少しでも望む未来へ   作:ノラン

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命の温もり

 

 

 

「ベアトリスぅーーッ!!」

 

 

ロズワール邸に、テンの悲鳴が轟き渡る。

 

 

「ベアトリスぅ! ベアトリスッ!」

 

 

 凄まじい悲鳴だ。

 

この広いロズワール邸のどこにいようとも聞こえる声量。声のみで世界を大きく揺らしているとすら聞く者に錯覚させる、焦燥感に支配された大悲鳴。

 

喉を張り裂かんばかりに上げ続けられるそれには、恐怖の情しか宿っていない。他の感情の一切を感じさせない声は悲劇的で、聞いているだけで恐怖が伝染しそうな勢いがある。

 

その声を放ち続けるテンの表情もまた、恐怖色で染め上げられていた。なにかを探し求めて右往左往するその目には、うっすらと涙が浮かんでいる。

 

 

「ベアトリス、ベアトリスぅーーッッ!」

 

 

普段の彼からはとても想像できない声で、ただひたすらに探し求める存在の名を叫ぶ。慣れない声の出し方に追いつけず、潰れる喉が裏返った声を出しながらも懸命に叫び、呼び続ける。

 

息を荒く乱し、焦点の定まらぬ目で廊下の左右を確認する様子は半狂乱と言ってもいい。じたばた暴れて泣きじゃくる幼子のように錯乱し叫んでいる。否、泣き叫んでいる。

 

実際、今のテンには普段の冷静さを全て欠いて、泣き叫んでしまうほどの恐怖が襲いかかっていた。

 

 ——恋人が死ぬかもという、恐怖が。

 

 

「お願いだから出てきてぇ! 今すぐ出てきてぇ! ここに来てぇ!」

 

 

むやみやたらに走って探し回らず、部屋を飛び出てからその場に立ち止まって叫ぶテン。向こうからこちらに来てもらおうとする彼の胸には、混乱するレムがお姫様抱っこで抱えられている。

 

飛び出た瞬間に足がもつれて転びかけたところを、テンにひょいと掬い上げられたのだ。

 

そうなって当然と言える。腕の噛み傷について話した途端に血相を変えたかと思った次の瞬間、急に手を引っ張られて部屋の外へ——反応できるわけがない。

 

 ただただ、混乱していた。

 

 

「どこだよッ! ベアトリスーーッ! 早く出てこいよ! 俺の声、聞こえてんだろッ! 早くしろよぉぉーーッ!!」

 

 

レムは、今のテンを知らない。

 

たくさん同じ時を過ごしてきたテンの新たな一面。恋人のこんな取り乱した姿を見るのは初めてで、圧倒されるレムは状況が全く飲み込めないのも含め、一言の声も出せずにいた。

 

それでも、自分の身になにかが起こっていることは分かった。彼の錯乱した様子が自分の危険を語っている。察するに、この噛み傷になにか原因があるのかと思うが、それも聞けそうにない。

 

 と、

 

 

「ベアトリスーーッ!!」

 

「——なにがあった!?」

 

 

ベアトリスの名を連呼するテンの呼び声が次元を超えて無事に届き、不意に勢いよく開いた扉の奥からハヤトが飛び出してる。

 

開いたのは廊下の端っこにあるテンの部屋から数えて左に三つ目の扉。思惑通り向こう側からこちらに来てくれたベアトリスが、わざわざ近場の扉と禁書庫を繋いでくれたらしい。

 

音に反応したテンの顔が扉へと向く。白の衣を纏った完全武装のハヤトと目が合った。

 

 次の瞬間、

 

 

「ベアトリス!」

 

「っぶね!」

 

 

咄嗟に飛び退いたハヤトの体があった場所を、射出されるような速度で駆け出したテンの体が通り過ぎた。戦闘時に発揮する飛び出し方、仮にハヤトが避けていなければ軽い事故が起こっていただろう。

 

