「——ん?」
「ーーー?」
テンが目を細めて小さくうなるのと、ラムがかすかな音を聞きつけて警戒したのはほとんど同時のことだった。
テンの鼓膜が捉えた違和感は深い闇の底。そしてラムが聞きつけた異音もまたそちらの方向から届いた。そして、それは同時に一つの結果をもたらす。
森に響き渡る大咆哮。嫌というほど聞こえてきたウルガルムの咆哮とは別格のそれが、二人の生存本能を激しく刺激している。遠くから空気を伝って耳に届くそれが、数回聞こえてきた。
「……なに、今の」
「少なくともウルガルムの声ではないことは確かね。ラムも聞いたことがない」
明らかにこの森に生息してはいけない魔獣による、己の存在を森で息をする者達に知らしめる大咆哮。聞いただけで身も心も身構えてしまうそれは、今でのとは格が違う。
故に、二人はすぐにでも動き出すことにした。テンが命を懸けてレムを鬼の支配から救い出すことに成功した今、この場に残る必要もない。
その彼女は今、テンの背中で深い眠りに落ちている。独りぼっちだった少女は、大好きな背中に全てを預けていた。
なら、ハヤトと合流して早く森から脱出しよう。本能が「逃げろ」と語っている咆哮が聞こえた時点でこの森に危険な化け物がいることは明白、傷の度合い的にも、とっとと屋敷に戻らなければ。
「立てるか?」
「ラムを甘く見ないでちょうだい」
周囲を警戒するテンの緊張感のある声にラムが疲労した肉体に鞭を打って立ち上がる。殆どの木が倒木して支えのない中、彼女は足の力でゆっくりと立ち上がり——前によろける。
そのままテンの胸元に頭突き。激痛を感じたテンが喉の奥で情けない唸り声を大きく上げ、
「立てるか?」
「……前は譲りなさい」
「マジかこいつーーっ!」
頭突きした胸板で見上げるラムがそう言った直後。力を込めたラムが地を蹴り上げると、レムの両足が乗る両腕にラムの両足が通る。流れるように両手が首から後ろに回り、レムの顎が乗る肩とは反対の肩にラムの顎が乗った。
約百五十センチの少女二人。総重力八十キロ以上がテンの下半身、更には腰を支える脇腹の骨にのしかかる。後ろではレムを背負い、前ではラムにしがみつかれ。完全にタクシー扱いのテンである。
小学生の時、荷物持ちでランドセルと前と後ろに持ったことを不意にも思い出した。バカか、比較になるわけがない。
流法で身体能力を上げていなければ、満身創痍に近い状態では歩くことすら困難だが、
「ほら。早く行きなさい、テンテン。ここが男の見せ所よ。ラムとレムを守ってくれるのでしょう?」
「へいへい。分かったよ。落とされないようにね」
四の五の言ってる場合ではない。そう割り切るとテンは二人を抱えながら頑張って走り出した。
▲▽▲▽▲▽▲
言い表しようのない脅威を感じた。
いくら警戒を積み重ねても足りぬと本能が判断する相手がこの森にはいると、ハヤトはその大咆哮を聞いて理解していた。
身体が勝手に動く。背中に重くのしかかる疲労感を無理やり振り払う彼は勢いよく立ち上がると大剣の鞘を背負い直し、本体を両手で携える。睨みを効かせる彼は闇を睥睨。
まだそこにいないというのに、警戒を解かせてくれない緊張感がハヤトの心を駆り立てる。今までに感じたこともない強者の気配、ロズワールとはまた違った格上の覇気が森を震わせている。
ーーまさか、ベアトリスの言ってやがった厄介な魔獣の正体か?
突然のことに、しかしハヤトは己の心を冷静に保つ。今からアツくなっていては対応できるものもできない。それは魔獣と対峙してアクラを纏った瞬間からでいい。
その間、ハヤトは不気味な静けさに包まれた空間に一人。息をする存在が自分しかいないのではと錯覚する静寂に飲まれた光の空間で、彼は息を呑む。
そして——分かった。
「……来てる」
大剣を構える体から余計な力を抜くハヤトが自然体の姿勢をとると、彼はそう呟く。柄にもなく正面に突っ込まない彼は、その音を聞いた。思わず身震いしてしまうようなそれを。
遠くから響いてくる地鳴りのような足音が、ハヤトの方へと徐々に近づいてきている。一定の間隔で地面が振動するのはゆっくりと向かってきているからだろうか。
地に伏せる死体が振動に揺れている。そしてそれは音を聞く回数が増えていくのと比例して、どんどん激しく揺れていく。確実にこちらへと近づいてきている証拠だろうか。
耳を澄ませば木々が倒れるような音も聞こえてくる。相当デカいのだろうか。
ダメだ。何を考えても予測にしかならず、そこから先が続かない。「だろうか」に「だろうか」が重なるばかりでどれも確証が持てない。
なんにしても、
「どうする」
己に問いかける。
傷の手当てもろくにしていない満身創痍に近い肉体に戦えるかと。マナを多く蓄えたゲートに戦えるかと。血を浴びた大剣にまだ戦えるかと。友に託された心にまだ戦えるかと。
ーー決まっているとも
肉体の筋肉が声を上げて膨れ上がり、ゲートが火を吹いて今か今かと主の呼び声を待ち、血振りされた大剣が月光を反射させて光り輝き、燃え上がる心が炎を猛らせた。
己に問いかければ、自分に宿る全てが共鳴するように応えてくれる。逃げの選択肢は無しだと満場一致で戦闘の意志を爆発させている。
ならばハヤトのやることは一つだ。
「戦える……。違う! 戦うしかねぇ!」
瞳に宿った覚悟が燃えるハヤトは迷いを断ち、近づく足音に宣戦布告。背水の陣が本格的に実現したところで彼は剣先を闇へと突き向けた。
見えぬ脅威と対峙する時が、刻一刻と迫る。
▲▽▲▽▲▽▲
「……テン、くん。これは」
それは、ハヤトの下へと向かっている最中のことだった。
テンの背中で休憩を挟んだことで、遅くではあるが自力で走れるまで体力が回復したラムと、レムを背負いながら走るテン。その二人が合流に向かっているところに、眠っていたレムが目を開ける。
途中、レムとラムを背負うテンに魔女教徒の追っ手が迫ったものの、そこは気合いで乗り越えた。色々とあって心身共に整った彼に怖いものはなく、圧倒的な絶望でも二人を守り切り、彼は追随の手を振り切ってみせた。
「起きたんだ。痛いところとか、ない?」
「よかった、レム。本当に、世話のかかる子だわ」
レムが目を覚まして一安心。しかし、この場にいる全員が危険な状なことに変わりはない。その安堵感に身を委ねて足を止めてしまいたいところだが、二人は走り続ける。
揺れるテンの背中。温かい感覚に身を包まれながら、レムは自分がどうして今の状況になったのかを考えた。
森に入って、魔女教徒と戦って、意識が曖昧になって、テンを傷つけて、それで彼に「もう大丈夫だよ」と抱きしめられて——。
テンを、傷つけて。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、助けに来たんですか?」
首から回した腕に理由もなく力が入り、そんな疑問が口から溢れ出た。不思議げな顔つきで自分を見るテンに、レムは立て続けに唇を震わせ、
「テンくんと姉様が来てしまったら何の意味が。いいんです。傷付くのは……レムだけで。レムが一人でやらなきゃ、ダメなんです……っ」
切なげな声で、レムの口から弱音が漏れる。
分かっていた。レムがそういう性格をした女の子だと。でも、いざそれと向き合うとなったとき、言葉が出てこないテンの口は開かない。ラムもなにか思うところがあるのか、沈黙している。
そんな二人の沈黙をどう受け取ったか。レムは意味の分からない孤独感を心に得て、誤魔化すように回す腕にもっと力を込める。温もりに縋るように言葉を紡ぐ。
「レムは、テンくんを傷つけてしまった……っ。レムの、レムのせいで……レムがダメだったから、取り返しのつかないことをレムは……」
彼の今を知って、レムは自分の弱さを悔いた。満身創痍な彼の現状を目で見て、レムは自分のせいだと苦しんだ。
とても人を背負って走っていい状態ではない。無茶をした上に無理を重ね、その上から無理を何個も積み重ねたような悲惨さ。それが今のテン。
加えて、自我が曖昧であったとしても自分は彼を傷つけてしまった。鬼の力は人間の並の力を遥かに上回り、直撃した彼の肉体の内側は崩壊寸前のはずだ。
「あのさ、レム」
「はい」
自責の念に押し潰されそうになるレムの耳にテンの声が届く。何を言われるのか不安がる彼女の声はいつになく弱くて、震えていた。なのに、首から回る細い腕と腰に回る足には痛いくらいに力が入って。
そんな矛盾した彼女にテンは優しく語り出した。
「レムは、俺が危ない場所に一人で向かったって聞いたら。どうする?」
「……どういう」
「意味なんて考えなくていい。ただ、どうするのかって俺は聞いてるんだよ」
酷い言葉を言われる。そう思っていたレムには予想だにしない問いかけ。こちらに視線を向けぬまま声だけを向ける彼は、レムの返答を沈黙して待つ。
考える必要なんてない。そんなの決まっている。自分に黙って危険な場所に行くなんてこと自分は許さない。そうやって辛いことを我慢して、誰も知らないところで傷つくことなんて、
「許しません、助けに行きます。レムに黙って一人で危険な場所に向かって、レムに心配かけて。レムはテンくんを怒ります」
「怒るのか……。そっか、じゃあそれがレムの答えってことでいい?」
「はい」と小さく返したレムが頷く。考える以前に、答えの決まった質問を藪から棒にレムに投げかけてきたテンは「じゃあ」と次の言葉と今の言葉を縫い合わせると、
「なんで俺達はレムのことを助けに来たんだと思う?」
