少しでも望む未来へ   作:ノラン

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3月4日ではなく、4分の3です。






3/4

 

 

 

「昨日の夜さ、めっちゃ暑かったよな。久しぶりに布団の中から足とか出して寝ちまったよ」

 

「それ、怖くないの? お布団の中から足を出して寝るとさ、なんか掴まれそうじゃない?」

 

「恋心すらまともに理解できないくらい精神が未熟なテンテンらしい、子どもの発想ね」

 

「なにに掴まれるのですか?」

 

 

 

 これは、テンとレムが愛で結ばれるよりも前にあった、とある一幕。

 

 

 

「なにに、って……そりゃぁレム、幽霊(ホロゥ)に決まってるじゃん。うーらーめーしーやー、の」

 

「んなもん平気だろ。貞子も伽耶子もこの世界にはいねぇんだし。お前、十八になってまだ幽霊……ホロゥにビビってんのか? 流石に子どもすぎるぞ」

 

「そうね。実体のない、いえ、そもそも実在すら曖昧なものに怯えるなんてバカらしい。それ以前に、ホロゥが人間に危害を加えられると考える頭がおかしい。だからこの話はここで終わり」

 

「口数増えたな。もしかしてビビってんのか?」

 

「喧嘩なら買うわよ」

 

 

 

 彼らの中に無数とある、思い出の一ページ。

 

 

 

「違うんです、ハヤト君。姉様はホロゥを怖がったりしません。物理的な攻撃が通用しない相手は勝手が違うだけで。……レムは大丈夫ですけど」

 

「そっか。んじゃ、レムはテンとは違ぇんだな」

 

「正直に申しますと、レムもホロゥが恐ろしくて耐えられません。恐ろしく、悍ましく、テン君と同じくお布団の中から足を出すのも躊躇するほどです。テン君と同じく」

 

「分かりやすいなお前」

 

 

 

 毎日のように積み重なった、四人だけの宝物。

 

 

 

「そんでラム、お前、実はホロゥが怖ぇんだな? お前って確か十七だろ? その歳にもなってそんなもんが怖いとか、お前もコイツのこと言えねぇぞ」

 

「脳筋の裁量でラムの器を推し量るのはやめなさい、不愉快だわ。守るために戦うのもラムたちの務め、殴り倒すことを話の前提にすることのどこがおかしいと言うの」

 

「いや、態度の変わりようで誤魔化せてねぇから。それでもまだ誤魔化すってんなら別にいいぜ、いつか屋敷の全員で降霊術でもやってみっか。異世界版こっくりさんってな」

 

「また意味の分からないことを……。付き合うだけ無駄ね。それに、この話はやめと言ったでしょう。レムの淹れてくれた紅茶が不味くなる」

 

 

 

 なんでもない時間の、なんでもない会話。

 

 

 

「ーー? テン君、優しく微笑んでますけど、どうしたんですか?」

 

「んーん。なんでもない。ただね……」

 

 

 

 これは、テンとレムが愛で結ばれるよりも前にあった、とある一幕。

 

 彼らの中に無数とある、思い出の一ページ。

 

 毎日のように積み重なった、四人だけの宝物。

 

 なんでもない時間の、なんでもない会話。

 

 

 

「楽しいなぁ。って、思っただけ」

 

「急にどした?」

「寒気がするからやめて」

「レムもテン君と同じ気持ちですよ」

 

「良い友人を持てて俺は幸せだよ。うん」

 

 

 

 なんでもなくて、たわいもない。いつもの四人組が繰り広げた、ほのぼのな一幕。

 

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 ——身を引きちぎられるようなハヤトの絶叫が、響き渡っていた。

 

 

まるで、自分がこの世界で最も不幸であると言わんばかりの絶叫。奇声とも受け取れる掠れた金切り声が、空気を伝い、尾を引いて世界中に広がっていく。

 

とっくに張り裂け、潰れた喉を震わせながら上げられ続ける言霊には、深い深い悲しみが宿っていた。それは既に出し切り、絞り尽くし、枯れ果てたはずなのに。

 

枯れた分の感情を、心が容赦なく吹き出しているのだろう。例え全てが死んでも、心だけは生きているのだから。体が壊されても、心だけは壊されないようにと頑張ってきたのだから。

 

皮肉にも、その努力の成果がハヤトに泣き叫ぶ力を与えてしまっていたのだ。

 

