『結』の部分というだけあって凄まじく長くなりました。できる限り省きましたが、後半は色々とまとめの部分ですので、端折れる場所が殆ど無ぇ……。
正直な話、前作を読んでくださった方なら読まなくても大丈夫です。そもそもの話として、これはこの小説から物語を読み始める新規さんのためのものですし。
まぁ、そうなると、この総集編を読んでくださる方に新規さんが存在しない場合、今の私の努力は全て無駄になりますが。それを考えると虚しくなるのでやめました。
155話もある0章を9話にまとめた。こう聞くと短いと思いませんか(思考停止)
あの日からの数日間を、少しまとめよう。
世界共通の最悪、魔女教の襲撃を発端として引き起こされた騒動。
それは、事態の深刻さにいち早く気付いたレムが単身で突撃し。彼女を助けるためにラムがハヤトとテンを引き連れて森へと向かい。アーラム村を巻き込んで。更にはベアトリスまでもが出陣する事になった悲劇。
その裏で、エミリアがテンと約束したものを守るために一人静かに心の中の葛藤と壮絶な戦いを繰り広げた物語のある悲劇。
一人は、自分以外のみんなを守るために。
一人は、世界でたった一人の妹を守るために。
一人は、親友に託された背中を守るために。
一人は、大切な人達と結んだ約束を守るために。
一人は、『その人』だと信じたい人を守るために。
一人は、青年と交わした約束を守るために。
心に留めた大切なものを守るための戦いは、それぞれの心に大きな変化を齎し、深い爪痕を残して、静かに幕を下ろした。
戦いは、終わった。戦いに臨んだ誰がもが命を落としても不思議ではなかった悲劇は、終わった。誰も死ななかった。全員が生きて帰ってきた。形としては最高の終わり方で、終わった。
終わった、のに。
——テン、ハヤト。その二人は五日が経った今も深い眠りに落ちている。
テンは、ベアトリスによって強制的に意識を断ち切られた以降から一切目を覚まさず。
ハヤトは、テンが寝た直後にアーラム村の結界が切れていたことを思い出し、エミリアと直行。村に着いてから彼女とは別行動で住民への安全確保の知らせをし、屋敷に帰る途中でロズワールに拾われ、その背中で眠った以降だ。
それから二人は目を開けてはくれない。それぞれの自室で寝かされたまま、呼吸による運動以外ではピクリとも動かず、深すぎる眠りについている。
仕方ないと言えば仕方ない。彼らは自分の限界を何度となく飛び越え、想像を絶するような傷を負い、己よりも何倍も格上の相手と満身創痍ながらに戦わせられたのだから。
残った傷跡は並のものではなく、時間が経ったとしても癒えないものもある。打撲、裂傷、火傷、骨のひび割れ、大量出血などなど、外側も内側もいつ崩れてもおかしくない状態だ。
ベアトリスの治癒を以ってしても、完璧には癒えなかった。数時間という膨大な治癒時間を費やして最低限の傷を塞ぐことには成功したものの、失った血液までは戻らない。
あの日から五日経った今でも彼らが目覚める予兆はなく、いつ目覚めるかも分からないために不安が頭から離れていかない。大丈夫だと分かっていても、拭い切れないものはある。
日が昇り、沈むまで寝ている姿を見ると、ひょっとしたら二度と目覚めないのではとさえ思わせるせいで尚のこと拭えずにいた。
その事実だけでもロズワール邸の住民は絶望の底に叩き落とされたような気分だが、話はまだ終わらなかった。絶望は、積み重なったのだ。
——テンの容態が、あまりにもひどすぎる。
ハヤトよりもベアトリスの応急処置が遅かったこと。レムやラムを守る際に満身創痍な体で無理をしたこと。鬼と戦ったこと。集団を基本とする魔女教徒とたった一人で戦ったこと。
様々な最悪が積み重なった結果として、彼の体は目も当てられない状態になっていた。決して、誰かが悪いという話ではない。悪いのは全部、魔女教徒なのだから。
全身に受けた打撲。火球に焼かれた火傷。刃による鋭い裂傷。その三つが体を蹂躙していた。時間をかければ痕は消えるそうだが、現段階では見ただけで目を背けてしまう程に色濃く残っている。