「ーーーー」
「危険な場所に一人で飛び込んだレムを、どうして俺達は助けに来たと思う?」
「ーーーっ」
レムの息が詰まる音がした。何かにハッとしたような吸息音が浅く鼓膜に響き、言葉にならずとも彼女の心をよく表している。
問いかけに対する無言の答えを受け取ったテン。彼は緊張に強張った頬がほどけるように柔らかくなると、
「レムが戦う理由と同じだよ。俺たちもレムが心配だから。心配だから、レムを助けに来たんだ」
「どうして……。レムなんか、放っておいてくれればいいのに……そのせいでテンくんが、姉様が傷付くのは、見たく……ないです」
「放っておけると思うか? お前がたった一人で苦しんでるのに、無視して屋敷に残ってろと? 悪いけど俺はそこまで人として堕ちてないつもりだよ」
どうして一人でやらなくちゃいけないのか、テンにはよく分からない。けどそれは、本人にとって良いことだとしても、周りからすれば良くないことなのは分かる。
それにテンにとってレムは大切な人だ。これまでずっと支えて、寄り添って、励ましてくれた、自分にとってかけがけのない存在だ。
レムが大切な人だから、心配もする。危険な場所に一人で行ったら、そこがどんなに危険な場所だとしても助けにも行く。傷付こうが死にかけようが関係ない。
「レムが一人でやらないと……、だって、これはレムが始めたことだから、テンくんを巻き込みたくない……」
「レムがどう思ってようとも、俺はお前を助けに行くよ。俺がそうしたいから、そうするべきだと思うから。お前が——大切な人だから」
「ありきたりな言葉だけどさ」と、首を回すテンはレムの瞳と目を合わせる。とてつもなく近い距離、吐息が先程から頬に当たる距離にいる彼女にテンは言葉を作る。
「一人で抱え込むなとは言わない。誰しもが何かしら一つは一人で抱え込んでるからね。でもその代わり、それを一緒に抱えてくれる人がレムの近くにいることを、すぐ隣にいることを覚えておいて」
微笑み、テンはレムの身体を背負い直す。感情がなけなしの力でも振り絞った結果か、不意に体に回る両手両足から力が抜けた彼女がずり落ちぬように。
「あ、そうだ。あと——」
何か言いかけたテン。しかしその先が続くことはなく、代わりとして感じ取ったものに背中が大きく振り返る。同時にレムもそれに気付くような反応を見せた。
遥か遠く。テンが感じ取ったものは、背中に突き刺す人ならざる者の気配。幾度となく刺されてきた意志のない歪が心を戦慄させる。
レムが感じ取った——否、嗅ぎつけたのはその存在が察する刺激臭。騒動の初めに森から漂ってきた最悪の気配が、かなり遠くから空気を渡ってきた。
それは二人の動揺にラムもまた察する。一度は退けた連中が、再び自分達の下へと向かってきているのだと。何度となく襲いくる殺戮集団が、自分達を追尾して森から決して逃さないのだと。
それ即ち、魔女教徒の再来だった。
▲▽▲▽▲▽▲
「ラム。レムを背負うことってできる? 欲を言えば背負った状態で遅くてもいいから走れる?」
魔女教徒の追っ手が着々と近づく今、テンがその発言をするのは必然的だったのかもしれない。彼が取れる最後の選択肢がそれだったのは、初めから決まっていたことだったのかもしれない。
他人を背負って歩くことがやっとのラム。動くことすら困難なレム。満身創痍な自分。この三人が迫り来る魔女教徒の魔の手から逃げれる確証はなく、三人で一緒に逃げて追いつかれたら、今度こそ終わりだ。
戦えない二人を庇いながら戦える余裕など今のテンにはない。自分の命を守るので精一杯な彼が、女の子二人の命を完璧に守り切ることなんて、もはや不可能の域だった。
だから、
「戦えるのは俺一人。ゆっくり走ってても追いつかれる。なら、ここで俺がアイツらを食い止める方が現実的だと思わない?」
彼は、レムとラムからすれば最期の別れになるかもしれない言葉を音にした。二人を逃して、自分一人がここで殺戮集団を迎え撃つ——自殺行為にも等しい選択を迷いなく。
もちろん、反論の声が上がらないわけがない。
「その満身創痍で魔女教徒を相手に? どこが現実的なのかしら。残っても死ぬことは目に見えてるわよ」
詰め寄り、胸元で見上げるラムがテンのことを睨みつける。その様はどこかテンには幼く見えた。だだをこねる幼子のような、理解していながらもそれを否定するような。
「死ぬつもりなんてないよ。エミリアに生きて帰るって約束したし。それに、俺の役目はお前達二人が無茶をしないように助けることだから」
左手首にある感触に意識を集める。そこにはエミリアに渡された腕輪が煌めいていた。彼女との絆の形が、生きて帰ると約束した証が、そこには存在していた。
死ぬつもりなどない。心の底からそう決意しているテンに迷いは感じられず、本当に自分一人で魔女教徒を相手にしようとしている事がレムとラムには理解できた。
彼は本気で、たった一人で魔女教徒を相手にし、それでも生きて帰ると固く決めている。しかし、本人が死ぬつもりがなくても、それが死ぬことがない理由に繋がるとは限らないことをラムは知っている。
だから、彼女は引き下がらなかった。残ったら絶対に無事では済まない。下手したら死んでしまう。生還できたとしても何かしらの戦いの傷跡は残ってしまう、と。
それらの声をテンは肯定しようとはしなかった。彼の中ではこれは決定事項なのか、覚悟を決めた目は真っ直ぐで、本当の本気で無事に帰ってくるとラムに伝えている。
「だめ。いかないで……、いかないでーーっ!」
意志が固いことを知り、レムは地面に下ろされた動かないはずの体を無理やり動かす。遠ざかろうとする背中を必死に追いかけるように、離れようとする体を引き止めるように、彼女は彼に抱きついた。
自分がなんとかする。なんとかするからいかないでくれ。もう、自分の中に眠る鬼は顔を出してはくれないけど、それでもなんとかするからいかないでくれ。
「いかないでください……! レムから離れないでください……! レムの傍に、レムの手が届かないところにいかないでください……!」
彼は、この中で一番の無理も無茶もした人で。誰よりも傷ついて危険な状態なのに、いつ倒れてもおかしくないのに、そんな体で魔女教徒と戦って助かるわけがない。
それでもし、もし、彼が、自分の大好きな人が死んでしまったら、自分はどうすればいい。大好きな人を傷つけたまま、その罪を償えないまま、自分は彼と永遠に別れるのか。
まだ、好き、って言えてない。
「やぁ……やだぁ! いっちゃいやだぁ……っ! レムの傍にいてください。レムから離れないでください。レムが見えるところにいてください。いかないでいかないでいかないで。いかないでぇ……」
取り乱し、泣き叫ぶ。
人生で初めて好きになった人との今生の別れ——今の状況をそう認識したレムが必死にテンに縋り付く。
今のレムはいつも通りのカケラもなかった。自分の要求だけをただがむしゃらに押し切って、「いかないで」を連呼し続け、しがみつく体から刹那たりとも離れようとしない。
その様子は痛々しさに溢れた幼子。大口を開けて噴出するように絶望の泣き声を上げる彼女は、拭いても拭いても止まらない涙を、そこに含んだ感情を全て胸板にぶつける。
やがて、声の枯れた喉が嗚咽を溢し始め。それでもレムは訴え続ける。続けて、続けて、続ける。彼が自分達と一緒に逃げると言うまで。
「でも。俺はお前達のために戦うよ。それが、俺がここにいる意味。今まで……、今の今まで頑張ってきた理由だから。地道に努力してきた理由だから」
彼女の想いを受け止めることはできても受け入れることはできないテンは、レムが悲しむ選択肢しか取れないことを呪いながらも、それでもレムの願いを聞き届けることはしなかった。
だって世界はどこまでも理不尽で、ひどく残酷で、こちらの都合など視野に入れていない。
二人を守りながら戦うことなど不可能だ。チートも、化け物じみた戦闘力もなく。この世界で許された力しか扱えない自分は、アニメや小説の世界の主人公のようには戦えない。
傷つき、死に物狂いになって、ようやく生きて帰れるかどうか。自分はその程度。地道に努力したことを積み重ねて、自分を盾にしてやっと近くの人——隣の人を守れる程度の男なのだ。
「レム。俺の目を見て」
「ーーーー」
「これが死ぬつもりの人間の目に見える? レムに泣きつかれて、死んで帰ってくるなんて考えてそうな目に見える?」
だから、テンは言った。瞳の色を生きる覚悟一色に染め上げなら、枯れることのない涙を流すレムの目を見て言った。
「大丈夫。俺は、絶対に、生きて、帰ってくる。何があってもレムの下に帰ってくる。どんなに傷を負っても、どんなに危険な状態になっても、必ずレムの前に生きて帰ってくる。約束する」
力の入らない体を感情だけで動かすレムの体を、服を握りつぶしながら泣きついてくるレムをの心を、そっと抱きしめながらテンは言った。
自分は決して死にはしない。レムを置いて死ぬわけがない。この世界に未練しかないのだから、死ねるわけがないだろう。
それに、エミリアとも約束した。必ず生きて帰ると。彼女の意志を約束という形で縛り付け、みんなと無事に帰ってくると誓った。
だから死なない。死んだりなんかしない。
「……でも」
「確かに俺はハヤトよりも弱いし、自信のカケラもないけど。今くらいは、女の子を背中にした時くらいは流石に頑張れる男なんだぜ。お前にそこまで言わせておいて、死んで帰ってくるなんて真似、絶対にしない」