 

「なんで……なんでだよ! なんでこんな事になっちまうんだよ! っざけんじゃねぇよーー!」

 

 

大粒の涙を滂沱として頬に垂らし、絶叫の最中にハヤトが悲鳴を吠える。あるいはそれは、怒号と言っても間違ってはいないのかもしれない。

 

血の海に尻餅をつき、崩れたハヤトの体。その胸の中に抱えるテンの体が、時間と共に冷たくなっていく。それなのに口から垂れ続ける赤黒い血は、炎のように熱い。

 

もしこれが命の温もりならば、垂れ終わったとき、テンは真の意味で死んでしまうのだろうか。光の消えた瞳は虚空を見つめ、体はぐったりとしているのに、この世界はまだ命を奪うのか。

 

 二度も、親友を殺すのか。

 

 

「コイツがなにをした! お前に、コイツがなにしたってんだッ!」

 

 

爆発した思いが、ハヤトの心を憎悪に染め上げる。死したテンの体を抱き寄せ、否定することのできない現実を叩きつけられながら、絶叫と怒号が混じった咆哮を叩きつけ返す。

 

もはや、誰が殺したかなど明白。血走った目で夜空を——夜空の向こうにいるかも分からない存在を睨むハヤトの頭は、心は、主犯を感覚的に理解していた。

 

 

「返せッ!」

 

 

だからハヤトは、ただただ吠える。

 

吠えることしかできない己の無力さに打ちのめされようとも、この声を絶やすことだけはしたくなかった。そうやって、無意味にも足掻き続ける。

 

 

「返せよッ! 俺の、俺の唯一なんだよ!」

 

 

守るべきものたちの残酷な死に様を目の当たりにし、生きる気力が奪われたハヤト。二度と立ち上がれない彼がそうするのは、非情にも新たな仇が現れたからであった。

 

ウルガルムを虐殺し、殺された者たちの仇を取ることは彼らの無念を晴らすことであると同時に、忘れていた感情が無慈悲にも襲いかかる合図でもある。

 

戦いで紛らわせていた絶望が一挙に迫れば、今のハヤトに対抗できるわけがない。事実、その果てに崩れ落ち、折れるはずのない心が簡単に折れた。

 

今、それと同じ現象が起きようとしている。村人たちを殺した仇に殺意を向けたように、テンを殺した仇に感情の矛先を向けている。立ち上がれない心が憎悪に叱咤され、無理やり突き動かされているのだ。

 

けれど、今のは相手が相手。テンを殺したのは世の理を超越した存在。ウルガルムとは次元がまるで違う。刃が届く相手ではない。

 

 

「テメェが奪っていいヤツじゃねぇ! コイツは俺にとってこの世界で一人しかいねぇ、家族みてぇな存在なんだよッ!」

 

 

仇である存在になに一つとして力が届かない以上、捨て場もやり場もない感情は収まることを知らない。

 

憎悪に気が紛れ、今度こそ折れる瞬間が先延ばしにされるのと引き換えに、永遠に、声は止まない。

 

 

「家族で、親友で、相棒なんだよッ! この世界に一緒に飛ばされて、一緒に頑張ろうなって約束した大切な存在なんだよッ! 俺の隣にいなくちゃいけねぇヤツなんだよッ!」

 

 

ありったけの殺意と敵意を向け、自分の中のテンを夜空に吠える。一言一言を発するたびに感情が爆発し、連鎖反応を起こすように負感情が次々と放たれる。

 

誇張表現抜きに、ソラノ・テンという存在はハヤトにとって自身の片割れだった。片割れのようなものではなく、正真正銘の片割れだった。

 

ハヤトとテンの関係とは、ラムとレムの関係に近しい。片方がもう片方のために在るのではなく、両方が両方のために在る、運命共同体のような関係性。

 

二人で一つが当たり前。片方の欠損は残った片方に一生の傷を負わせ、その傷は失ったものでしか癒せない。

 

 

「返せ、返しやがれ! 返せっつってんだよ! コイツがいなきゃ俺は……俺は……ッ!」

 

 

決して癒えることのない傷口から、止めどなく、どくどくと流れ出ているものがある。目に見えないそれが形として現れるのなら、人はそれを涙と呼ぶのだろう。

 