右目の下に走る斬撃の痕。右肩に縦長に刻まれた大きな裂傷。腹部を横に抉った塞がりきっていない切傷。右の脇腹に滲み出る紫色の、打撲と表現するには生ぬるい痕。
多分、脇腹が最もひどい。まるで、鬼に殴られたような深い傷痕だ。
治癒魔法をかけていくらか緩和されたそうだが、完璧ではない。最悪なことに、右目の下に走る斬撃の痕はもう治らない——傷痕は絶対に残るとベアトリスは断言していた。
体の外側だけでもこの被害。魔女教徒という存在の残虐性がそのまま反映されたと言っても過言でない被害は、明らかに異常だ。
それだけなら良かった。それだけなら。
彼は外側だけでなく内側も崩壊寸前だった。簡単に説明すると、戦闘の中でマナを枯渇するまで使用し、加えてオドを使用したことでゲートが歪んでしまったのだ。
ゲートの質が良く、少ない量のマナで威力の高い魔法を放つ事ができ。更に、マナを貯蔵できる体積が大きい性質。それがテンとハヤトに与えられた、天才たちに牙を剥くための武器。
皮肉にも牙を剥くつもりが剥かれることになった結果として、その状態がある。枯渇寸前までマナを使用、その上でオドを使えばゲートが歪むのは当然の因果関係。
ゲートも身体的な機能と同じ。使えば使った分だけ疲労し、許容を越えれば生命に影響を及ぼす前に歪みを危険信号として発する。今のテンは正にその、危険信号が鳴り響いている状態。
燃費が良く、貯蔵量の多いマナを使い果たす——どれほどの負荷がゲートに掛かったことか。重ねるようにオドの使用、損傷していても文句は言えない状況だ。
加えて、あくまでベアトリスの憶測程度の話ではあるが。目を覚ました彼は、重度の貧血に苦しめられると彼女は語っていた。
体の外側も内側も、テンは死人も同然。事実として、生き残れた方が奇跡だと彼を治療したベアトリスは思った。今こうして息をしている方が、あり得ないのだと。
今は峠を越えて、命はハヤトと同じく安全地帯にある。が、それでも彼の悲惨さに苦しめられてしまう。当たり前だ。大事な人のそんな姿を見て、苦しまないわけがない。
——今、ロズワール邸の住民は絶望の底にいた。
悲劇の余韻が抜け、住民たちは徐々に元の暮らしを取り戻しつつあるが。刻まれた爪痕が深すぎて元のようには戻れない。彼らがいないと、いつも通りの暮らしが送れない。
初めこそは今まで通りに振る舞っていたが、日が経つにつれて事の重大さを各々理解。いつもは在るはずのものがない事を改めて知ると、我慢した感情は虚しく溢れて。
エミリアから笑顔が消え。レムから感情が消え。ラムから表情が消え。ベアトリスから光が消えた。残る二人も気丈夫に振る舞ってはいるが、その表情はあまりよろしくなかった。
その中でも、一番はレムだろうか。感じ続ける絶望の度合いに優劣をつけるなんて無粋も極まった話で、全員が等しく心を限界まで痛めつけられているけれど、それでもだ。
——あの日から、レムが悪夢に魘されるようになった。
悪夢の理由はテンを——世界で一番愛する人を傷つけたこと。ただ傷つけたのではない。ベアトリスが最もひどいと語っていた脇腹の傷、その傷を自分の手でつけてしまったこと。
あの時の自分は鬼に支配されていたから。そんな言い訳が通用するわけないだろう。元を辿れば、自分一人で突っ込んで暴走したのが理由なのだから。自分が悪くないわけがない。
テンには「お前は悪くない。自分を責めることはない」と言われたけど、やっぱりダメだった。
彼の身に降りかかった悲劇を知って、レムは自分を許すことができなくなってしまった。否、許されることなんてなかった。愚かな自分を許していいはずがないのだと彼女は思ってしまった。
愛する人を傷つけた。一生を尽くして愛を捧げたいと本気で思える人を殺しかけた。添い遂げたいと、そう思っている人の体を壊しかけた。壊す寸前まで追いやった。