「でも……、でも」
それでも、レムは納得してくれない。どんなに優しく語っても、感情的に語っても、レムは首を縦に振る気配がない。
錯乱した態度は鎮まったものの、彼女は否定の言葉を弱く発している。胸元の少女はただ「いかないで」という願いだけを口にして、涙を流している。
空間の余地を許さんばかりに密着した肌を介して彼女の鼓動が——速すぎる鼓動が伝わってくる。どれほど彼女が動揺しているのかなんて、考えなくても伝わった。
「レム」
それでもテンは彼女の願いを悲痛に断つ。断つしかない。みんなが生き残るために。自分が戦えるようになるために。
なら、何を言えばいい。何を言えばレムは自分の言葉を受け入れてくれる。
「俺を————」
そんなの考えるまでもない。
今の自分に言えることなど初めから一つに決まっている。だって、今までだってそうやって不安な心を宥めて、宥められてきたから。
きっと、自分だけに限った話ではないとテンは思う。エミリアも、ハヤトも、ラムも、どんなことがあろうとも最終的にはその言葉に行き着いたのだから。
その言葉は——、
「俺を信じて」
▲▽▲▽▲▽▲
「さ、行け。走れ。そんで……走り出したら絶対に振り返っちゃだめだよ。後ろのことは俺に全部任せて、前だけを見て」
「約束は守りなさいよ」
「何度も言わなくても分かってる」
「生きて、必ず帰ってきてください」
「うん。また会おう」
二言を最後に、背中で駆け出す足音が聞こえ始める。数秒も経たぬうちに徐々に遠くなって、遠くなって、最後には聞こえなくなった。レムとラムの気配が、背中から完全になくなった。
そうなったら、この場所にいるのは自分と、あと数十秒後に訪れる最悪達だけだ。それまでは、自分一人。
結局、自分を信じさせることでテンはレムの想いを
押さえ込んでしまった。エミリアと同じように彼はレムの「いかないで」を信頼で丸め込み、泣きじゃくる彼女の心を宥めてしまった。
あれだけ泣かれて、あれだけ叫ばれて、あれだけ縋られて、その最後が「俺を信じて」の一言。
「ひどいやつだなぁ。俺は」
我ながら呆れる。
女の子二人の純粋な心配と涙をそれ一つで断ち切ったのだから。それで無理やり納得してくれたからよかったものの、納得しなかったらただのサイテー野郎だ。否、サイテーなのは元からだ。
そうして、レムを我慢させてあの場を終わらせた。ラムにレムを背負わせて、二人をこの場から逃げさせた。必ず生きて帰る、と。強く約束して。
その代わりとして、エミリアと同じように右手首にテン自身がレムに贈った腕輪が付けられた。エミリアが腕輪を付けさせたのなら、自分のも付けてほしかったようで。
テンと自分の心はいつも一緒、ということらしい。どんなに苦しくても、この腕輪を見て自分のことを思い出して頑張ってほしい、とのことだ。
「……さて」
一人、残ったテン。
彼は大きく息を吸って大きく息を吐く。要らない感情を吐き出し、新鮮な空気を肺の中に取り込んだ。気持ちの切り替えは、今に限って上手くいかない。
振り返りそうになる心を殺すために下唇を噛み締める。一人になると、途端に顔を見せ始める弱い自分をそうやって押さえつける。
覚悟は決まった、決意も決まった。全部が整った。でもどうしてもこの感覚には慣れないものがある。戦いの前に決まって訪れる緊張感、今から自分は死ぬかもしれない戦いに臨むという危機感。
「ま、死ぬつもりなんてないけどさ」
不思議と恐怖はなかった。みんなに支えられたおかげだと思う。自分一人じゃ戦う覚悟なんてまともに決められなかっただろうし。特にラム。今日だけでも彼女には沢山迷惑をかけてしまった。
その罪滅ぼしというわけではないが。お返しとしてテンは彼女を——彼女達を守ると決めた。何があっても、あの子達は守り通すと心に決めた。
加えて、レムにあんな風に泣かれてしまっては死ぬわけにはいかないだろう。自分の生還を心から信じている彼女の信頼を、裏切るわけにはいかないだろう。
それに、
「……俺、レムのこと好きなんだ」
誰かに言ったわけじゃない。
今のは、今この瞬間にちゃんと自覚したレムへの想いを自分自身で確かめていただけだ。ずっとずっと前から抱いていた、けど目を背けていた感情から、目を離せなくなっただけだ。
自分はレムのことが好き——好きだ。あぁ、好きだとも。好きだと言ってやろう。ずっと前から好きだ。寄り添われて、励まされて、好きにならないわけがない。
けど、心がそれを受け入れようとしない。頭では好きだと分かっているのに、心の問題が壁となって想いが曲がってしまう。自分が一つのことにずっと縛られ続けているから、正直になれない。
でも、もうだめだ。今、レムのことが好きな自分をテンは理解してしまった。レムに惚れている心を、理解してしまった。
「帰ったら、たくさん悩もう。レムのことも、自分のことも。生きて、それから悩みまくろう。——今は、今のことに集中」
パチン、と。
乾いた音が空間に一つの音として生じたとき、テンは自分の両頬を思いっきり引っ叩いた。
紅葉型の痕が色濃く刻まれ、肉体を悩ませる痛みが新しく生まれたが、これぐらいでいい。寧ろ、足りないぐらいだ。気が済まないからもう三回程度引っ叩いた。
自覚してしまったのなら、考えなければならない。この想いは止まってくれそうにないと感覚的に分かる想いを、なんとかして解放してあげるために。自分と、向き合うために。
「
レムと、向き合うために。
「——かかってこいよ!」
間近に迫った殺戮集団の中へと、テンは満身創痍の体で突撃した。
生き残りをかけた戦いが、始まる。
▲▽▲▽▲▽▲
圧倒的に自分よりも格上の覇気を感じ取るハヤトは警戒の糸を一切緩めない。緩めた瞬間に命を落としそうな予感が本能を刺激して止まないのだ。
睥睨する闇の中から刹那たりとも視線を外すなと、本能がそう言っている。
今まで一度も感じ取ったことのない脅威。先程から身震いが全く治まってくれず、小刻みに震える大剣には武者震いだと言い聞かせる。実際に武者震いがどうかなど、判断するまでもないが。
ーー怖気付いているのか?
いいや違う、自分よりも強い奴と戦えて心が昂る勢いなだけだ。決して、絶対に、一欠片足りとも、全身を突き刺すような野生的な殺意を向けられて怖気付いているわけがない。
しかし、怯んでいることは否定しきれない。ハヤトに威圧されたウルガルムのように、その存在が放ってきている全てにハヤトの逃走本能が反応していた。
けれど、それを闘争本能に変換するのがハヤトの持ち味。逃げる心の分だけ戦う心の力とする彼はどっしり構えた状態から動く挙動は見せない。
時間が経つにつれて音は——大咆哮の足音がどんどん近づいてくる。揺れが大きくなりつつあるのと、視線を向ける方角から木々が倒木する音が連鎖してくるのが動かぬ証拠。
加えてハヤトの耳は声を聞いた。人のような言葉を発するものではない。喉の奥を低く鳴らすような唸り声、地底の奥深くから地鳴りのように鳴り響いてくる。
明らかに異常。まさか、森の主でも現れたかとハヤトは考える。自分の領域で暴れる不届き者に対して声を上げ、「俺が森の主だ」とでも言うために自分の下へと向かってきていると。
「へへっ、上等。犬っころと戦うのは飽き飽してた頃だ。主が出てくんならソイツをぶっ倒して、俺がこの森の新たな主になってやるよ」
望むところである。
森の主——森の中で一番強い魔獣が来るならばそれを討ち倒して、カンザキ・ハヤトの名を森に刻んでやろう。森に生息する魔獣どもに誰が一番上かを教えてやろう。
アクラを詠唱するハヤトが戦闘形態に移る。覇気みなぎる彼は、いよいよ数秒後に迫った森の主、そのお披露目に戦闘開始の予備動作を始める。
そうしているうちに、それは闇の中から順番に現れた。
一番初めに現れたのは頭部——途端、ハヤトは目の前の相手がなんなのかを悟った。まだ頭部しか見えてないが、きっと一番重要な部位を初めに見てしまったんだと思う。
赤く光る眼光を宿した瞳をはめ込んだ凶悪な顔は、人間にあたる耳の部位からツノが生えている。口から覗かせた牙は間違えなく噛まれれば骨ごと噛み砕かれる凶器。
魔獣の輪郭が、露わになる。
四メートルはあるだろうか。二本の足から四本ずつ生える鉤爪で地を踏みしめる巨体がそこにはいた。生える爪の一本一本がハヤトの片腕程度の太さ、そして鷹の足をそのまま太く長くした人間のような腕、その先に伸びるは三本の鉤爪。
硬い鱗で覆われた皮膚は鋼の鎧でも纏っているかのようで。背部からうなじにかけて何本もの棘がハリネズミのように伸びているそれは全身が刺々しい。唯一そうでない部位といえば、尾から伸びる長い尻尾。
一番目立つのは背部から大きく伸びる二つの翼。人間の手を彷彿とさせる二つは、どの部位よりも分厚い鱗を纏い、巨体を丸ごと囲える規模のそれは飛行用というよりも防御用とも捉えられる。
全体的な印象としては、人間の二足歩行の形を残しつつ魔獣として進化したと言ったところか。尤も、四足歩行でも全然戦えそうな勢いだが。
「……おいおい。マジかよ」
ようやく目の前に出てきた魔獣を見上げるハヤトは思わず笑ってしまう。なんの笑いかは分からないが、少なくとも恐怖によって齎されたものではない。
深く考えなくとも分かる。今、自分の目の前にいるのはドラゴンだ。ファンタジーの王道である怪物が、自分のことを獲物として睨んでいる。
「ーーーッ!!」