ぎりっと奥歯を食いしばり、ハヤトは下を向く。真っ赤に腫れた目から豪雨のような勢いで雫が落ち、ポタポタとテンの髪の中でいくつも弾けた。

 

丈夫に座っていた首から力が抜け、俯くテンの空虚な表情が、血の海に反射して見える。嫌なくらい月光に照らされて、吐き気がするほど鮮明に。

 

 

「ーーっ! くそ、クソクソクソ! クソがぁ!」

 

 

親友の死に顔を直視する勇気の無いハヤトが、不意なそれによって感情に発破をかけられる。ぱっと目が見開き、猛烈な勢いで膨れ上がる哀惜に表情がくしゃっと歪む。

 

もうやめてくれと。これ以上、俺を苦しめないでくれと。体を丸めて蹲る心に容赦なく追い打ちをかけられた瞬間、息を潜めていた絶叫と怒号に全身を貫かれ、

 

 

「返せよぉぉーーッッッ!!」

 

 

 今宵最後の咆哮が、放たれた。

 

 全てを込めたそれは、夜空にも、月にも、星々にも、届きはしない。

 

 

「返せ……返せ……返して、くれよ」

 

 

尾を引いて木霊する己の声を聞きながら、残り火のような弱々しさでハヤトは呟く。

 

それ以外の言葉が、もう出てこなかった。今度こそ出し切り、絞り尽くして、僅かに湧いた精魂が尽き果てたから。

 

どれほどの言葉の刃を振りかざそうとも、相手には届かない。その事実を悟り、ハヤトは諦めた。これまで一度たりとも諦めてこなかった彼が、初めて目の前の敵に屈し、武器を手放したのだ。

 

 

「………テン」

 

 

望んだ結果を得られないと知り、ハヤトは見限るように夜空から顔を背け、低く名を呼びながらテンを見る。いつの間にか流血は止まっており、命の温もりも完全に消失していた。

 

三秒、時間を置き、覚悟を決めて行動に出る。

 

手で顎を掬うように優しく顔を持ち上げ、逆の手で後頭部を支えながら、力無く俯いた顔を静かに上げる。下を向くテンに夜空を仰がせ、勇気を振り絞って彼の死に顔を見た。

 

 

「ひでぇ……(つら)だな」

 

 

輝きを失ったハヤトの目が、死んだテンの姿を映し出している。けれど、テンの目がハヤトの姿を映し出すことはない。意志が消えた今、その目にはなにも映らなかった。

 

上を向き、半開きになった口内は延々と続いた流血によってドス黒く染まり、並びのいい歯は白色の影もない。口周りすらも血の色に塗り替えられ、血を啜った跡にも見える。

 

それだけの血を吐いて辛かっただろう。なのに表情は無感情で、色がない。いつもの、なに考えてるのかさっぱり分からない、実にテンらしい表情をしている。

 

 

「こんなときでもお前は変わらねぇな」

 

 

死してもなお、普段通りを貫くテンに乾いた笑いを一つだけ溢し、ハヤトは浅く息を吐く。なにもしてやれなかった自分に、腹立たしさとやるせないものを感じた。

 

せめてこれだけでもと思って、開きっぱなしの瞼をそっと閉じ、テンの体を眠らせる——この瞬間、心身ともに、テンは永遠に眠った。

 

 

「お前……なに死んでんだよ、この野郎。聞いてんのか、おい」

 

 

人生で初めての敗北宣言をし、歯を食いしばるハヤトが嗚咽をぐっと堪えながら言う。小刻みに肩を震わせながら、恐ろしく軽くなったテンの体を揺すった。

 

抗うことを止めることが、親友の死を受け入れることだと理解していても。無意味だなんて理解(わか)りきっていても。理解ろうとしない心が言動として矛盾を出している。

 

 

「呆気なく死んでんじゃねぇよ。こんな簡単に死んでいいヤツじゃねぇだろうが。情けねぇとは思わねぇのか」

 

 

崩壊した心で『死』という概念と必死に向き合い、受け入れ切れない事実を、ゆっくり受け入れる。

 

 

「なぁ、頼む。だから起きろよ。お前、起きるの得意だよな。お前はいつも俺のこと、起こしに来てくれたじゃねぇか」

 

 

この世界の残酷さ。その本当の意味を知りながら、ぼそぼそと語りかけ、テンを目覚めさせようとする。

 

 