今のテンには、ハヤトのことなど視界に映っていない。レムが死ぬ——頭の中がそれ一つに埋め尽くされ、それ以外の事情に構っていられるだけの余裕などない。

 

禁書庫の中へと入り、怪訝な顔をしてこちらを見てくるベアトリスの前に滑り込みながら両膝をつくテン。そっと、レムを床に降ろす彼は動揺に揺れる目でベアトリスを見ながら、

 

 

「ベアトリス! レムが呪術にやられた! 解呪してくれないと死んじゃう!」

 

「え?」

 

 

簡潔で衝撃的な一言を受け、一番に反応を示したのはレム。短い声を鳴らした彼女ははっとし、テンに言われた右手首の下あたりに刻まれた噛み傷を見る。

 

この状況で嘘をつくとは思えない。というよりもテンの言葉に疑う余地などないのが常なレムにとって、今のは愛する恋人から余命宣告をされたようなものだ。

 

他でもないテンに言われたことで、レムは僅かながらに動揺の色を浮かべる。不本意ながらも真偽を問うためにテンに顔を向けると、その背後に慌てた様子で駆け寄ってくるハヤトの姿が見えて、

 

 

「テン、それ本当か!?」

 

「嘘つくと思う!? 噛まれたんだよ! ほらこれ見て! 右手首の下!」

 

 

レムの真横に腰を下ろしたハヤトが、荒ぐ声に言われた通り右手首の下を確認。途端に「マジかよ……!」と戦慄。目を驚愕に見開いて喉が凍りつき、不穏な空気を漂わせ始めた。

 

この場面、いつものテンならば、村に向かったはずのハヤトがこの場にいる事実に一言二言物申すはずだ。けれど、今の彼にはそんな余裕もない。

 

いつレムが死ぬかも分からない恐怖で崖っぷちに追い詰められ、縋り付く思いでベアトリスを見上げていた。

 

 

「お願いベアトリス! なんでもする! なんでもするからレムを助けて! たった一人しかいない俺の恋人なんだよ! だから……ッ!」

 

「急に飛び込んできたかと思ったらなにを言って………」

 

 

床に伏せ、そのまま足に縋り付いてくるのではと思わせるテンの迫真ぶりに目を細め、ベアトリスは怪訝な顔を深める。しかしそれも数秒間だけで、レムを凝視した直後、「ん?」と喉が僅かに唸った。

 

なにかを見つけた反応。レムとハヤトに不安な目を向けられる彼女はしばしその態勢を保つと、細めた目を静かに開き、確信を持った目でレムを見つめる。

 

 

「驚いた。姉妹の妹、お前、イカれ男の言う通り本当に呪われてるかしら。術式の気配があるのよ」

 

「そんな……!」

 

 

小さな悲鳴が弾け、レムの表情がさっと青くなる。大精霊によって余命宣告が告げられた瞬間、恐らく呪術の元凶である噛み傷に視線を落とした。

 

隣ではハヤトが舌打ち。忌々しげに下唇を噛み締めては表情を歪め、「なにしてんだよ俺……!」と潜めた声で己に対して嫌悪感を叩きつけている。

 

そのとき、開きっぱなしな扉の奥から近づいてくる複数の足音をハヤトの鼓膜は捉えた。どたどたと騒ぎ立て、全速力でこちらへと走ってきているのが容易に想像できる。

 

そして、その正体はすぐに判明した。

 

 

「テン! なにがあったの!?」

 

 

フリル裾なキャミソールワンピース風の服の上から、紫色のひらひらガウンを羽織った少女。一つ結びにした長い銀髪をばさばさと暴れさせたエミリアだ。

 

テンの悲鳴を聞きつけてこの場へやって来たのだろう。肩で息をする彼女は初めて聞いた彼の声にただならぬ様子を悟り、部屋から飛びて出てきた感満載である。

 

 そして、

 

 

「あれだけ叫んでいたのだから、それ相応の事態なんでしょうね。じゃなかったら蹴り飛ばすわよ」

 

 