鼓膜が裂けてしまいそうな咆哮に森中が震撼し、身を屈めるハヤトが咄嗟に耳を塞ぐ。バインドボイスとでも例えようか、咆哮することですら攻撃に値する強靭な喉には驚愕しかない。
体の一つ一つが凶器。近づくことは死に急ぐことに直結するのは目に見えている。
だが、
「いいぜ……! 逃げることなんざ頭にねぇし、どの道テメェを倒さねぇ限り、俺の戦いを終わらせることもできねぇんだーーッ!!」
直後。
凄まじいマナの奔流がハヤトを中心に渦巻き、次第にそれは彼の肉体から外側へと波紋していく。大気中のマナが震え、この場で息をする存在を取り囲む。それはアクラによって溢れ出したハヤトのマナによる波動の余波だ。
「森の主だかなんだか知らねぇがな。は? 負けるかよ! それがどうした! ンな肩書き、この俺がへし折ってやらァ!」
威嚇するドラゴンに黄金の覇気が爆発し、一挙に襲いかかる。魂の咆哮を上げたハヤトに呼応するように彼に纏われた戦闘の意志が大咆哮し、ドラゴンを威圧した。
目の前の絶望に対し、全く怯む様子のないハヤトだ。自分より格上という理不尽を前にしても、後ろに引き下がるどころか思いっきり前に突き進む。
向けた威圧は引っ込めない。突きつけた剣先は命に届くまで向け続け、貪欲に勝利に喰らいつく。
「——かかってこいよ!」
森の主を決める戦いが、絶望に立ち向かう戦いが、始まった。
▲▽▲▽▲▽▲
同時刻。ロズワール邸、禁書庫。
「まったく。ハヤトは本当に、本当にムカつく男なのよ! 頭の中がごちゃごちゃになるのもハヤトのせいかしら!」
現在、禁書庫の番人であるベアトリスは御乱心中であった。普段からハヤトのことを「お前」と形容する自分を忘れて、彼のことを「ハヤト」と呼んでしまうほどに。
その理由はもちろん、名前が上がった男——カンザキ・ハヤトにある。三ヶ月間も同じ時を過ごし、出会った頃と比較して随分と印象が変わってしまった人間にある。
ずっと、気がかりなのだ。彼が屋敷の人間を連れて森の中へと行ってしまったことが、ずっとずっと心の中を陣取って頭から離れてくれない。自分には関係ないことだと割り切ろうとしても、できない。
彼が入って行った森——そこに異質な気配を彼女は感じ取っていたからだ。魔の気配と邪の気配、その二つが森の中に在ることを彼女は感覚的に理解している。
前者は恐らく魔女教徒。後者は魔獣。
前者の方は世界共通で実力の知れ渡っている殺戮集団、故にハヤトでも対処できるはずだと変な信頼を向けれるが。後者の方は魔獣であること以外は何も分からない。
しかし、得体が知れない事だけはハッキリしている。自分が今までに感じたこともない寒気が先程から感じて、心が小さく震えていた。
もし——もしも、そんな魔獣がハヤトに襲いかかったらどうなる。圧倒的な力を保有し、永遠の時を生きる自分ですら異様な寒気を感じる化け物に、彼が襲われていたらどうする。
なぜだろう。そう思うと、居ても立っても居られなくなった。そう想像してしまうと、心が「彼の下にいかなければ」と凄まじい勢いで行動開始の合図を主張して、止まってくれない。
「偶には力を貸してやるのよ。アレはハヤトが太刀打ちできる相手じゃない……。今夜だけ、特別に、ベティーが力を貸してやるかしら」
だからベアトリスは、今から彼の下に行くのだ。まさか、今まさに懸念していた魔獣とハヤトが戦っているとは知らず、彼女はハヤトを助けに行くのだ。
この胸を苦しくする想いを抱かせてくるハヤトを。考えていると頭の中がぐちゃぐちゃになってくるハヤトを。今まで知らなかった感情を芽生えさせやがったハヤトを。
『その人』であってほしい、ハヤトを。
「……せっかくなら」
ふと、思い出したベアトリス。外へ出るために手をかけたドアノブから手を離す彼女は、体を反転させて扉とは真反対の方向へと走り出した。
柄にもなく小走りの彼女の視線は一直線、体の進む方向も一直線。数秒と経たずに目的の場所へとたどり着く。
身なりを確認する縦長の鏡の前、その横に並べた机の上に置いてある本、その後ろに隠した一つの装飾品の下へ。
数十分前のことだ。特に理由はないが、不意にハヤトから贈られた薔薇の髪飾りを付けてみようと思い立ち、普段つけている髪飾りの代わりに付けようとしていた時のこと。
神様の悪戯か、見計らったかのようなハヤトの登場に咄嗟に髪飾りを背中に隠し。バレないように本の後ろに隠した。
あの時はかなり驚いたかもしれない。四百年生きてきた中で五本指に入る驚いた瞬間、思わず「にゃあ!?」と叫んだ自分が恥ずかしい。
どうせなら付けていってやろう。自分が自然な様子で付けていったら、きっとハヤトは面白い反応を見せてくれるはずだ。それに、今ならば堂々と見せられる気がする。
記憶を頼りに邪魔な本を退かしながら彼女は紅色をした薔薇の髪飾りを見つけ出し、流れるように手を伸ばし————、
見た。
「ーーーー」
偶然か、必然か。あるいは運命か。
髪飾りを見つけると同時に彼女の瞳はもう一つの物を見つける。隣り合うように置いてあるそれを見た途端、それまでは活発だった彼女の動きがピタリと止まった。
それは黒く分厚い本。普段から自分が腕に抱えている本だった。何をやるべきかを教えてくれるはずの、自分にとって全てと言える本だった。母から与えられた、唯一縋るものと言える本だった。
今、自分の前に二つの選択肢がある。
一つは、自分が今まで縋り付いてきた。全て、全てその通りに生きてきた。自分の『やるべきこと』を教えてくれるはずの黒い本。
一つは、自分が初めて離れてほしくないと思えることのできた相手が贈ってくれた。自分の『やりたいこと』を教えてくれる髪飾り。
『やるべきこと』と『やりたいこと』
その二つの選択肢の間に立つベアトリスは熱が引いた頭でどちらを取るか考える。
黒い本を取り、今まで通り空白になった未来の通りに行動するか。髪飾りを取り、自分のやりたい通りに行動するか。
ーーベティーは
どうすれば良いのか答えが出ず、沈黙したベアトリス。彼女は二つを交互に見た。やはり視線が多く向けられるのは黒い本の方だ。これまでもそうだったのだから。
しかし、黒い本に視線が向く度に髪飾りが光り輝き存在を表現してくる。実際に光ってるわけでもないのに、ベアトリスにはそれがとても輝いて見えていた。
それはまるで、ハヤトがいつも自分に向けてくれる太陽のような笑み。その光のようで。
「ハヤトなら………」
こんなとき、ハヤトならどうするのだろう。否、考える必要はない。彼ならばきっと自分のやりたいようにやるはずだ。だって彼は始めからそうだったのだから。
カンザキ・ハヤトという男はどこまでも自由な、一つのことに強く縛られることのない人間で。物事の全てを真正面から受け止め、やるかやらないかの二択で行動を決める頭よりも先に体が動く人間だ。
自分がやりたいからやる、やるべきだと思うからやる。難しく考えず、それだけの理由で自分のやりたいように物事を進める。それで物事が良い方向に運ぶのが彼の凄いところ。
自分のやりたいようにやる——自分にとってそれ一つのことがどれほど輝いて見えるか。何にも縛られず、常に自由すぎるハヤトが自分の目にどう映っているのか。彼は知っているだろうか。
彼を見ているとよく分かる。自由に生きることがどれだけ楽しいことで、どれだけ大変なことなのかが。でも、それら全部を含めて生き生きしてるハヤトが自分には輝いて見えていた。
自分もそんな風になれたらと、そう思わなかったことがなかったわけでもない。でも、過去に縛られた自分一人じゃとてもできそうになくて。頑張ってみるけど、できなくて。
一人じゃできない。一人は寂しい。一人は怖い。
一人はいやだ。一人は悲しい。一人はつらい。
でも、
ーーハヤトと一緒なら
隣に、自分の隣にハヤトが居てくれたら。一人じゃなかったら。怖くて踏み出せない一歩も、踏み出せるような気がする。手を握ってくれたら、安心できる気がする。
完全に抜け出せるわけじゃないけど。そのための一歩目をハヤトと一緒に踏み出せたら、色々と頑張ってみようかなと思える。
今まで会ってきた人間とは何もかもが違うハヤトならば期待しても——最後の最後の期待をしてもいいのではないかと思わされる。
そうやって、いつか。いつの日か。この本を手放せる時がきたら——。
「……ごめんなさい、お母様」
「ふっ」と、ベアトリスが笑った。
「ベティーはちょっとだけ、自分の手で未来を書いてみたくなったのよ」
その手が、ハヤトを選んだ。
▲▽▲▽▲▽▲
短い時間の中で激闘を展開してきたハヤトが分かったこと。
一つ。自分の攻撃が殆どの部位にまともに通らない事。斬撃も、魔法も、相手の鋼の鎧に虚しく阻まれる。
一つ。それでも、刃が通る部位は確実に存在している事。鋼の斬撃が一切通らない鎧のような鱗を纏っているが、そうでない部分も僅かだがある。
一つ。相手の攻撃に一度でも当たれば並の被弾では済まされない事。かすり傷ひとつ許されない。
一つ。このドラゴン、割と頭の働く魔獣である事。一直線に突撃してくるが、適当に攻撃をしているわけでもないらしい。こちらに回避を誘発させて不意をつく挙動が何度も見られた。
以上。これら四つが短い戦闘で分かった事だ。
要点だけをまとめると。自分の攻撃は僅かな部位にしか通らず、それ以外は無駄どころか反動として肉体にダメージ有り。相手の攻撃は全てが致命傷で、頭の働く魔獣が故に常に神経を尖らせる必要性がある。
改めて思う。この戦い、