「なに死んでんだ。頼むから起きてくれ」

 

 

矛盾した二つの思いに板挟みになり、どっちが本心なのか分からなくなる。分かるのは、命というものの呆気なさだけで、

 

 

「……人って、簡単に死ぬんだな」

 

 

人というのは、こんなにも呆気なく死ねるものなのかと思った。誰しもが必ず、悲劇的な、あるいは幸せな死を迎えられるとは限らないのだと思い知った。

 

どれほど凄い人間だとしても、死はそれを無視して突然に命を狩り取る。唯一、生きるものの全てに平等に与えられたものには、こちらの事情など関係ない。

 

遺言を残すことすら、テンには与えられなかったのだから。言いたいことも、やり残したことも、たくさんあったはずなのに。十秒もなく散った。

 

それが、人間は誰もが劇的な死を遂げるものだと夢見ていた自分への罰のようにも思えてしまって、

 

 

「人が死ぬ。って、こういうことか」

 

 

夢が、覚めた気分だった。

 

誰も死ぬはずがないと甘ったれた考えをして、知らず知らずのうちにぬるま湯にどっぷり浸かっていたことに、テンを失ってからやっと気づいた。

 

残酷な世界だとは分かっていた——分かっていた、つもりだったのだと。一度の死に戻りを経験して洗礼を受けたにも関わらず、どこか自分に甘い考え方をしていたのだと。

 

 

「遅すぎる気づきだな」

 

「——なにが、あったの」

 

 

二度と誰も死なせないと誓い、気付かぬうちに人の死を拒絶した結果として、現状を招いた。今になってその理解が済んだ瞬間、この場に居なかった声がハヤトの耳に届く。

 

たった一言、それだけでも明らかに動揺していると分かる声色。茫然とする声にゆっくり顔を上げると、息を切らしたラムの姿が目の前に見えた。その奥に、ベアトリスの姿も見える。

 

足音に気づけないほど、視界が狭まっていたらしい。声をかけられるまで接近に全く気づけなかった。

 

 

「なにが、あったの」

 

 

再度、同じ言葉をかけ、ラムは視線をハヤトの胸元に落とす。次の瞬間、心臓が止まるほどの衝撃を一身に浴び、表情が真顔のまま固まった。

 

村に到着したハヤトの反応と全く同じ。流石のラムであっても、これには理解が追いついていない。無理解な出来事と対峙すると誰もが一番に立ち尽くすが、ラムとて例外ではなかった。

 

その事実が、ハヤトを極限まで苦しめる。あのラムに、なにが起きても毅然を一貫するラムに、そうさせる原因を伝えなければならないのは自分だから。

 

 それでも、

 

 

「テンが死んだ」

 

 

 言った。

 

 魂が抜けたような、小さな声で。

 

不思議と、言った瞬間の辛さは感じない。違う、疲弊し切った心が感受する力を放棄したのだ。これ以上の負感情を溜め込むと、廃人になる予感すらしていたから。

 

生まれて初めての親友の死。その被害はハヤト自身にも計り知れない。そしてそれは、目の前で茫然としたまま沈黙するラムも同じで、

 

 

「………………………………………は?」

 

 

異常に長い間を置いて、ようやく言葉の意味を理解したラムの口から、声が漏れる。ただ息を吐いただけの声は、意識していなければ簡単に聞き逃すほどにか細い。

 

現実味のない光景を前にし、茫然とするしかないラム。予期できるはずがない事態に、これは夢ではないかと刹那だけ考え、しかし、嗅覚を刺激する血生臭さにそうではないことを知らされた。

 

夢ではないのなら、これは———。

 

 

「その、血溜まりは」

 

「全部テンのだ。突然、口から血ぃ吐いて、そのまま死んじまった」

 

「ぃ、いみ、わからな、い」

 

 

目の前の光景の処理が終わるにつれて、先送りになっていた動揺が少しずつ、少しずつ、ラムに浮かび始める。受け答えの口が上手く回らず、ぶつ切りになった言葉が、僅かに震え出した。

 

おぼつかない足取りで、ラムはテンに近づく。一歩、また一歩と、距離が近づく度に、その死相が目に焼き付く。触れられる距離に辿り着くと、膝から崩れ落ちた。

 

ぴしゃりと、音を立てて飛沫が跳ねる。冷たくなった血の海に、ラムの足が浸かった。途端、エプロンドレスが血に染色されていく。

 