自分のせいで大切な人が傷ついた——過去にあった出来事と重ねてしまったこともあるのだろう。そのせいで、罪を余計に感じてしまったのかもしれない。
だからレムは己が犯した罪を悔やみ、自分のことを許すことができなくなった。テンが許したとしても、レムがレムを許すこと許さない。
故に、トラウマと遜色ない罪が彼女の夢の世界を支配し。悪夢として苦しめ続けていた。彼を傷つける瞬間の記憶が、毎日のように流れ続ける。
「大丈夫……。今日はきっと、大丈夫」
レムは、もう限界だった。
「レム……。無理だけはしないでね」
ラムは、そんな妹を支え続けた。
「起きて……おきて、よ。テンのばかぁ」
エミリアは、涙を堪えるのが精一杯だった。
「早く起きてね、テン。君が起きてくれないとリアの可愛いお顔が台無しだよ」
パックは、そんな娘を支え続けた。
「……いつまで待たせるつもりかしら」
ベアトリスは、ずっとハヤトを待っている。
「本当に、早く目覚めてほしいものだよ」
ロズワールは、久しく悲哀を心に得ていた。
——騒がしいのがいない日は、とても長く、苦しく感じた。
☆☆☆☆☆☆☆
「ふぁ……」
禁書庫の番人であるベアトリスは、今日も今日とて本だらけの部屋で予兆もなく目を覚ました。幼い体が眠るにしては少し、というより、かなりの余裕がある寝台の上で彼女は朝を迎える。
目覚めを遂げたベアトリスを出迎えるのは、嫌になる程に沈んだ空気。体内に取り込むと自分までも沈みそうになってくる、うんざりする雰囲気。
沈むのは物理的にか。精神的にか。否、どちらとも言える。嫌がって空気の入れ替えをしても、替えたそばから部屋中に充満するのだから、過ごしているだけで勝手に沈んでいった。
それを感じた時には既に、頭と心の再起動は完了している。放心の余韻が抜けたことでふわふわする意識が完全に目を覚まし、空っぽだった頭の中に思考が生まれる。
それはつまり、彼女の考える力が稼働し始めたことを意味し——。
「……今日で一週間かしら」
直後に過ぎったのは、悲劇から一週間が経った今でも目を覚まさない男の姿だった。その太陽のような笑みが脳裏に焼き付いて、一生離れていかない。
一体、彼はいつまで自分のことを待たせるつもりだろうか。自分の部屋から出て行くときに必ず「また来るぜ!」と投げかけてくる青年は、自分のことをどれだけ待たせれば気が済むのだろうか。
ずるい奴だと思う。だって、その一言があるだけでベアトリスは安心できた。もうあの男は来ないのではないかと不意にも思う自分は、それ以上に、あの男ならば次もやってくるだろうと思わされる。
言霊に込められた意志が自分に確かな安堵を齎している事を、あの男は知ってるだろうか。真っ直ぐすぎる感情を受ける自分が、心を許しつつあることをあの男は知っているだろうか。
「いつまで、待たせるつもりなのよ」
あの男のことは、今はあまり考えたくない。
考えると色々と押し潰されそうになる。一日、また一日と無情に過ぎてゆく日々の中で、ふとした瞬間に感情が爆発しそうになる。
あの男が部屋の扉を開かない——ただそれだけのことなのに。否、それだけのことが自分にとっては何よりも大きかった。
いつもなら聞こえる騒がしい声が一週間も鼓膜を叩かない。それだけのことがこれほどまでに寂しいことだったとは、想像もしなかった。否、想像する必要がなかった。
それが自分にとっては当たり前だから。あの男が自分の傍にいることが自分には当然のことで。呼びかけも無しに扉を開けて、自分が小言を適当にぶつけるという光景が普通だった。
だから、
「起きるのよ……。早く。今すぐにでも、起きるかしら」
だから、芯の震えかける声を抑え、唇の手前まで込み上げてきた言葉を無理やり飲み込みながら、ベアトリスは願う。
早く、早く目を覚ませ、と。もう一週間も経つのだ。そろそろ目覚めてくれてもいい頃合いだろう。自分が我慢できるのにも限界がある。
限界は、もうすぐそこだ。