「絶望的すぎるだろーーッ!!」
再確認した絶望にハヤトが叫ぶ。僅か数分間の戦闘の中で結論づけた彼は、しかし言葉とは裏腹に最高潮に昂っている。表情はおもちゃを前にした子どものように無邪気なものだった。
鉤爪はモロに受ければ上半身と下半身が分離し。突進でもされれば骨という骨が砕け。尾の薙ぎ払いに足元を掬われれば巨大な肉体に押し潰され。極め付けは一撃必殺の炎のブレス。
全部が全部致命傷とは、まさにこのことを言うのだとハヤトは心底思う。何度となくその事実を理解してきたが、やはり受け入れ難いものがあることに違いはない。
だがしかし、その程度でハヤトは止まらない。手に汗握る戦いの中で得られる全ての事が心を昂らせ、それは毎秒更新されていく。つまりは、彼が弱ることなど一切無いということだ。
「ちぃーーっ!」
一撃離脱の戦闘を展開するハヤトが弾かれたままに跳ね飛び、慣性を力の方向へと逃しつつ地表に足裏を合わせる。流石に鉤爪と正面切ってやり合うのは愚策、鋼の刃であったとしても虫を払うような雑な動作一つで弾かれた。
「さて……。次はどこを狙うか」
腕に伝わる振動に体が徐々に慣れ始めたことを僅かに感じつつ呟くハヤト。彼は正面から突っ込んで来る巨体を前に目を細める。無策で突っ込むのは終わらせ、頭を働かせた。
現段階での弱点は脇。腕を薙ぎ払った直後に生まれる隙間に体を入り込ませて与えた斬撃が確実に皮膚を裂いた。もちろん、相手がそれを知らないわけがない。二度目は簡単に入らないはずだ。
ならば、次は他の部位を狙おうとするのが定石だが。
「この状況で狙えれば、の話だけどな」
四足歩行で猛進、前へ進む力を乗せた右腕がハヤトの体へと斜めに振り下ろされる。丸太のように太い腕だと『振る』というよりも『叩く』の方が表現としては正しいか。どこぞのダイナミックお手と同等の威圧感と速度がある。
なんにしても直撃は避けたいところ。重心を後ろに倒したハヤトが地面を蹴り上げ、余裕を持った跳躍が彼の肉体を後方へと後退させる。
あえなく宙を殴りつけた腕はそのまま地表へと到達、付属する三本の鉤爪によって叩きつけられた地点が爆発する。一切緩まぬ特大火力が頑健な岩肌を砕く光景はいつ見ても爽快感があった。
感心するハヤトを他所にドラゴンの攻撃は終わらない。この魔獣が己の攻撃をたった一撃で完結させるほど優しいわけがなく、岩肌を蹴り上げる後ろの二本足が大きく爪痕を残しながら肉体を前へと押し出した。
右が空振ろうとも左がある。後退に追いつく左腕の鉤爪が先程とは逆の方向から振り下ろされ、動線を目で追うハヤトは尚も後退。二回の跳躍で二連撃を回避、形として交差した六本の鉤爪がハヤトの影をズタズタに引き裂いた。
「攻撃する暇も」
ない。
口に出た言葉を心の中で継ぎ、ハヤトは大きく後退。叩きつけられて飛び散った岩石を嫌がった彼は地を蹴り上げて余波の範囲内から離脱した。
数秒と経たずに巨体を活かした全身タックルが前方から一直線に迫り。回避のための初速をハヤトの肉体が得ると、その身が弧を描くように背後へと最小限の動きで回り込む。
が、追随する鉤爪はその動きも織り込み済み。ハヤトの肉体が描いた軌道上を逆からなぞるように腕が薙ぎ払われる。当たれば死に直結する怪力が瞬間で目の前に迫った。
回避を誘発させて不意をつく——やはり狡猾。自分の見立てが確立したところでハヤトは咄嗟に膝を折り曲げて屈み込む。脳天を豪風が薙ぎ払い、不意をついた大振りを空振らせたと本能的に判断した直後、
「しャらァ!」
曲げた膝がバネのように伸び、隙を晒した脇腹へと大剣が牙を剥く。伸ばした腕を振り切れば脇が開く。当然の因果であり、それは一つの隙として理解している。
故に、ハヤトは回避を行った。
自分が大振りを隙であると理解していて、ドラゴンが理解していないわけがない。必ず何かしらの対応が来るはずだ。つまり、今の大振りは追撃に見せかけた誘い。
現に、光景として誘いは証明されていた。斜め上に高く跳び上がるハヤトが眼下に見たのは、その身を覆い隠せる程に巨大な翼が巨体に叩きつけるかの如く鞭のようにしなっている光景。
物質が懐に入った状態でそれが閉じれば中の物体はプレスされる。勿論、ハヤトも例外ではなく、あのまま攻撃に転じていれば今ごろ翼と肉体に挟まれて縦に潰れていた。
ーーコイツ、ある程度の傷は許容する気で突っ込んできてやがる
敢えて脇腹を晒して攻撃を誘わせる。己の方が有利状況にあることを大前提とした肉を切らせて骨を断つ戦法は、不利状況にあるハヤトにとっては面倒すぎる。
骨どころか身体ごと断たれてしまいそうな予感を感じつつ——、
「やべーーっ」
予感が、予知に変わった。
跳躍したことで肉体が宙に浮いた僅かな時間。普通ならハヤトは重力に従って落下するはずだが、彼は右足に太い線が絡みつく歪な感覚を得たことで普通が崩壊した気がした。
戦闘の中で受信したことのない感覚。まるで何本ものツタが地面から伸び、足首に巻きついて拘束されているような。鼓膜の内側で何かが軋む音が薄く響き、音源が歪な感覚だと理解し——、
予知が、光景と成りて破壊を齎す。
「ごぁ……っ!」
体が無理やり引っ張られたと知った時には痛覚が悲鳴を上げる。岩肌に叩きつけられ、抗いようのない激痛が顔面を含めた全身に直撃。内側で血が沸騰し、酸素と共に血が口内を赤く染めながら外へと吐き出された。
宙からハヤトを引きずり下ろした元凶は、右足に絡みついた尻尾の先端。ドラゴンの尻尾が獲物を狩る蛇のように伸びて彼の右足に絡み、引き摺り下ろして地面に叩きつける。
一度は狭まった視界が再び開けると、途端に体が高く浮き上がる。眼前にあった岩肌が遠くなり、地表からどんどん離れ、離れ、最後にはドラゴンの顔の高さまで吊り上げられた。
右足を捕まれて宙吊りになったハヤト。彼は天と地が反転した世界で意識を朦朧とさせ、
——赤色の眼光が、凶悪に光る。
もう、何もかもが手遅れだと知った。
▲▽▲▽▲▽▲
始まったのは、純粋な暴力の連続。
唸り声が強く発せられた瞬間から、ハヤトに攻撃の主導権などなかった。尾が鞭のようにしなり、連動する肉体が大気を押し退けながら地表に叩きつけられる。
一度では済まなされない。何度も何度も、体が壊れるまで衝撃は継続される。遠心力が単純な暴力となって数秒間の間に何度と襲い掛かる。
縦に落ち、横に落ち、回数が増すごとに世界の音が遠のく。視界が狭まり、開け、回数が増すごとに意識が失われていく。地面が近づき、離れ、回数が増すごとに灯火が弱っていく。
一思いに殺されないのは、この魔獣がハヤトを痛ぶっているからだ。今こうして叩きつけられ続けているのは、目の前の魔獣が自分で遊んでいることの理由に他ならない。
自分の自尊心を傷つけた相手を傷つけに傷つけるために、わざと死なない程度に攻撃を緩めている。致命傷に至らない傷跡を刻み込ませ、精神もろとも打ち砕きにきている。
それが十回以上も続けば、流石のハヤトも気合いの許容値を越えた。想像を絶する激痛の連続で体は動かず、遊び終わった肉体が崖に放り投げられたとしても無防備なまま叩きつけられ、地面に落下。
そのまま彼は死に——。
「まだ……ッ」
否、彼の意志は折れてなどいなかった。どれほどの体を痛めつけられようが、絶望的な状況に心が折れそうになろうが、
「俺はまだ……ッ、死んで、ねェぞ!!」
その手から一度も離さなかった大剣を支えにし、驚愕に目を見開くドラゴンの前で、カンザキ・ハヤトは立っていた。その二本足で、満身創痍になりながらも、立っていた。
「テメェの前にいる男は、まだ立ってんぞ!」
ボロボロだった。強打された肉体の至る所に紫色の痣が生まれて、割れた額から赤い筋が何本も滴って——尚も、男は堂々と立っていた。
いつ手足が震えても不思議ではない男が息をしている。それどころかあれだけ痛めつけても弱る気配の一切が見られず、むしろ真逆に先よりも激しく燃え盛っていた。
その男の象徴とも言える
なのに、
「俺を、俺の意志を。舐めんじゃねェーーッ!!」
そう言った直後、ドラゴンは男の背後に黄金の覇気を幻視した。決して纏われてなどいない。が、あまりにも男が放つ威圧が凄まじすぎるせいで幻視せずにはいられない。
起死回生の大咆哮——人間の喉から生まれるにしては凶暴すぎる音声に生物の頂点に立つドラゴンですら瞬間だけ怯む。殺意に満ちた双眸に睨まれ、思わず身震いした。
どうして、どうして立ち上がれる。あれだけ痛めつけて、あれだけ傷付けて、あれだけ力の差を見せつけて。どうして、どうして折れない。
一体何が、男を動かして——、
「ベアトリスが俺を待ってんだ!」
想いの力が爆発する。
言い、ハヤトは拳を握りしめた。もはや気力のみで体を動かす彼は、しかし気力では到底発揮することのできない力を今この瞬間に爆発させた。
「待つことに恐怖してるアイツが、俺の帰りを待ってんだよ!」
想いの力がマナとなって金色の覇気を纏わせる。
待つことにトラウマを抱く彼女が誰かの帰りを待つ——その事実がどれほどの意味を持つのか、ハヤトには分からない。
でも、彼女の中で確かな変化があったことは理解できる。ほんの些細な、過去のしがらみから抜け出すには及ばない変化だとしても。
だから、自分は必ず生きて帰らなければならない。自分がここで死ねば、彼女が悲しんでしまう。やっと、一度だけではあったとしても、自分の名を呼んでくれた彼女が泣いてしまう。