大慌てで禁書庫の中へ飛び込んできた寝巻き姿のエミリアに続き、メイド姿のラムが流れるような動きで禁書庫に足を踏み入れる。

 

エミリアと同様の理由、騒ぎを聞きつけた彼女もまた悲劇の発信源に引き寄せられていた。不機嫌な顔をする彼女は文句の一つや二つ、いつものようにテンにぶつけようとして、

 

 

「お願いしますベアトリス! 俺の一人しかいない恋人なんです! 助けてください!」

 

 

土下座するテンを見て、止まった。

 

必死以外の他にないテンは恐ろしく鬼気迫った様子で、喉元にまで昇ってきた憎まれ口が一瞬にして引っ込む。不覚にも刹那だけ思考に空白が生まれ、思考がリセットされる。

 

息を呑むエミリアも同様。怯えるように震えて縮こまるテンの姿に呆気にとられ、駆けつけた以降の動きがピタリと止まった。

 

苛立つハヤト。不安そうなレム。至極必死なテン。悲劇の舞台に乱入した少女二人は今、禁書庫に漂う異様な緊迫感を肌で感じ、

 

 

「レムが死んじゃったら俺———追いかけるから」

 

 

その発言に、動揺しなかった者はいない。

 

ふっと真剣な声が全員の鼓膜を突き抜けた瞬間、数瞬前の乱心が嘘のようにテンの声が静まる。そしてそれは、特大の驚愕という形で全員の心に衝撃を叩きつけた。

 

自分の命の価値を分かっていないはずはない。たくさんの人に慕われ、必要とされていることを彼は頭でも心でも理解しているはずだ。

 

それでも、この男ならやりかねないと確信させるものが、今の言い方にはあった。

 

 

「……っざけたこと言ってんじゃねぇ!」

 

 

自害しかねないと思わせる本気の目でベアトリスを見上げるテン。その親友の横顔に狂愛じみた狂気を覚え、ぎょっとしたハヤトが声を荒げる。

 

舐めた口を聞いたテンを強く咎めるつもりで背を思い切り叩き、彼はテンの真横で膝をついて頭を下げると、

 

 

「ベアトリス、俺からも頼む。レムを助けてやってくれ。解呪できるのはお前しかいねぇんだ。俺の友達(だち)を、俺の親友の恋人を、助けてやってくれ。頼む!」

 

「解呪……? レムになにかあったの?!」

 

「詳しく聞かせなさい、テンテン!」

 

「今はそんなこと言ってる場合じゃないッ!」

 

 

遅れてやって来た少女二人が中途半端に状況を飲み込んだことで更に困惑し、焦燥に顔色を変えながらテンに詰め寄る。が、返されたのは雑な怒号。

 

鼓膜を強く殴りつけるそれを吐き散らし、誰よりも色濃く動揺するテン。向けられる感情の一切合切を跳ね除ける彼は、間髪入れずに叫んだ。

 

 

「早く解いて! 呪術って術式が発動したら終わりなんでしょ!? 早く解いてよぉ! レムが死んじゃう!」

 

「テン落ち着け! 掴みかかんじゃねぇ!」

 

 

膨れ上がる焦燥感が許容値を越え、ついに限界を迎えたテンがベアトリスの肩を掴みかかろうと動き出し、即座に察したハヤトが二人の間に割り込んで盾となる。

 

伸びる両手の手首を掴んで強引に動きを止め、ベアトリスの(もと)へ行こうとするテンを止めるハヤト。彼はこの瞬間、この程度では今の親友は止まってくれないことを一瞬で理解した。

 

眼前にいる血走った目が、恐怖に浸食され切った顔が、頬に垂れる大粒の涙が、伝播するほど震える両手首が、それを教えてくれていた。

 

 

「解いて! 解いてっつってんだろ! 早く解けよ!」

 

「落ち着け! 俺の声を聞きやがれ! つか、力強ぇなコイツ! 流法ぉ使ってんだろテメェ!?」

 