それから、音もなくテンの頬に手を伸ばす。小刻みに震える手の平で、輪郭をなぞるように触れて、

 

 

「………ぁ」

 

 

一瞬、吐息と遜色ない声が口から溢れて、テンの頬に触れた小さな手がピクッと揺れる。直後にぱっと見開かれた紅の瞳が、驚愕に詰まった息が、全てを物語っていた。

 

洞察力と観察眼に長けているため、周りと比較して察しが良くて物分かりが良いのがラム。その彼女には、手の平から伝わってくるものだけで理解できてしまった。

 

冷たい肌。たったそれだけで、頭はテンが死んでいることを勝手に把握して、

 

 

「うそ……」

 

 

首を横に振り、把握したそれを雑に振り払う。

 

そんなもの把握する必要などない。自分たちを置いてテンが死ぬはずないのだから。絶対になにかの間違いに決まっている。そうじゃないと、いや、それ以外にありえない。

 

それでも、利口な頭は振り払った(そば)から事態を把握して、把握して、把握し続けて、把握を重ねる度に要らない情報を連れてくる。

 

だからラムは、駄々を捏ねる子どものように首を横に振り続けながら、否定を声に出した。

 

 

「……嘘よ」

 

「嘘じゃねぇ」

 

「嘘よ」

 

「ラム」

 

「嘘に決まってる」

 

「ラム!」

 

「黙りなさいーーッ!!」

 

 

破裂した怒号が、ハヤトの鼓膜を強く殴りつける。現実逃避を許さない男の声を簡単に弾き飛ばし、勢いそのままラムは動いた。

 

動揺に硬直するハヤトの胸を思い切り突き飛ばし、テンを強引に奪い取る。ハヤトの支えがなくなり、血の海に仰向けになって倒れるテンの亡骸、その上に流れるような動きで跨り、

 

 

「起きなさい、テン! ソラノ・テン! 今すぐ起きて、これが嘘だとラムに言いなさい! 言って、早く目を覚ましなさい! 早く……早く、早く!」

 

 

掴んだ胸ぐらを激しく揺すり、消えた魂に呼びかける。歯を食いしばった必死な様相で、普段の気丈夫からは考えられないほど懸命に、大声を張り上げた。

 

 

「テンーー! テン、テン、テン、テン!! テンテンテンテン! 返事をしなさい! こんな別れ方ラムは認めない、絶対に認めない! 早く起きなさい! 起きなさいって言ってるの!」

 

 

我を見失ったように錯乱し、全幅の信頼を寄せた男の名を呼ぶ。服が破れるほどの力で掴んだ胸ぐらを精一杯に揺らし、意識の覚醒を懇願する。

 

慣れ親しんだ呼び名ではなく、本名を呼んでいることにも気付かぬほど動揺したまま。驚愕の表情が、瞬く間に泣き顔へと作り変えられていくのも知らず。

 

 

「死なないんじゃなかったの! 死ねない理由、たくさんあるのでしょう! レムは、エミリア様は、あの子たちはどうするのよ! やっと、前を向いて向き合えるようになったばかりじゃない!」

 

 

後ろ向きな考えを振り切って、第二の人生を歩み始めたばかりだった。前の自分から変わると誓ってくれて、変われるように努力している最中だった。

 

そんな彼だから応援したくなって。辛くなったら拠り所くらいにはなってやろうかと思い始めて。ラムという少女の心の形が、彼に引っ張られて変わっていくのを感じていた。

 

 

「変えたくせに、無責任に死なないで。やり残したこともたくさんあるのに、勝手に死なないで。死んでいいなんてラムは言ってなんか、言ってなんかない。だから………」

 

 

最大値に到達した声が、そこから最低値に下がっていき、最後には痩せ細った呟き声となる。勢いが衰えると、胸ぐらから手を離しながら、ラムはきゅっと唇を結ぶ。

 

これだけ揺すってもピクリともしないテンの体をそっと寝かせ、代わりに右手を両手で包み込む。悲痛な想いで掴んだ右手、血に濡れた、冷たすぎるその手を額に当て、

 

 

「目を開けて……!」

 

 

 ——ぽたっ。

 

降り頻る小雨よりも小さな音で囁いた瞬間、閉じた瞼から滲み出る雫があって。頬を伝うそれが、テンの亡骸に落ちた。

 

