦観の意を示すように首を横に振ると、
「それができないのが、レムの知ってるハヤト君ですね」
「誰にでも等しく優しい男。それがこの男だもの。難儀な性格をここまで貫かれると、呆れる通り越して感心すら抱くわ」
「それが行動力に結びつくとなると尚更かしら」
「褒めるなよ。照れるだろ」
直後。
視線の温度が絶対零度にまで低下した少女たち、その視線をハヤトは一挙に受ける。嫌味、皮肉、どちらにも捉えられる発言に冗談で返した結果、極限のジト目が心を貫通した。
今、左右を見てはいけない。チクチク刺していた言葉すら生まなくなった三人の激情を買う気がして、ハヤトは視界の端っこに映り込む影を必死に無視。
その状態が十秒。目で感情を訴える三人の中で始めにベアトリスが視線を逸らすと、次いでラムが逸らし、最後にレムが逸らす。長く続けても無意味だと思ったらしい。
スバルに向ける感情の捨て場にされ、言葉やら視線のサンドバックにされたハヤト。短いながらに身も凍る思いをした彼はこの雰囲気を変えようと口を開き、
「———はぁ」
出かけた言葉を、レムのため息が遮った。
途端、他三人の目がレムに集まる。見えない力によって引き寄せられたように首がぐいっと向き、以降から固定されてしまう。
ため息一つでそうなったのは、今のが先ほどのため息とは全く違うものだったからだ。感情の抜けた声を発していたレムの、感情が宿ったそれだったからだ。
そしてそれは、レムにとって一つのスイッチのようなもので。
「早く、テンくんに会いたい」
その瞬間から、レムは恋する乙女に様変わりする。
恋のため息を吐いた少女の無感情な表情が恋に彩られ、絶対零度の瞳が茫然とした様子で熱を孕み、雰囲気に興奮と哀愁が漂い始めた。
いつものレムだ。テンのことが好きすぎる、自分たちの知るレムが姿を現している。溌剌と笑顔を咲かせていないのが差異ではあるが。
「不思議な感覚……。昨日の朝に別れて、今が今日の朝。時間的には一日しか離れていないのに、半年以上も別れているような寂しさを感じるんです」
聞いてもないのに語り、思い出した寂しさにレムは一人で落ち込んでいく。この心を蝕む痛みは愛が故か。だとしたら自分はもう、テン無しでは生きていけない体になっている。
どうやら自分は、自分が思っている以上に彼のことを愛しているようだ。たった一日——二十四時間しか離れていないのに、もう心と体が彼の温もりを求めて、求めて、どうしようもない。
「テンくん……」
窓枠に手を置いて寄りかかり、青空を仰ぐレム。表情が恋する乙女になったところで、無意識に恋のため息を吐く彼女の目が虚空を見つめ始めた。
良くも悪くも、テンのこととなると情緒不安定になりがちなレム。たった今、それが形となって目の前に現れると、目を合わせあう他三人は等しく同じことを思う。
ーーこりゃ、完全に依存してるな
ーーえぇ。そうね
ーー分かりきったことかしら
目で会話し、感想を共有した三人が再びレムを見る。依然として変わりない。「会いたい」やら「テンくん」やら「好き……」やらと呟き、既に自分の世界に入っている。
もはやこれは、依存に近しい。否、依存だ。完全にレムはテンという一人の人間に依存している。その上、依存度が時間と共に上限無しで上がっている。
仕方ないことか。仕方ないことだろう。そうさせたテンが悪い。三人はそうやって簡単に片付けた。
「レム」
精神世界にのめり込む妹の肩を軽く叩き、ラムはその名を短く呼ぶ。体に響く小さな衝撃にはっとし、その意識が現実世界に帰還。
こちらを向く妹の哀愁が浮かぶ表情を見ると、衝動的に眼前の青髪を撫でたくなる。
「遅かれ早かれ、テンテンはそのうち帰ってくる。それまで我慢して、そろそろ仕事に戻るわよ。なんでも言うことを聞く権利を貰ったのだから、この寂しさはそのための辛抱だと思えばいい」
あたかも、自分を蝕む寂しさを理解しているような姉の発言に、レムは少しばかり引っかかる。「その寂しさ」と言うなら分かるけど、「この寂しさ」と言うのには違和感を覚える。
しかし、その原因の理解に時間は使わなかった。「あ」と、何かを察した声を鳴らすレム。こちらを見つめる優しい目に、ばつが悪いとばかりに彼女は己の胸に手を添えて、
「伝わってしまっていましたか?」