「起こったら死んじゃうんだよ! 知らないベアトリスじゃないだろ!? お願いだから早く解いてぇ!」

 

 

 ——呪術。

 

北方にあるグステコの名を持つ国から生み出された、魔法や精霊術の亜種として認識される概念。魔法使いとは違ったマナの活用方法をする呪術師が使用する陰険な術。

 

呪うことで対象を病魔で犯したり、行動に一定の制限を掛けたり、命を奪ったりとその種類は千差万別。

 

ただ一つ、共通していることがあるとすれば、

 

 

「頼むベアトリス! 解いてやってくれ! コイツの言う通り、呪術って発動したら終わりなんだろ? 起こったら防げねぇんだろ? だが、起こる前に術式を破壊したら防げるんだろ? だから頼む! コイツを安心させてやってくれ!」

 

 

「コイツを落ち着かせるにはそれしかねぇ!」と、叫び散らしながら荒れ狂うテンの体を押さえるハヤトが背中越しにベアトリスに頼む。目を見ながら言う余裕はなかった。

 

前へ前へ進もうとするテンの力が強すぎる。全身の筋肉を総動員してやっと受け止められる力は、テンの筋力からは考えられない馬鹿力。

 

多分、流法でも使っているのだろう。マナで身体能力を上げる、魔法とは違ったマナの活用法。少しでも熟練度を上げるため、無意識的に常に使用する癖が裏目に出た。

 

 

「離せ! 離してよ! ハヤトぉ! レムが、レムがッ! っあああああーーッ!!」

 

「だから落ち着け! 落ち着けっつってんだろ! 俺の声が聞こえねぇのか!? これ以上暴れたら土手っ腹に膝蹴りぶっ込むぞ!」

 

「その前にラムたちを頼りなさい」

 

 

掴まれた手を振り解こうと暴れるテンの常軌を逸した乱心度合いに歯を食いしばり、いよいよ最終手段が脳裏を過った瞬間、状況を飲み込めなかった少女二人が動き出す。

 

エミリアは背中からテンを羽交い締めにし、「大丈夫、大丈夫だからね」と優しく話しかけ。ラムはテンの対応に忙しいハヤトに代わり、ベアトリスと話す役目を買う。

 

テンだけが取り乱している現状。普段は冷静な彼がその状態に支配されたとき、その友人たちの頭は逆に冷静だった。彼のために、自分だけは冷静でいなければならないという気持ちが芽生えたのだ。

 

泣き喚き、レムの名を叫び続けるテン。友人の痛ましい声を聞きながらラムはレムの隣に身を置く。すると、不安な目でこちらを見てくるレムと目が合い、

 

 

「姉様……」

 

「大丈夫よ、レム。安心しなさい。絶対に死なせたりなんかしない」

 

 

微笑みかけて、妹の頭に手を添え、一度だけ撫で下ろすラム。会話の内容から話の全貌を把握した彼女は、落ち着いていられるわけがないけれど、落ち着く自分を努めて作る。

 

正面、「ベアトリス様」とすぐそこにいる大精霊の名を呼び、整った姿勢で腰を曲げると、頭を下げて懇願。

 

 

「どうかラムの妹をお救いいだだけませんか。世界で一人しかいない唯一の家族なんです」

 

「ベアトリス! ベアトリス!」

 

「だー! もぅ、うるっせぇぞ! しっかりしろテン! レムはぜってぇに大丈夫だ! ベアトリスがなんとかしてくれる! らしくねぇ真似すんじゃねぇ!」

 

「私の声を聞いて、テン! 大丈夫だから! 絶対の絶対に大丈夫だから暴れないで!」

 

 

背中から衝撃波のように轟き続けるテンの声と、宥めようとするハヤトとエミリアの声。切羽詰まったそれを聞くと、ラムは「チッ」と舌打ちして下唇を噛む。心配の裏返しだ。

 

レムも気が気でない。泣きながら狂う恋人の姿に胸が締め付けられ、今すぐにでも「レムは大丈夫」だと言いたい衝動に駆られる。しかし、体に呪術の術式があると言われた以上、優先すべきものは明白。