起きるなら今だぞ、ソラノ・テン。奇跡が起きるなら今しかないぞ、ソラノ・テン。もし、涙一つで生き返るのならば、声が枯れるまで泣き叫んでやるから。

 

 だから———。

 

 

「………ラム」

 

 

目を瞑り、下唇を噛み締めるラムの名を、痛ましげな表情でハヤトは呼ぶ。彼女がどれだけテンを大切に思っていたのか、想いという想いが今のに全て詰まっていて、胸が痛かった。

 

ならば、言うことは一つ。二人の親友として、ハヤトは言わなければならないのだ。それが、残酷な現実だとしても。

 

凍えたように震えるラムの肩に優しく手を置き、ハヤトは言った。

 

 

「テンは死んでる」

 

「ーーッ!」

 

 

その発言をしたハヤトにどれほどの殺意を抱いたのか、冷静な判断力を失ったラムには理解できなかった。それが正しいことなのか、正しくないことなのかも。

 

涙で満たされた目を鋭く尖らせ、ハヤトを睨む。それから「その口を開くな」と言おうと息を吸い、

 

 

「俺たちの親友はもう、この世界のどこにもいねぇんだ。泣き叫んでも帰ってこねぇ。受け止めろ」

 

 

そう語られて、言えなくなった。出かかった言葉が、寸前で引っ込んでいった。

 

なぜだろう。それはきっと、語るハヤトの姿が見たこともないくらい弱っていたからだ。ぎらぎら輝いていた目が、眩しかった笑顔が、芯の通った声が、一つも無かったからだ。

 

目の前にいる男が自分の知るカンザキ・ハヤトなのかと、ラムは本気で疑った。心の底から信頼してから初めて、彼のことを疑ったのだ。

 

 

「諦めるしか、ねぇんだ」

 

 

 諦める。

 

ハヤトの口から絶対に聞けることのない言葉を受け、ラムの瞳が驚愕に開く。同時に、最初で最後の言葉を聞いて、確信したことが一つだけあった。

 

感情に沸騰した頭が、その弱々しさを目の当たりにし、急激に冷えていく。狭まった視界が開け、見失った自分を取り戻したラムは、その頭でハヤトの状態を全て理解する。

 

自分を慕っていた村人たちを殺され。立て続けに家族も同然なテンを殺されたハヤト。心という心をこれでもかと痛めつけられた彼は、もう。

 

 

「……………バカね」

 

 

自分を取り戻したラムから、そんな罵倒が口をついて出る。言葉を絞り尽くしたハヤトと同様、彼女もまた、それ以外の言葉が思い浮かばなかった。

 

 

「バカ……本当にバカね。バカ、バカバカ。大バカ」

 

 

俯くハヤトから目を逸らし、ラムは滲む視界の中でテンを見下ろす。包んでいた手を下ろし、勝手に溢れる雫をいくつも溢しながら、罵倒の数だけ胸をたたいた。

 

バカだ、大バカだ。自分が死んだらこうなることくらい分かっていたはずなのに、どうして死んだ。置いていかれる人の気持ちが分からない彼じゃないのに、どうして、どうして、

 

 

「どうしてよ……。ラムたちを支える、って言ってくれたのはあなたでしょう。なのに、どうして」

 

 

誰がテンを殺した。誰がテンをこんな風にした。誰が自分たちとテンを引き裂いた。どうして彼ばかりが酷い目に遭わなくちゃいけない。その必要性がどこにある。

 

一体、彼が、なにをした。

 

 

「………ちくしょう」

 

 

痛々しすぎるラムの姿を間近にし、拳を握りしめるハヤトが後悔を声にした。再び、世界がぼやけ始めたのを感じて目を雑に拭い、口を固く閉じて唾と一緒に嗚咽を飲み込む。

 

手の震えが、止まってくれない。落ち着いたはずの呼吸が荒くなり出して、心臓の音が悲鳴を上げて加速する。ラムから波紋する悲哀の情に、触発されそうになる。

 

あとどれほどの苦しみを味わえば、世界は自分の罪を許してくれるのだろう。どれほど自分を苦しめれば、世界は気が済むのだろう。

 

堪えようのなく、抗いようのない苦痛が、心にどんどん降りかかる。感受力を放棄したはずなのに、それでも積もっていく。次第にそれは、抑えることが不可能な量になり、最後には爆発———、