そんなの、誰が認めてなるものか。
「死なねぇ、絶対に死なねぇ! 俺はテメェなんかに殺されやしねぇよ! 今の俺は過去最高を何度も更新する、常に一番強ぇ俺だからなーーッ!」
吠えるハヤトに応える覇気が過去一番の勢いに達した。戦闘後のことを視野から外した彼の本能が一時的に肉体のリミッターを解除し、限界のその先へと手を届かせる。
覚醒——表現としてはそれが一番当てはまっていた。経験した様々な出来事が今、彼の糧となって覚醒のキッカケを作り出し。積み重なった努力がそれの着火剤となり、意志の力が火種となって覚醒へと至らせる。
体は整った。
心も整った。
心身ともに極まったハヤト。最高潮に闘志が昂る彼は勢いに身を委ねて特攻し、
「——馬鹿正直に突っ込んで勝てる相手じゃないかしら。頭を冷やして少し下がるのよ」
不意に、二人の間にこれまでになかったはずの声が響く。直後、降り注ぐ紫色の結晶に咄嗟に飛び退き、両者に間隔が開いた。
反射的に顔を上げたのはドラゴンもハヤトも同じなようで。動きが停滞した二つの視線が向いたのは、ハヤトが戦闘中に生み出した岩柱の上——そこから軽やかに宙を舞い、一人の幼女が降り立つ。
ふわりと広がるフリル付きのドレスを纏い、くるりと巻かれたクリーム色の髪に
瞬間、彼の瞳が大きく見開く。それは正に予想外な出来事を前にした人間の他ならず、驚愕と歓喜に震える彼の口角が無意識に釣り上がった。
なぜなら、その幼女は来るはずのない存在で。
「だから言ったかしら。ベティーの忠告はちゃんと聞くべきなのよ。まったく、ドラゴンと戦ってるだなんて聞いちゃいないのよ。今日は厄日かしら」
けれども、隣に並んだ幼女は確かな瞳で自分のことを見ている。面倒そうな顔で呟きながら、軽く服の裾を引っ張ってくる幼女。
否、精霊。それも、精霊の中の大精霊はそう言って楽しげに笑い。
「ま、今回だけは助けてやるのよ。ベティーが特別に、力を貸してやるかしら」
大精霊ベアトリス——その名を持った幼女は、援軍として加勢した。
▲▽▲▽▲▽▲
——瞼を開く。
世界は、ほんのりと明るかった。何を光源としているのかも分からない世界は、弱くも明度がある。自分の知りうる景色で例えるなら夜明け前。
太陽が顔を見せ始めた時のような暗がりに包まれながらも、差しつつある光の筋に闇が晴らされていく。吸い込まれてしまいそうな空の闇に、僅かながらに青みがかかる——夜明け前だ。
幻想的な世界を満たすのは湖。透き通った水面が果てしなく続き、目を凝らしても無限に続く湖に終わりなどなかった。地平線の彼方まで湖で満ちている。
「……黄泉路、というやつか」
その世界でポツリと呟く男——テン。彼は己の置かれた状況を感覚的に察した。
「亡くなった人が通る道だっけ」
定まらない意識。ふとした拍子にまどろみそうになる中、テンはこの空間の意味を記憶の引き出しから引っ張り出す。曖昧な記憶では明確な意味は分からないが、意味合いとしては間違っていないはず。
まさか。本当にあるとは思わなかった。個人的には、もっと晴れ晴れとして、お花畑とか、澄み切った青空とか、心地の良い草原とかを期待していたが。残念なことに夜明け前の湖と。
そもそも、こんなにも早く来ることになるとは。まだ十八歳と、人生の四分の一も生きてないのに自分は死んでしまったらしい。
「……船」
ふと思い。現実では絶対に見れない光景から自分の付近まで視野を狭めたテンは、ある事実に気付く。先程から眼下の水面が同じ方向に動いているが、動いてるのは水面だけではなかったらしい。
自分も動いていた。正確には、自分を乗せた小船が動いていた。小船に乗って、水の上を流れていた。人一人分の規模しかない小舟が無感情に前に進んでいた。
いや。前に進んでいるかは微妙なところ。
光景が全く変わらないのだから。自分としては前に進んでいるつもりでも、実は後ろに進んでいるのかもしれない。自分がそうだと思ってることなんて、大半は思い込みが原因だと思うのがテンだ。
ーーそっか。もう俺
「死んじゃったんだ」
心の続きを小声で言い、テンは服の内側に手を入れて胸に手を当てる。地肌に手の平を重ね、聞こえてくるはずの鼓動と、人肌が発する確かな温もりを得ようとした。
が、何分待っても鼓動は聞こえず。温もりは感じなかった。皮膚感覚までも消失したか。あるいは、温度が消失し、鼓動も既に息絶えたか。どっちもどっちだ。
胸に手を当てただけで心臓の停止と温度の消失の事実。一つの行動で二つの事実が得られた。一石二鳥とはまさにこのこと。
「あーぁ。死んじゃった」
状況の把握が済んだところで、テンは独り言を口から発し始めた。呑気に、気怠げに、ため息をつきながら。
レムとラムを逃した後、テンは命懸けで戦った。普段の何倍もの力を発揮し、気が遠くなる人数もの魔女教徒とたった一人で戦った。その上、己よりもずっと強い『長剣使い』と一対一で戦い、形として刺し違えた。
死因は——多分、大量出血。長剣使いとの戦いは形としてはテンが殺したことで無事に幕を下ろしたが、その後にテンは倒れてしまった。度重なる斬撃の痕から鮮血が流れ続け、それまでに受けた全ての被害が彼の意識を黄泉路へと飛ばしたのだろう。
この身に受けた斬撃の痕は凄惨なものだ。右肩に短剣がブッ刺さり、反射神経と動体視力が許容できなかった細かい一閃がいくつも走り、辛うじて失明を避けた結果として右目の下に一筋の皮膚が抉れたような傷が残ったはずで。
そんな状態で、通った後には血と死体しか残らないと言われている魔女教徒と戦ったのだ。魂が肉体から引き剥がされても仕方ない。
仕方、ない。
「……そんなわけ、あるかよ」
そう本心で思えたら、どれだけ楽なのだろうか。全部投げ出して死ぬことができたら、どれだけ楽なのだろうか。
そうできないから、自分は死ねない。死ぬにはこの世界で大切な人ができすぎた。その人たちを残して死ぬことなんて自分にはできない。勝手に死ぬことなんて、そんなの身勝手だ。だから死ねない。
のに、
「やだなぁ……。死にたくないよ」
もう、きっと、自分は死んでしまっている。ここが本当に黄泉路なのかは曖昧だけど。それに近しい場所なのは分かる。
だって、あの状態で生存できる方がありえない。自分の状態が判断できないテンではないし、あれほど血を流したのだから、当然の因果だ。自分は、少し力を持っただけの人間なのだから。
死ぬときは死ぬ、それが人間。ただ、テンにはその事実が受け入れられないものだった。
エミリアとの約束も、レムとの約束も果たせてない。必ず生きて帰る、みんなと生きて帰ると言ったのに。そう誓ったのに、結局は信頼してくれた心を裏切ってしまった。
「もっと頑張れたはずだろ、なに死んでんだよ。約束、守れよ。果たせよ。なんのために強くなったんだよ。こうならないために必死に努力してきたんじゃねぇのかよ……」
うんざりだ。嫌になる。聞きたくもない。
守れない約束を無理にでも取り付けて、最終的には守れなかった自分が大嫌いだ。そこは頑張って守り通したかったのに、守るのが筋なのに、やはり自分はその程度の男だった。
「守れ……まもれよ……まもってくれよ」
瞳から涙が溢れる。我慢してきた分が、今になって全て解き放たれている。死ぬ前に全部吐き出してしまえと思う心が、大粒の涙を短い間隔で次々と落としていく。
泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠る。まるで子どものような終わり方だと泣きながら思う。ひたすらに泣いた挙句、誰の温もりも感じれぬまま、死ぬ。泣く自分を置いて、小船は無感情に進む——。
「なぁ、テン。俺はよ、お前ほど仲の良いダチは今までにいなかった。気が合う人間は沢山いるが、ここまで真反対のくせして仲の良いダチは、お前以外にいねぇよ」
不意に無音の世界に自分以外の声が反響し、鼓膜に流れ込む。聞き覚えのある親友の声がはっきりと音として心に聞こえた。
涙でぼやけた視界を拭うテンは反射的に首を回し、辺りを見渡す。しかし、依然として世界には自分以外は誰もいない。
なら、今の声はどこから聞こえて。
「死ぬな。生きろ。勝手に逝くな。約束したんだろ? なら突き通せよ。男だろうが。女に約束したこと守れなくて、お前はいいのかよ。何も心残りはねぇってか? ふざけんな」
また聞こえた。誰もいない。
「心残りはここにいるだろ」
居ない。居ないのに聞こえる。自分にとってかけがえのない存在の声が聞こえる。独りの世界でその声を理解した途端、孤独感が爆発的に膨らんだ。
涙がもっと溢れ出た。寂しい思いが、悲しい思いが、後悔の思いが、涙を溢れさせるありとあらゆる思いが自分の中で暴れ回り、感情の制御を完全に手放した。
みんなの声が、聞こえたから。
「生きなさい、テン。いつまでも無様に倒れないで。何度、ラムにらしくない言葉を言わせるつもり? 約束は、ちゃんと守りなさい。カッコつけて死ぬなんて、ラムは許さない」
「お前が死んだらハヤトが悲しむ。その状態で禁書庫に来られても困るかしら。それに、ここまで来ておいて死ぬのはやめてほしいのよ。後味の悪い終わり方は勘弁かしら」
「頼むぜ、親友。俺ぁ、世界で唯一の存在を失いたくねぇ……。みんな、ここまで頑張ったんだ。生きたんだ。もう、全部終わったんだ。なのに、お前が死んだら意味ねぇだろうが」
やめろ。何の意味がある。ソレはもう死んでる。抜け殻だ、空っぽだ。魂はここにいる。呼びかけたところで無駄だ。