 

もし、今この瞬間にでも術式が発動すれば問答無用で即死——一刻も早く解呪してもらうことが先決だった。

 

 

「ベアトリス! マジで頼む! お前しかいねぇんだ!」

 

「あーもう、分かったかしら! 耳がキンキンしてしょうがないったらありゃしないのよ!」

 

 

それまで黙っていたベアトリスの口が、幾度となく重なったハヤトの呼び声によってようやく開かれる。テンの圧をその身に浴び続ける幼女に、ようやく動きが見られた。

 

「はぁ」とため息。心底面倒だとでも言いたげに眉間に皺を寄せて顔を顰めながら、

 

 

「仕方のない奴らなのよ。今回だけ特別に解呪してやるかしら。でも、イカれ男に言われたからでもないし、姉妹の姉に言われたからでもない。それだけは理解するかしら」

 

「おう! 礼に抱っこしてやんぜ!」

 

「やかましいのよ」

 

 

理解してるのかしてないのか曖昧なハヤトの返しに嫌そうに言い、ベアトリスは白い光を灯した右手をレムに構える。

 

テンとハヤトの会話から大まかに予想した呪いの元凶、右手首の下あたりにある噛み傷にその手を当て、

 

 

「今から、術式の刻まれた呪印を破壊するのよ。じっとしてるかしら」

 

「お願いいたします、ベアトリス様」

 

「早く解けよぉ! 聞いてんのか!」

 

「いい加減に頭ァ、冷やせーー!」

 

 

解呪が開始したと同時に、それは起こった。

 

我慢の糸が切れたハヤトが、テンの鳩尾に手加減を重ねて膝蹴り。捩じ込まれた威力にミシッと骨の軋む音が体の内側から聞こえた気がして、「ごふっ」と苦鳴を溢すテンから力が抜ける。

 

鈍い音に振り返ったラムが思わず微苦笑し、レムの喉が「なんてことを……」と悲痛に震える。ベアトリスは解呪に集中。エミリアは、羽交い締めされたまま脱力するテンの体重を支えながら、

 

 

「ちょっとハヤト! そんなひどいことする必要(こと)ないでしょう!?」

 

「今のコイツにゃ、これぐらいがちょうどいいい。俺がコイツに口で頭ぁ冷やされんなら、コイツは俺に拳で頭ぁ冷やされんだよ」

 

「だからって………」

 

 

荒治療というよりも鎮圧と表現する方が言葉としては正しい手法に抗議の色を浮かべつつ、エミリアは視線を下に落とす。落ちたのは、蹲るテンがそこにいるからだ。

 

防御の一つも無しに受けたハヤトの膝蹴り。手加減をしたとはいえ、ロズワールにすら「痛い」と言わせる怪力を宿した化け物の打撃を直で受けたのだから、色々あって打たれ強くなったテンとて堪える。

 

激痛の源に両手を当て、「ゔゔゔ」と潰れた喉で掠れた唸り声を鳴らすテン。心配するエミリアが彼の背に手を添えるのを見ながら、ハヤトはテンの前でしゃがみ込み、

 

 

「ちったぁ頭ァ冷えたかよ」

 

「そのためだけに……これやったの?」

 

「そうだが?」

 

 

「なんか文句あるか?」と小首を傾げ、ハヤトは不思議そうな顔でテンを見下ろす。あたかも、この対応が当然であるかのような、なんの悪びれもない態度。

 

いや、これがハヤトの普通なのかもしれない。彼のことを誰よりも知っているから、不思議とそう思えてしまうテンである。口で正すよりも拳で正すのが彼の主流。拳で語り合う、というやつ。

 

今の一撃で頭の中にあったものが根こそぎ吹き飛んでいったテン。「ふぅぅ」と深く息を吐く彼は痛みを和らげるのと一緒に、肺の中に残っている負感情を全て吐き出し、

 

 