「気にしなくていい。これまでのレムとテンテンの関係性を顧みれば、当たり前の反応だわ。……テンテンがそうなるようにしたんだし」
申し訳なさそうな声を聞きながら、愛おしむように妹の頭を撫でるラム。テンの損失に予想通りの反応を見せる心を宥める表情は姉らしくて、とても柔らかい。
それで寂しさは緩和されたのだろう。己に与えられた権利を思い出すレムの表情がふっと和らいで微笑み、「はい。分かりました」と気持ちの良い返事が聞こえてきた。
良くも悪くも、テンのこととなるとレムは情緒不安定になる。その所以がこれである。
「それでは、ベアトリス様。朝食の時間が迫っていますので、レムと姉様はこれにて失礼します」
「朝食の席には参加するよう、お願いいたします。——あのことは他言無用で?」
「当たり前かしら」
気持ちを切り替えたレムと、なにやら気になる発言を付け加え、チラとハヤトを見たラムが一礼。板についた作法にベアトリスは頷き、形のいい鼻を鳴らす。
少女たちのやりとりに、ハヤトは置いてけぼりだ。自分は全く分からないのに、三人の間になにかしらの理解が通っているせいで完全に蚊帳の外。
他言無用と言った際、ラムが目配せしてきたことから察するに、聞いても無駄だろう。内容の詮索を諦めたハヤトはベアトリスに手を振り、
「じゃ、俺も行くぜ。仕事があるから………」
な。
と、仕事に向かう双子姉妹の背を追いかけるべく一歩踏み出したところで止まった。
服の袖口が引っ張られる感覚。反射的に振り返ると、手を伸ばすベアトリスがぎゅっと掴んでいる。掴んで、ちょんちょんと自分の方に引き寄せようとしている。
疑問に思うハヤト。「どした?」と小首を傾げる彼にベアトリスは澄ました顔で、
「お前、ちょっとベティーに付き合うかしら」
「なんでだ?」
「いいから付き合うかしら」
掴んだ袖口をぐいぐい引っ張り、強引にハヤトをどこかへ連れて行こうとするベアトリス。幼い力で引っ張ってくる様は実に可愛らしく、子ども好きな彼の心がくすぐられた。
しかし、レムが言ったように朝食の時間が迫っている。時間としては十分もない。ならば使用人であるハヤトも、メイド二人と共に厨房へ向かわなければならない。
申し訳ないが、ベアトリスには我慢してもらおう。そんな風にハヤトは顔を顰めて「んーー」と喉を低く鳴らし、
「付き合うかしら、って言われてもな。俺には朝食の支度やら配膳が……」
「どうぞ、連れて行ってやってくださいベアトリス様。朝食の支度はラムが」
「どうぞ、連れて行ってくださいベアトリス様。朝食の配膳はレムが」
断ろうとした瞬間、思わぬ援護射撃が背後から飛んできた。首だけ振り返ると、見えたのは去って行ったはずの双子姉妹の姿。
こちらを見つめる姉妹の目にはどこか温かみが含まれており、けれどそれが自分に向けられたものではないとハヤトは瞬時に理解する。
「しかしだな……」
「それも、脳筋のやることなのでしょう?」
「それも、ハヤト君のせいなのでしょう?」
ベアトリスの提案に迷い、渋るハヤトへの対応は突き放すようなものだった。これはお前が招いたこと——そう言わんばかりに言葉を畳みかけ、揶揄うように口元に笑みを浮かべて小首を傾げる。
逃げ道を塞がれたハヤト。逃げるつもりなどないが、形として一方通行にされれば拒否権はない。その上で、未だにちょんちょんと袖口を引っ張るベアトリスに顔を戻せば、
「とっとと来るかしら」
澄ました顔が若干崩れ、ムスッとしているのだから。自分を物理的に呼び止める力に抵抗する気など起きるわけがない。
それ以前に、彼女が付き合えと言うのも珍しい。普段から自分の要望を口に出さない彼女が、自分の意志を押し付ける態度をするのも珍しい。なるほど、今日は珍しいことだらけだ。
そういった意味でも断る気は起きない。仕事という邪魔がなくなったのなら、大人しくついて行くまで。
「お……、おう。分かった」
背後から掛かる双子姉妹の圧力。正面からぶつかってくる幼女の圧力。三つの圧を感じ、声に詰まりながらハヤトは頷く。
どれほどの脅威に晒されようとも怯まない男が、たった三人の女の子の圧に怯むという。珍しい場面が日常の一幕として刻まれたのを最後に、四人は二人と二人に別れて解散した。
▲▽▲▽▲▽▲
「——姉様」