テンは叫ぶ。その人たちの言葉を聞く度にどうにもならない事実に自分の心が壊れていく気がして、涙が止まらなくなった。
叫んで、叫んで。ひたすらに叫び、
「テンくんは、本当にひどい人です」
瞬間、テンは声を失った。好きな人の声が鼓膜を撫でた途端に心が止まった。それまでは勝手に叩けていた声が止まったのは何故か、原因は左手にある。
左手が不意に熱を帯びた。感覚は無いはずなのに。温もりの感じない体は、感じたことのある温度を微弱ながらに感じ取っている。
思わず凝視し、テンは左手を顔の前に持ってくる。ならばと思って右手で左手を触った。が、温度は伝播しない。
何だ、感じられないじゃないか。でも、感じているんだ。感じてるのに感じられない。なんなんだ。もうよく分からない。分からないことだらけで考えることを放棄した。
そして、テンは聞いた。
混濁した考えを全て取り払った、クリアになった頭と。全部嫌になって停止した心の二つで。
テンは聞いたのだ。
「レムはやっと、テンくんに想いを伝えようって、思えたんです。一歩、踏み出すのは少し怖いですけど。でも、レムはテンくんと今以上の関係になりたくて」
飛び込んできた声に、その二つが真っ白になる。言われた事が理解の許容を越しすぎて、言葉そのままの意味で何も考えられなくなった。
時が止まったように、思考もまた止まる。
「それなのに死んでしまうなんて、テンくんはひどい人です。まだ何も始まってないのに一人で勝手に消えてしまうなんて、レムは絶対に許しません。レムを惚れさせて、それで終わらないでください」
一音一音が心に深く刻まれる。刻まれた音は二度と消えないものとなる。一人の少女が抱き続けてきたまっすぐな純愛が、今この瞬間、本人に伝わる。
伝えようとして、でもできなくて。気づいてもらおうとして、でも気づいてもらえなくて。恋を実らせるために頑張ってきた行動の意味が今。
今、
「テンくん。レムは、テンくんのことが好きです、大好きです、愛しています。誰よりも貴方のことを愛しています」
テンに、伝わった。
▲▽▲▽▲▽▲
「愛しているから、死んでほしくない。最期だなんて言わせません。早く、目を覚ましてください。そのまま眠られてしまっては、レムは困ってしまいます」
続けられる言葉によって記憶された思い出の引き出しが全て解き放たれ、彼女と歩んできた光景が走馬灯のように全て脳裏に過ぎった。
全て、全てだ。彼女と出会ってから——紅茶から始まった不思議な関係から、今に至るまでの過程が余すことなく全て。思い出の一番古いところから一番新しいところまで。
それら全てが、テンに己の鈍感さを強く理解させ、彼女の言動の裏側に隠された想いに全く気付けていなかった心の未熟さを痛感させた。
レムという少女と正面から向き合ってこなかった己の罪が、心を殴りつける。勝手な考え一つで彼女が向けてくれた一途な想いの悉くを蹴散らしてきた心を、袋叩きにする。
些細なことの一つ一つが想いの表れだった。彼女が自分に発した言葉、してくれた行動、常日頃から当然のようにレムは自分に想いを伝えてくれていたのだ。
レムはずっと前から好きになっていた。自分がそれに気付けなかっただけで、彼女はずっとずっとずっと前から、想いを寄せつつあった。
それに、やっと、テンは気付いた。
「テンくんを起こすのはレムの特権なんです。眠るテンくんを起こすのは、いつだってレムなんです」
身勝手な理由で自分の想いから目を背けていたつもりが、いつの間にかレムの想いからも目を背けていたテン。彼は、そんな自分が大嫌いになりそうになる。
身勝手な理由で自分の想いから目を背けていたつもりが、いつの間にかレムの想いからも目を背けていた。
もっと早く気付いてあげられたらよかった。取り返しのつかない状況になる前に、彼女の心とちゃんと向き合っていればこうはならなかった。最低だ。最悪だ。クソ男だ。嫌われてしまえ。
自分せいだ、お前のせいだ。心の脆弱さが直向きな想いから目を背けさせたんだ。レムの想いを、押さえつけてきたんだ。
「レムは信じています。テンくんがレムの声で目覚めてくれると。レムの声が暗闇に沈んでしまったテンくんの心に届くと。この想いがテンくんに伝わると——レムは信じています」
自分が犯してきた罪に震えるテンに、レムは外の世界から優しく語りかける。どこかも分からない場所にいる彼の魂を、どんな手を使ってでも器の中に呼び戻さんとした。
こんな最期、レムは認めない。まだ何も伝えられていないのに終わるなんて、あんまりすぎる。あの別れを今生の別れには絶対にさせない。レムはテンの恋人になると決めているのだ。
恋人になって、それからたくさんの愛を育んでいきたい。朝、勝手にお布団に潜り込んで「おはよう」を言い合って、それからいちゃいちゃしたりなんて考えて。
だから、死なせない。この声は、必ず届かせてみせる。そんな想いがレムの声に宿り、
「——起きてください。テンくん」
聞き慣れたレムの声。自分ことを起こす時に優しく響いてくる声を聞いて、テンの魂は黄泉路から消え
た。
▲▽▲▽▲▽▲
結果として、テンは呼び戻された。
黄泉の国の片道切符を勝手に使われ、終着点に到達するまで止まらない小船に乗らされていたはずが。どうやら切符を破り捨てた者がいたらしく、魂は肉体へと還ったみたいだった。
彼が目を覚ました後の絵面は、想像できるだろう。愛する人の帰還にレムが泣きながら抱きつき。ラムとハヤトは親友の無事に安堵の表情。ベアトリスは最悪の事態は回避できたと一息。
彼が生存できた理由は、色々と運が良かったのもあるだろうが、一番はベアトリス。勿論、全員が呼びかけたことで彼の心が死の淵から引っ張り出されたのもあるが、現実的な理由はそれ。
ハヤトとベアトリスの二人が激動の末にドラゴンの首を落とし、戦闘の音を聞きつけたレムとラムが奇跡的に二人と合流。
魔女教徒と戦っているのなら奴らの気配を辿ればテンを見つけられると判断したベアトリスを先頭に、四人はテンを捜索し、発見。瀕死のテンに誰もが戦慄する中でも彼女だけは迅速だった。
まだ助かる——そう判断した彼女は考える間もなく治癒魔法の開始。戦闘とハヤトに治癒する分でかなり消費してしまったが、それでも彼女は懸命にテンの命を繋ぎ止めてみせた。
そして——。
「すげぇ。マジで屋敷まで帰ってきた」
今、目覚めた以降から体がピクリとも動かずハヤトに担がれたテンを含めた森に入った五人の姿はロズワール邸の玄関前にあった。
あの森から歩いて帰ってきたのではない。ベアトリスが『扉渡り』の要領であの場所から玄関前までの出入り口を作り、五人は大規模な転移をしてきたのだ。
陰属性の極致に達した者であり、大精霊という莫大な力を保持したベアトリスだからこそできる神業。次元の違う魔法には膨大な集中とマナが必要不可欠だが、それを軽々しくやってのける技術力には息を呑んだ四人である。
その代わりに、消費した分のマナをテンとハヤトの二人から徴収——干からびるまで奪ってやると言っていたが。
ともかく、五人は無事に帰ってきていた。無事とは言い難いけれど、ちゃんと生きて帰ってきた。
「遅い! すごーく、すごーーく遅い! 出て行ってから三十分以上もひとりぼっちにして、お部屋で待ってるのだって、簡単じゃなかったんだから! とってもとっても苦しかったんだから!」
「それはごめ——」
「ごめん、なんかじゃ絶対に許してあげない! レムが危険だって言われて、それで待ってろだなんて、テンはすごーくイジワルなこと言って、それを、ごめん、なんて簡単に済まさないでよ!」
「あの——」
「帰ってきてくれるか不安だったの! 胸がズキズキして苦しかったの! でも、テンと約束したから全部全部我慢してずっと待ってたの! 怖くて、寂しくて、苦しくて……なのに、テンは「ごめん」だけで私の心を済ますつもり?」
帰ってきた五人を待っていたのは、否、帰ってきたテンを待っていたのはエミリアの怒号。テンに押さえつけられていた感情が、傷だらけで自分の下に帰ってきた彼に叩きつけられていた。
五人が帰ってきたのを音として察したのだろう。廊下を駆け抜け、二階から一階を繋ぐ階段を最上段から飛び降りた彼女はテンの下に一直線。相当心配したのか、彼しか見えていなかった。
勿論、それを察した四人は各々の行動を取った。
ラムとベアトリスが音もなく離れ。テンを担ぐハヤトが「お前がなんとかしろ」とテンをぶん投げ。横にいるレムの瞳が鋭く光り。
投げられたテンはエミリアの豊満な胸——ではなく肩に顔を埋める形で彼女に抱き止められ、憤怒の情を涙と一緒に受け止めることになった。体が一切動かないから、逃げることはできない。
「テンのバカ! おたんこなす! とーへんぼく! あんぽんたん! ばか、ばかばかばか、世界一ばかぁ……っ!」
彼の鼓動を聞いて、温度を直で感じて、抱きしめて、叫び出したら止まらないエミリアは大粒の涙を紫紺の瞳から溢れさせながら殴りつける。彼の姿を見た途端から、感情が爆発して我を見失ってしまった。
どうして抱きしめたのか、エミリアには分からない。体が勝手に動いただけのこと。心の赴くがままに動いた、それだけの話。
「帰ってきてくれて、良かった」
「うん」
回された両腕に力が入る。
「生きててくれて、良かった」
「うん」
テンの体がエミリアの体に沈む。
「約束……ちゃんと守ってくれた」
「うん。守ったよ。みんなと帰ってきた」