どれだけ自分は待っていればいいのか。もう待つのは嫌なんだ。待つのは怖いんだ。待つのは耐えられないんだ——手に届く範囲に『その人』であってほしい人がいるから。
四百年間。いつ現れるかも分からない人をずっと待ち続けられたのなら、僅かな間でも我慢できると少しでも思った自分を今この瞬間、恨めしく思う。
無理だった。できるわけがなかった。
だって、自分が待ち焦がれている人が近くにいると知ってしまったから。「また来るぜ」と、そんなことを言われたら、次はいつ来るのかと期待してしまうから。
悲劇の夜。自分は初めてお母様の言いつけを破って外へ出た。未来を、ハヤトと一緒にその手で描いてみたいと思ったから。なら、自分の隣には彼が必要なのだ。必要でしかないのだ。
自分の隣にハヤトが居てくれたから、怖くて踏み出せない一歩も踏み出せた。縋ってきた本を無視してでも、己の意志で己の道を創ることができた。
過去から完全に抜け出せたわけじゃないけれど、そのための一歩を、後には引けないと分かっていながら、自分は既に踏み出した。
踏み出せたのは、ハヤトの存在があったからだ。彼と一緒ならば色々と頑張っていけそうだと心の底から思って、実際に頑張れた。それは、これからだってきっと同じだ。
「ハヤト、ハヤト……ハヤトぉ」
だから、ベアトリスは彼を強く求めた。
いつの間にか隣にいることが心地よいと思えるようになってきた彼を。自分を温かく照らして、優しく包み込んでくれる彼を。『その人』であってほしいと。そう、心から思える彼を。
希望は幻想ではない。幻想は現実に、希望は形となって姿を現している。自分が待ち望んでいた人であってほしい人は今、すぐそこにいる。
ならもう、頑張る必要などないんじゃないか。孤独の時間は終わりでもいいんじゃないか。彼に全てを委ねても、悪くはないんじゃないか。
狂おしいほどに愚かでもいい。間違っててもいい。戒めを完全に無視してもいい。いずれ失われる温もりに縋ることになってもいい。
自分がそうしたいから。そうしたいと、彼と過ごしてきた時間の中で、他でもない彼自身に思わされた。これまでの価値観を軽く破壊された気がして、心が晴れていく爽快感を得た。
永遠の人生が、たった三ヶ月と少しの時間でひっくり返された。簡単に返せるものでもないのに、ハヤトという男は当然のように、それも無意識に、自分の人生を変えるキッカケを作ってみせた。
なら、
「責任くらいは取るかしら……! ベティーを奪ったなら、奪った責任を取るのよ。ハヤトが、ハヤトがベティーを受け止めるかし、らぁ」
無意識の責任は大きい。ある意味鈍感とも言えるハヤトは、自分の心を奪ったなら、この心も受け止めるべきだ。自分に抱かせた感情の解放場所になるべきだ。
奪っておいて放置、なんとも随分な仕打ちじゃないか。待たせるなどと、焦らすのはやめてほしい。これ以上自分に「待っていろ」とでも言いたいのか。
じゃあ、この涙はどうすればいい。待っている間、自分はこうやって毎朝のように布団を濡らせばいいのか。拭っても拭っても溢れて、我慢しても我慢しても溢れて、胸がひどく苦しいのに。
それでも、ベアトリスはこうする以外に方法を知らない。無意味だと分かってもハヤトの名を枯れてしまいそうな声で呼び、少しでも自分の心を発散させるために涙を流し続けるしか、感情を爆発させない方法を知らない。
知らないから、涙は流れ続け———。
「そんなに呼ばなくても聞こえてるっての」
「———ぇ」
いつまで経っても止まない感情の雫を拭い、布団に顔面を押し付けていたベアトリスは、その声に思わず顔を上げた。
涙でぼやけた視界、物体の輪郭が曖昧になった世界の中、すぐ真横に誰かが立っている。自分だけの世界に、いつの間にか一人の存在が入ってきていた。
その人物は、寝台に座るベアトリスと視線を合わせるために膝をつく。声の主に心当たりがあって、ベアトリスは小さな手で精一杯ぼやけた視界を晴れさせ、
「まさか、お前がそんな風に俺を呼ぶとは思わなかった。俺が寝てる間に何があったんだよ」