 

 

「ぁ………」

 

 

 する、寸前。

 

不意に首の後ろから両腕を回されて、ハヤトの口から音が漏れる。ぎゅっと、温かい感触に後頭部を抱かれる感覚がして、息が詰まった。

 

唖然としたと表現すべきか。思ってもみなかった対応に爆発しかけたものが静められる中、ハヤトは背中にぴったりくっつく存在、ベアトリスに首を横に振り、

 

 

「いい、ベアトリス。気休めは……」

 

「黙るのよ」

 

 

全身に行き渡る優しさに否定を刻もうとした瞬間、芯のある声で跳ね除けられる。否定されることを強く拒むのか、今ので更にぎゅっと抱き寄せられた。

 

振り払う気力も湧かないハヤト。あんなにも堂々としていた背筋が折れ曲がってしまった彼に、ベアトリスは暗い表情をする。それから、自分が血に濡れるのも気にせず、優しい声で言った。

 

 

「静かにしてるのよ」

 

「………ごめんな」

 

 

余計な言葉を口にしないベアトリスの気遣いに包まれ、ハヤトの体から力が抜ける。深く吐息し、ピンと張っていた気を緩め、自分よりもずっと小さい体に身を委ねた。そうするしか、なかった。

 

そこで謝罪の言葉が選択されてしまうことが、ベアトリスには苦しいことだった。人の温情を受け取ったとき、なによりも感謝を贈る彼にその言葉を選ばせる世界が憎い。

 

謝ってほしくて抱きしめたわけじゃない。震える彼の心が少しでも、ほんの少しでもいいから軽くなればと。そんな風に抱きしめたんだ。

 

簡単に癒せる傷ではないことなど百も承知。それでも、今のハヤトを放っておきたくなかった。崩れて、折れて、再起不能にまで追い詰められた彼を、ひとりにしたくなかった。

 

さっきは、ひとりにしてしまったから。

 

 

「テンは………」

 

 

べっとり付着し、時間をかけて冷たく乾いていくテンの血液。そのせいで冷えた体が包み込む体温に温められていくのを感じるハヤトに、ラムの声がかかる。

 

低く沈んだ、悲しみ一色のか弱い声。そんな声を出すこともできたのかという考えが一瞬だけ脳裏を過り、刹那で散る。そのハヤトを見ないまま、ラムは指先でテンの頬に触れ、

 

 

「テンは、なにか言い遺した?」

 

「いや。言い遺す時間なんて無かった。言っただろ。突然、口から血ぃ吐いて、そのまま。コイツを殺した奴は、その時間すらコイツには与えなかったんだよ」

 

 

感情の抜け落ちた声にラムは「そう」とだけ。あまりにも残酷な仕打ちに、閉じた口の中で奥歯を噛み締める。固く結んだ唇が震え、歪み、頬に力が入った。

 

血が滲むほど握りしめられる拳に宿るのは、テンを殺した存在への激烈な殺意。呪術や奇病でも聞いたことがない死因にわけがわからなくなり、変死を強いた主犯に真っ黒な感情が膨れ上がって、

 

 

「——絶対に許さない」

 

 

憎悪に支配された赤鬼が、世界に解き放たれる。かつて神童と謳われた一人の少女が、自分たちから大切な人を奪った愚者に、復讐を誓う。

 

誰が殺したか突き止めて殺してやる。死以上の苦しみを与えて殺してやる。誰に手を出したのか思い知らせて殺してやる。殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる。

 

決意し、覚悟し。テンの手を握りしめ、彼が自分にくれた一つ一つを思い返しながら、ラムは約束する。

 

 そのときだった。

 

 

「———ん?」

 

 

不意に、静まり返った世界で、なにか落ちた音が響き、ラムが短く喉を鳴らす。金属同士がぶつかったような甲高い音。例えるなら、剣と剣が衝突した音に近い音がした。

 

音はハヤトの後方から。引き寄せられるラムの視線が音の方向に向き、その正体を確かめようとする。ハヤトとベアトリスも視線を向け、三人は同時に同じ方向を見た。そして、

 

 そして、

 

 

「テンくん?」

 

「テン?」

 

 

 これから起こる事を、ハヤトは生涯忘れることがないだろう。

 

 一生の傷跡が、今から刻まれるのだから。

 

 

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