「手加減してよ」

 

「したぞ」

 

「嘘だ。八割くらいの力でしょ」

 

「七割くらいの力だ」

 

「似たようなもんじゃん」

 

「誤差だ」

 

「誤差ぁ?」

 

 

蹲った体勢のまま顎を突き出すようにこちらを見上げる不満感全開のテンに適当に言い、腕を組むハヤトは「ははっ」と笑う。

 

どうやら、荒治療は上手くいったらしい。テン自身がいつものテンを取り戻せている。激痛に歪む顔は苦しそうではあるが、少なくとも先のような狂乱の気配は引っ込んでいるように感じる。

 

それ以前に、今のやりとりができることが一番の証拠。立ち上がるハヤトは、まともに会話できるようになったテンに手を差し出し、

 

 

「立てるか?」

 

「自分で立てる」

 

「そうかよ」

 

 

「あぁ、()ってぇ」と呟きながらテンは立ち上がった。途中、ふらつく体を献身的に支えてくれたエミリアを見ると気まずそうに目を伏せ、

 

 

「ごめん」

 

「ごめん?」

 

「ぇ……ぁっ、ありがとう」

 

「うん。どーいたしまして。落ち着いてくれてよかった」

 

 

ごめんよりもありがとうと言われる方が嬉しいエミリアが、そう言って微笑む。テンに向ける目はとても柔らかくて、あれだけの乱心を見せたにも関わらず対応はいつも通り。

 

いつも通りであることが一番安心することを、エミリアは知っている。どんなときでも、なにがあっても。自分が荒れた時、テンはいつだってそうして自分のことを宥めてくれたから。

 

彼がしてくれるように「大丈夫」と言って、頭を撫で下ろす。今まで、不安な気持ちをこうやって宥められてきたから、同じことを。

 

 

「やめてよ。俺は子どもじゃないんだから」

 

「テンは私のこと、いつも子ども扱いするくせに」

 

「お前は子どもだからいいんだよ」

 

「子どもなんかじゃないもん」

 

「——お前たち」

 

 

撫でようとする手を嫌がるテンと、子ども扱いされて怒るエミリア。いつも通りでいようとするが故に広がる言い合いを止めたのは、二人の間に通り抜けたベアトリスの凛とした声。

 

呼ばれて視線を向ける二人とハヤト。テンが暴れたことで解呪の件から離れていた三人の先には、こちらを見ている三人がいる。

 

毅然としたラム。心配そうな目でテンを見つめるレム。最後に「ふんっ」と形のいい鼻を鳴らしたベアトリス。彼女は「聞くのよ」と前置き、

 

 

「解呪は成功。呪印は破壊したから、この娘が死ぬ心配もなくなったかしら」

 

「そうか……。ありがとうな、ベアトリスっ!」

 

「ひゃっ!」

 

 

語尾が跳ねた直後に短い悲鳴が口から弾け、駆け寄ってきたハヤトにベアトリスが抱き上げられる。ハヤトに言われたからやった——遠回しにそう言って解呪してくれたから、約束通りだ。

 

「最高だぜ、ベアトリス!」と顔の高さまで抱き上げ、その場でくるくる回るハヤト。顔を赤くしてやいのやいのと騒ぐベアトリスの声を聞きながら、彼は笑顔を見せた。

 

その(かたわ)ら、解呪の成功を告げられたテンは慌てた様子でレムに駆け寄り、

 

 

「なんともない? 平気? どこもおかしくない? どっか体が痛かったり、重かったり、眩暈がしたりとかしてない?」

 

「はい。この通り、レムは無事です。なんともありません。テンくんが気づいてくれたお陰です」

 

「レム……!」

 

 

目の前の笑みに救われて、テンは感情的にその名を呼びながらレムを胸に抱く。相手のことをまるで考えていない、乱暴な抱き方。けど、レムにとっては嬉しい抱き方。

 

抱かれて、レムは恐ろしいくらいテンの体が小刻みに震えていることに気づいた。凍えたようなそれは、レム自身も震えてしまうほどにひどい。

 