三階の踊り場に反響し合う、ハヤトとベアトリスの声。徐々に遠ざかっていくそれらを聞きながら、三階から一階へと階段を下るレムは、隣に並ぶ姉に声をかけた。
「どうしたの?」と言いながらこちらに顔を向ける姉——ラムに彼女は一拍の間を置くと、
「あの女について、姉様はどう思いますか」
「どう、って?」
「あの女がテンくん……ロズワール様、
冷たい声で聞くレム。テンから広げてロズワール、エミリア、最終的に自分ら全体を『エミリア陣営』と一括りにし、スバルがその安寧を乱す者であるか、簡単に問いかけた。
そこでテンが一番初めにきてしまうあたり、彼女の中での優先順位がうまく整理できていないらしい。メイドとしていかがなものかと思うが、一人の女の子としては許せる。
そのへんのことを感じながら、ラムは「そうね……」と考えるための沈黙を挟み、
「まだ分からない、としか言えない。そう判断するには材料が少なすぎる。だとしてもレムの懸念が間違っているとも限らないけどね」
どっちつかずな意見を述べ、ラムは口を閉じる。その隣では曖昧な返しをされたレムが低く唸り、童顔で愛らしい表情を苦悩に顰めていた。
原因は多分、レムのみが理解している良からぬ気配だとラムは思う。昨日、ふらっと自室にやってきてその事実をレムの口から伝えられたから、見当くらいはついた。
スバルの異様な邪気を嗅ぎつけることができるレム。おそらく、自分のみが分かるそれを嫌がるように彼女は己の鼻に手を添え、
「レムはそう思いません」
「良くない気配がするから?」
「はい」
自分がスバルを毛嫌いしていることを隠さず、むしろラムの言葉を全肯定するレム。鼻に添えた手を下ろす彼女は短く言葉を返すと、弱い力でその手を握りしめ、
「あれほど魔女の臭いを漂わせている人間が無害だなんて、まずあり得ません。魔女教の関係者……魔女に魅入られた者と考えて間違いないと思います。あの女は危険です。可能なら今すぐにでも排除するべきです」
語る言葉が増えていくのと比例して、握る拳に力が込められていくのをラムは見た。『魔女』に対して並々ならぬ憎悪と嫌悪を抱く妹、その心に押さえ込まれた本音が浮かび上がりつつある。
今、この場に自分と姉以外の存在はない。だから、少しは胸の内を出しても構わない。そんな思いからレムは感情を押さえ込む心の蓋を開けた。
途端、一気に溢れ出る。
「エミリア様に敵対する候補者の陣営の方かもしれない。昨日、エミリア様の徽章を狙った輩に姉様たちは襲撃を受けたのですよね? それなら、その輩を雇った存在に雇われている間者の可能性だって否定できない」
「レム……」
「ハヤト君はそうではないと言いましたけど、レムは納得してません。いえ、納得できるわけないじゃないですか。根拠もない言葉を、どう信じればいいんですか。ハヤト君は、本当に優しすぎるんですよ」
独り言の声量でボソボソ呟き、レムは無意識にスカートの裾をギュッと握り締めている。それは、ハヤトに無理なことを言われて抑え込まれた、心に積もり続ける負感情の一端。
ハヤトが優しいのは知っているし、その優しさに助けられた身としては否定しきれない部分があるのも確かだ。
けれど、その思いを軽く凌駕する勢いの感情が爆発的に膨れ上がるせいで、今はその優しさがひどく煩わしい。
「視界に入れるのも吐き気がします。同じ空間にいるだけでも感情が抑えきれない。その上、あの馴れ馴れしい態度。……どうして、そんな女をハヤト君は庇うのですか」
この場にいない男へ向けた悲痛な思いが、思いを聞き続けるラムの胸を貫く。下唇を噛み締め、感情を精一杯我慢しようとする様に、姉として動かなければと考える。
こうして、レムが自分の心を言葉にしてくれるようになったのは良い変化だ。抱え込みがちな妹の隣に「全てを曝け出せ」と言う恋人がいるおかげで、ラムは今、妹の胸の内を聞けているのだから。
なら、少しでも姉としてやれることをしろ。ラムとレムという姉妹を繋いでくれた彼のためにも。
「レムは……怒りと不安でどうにかなってしまいそうです。テンくんと姉様を傷つけた存在の関係者がレムの大切な場所に……。やっと、やっと、あの日から落ち着いてきたのに……!」
許せない。