太陽のような笑みが、そこにはあった。自分の心を優しく照らす光が、すぐそこにあった。ついさっきまで自分が強く求めていたものの全てがあった。
けれど、今、自分の前にいる笑顔はいつもとは少し違う。どこか困惑しているような、それでいて安心させようとしているような、言葉に言い表しづらい感情が渦巻いている。
どうしてだろう。その瞬間、ベアトリスは今まで考えていたことの全てが吹き飛んでいった。視界に映る光景を、否、光景の中にいる存在を見た途端から嫌なことが晴れていく。
それはきっと、目の前の存在がいない事実が原因だったからで。
「ハヤト……?」
「おう。俺だぞ」
今、その原因が解消された。
名を呼んで、返ってこなかった返事が一週間ぶりに返ってきたことで、ベアトリスの心を苦しめていたものが再び灯された光にかき消されていく。
消えて、消えて、次第に無くなって。胸を締め付けられるような不快感が己の中から消失すると、今度は胸が軽くなるような幸福感が己の中で風船のように膨らみ出した。
「ハヤト……?」
「だから、俺だって言ってんだろ」
目の前の事実一つが自分に齎した衝撃は大きい。嬉々とした感情がふつふつと湧き上がるベアトリスは、しかしあまりにも突然すぎる事態に思考が上手く働かない。
脳からの電気信号の伝達が滞るせいで口から彼の名前しか発せず、「動け」という微小な指示が四肢を小刻みに震わせているだけだった。
処理が追いつかない。絶望の最中に飛び込んできた光に思考が置いてけぼりにされた。今、ベアトリスは本当に頭が真っ白になっている。
その処理が終われば、彼女は動いた。
「おぉ?! おいおいおい待て待て待て、本当に俺が寝てる間に何があった!? 知らねぇ、こんなベアトリス、俺は聞いてねぇぞ!?」
「うる、さいのよ」
ようやく頭の処理が完了したベアトリス。覚醒の余韻から解放された四肢が動くと、布団の上を滑りながら幼い体がハヤトの胸に飛び込む。
特に考えがあって飛び込んだわけじゃない。心の赴くがままに体を動かした。ただ、それだけ。ハヤトならば構わないと思う本音が、身を委ねることを許した。
予想外すぎる行動に流石のハヤトも動揺を色濃く表情に出し、深い眠りから目覚めた後ということも重なって受け止めきれない。寝台からずり落ちるベアトリスの体重に尻餅をついた。
少しだけ体が軋み、衝撃部から波紋した痛みに表情を僅かながらに歪ませるハヤト。が、ベアトリスに気にする余裕はない。彼女はハヤトの胸に額を押し付けて泣きっ面を隠している。
「本当になにが………」
目覚めた後にしては刺激的すぎる出来事に唖然とするハヤト。彼は、回された両腕に込められた幼い力を感じながら眼下のベアトリスを見る——直後、何が原因でこうなったかを理解した。
感情を堪えきれなかった瞳から涙が止めどなく溢れていた。涙と一緒に熱っぽい吐息が嗚咽として音となっていた。強張った身体が異常なまでに震えていた。
この情報だけで、ハヤトは彼女の心情を理解する。気付くことには気付く人間、否、気付けずとも今の彼女を見て察せない人間などこの世界にはいないと不意にも思い、
「……心配かけたな」
ベアトリスの背中にハヤトの腕が回り、啜り泣く彼女の抱擁を受け入れる彼は、優しく叩く。一定のリズムで背を叩くそれは、幼児をあやすような動作で。
後頭部をゆっくりと何度も撫で下ろし、ベアトリスを抱える身体が左右に弱く揺れ始める。そうなれば幼児どころか赤子をあやすような姿で。
「遅い……、遅いのよ」
ベアトリスがハヤトにしか聞こえぬ声量が薄く溢すと、己を包み込む温もりが温度を上げた。違う、温度が上がったのではない、抱擁が強まったのだ。
言葉の代わりに両腕が。不安がる自分を安心させるような両腕が、人肌を通じて命の温もりを伝えてきている。だめだ、そんなことをされれば涙はより一層止まらなくなった。
だって、こんなにも嬉しい。彼が自分の下に来てくれたことが。またこうして、一番欲しかったもの——光をくれたことが。彼によって注がれる全てが嬉しくて仕方がない。