その震えを止めたくて、凍えているなら温めさせてほしくて、レムは強く抱きしめ返した。それから赤子をあやすように背をたたき、

 

 

「怖かったんですね」

 

「当たり前だろ……! すげぇ怖かったよ。レムが死んじゃったら……やだ、考えたくない!」

 

 

即答し、首を横に強く振った。

 

傷痕が発覚した瞬間、フラッシュバックのように脳裏に過ったのは原作二章における最悪な一場面——呪術によって殺害されたレムの眠った姿。

 

もしあのまま気づけていなかったら、と。そう考えるだけで震えが止まらない。ありえなくもなかった話であることが、言葉にできぬほど恐ろしい。

 

愛し合っている最中に術式が発動、なにもしてあげられない自分の胸の中でレムが息絶え、彼女の亡骸を抱いて慟哭しながら後悔に発狂する自分。

 

 この世界は、そんな残酷な未来を用意していたとでも言うのか。

 

 

「よかった……。ほんっと、よかったぁ」

 

 

回避できた初見殺しに怯え、未だに恐怖するテンが体の中に沈める勢いでレムを抱きしめる。途端、ピクっと跳ねるレムが喉の奥で甘い声を鳴らし、表情筋が少しだけ緩む。

 

レムの温かさが、心地よい。死者にはない確かな温もりを感じた分だけ、心の中から負感情が消えていく。無事でいてくれてる、ただそれだけのことが本当に嬉しい。

 

 

「大丈夫ですよ、テンくん。レムはテンくんを置いて、どこにも行ったりしません。ずっとずっと、レムとテンくんは一緒なんです。一緒じゃなきゃ、ダメなんです」

 

 

静まっていくテンの鼓動を聞きながら、レムは優しい声で言った。背をたたく手は止めないまま、自分の温もりを贈り続けて。

 

抱かれる寸前に見えた、涙で赤く腫れたテンの目。記憶に強く刻まれたそれを思い出すと、レムは場違いにも嬉しくなってしまう。自分が彼に愛されていると思えて、不謹慎だけど幸せな気持ちになる。

 

あんなにも取り乱したテンを見るのは初めてだった。そしてその理由が自分にあることが、嬉しくて嬉しくて堪らない。彼に必要とされ、愛されている事実(こと)で頭が埋め尽くされる。

 

そうなったが最後、ついさっきまでテンと愛し合っていたレムの体は、思い出したかように火照り始めた。

 

 ——口付けしたい。

 

 

「あの……テンくん」

 

 

心とは違い、時と場合を考えてくれない自分の体を抑えつつ、レムは控えめな声で呼ぶ。

 

「ん?」と頭上から声が落ちてくると、不意に内股になってもじもじしながら、

 

 

「テンくんに抱かれるとレムはこの上なく幸せな心地になれるので、たくさん抱いてほしいと常に思っているんですが……今は、その、少し敏感で」

 

「ごめん」

 

「いえいえ。普段なら構わないので満足するまでレムを抱いてください。別の意味でも、いつでも抱いてくれて構いませんからね。今はちょっとですけど」

 

 

言いたいことを即座に理解し、テンがレムからぱっと離れる。頭に昇った血が冷えて、そういえばさっき色々とヤっていたことを彼もまた思い出した。

 

上気した頬を手の団扇でぱたぱたと仰ぎ、「ほぅ」と熱っぽい吐息を溢すレム。そんな彼女を見ていると、テンは体から消えた温もりに変な不安を感じてしまい、

 

 

「手ぇくらいなら、握ってもいい?」

 

「それくらいでしたら」

 

「ありがと」

 

 

仰ぐ手の片方を奪い取り、有無も言わさず指を絡めて恋人繋ぎ。レムの真横、肩が触れそうな距離にテンは身を置く。流れるような動き。

 

その行動に、程度の差はあっても全員が驚いた。抱っこして回り回っていた呑気な二人組もいつの間にか落ち着き、意外そうな顔で光景を見ている。

 