沈み——鼓動を感じるエミリアは安心しきった表情で。
「おかえりなさい。テン」
「ただいま。エミリア」
約束は、果たされた。
信じたエミリアと、信じさせたテンの間で結ばれた約束が、たった今、その言葉を終わりに完了する。
「おかえりなさい」と言い、「ただいま」と言う。それだけで二人の絆は証明された。信じたエミリアと、信じさせたテン。両者の信頼関係は非常時だとしても揺らぐことはなかった。
言い合いの末に成った約束が果たされたエミリアは「ほっ」と一息。それから理由の分からない想いを心が感じて「ふふっ」と幸せそうに笑声を漏らした。抱きしめると、もっと幸せになる。
その声を耳元に、テンも一安心。彼女の心が晴れたことで、自分の戦いが本当の意味で終わったことを彼は理解した。
血を流した、人を殺した、傷を負った、二度と消えない傷も負った。けれど、それでも自分は悲劇を乗り越えたのだ。レムを救うこともできて、誰も死んでいない、数多く存在する結末の中でも最高の結末だ。
短くも濃すぎる戦いがようやく終わり——、
「——もぅ、限界かしら」
瞬間。真後ろからベアトリスの冷え切った声が低く響き。
直後。背中に小さな手の平がくっつく感覚を得て、結果を齎す。
「ぁ………」
「ぇ、ぁ、ちょ、やだ……テン! 急にどうしちゃったの!?」
悲鳴に近い声を上げながらエミリアが突然に崩れ落ちたテンの体を支える。しかし、意志を受け付けない彼の体はエミリアを巻き添えにして容易く床に落ちた。
テンが、崩れ落ちた。
▲▽▲▽▲▽▲
誰から見ても突然の行動。しかし、誰もが驚く行動をした明確な理由がベアトリスにはあった。
「今のお前の体は、ベティーが傷を簡易的に縫い合わせて無理やり動けるようにしてるようなもの。つまり、外側は治せていたとしても内側はぐちゃぐちゃ。——それが今のお前かしら」
「なにが言いたいの?」
「ベティーが施した治癒魔法の効果は長くは持たない、あくまでその場凌ぎの応急処置に過ぎないのよ。その効力が切れれば、お前は戦闘の負荷で悶絶するかしら」
なるほど、とテンは納得。
目を覚ましてから不思議には思っていたが、ここまでまともに話せていた理由が解った。ベアトリスの治癒魔法の効力が効いていたからだ。
普通ならば話すことはおろか、意識を保つことすらままならない状態。しかしこうして意識もあるし、話せている。全部、ベアトリスのお陰で。
彼女が掛けた治癒魔法はただの治癒ではなく、意識を繋ぎ止めるためのもの。外側の傷を塞いで出血を防ぎ、重なるようにして意識の足りない分を彼女のマナで補った、と。
その効果も、もうすぐ切れてしまう。応急処置は応急処置以上にはならず、死ぬ寸前の肉体はとっくに壊れている。
もし、それが切れれば彼女の言う通りにテンは想像を絶する激痛に悶絶するはずだと。
「せめて。そうなる前に、眠るといいのよ。いつ目覚めるかは分からないけど、悶絶するよりかはマシかしら」
故に、彼女はテンの意識を意図的に眠らせるよう促した。彼の姿勢を保っていた僅かな力が完全に抜け、エミリアと一緒に崩れ落ちたのはそれが理由。
今、彼の意識はベアトリスの魔法によって強制的に断たれつつある。
「お前はもういいのよ、早く眠るがいいかしら。傷の手当てくらいはしてやるのよ」
「あれ……。俺の知ってるベアトリスって、そんなことしてくれる人だったかな」
「中途半端に終わらせて死なれたらベティーのせいになるかしら。一度診たら最後まで診る、治癒術師の常識なのよ」
「だから眠るかしら」と、再び背中に小さな手の平がくっつけられた瞬間、テンは全身が沈む。比喩でもなく物理的に沈む。抜け切った力が更に抜け、指先一つ動かすことが不可能になる。
ベアトリスがマナを流し込んだ。どういった方法で睡眠作用を引き起こしているかは不明だけれど、彼女の行動がテンの意識を確実に薄れさせていることに変わりはない。
視界が霞む。世界の音が遠くなる。
加えて。労っているのか、頭を優しく撫でてくるエミリアのせいで抗おうにも抗えない。手を握ってきたのはレムだろうか。お陰で睡魔の力が何億倍にもなって、もう落ちる。
でも、
「ハヤト。俺の体、起こせ。レムと向かい合わせろ」
「なにを言って——」
「いいからやれ」
でもまだ、
「ごめんレム。顔、持ち上げて。もう、体のどの部位も全く動かない」
「ぇ……。あ、はい」
でもまだ、テンには言わなくちゃいけないことがあった。
「森の中、俺の背中でレムが目覚めた時のこと、覚えてるよね?」
「はい。覚えています」
ハヤトに体を支えられ、レムに顔を上げられ、そうしないと彼女と目を合わせられないテン。
全てを出し尽くし、自分一人では動けなくなってしまった彼は誰が見ても痛々しさしか感じず、「もういいから、早く休んでくれ」と、そう言いたい人が殆どだった。
けれど、彼はまだ倒れない。例え、体が糸の切れた操り人形ようになってしまっても、彼には眼前にいる女の子に伝えなくちゃいけないことがある。
「その時、言いかけて言えなかったことがある。から、伝えるね。レムの言葉を聞いて、言わなきゃ…って、思えたから」
言われてレムは思い出す。確かにあの時、テンは「あ、そうだ。あと」と何かを言おうとしていた。
魔女教徒に邪魔されてしまった言葉が、伝え損ねた言葉が、彼の最後の言葉になる。
息を吸い、色も判別できぬ世界で、なけなしの表情筋で歪んだ笑みを作り、
言った。
「いいか、レム。おまえは、なんにも悪くない、危険から……俺たちを守ろうとしてくれた。暴走したことは……確かに、レムからすれば悪いことなのかもしれない」
レムが、自責の念に苦しめられないように。
「けど、お前は悪くない……! 俺を傷つけたことは気にするな。俺は怒ってないし、近づいた俺自身にも非はある。でも、そこまでしても、俺はレムを助けたかったんだ—————好きな人だから!」
レムが、重ねた罪に苦しめられないように。
「悪くない、悪くないよ。えらい、レムはえらい。俺たちのためによく頑張ったな。だから罪の意識に縛られることなんてない、誰も怒ってない。だから」
レムが、自分のしたことを後悔しないように。
「俺が目覚めた時、もし塞ぎ込んでたりしたら、お前の部屋に突撃してやるからな。分かったか……!」
テンは、全てを掠れた声で言い切った。
紡がれた感情に、静まったはずの涙が瞳から溢れ出るレム。贈られた、優しさに満ちた言葉の羅列に心が号泣し、彼女は顔すら動かぬテンの顔を支えるのに両手を使ったせいで涙が拭えない。
そして今。テンがはっきり言った、聞き間違えることのない言葉をレムは鼓膜に留めた。その言葉だけが、過去の言葉に付け足されたものだと直感で分かった。
目の前の好きな人は自分に好きだと言った。あまりにも突然すぎる告白にレムは追いつけず、更に言葉を続けるテンに喉を震わせて嗚咽を発することしかできず。
「へんじ、は?」
「はい……!」
反射的に返事を返したせいで、それ以上を聞くことは許されなくなったと数秒後に知る。
言葉を全て伝え終えたのか、言い切った風な様子を漂わせたテン。今にも眠ってしまいそうな彼は、絞り出した力を吐息として吐き出し——。
「なら。あん、しぃ……」
今、テンが完全に崩れた。
「テンくんーー!」
レムに抱き止められて、眠った。
力を全て使い果たした精神が深い眠りに落ちると準ずる意識の電源が落ち、それ以降は一切の動きが伺えない。ただ、ほぼ無に等しい呼吸音が肺を小さく上下させていた。
安眠かどうかは分からない。事実として彼の内側はぐちゃぐちゃで、危険なことは何も変わらないのだから。
「——ゆっくり、休んでください」
だからこそ、レムは割れ物を扱うように柔らかな手つきで彼を包み込み、その頭を撫でた。
十分すぎる程に傷付いて、立てなくなってしまった愛する人の体を、両腕で包み込む。安堵と不安の混じった表情をしながら、優しく抱きしめる。
今の自分には、これしかできないから。自分のできる全てを尽くして、彼のことを労わった。
ずっと愛するように、ずっと慈しむように。
そして、悲劇に終止符が打たれる。
突如として襲撃してきた魔女教徒からレムを救う戦いは、静かに終わりを迎える。
消えることのない傷跡を残し、運命の歯車を動かして。
——今宵の悲劇は、幕を下ろした。
ここまでが『転』の部分。前作の73話〜101話。タイトルだと『ニチジョウ』〜『悲劇の悪あがき』までです。かなりすっ飛ばしてかっ飛ばしました。
実は、この戦いでテンが命と引き換えに右腕を失うという展開を考えていたりしたんですよね。まぁ、流石に可哀想なので没になりましたが。
尺の都合上でほぼカットしたドラゴンVSハヤト.ベアトリスの戦いは前作の『それは、一つの終幕』から見れますので、気になったらどうぞ。
テンがレムを助け出すお話は『想い人の声』から。テンと魔女教徒の激闘は『最期の最後まで』から。ハヤトとウルガルムの大軍戦は『本能が叫ぶままに』から。一応、記しておきます。
あと、テンがレムに泣きつかれるシーンは『かみさま、おねがいします』からです。この中では割と軽く終わりましたが、そっちの方では一話丸々使ってレムを説得しているので、細かい描写を読みたいのでしたら覗いてみてください。
次回でラスト。終わりまで一気に走り抜けます。終わりに向かう後半だから大事な場面が山盛り……頑張って上手くまとめますぜ。
絶対に分けて投稿することになるので、よろしくです。それが終わったら原作じゃぁあ!