数分前まで感じていた絶望が嘘のようだ。今は、希望で満ち溢れている。心の闇は祓われ、隅から隅まで光で満たされていく。
それでも、ハヤトはベアトリスに温もりを伝え続けた。こんなことで彼女が安らぐなら、何時間でも何十時間でも付き合おう。それが自分にできる唯一の償い方。
無言で続けていると、胸の中にいるベアトリスの体から強張りが抜けていった。徐々に震えも治まり、けれど回された両腕の力だけは依然として抜けず。
「二度と……」
ハヤトの鼓膜にそんな言葉が届く。不意だったために反射的に「ん?」と声を返すも、続きが即座に続けられることはない。
言った彼女は深呼吸を何度も繰り返していた。止まらなかった涙が治ってきたのか、荒くなった呼吸を整える呼吸音が眼下、眼前、胸の中からはっきりと聞こえてくる。
己を整える時に深呼吸をするのは、みんな同じこと。吸う息でハヤトの温かさをいっぱい取り込み、吐く息で胸の中に僅かに残った闇を捨てる。
それが完了した時には、ベアトリスは動いていた。顔を上げ、隠していた泣きっ面を露わにすると、
「二度と、ベティーにこんな思いをさせるんじゃないかしら。次は、許さないのよ。もう、どこにも行くんじゃないかしら」
その瞬間、ハヤトの前には笑みが弾けていた。
これまでに一度も見たことがない満面の笑み。言葉の意味に反する愛らしい笑顔が、瞳に溜まった最後の雫を飛ばしながら、一心にハヤトを見つめている。
もし、ハヤトの笑みを『太陽の光』と例えるならば、ベアトリスの笑みは『月の光』になるのだろう。
月は、太陽に照らされて煌びやかに光るなら。ベアトリスもまた、ハヤトに照らされて美しく光り輝く。太陽にも、否、太陽よりも煌めく。夜空という闇の中で、なによりも眩く。
言葉にせずとも、それ一つで全て伝わった。伝えきれない言葉がその美しい笑み——月光の笑顔には凝縮されて、ハヤトに様々な言葉を贈っている。
この場合、口にする方が無粋な気がする。声に出さない方がいいことも世の中にはあるのだ。態度で示す方が伝わることだってあるのだから。
だからハヤトは、「悪かったな」と向けられた笑顔に同じく笑顔で返すと、
「心配すんな。もう、俺はどこにも行かねぇよ」
それ以上は語らず、言葉に込められた感情に肩を跳ねさせたベアトリスを温かく抱きしめる。小柄な背中にたくさん背負っていた不安を取り払うように、落ち着いたテンポで背を叩きながら。
心地よい振動が背中から全身に波紋すると、ベアトリスは不思議と安心する。理由は分からないけど、こうされると色々と緩々になって、体から力が抜ける。
抜けると、ハヤトの胸元に完全に埋まる——その時点でベアトリスは彼に己を委ねた。委ねても構わないと思う心が、どうせなら甘えてしまえと本能をくすぐって。
それ以降、彼女の口が想いを刻むことはなかった。
与え続けられる温もりの心地よさに心を奪われ、いつしか自分という存在すらも奪われて。
彼女はハヤトの胸元で、幸せそうに微笑んでいた。
▲▽▲▽▲▽▲
その夜。
人間が目覚める瞬間は、いつだって突然だ。
意図的に眠りから起こされるのだと仮定すれば突然ではないかもしれないが、そうでない場合は突然に覚醒する事がほとんどで。
その瞬間を完璧に理解できる人間などいない。大凡の時間は把握できたとしても、寸分の狂いもなく目覚めの瞬間を理解することは決して簡単ではない。
起床時間というものは、睡眠量や運動量、更には光を浴びた量等によって微々たる誤差を生じさせる。時に、それは数時間もの誤差を眠る者に齎すことだってありえる。
その『誤差』を完璧に把握し、起床時間を予測するなど困難な話。故に、目覚めを待つ人間は待つこと以外にできることはない。
故に————、
「こーゆーのって、朝に目覚めるのでは……?」
この男が起きた事など、誰も知らない。
深夜。誰もが寝静まった世界の中、ソラノ・テンは人知れずに目を開けた。