そんな思いを胸にしながら言葉を閉じ、レムは閉じた口の中で奥歯をぎりっと噛み締める。これ以上を出すと止まれなくなる気がして、溢れる感情に再び蓋をする。
蓋を開けるべきではなかっただろうか。日頃から我慢するのは良くないと言われているから、ほんの少しだけ開けてみたのだが、色々と溢れて、溢れて、止まらなくなりそうになった。
それに、
「テンくんに会いたい……!」
引っ込んだはずの想いまで、溢れ出た。
あの日——魔女教徒がメイザース領に襲撃し、自分を助けにきたテンやハヤトが死にかけた日。その日から、レムという自分がテンに救われて、彼の恋人になる日まで。
地獄と天国が入り混じった激動の日々から、ようやく落ち着けるようになったというのに。まだこの世界は自分たちに安寧を与えてはくれない。それ以上の激動の日々を過ごさせる気だ。
そう思うだけで恐怖、不安、焦りといった感情が心の中で暴れ回り。愛しい人に会いたい想いが自分を染め上げてしまう。また、不安定になってしまう。
ああ、なんて弱い。自分は、こんなにも弱い。
「レム……」
「大丈夫です。大丈夫ではありませんけど、大丈夫です」
けれど、だからといってめそめそしているわけにもいかない。いつまでもこんな調子では、彼が帰ってくるまでに精神的な負荷で死んでしまいそうだ。
自分を心配する姉の声をやんわり押しのけ、頭に添えられた手の温かさを受け止めながら、レムはいつの間にか俯いていた顔をぐいっと上げる。
頑張れ自分。負けるな自分。大丈夫、自分ならきっとやれる。姉の言った通り、この先に天国が待っているのだから。これは、そのための試練だと思え。
テンにレムという存在を全肯定され続ける生活を過ごした結果、若干ではあれど自己肯定感が上がったレム。彼女はそんな風に己を励まし、
「こんなレムを見られては、テンくんに情けない女だと思われてしまいます。テンくんが帰ってくるまでに力尽きないためにも、気をしっかり持たなければ」
「テンテンはそんなこと思わないと思うけど?」
「それでもです。レムはもう、以前のレムではないのですから」
両の拳を胸の位置に上げて、ガッツポーズ。
数日後に待っているご褒美に向けて、レムが気持ちを切り替える。それを見るラムもまた、己の中で気持ちを入れ替えていた。
「それにしても……」
そうして気持ちを切り替えると、レムは話も切り替える。前置きをする彼女は絡んだ前髪を人差し指で簡単に整え、
「ハヤト君。相当な無理をしてますよね」
「してるわね」
レムの言葉に同意を即答し、ラムは頷く。一度、ハヤトにスバルを屋敷に連れ込んだ真意を尋ねた彼女の声はやや強めで、どこか感情的だった。
無理をしていると思った理由は単純。隠し事をするために嘘をついて、変な作り笑いをしているから。無理をするとき、彼は必ず辛い表情を笑みで取り繕うから。
純粋で太陽のような眩しい笑みを普段から見ている二人には、その笑みの真偽を見抜くことなど造作もない。多種多様な笑みを見せる彼が、唯一意図的に作る笑みなのだから。
彼が無理をしているのは多分、ベアトリスも気付いているはず。今頃、彼は彼女による心の治療でも受けている頃だろう。
彼は様々な意味合いで強いが、無敵ではないのだ。
「どうしてそこまで、あの女に拘るのでしょうか。帰る場所が無いから放っておけない……それだけの理由では、レムは理解できません」
「脳筋の考えを理解できたことなんて一度でもあった?」
「いえ、ないですね」
失笑。
平然と割り切るラムの不意打ちに笑みを溢し、レムは口元に手を添える。言われてみれば、感情論で動く彼の考えを全て理解したことなんて、一度たりともない。
そんな彼が自分の精神を削ってまで、あの女に固執するということは、
「無理をしてでも、あの女を手の届く範囲に置いておきたい理由がある……のでしょうか」
「あの女の存在自体に、なにかあるのかもしれないわね。脳筋はそれを話してはくれなかったけど」
口元に添えた手を顎に当て、考えるレム。妹の考察を聞き、そこから派生して考えるラム。
別々の考えを口にするハヤトの友人二人は、割と的を得た意見を交換しながら、厨房に向かっていった。
レム
「不思議な感覚……。昨日の朝に別れて、今が今日の朝。時間的には一日しか離れていないのに、半年以上も別れているような寂しさを感じるんです」
作者
「ぎくっ!?」