レムを失いかけたのが余程怖かったか。基本、レムからイチャつきに来なければ人前ではイチャつくところを見せたがらないテンが、自分からレムにくっついている。

 

普段とは逆。珍しい光景にラムは「ふっ」と小さく笑う。それからテンの背をばしっと叩き、

 

 

「よく気づいた。素直に礼を言うわ。妹の命を助けてくれてありがとう、テンテン」

 

「なら、どーして背中を叩いたの。普通に痛かったんだけど」

 

「喝を入れてあげたのよ。いつまでも情けない顔してんじゃないわよ、って。みっともない」

 

「ひどいなぁ」

 

 

手厳しい意見にため息して、緊張していたテンの頬が不意に緩む。

 

いつも通りに接してもらえると理由(わけ)も分からず安堵してしまい、目の奥に残っていた雫が瞬きと同時に頬に垂れた。一つでも溢れれば、追いかけるのが何滴も溢れ出す。

 

 

「おいおい。しっかりしろよ、テン。こっからだろ? まだ終わってねぇぞ」

 

「分かってる……分かってるけどさ」

 

「頑張れ、相棒。ここが踏ん張り所だぜ」

 

 

涙の混じった弱々しい声をしたテンを鼓舞し、ハヤトはその肩を揉んだ。

 

恋人の死の危機が怖かったのも、回避できて安心したのも分かる。けれど、そこで終わらないのがこの世界。事が起きていると分かった以上、アーラム村でもなにかが起きていると思っていいだろう。

 

今すぐにでも、行動を起こさなければならない。悠長に泣いている時間など、自分たちには与えられていないのだから。

 

じわじわとした焦りに蝕まれるハヤト。そんな彼の気など知りもしないエミリアは、手で涙を拭うテンにほっとした様子で、

 

 

「でも、どーして噛み傷が呪術と関係してるって分かったの? それだけで呪術だと確信するのって、すごーく難しいことだと思うんだけど」

 

「その話、この私も混ぜてくれないかーぁな」

 

 

不意に、この場の誰でもない声が禁書庫に響く。

 

特に判断するまでもない。その特徴的な口調で話すのは屋敷に一人だけだ。というよりも、眠るパックを除いて屋敷の住民のほぼ全てが集結しているのだから、消去法で断定できる。

 

声の流れてきた方法——開けっぱなしの禁書庫の扉の方向に視線を全員が向けると、等しく同じ人間の姿が視界に捉えられて、

 

 

「そーぉれで? これは一体なーぁにがあったってーぇ言うんだい?」

 

 

ピエロを彷彿とさせるロズワールが、束になるハヤトたちの(もと)へと歩いてきていた。そのまま一人一人を順に見ながら、

 

 

「ベアトリスの空間に屋敷の人間が集まるのも稀だ。ま、さっきのテン君の叫び声からして相当な事態が起こったとは思うけぇど………」

 

 

 目を赤くして涙を流すテン。

 テンと指を絡めて手を繋ぐレム。

 テンの背をばしばしと叩くラム。

 テンに手拭いを渡すエミリア。

 テンの肩を揉むハヤト。

 ハヤトの横にぴったりくっつくベアトリス。

 

 たった今、その現場にやってきた自分。

 

それらの情報を結合し、しばし考える時間を設けると、ロズワールは「うんっ」と笑顔で頷き、

 

 

「もしかして、終わっちゃった感じぃ?」

 

「今、一段落したところですよ」

 

「なんでお前、肝心な時にいつもいねぇんだよ」

 

「あはぁ、面目ない」

 

 

教え子二人からの棘のある視線に戯けて、ロズワールはわざとらしく苦笑する。

 

いつも通りちょっと遅れてから、悲劇の舞台に満を持して参加するのだった。

 

 







この小説は『Re:ゼロから始める異世界生活』の二次創作。

次回からのお話は、これを頭の中に入れて読んでください。

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