よければ、今回のお話は【沈黙のレクイエム】を聴きながら読んでください。それを聴きながら書いたのでね。
あれですよ。確かアニメ一期15話のエンドロールで使われていたBGMです。
終わった。
その瞬間、この場にいる誰もが等しく思った。
振り返り、三人は飛び込んできた光景に言葉を失う。視界に映る少女二人の表情を見ると、なにもかも全てが手遅れであるのだと、嫌でも理解させられる。
今、最もこの場に来てはいけない二人が、同時に到着したのだと。
「ね、さま。どうして」
テンと婚約を結んだ少女、レム。
「どーしてテンが倒れて……」
テンと約束を交わした少女、エミリア。
「一体、なにが」
「その血……ぇ?」
テンを強く慕う少女たちが、三人の視線の先にいる。だらりと垂れ下がる両腕が緩く揺れたまま、うわごとのように声を溢して、呆然とした様子で立ち尽くしていた。
メイド服を纏うレムと、普段通りの白い衣装のエミリア。寝巻きで来るなとテンに言われ、素直に従った結果として四人——三人よりも遅く村に到着した二人組。
テンが愛用する二種の武器、刀と短剣が足元に落ちているのはきっと、わざわざ持ってきてくれたからだろう。ついさっきなにか落ちた音がしたのは、二人がそれを落としたからか。
「ねぇ、さま?」
「はやと?」
朧げな声で思い思いに名を呼び、二人はその場で棒立ち状態になる。その光景を見た途端から魔法にでもかけられたように一歩も動けず、唯一動く口だけで、状況の説明を要求する。
呼ばれた二人からの返答はない。あったとしても、反応できる状態ではなかった。
下に傾く視線は一点に集中しており、以降から刹那たりとも外れる気配はない。心が生み出す感情を表現する余裕すらなく、二人が一時的に呼吸を忘れた。
「………くそ」
「ちっ……」
そんな二人を背にし、ハヤトとラムは堪えきれなかった。やるせない思いから雑に吐いたハヤト、脳裏に描かれた数十秒後の地獄絵図に舌打ちするラム、彼らは二人から目を背けてしまう。
レムはテンのことを心から愛して、エミリアはテンのことが無自覚に大好き。レムの恋路に寄り添ってきた彼らは、それを痛いほど知っている。だからこそ、言葉が出なかった。
どう二人に伝えるべきなのか、歯を食いしばるハヤトには分からない。なんて切り出したら良いのか、涙を拭うラムには分からない。
振り向くことが、できない。
「隠しても無駄なのよ」
友人の死に絶望し、顔色から
この二人が茫然自失としてしまうのなら、自分がしっかりしなければならない。少なからずテンの死に揺れる心を叱咤し、そんな思いから気を強く張って、
「この小娘たちには受け入れ難いことでも、現実は変わらない。分からないお前たちじゃないのよ」
「……ああ、分かってる。お前も分かってるよな」
「ええ。分かってる」
非情とも受け取れるベアトリスの発言に小さく頷き、ハヤトが重い腰を上げて立ち上がる。同じように頷き、ラムもテンの上から退いた。
この状況で隠す気なんてない。仮に隠そうとしても、もう遅い。少女二人はテンの死に顔を見てしまっている。
ハヤトとベアトリスが右に、ラムが左に避ける。三人が左右に分かれて、少女二人にテンへの道を開けた。
そして、
「————」
「ーーーー」
「ーーーー」
ハヤトたちによって閉じていた視界がゆっくり開き、棒立ちから抜け出せないレムとエミリアの目の中に、月光に照らされたテンの死体が鮮明に映る。
血だらけになった口周りに、異常なまでに青白い頬。普段からのほほんとしている表情からは感情が欠落し、重く閉じた瞼は開く気配が一切感じられない。
力無くぐったりする肢体はぴくりとも動いておらず、その体は所々に血溜まりのある真っ赤な地面に寝かされていた。
どこまでも記憶に刻まれる、婚約者の惨たらしい死に様。見間違えることなんてあるはずがない、騎士になる人の最期の姿。
「————」
「ーーーー」
「ーーーー」
頭が、真っ白に、なっていた。
村に到着した自分らを迎えた事実に翻弄され、二人の思考が完全に止まる。なにも考えられなくて、なにも感じられなくて、目の前に映る悪夢に、ただただ唖然とする他にない。
アレを理解してはならない。心がそう叫んでいた。今すぐにでもアレを意識から除外し、自分の世界から絶たなければならない。魂がそう警告していた。
叫び、警告していた。
していた、のに。
「テ……。ぁ、ゃ、てん……てん!」
一歩先にテンの死を理解し、無意識に堰き止められていた感情が一気に解放されたのは、甲高い悲鳴を上げたエミリアだった。
驚愕に歪んだ顔がさっと青くなった途端、弾かれるような勢いでその場から飛び出す。呆然としたまま帰ってこれないレムを放置し、悲痛に名を呼んだ存在に駆け寄る。
「テン! ねぇ、テン! テンってば! どーしてこんな……やだ! やだやだやだやだ! テン! テン!! テンーーッ!」
先行する心に体が追いつかず、足がもつれて膝から崩れ落ちるエミリア。ぴしゃっと赤の飛沫が跳ね上がるのを気にも留めず、彼女はテンの死体の真横に体を置く。
仰向けに倒れるテンの胸に両手を置き、意志のない肉体を必死に揺さぶった。ハヤトとラムがしたように、受け入れられない事実から目を逸らし、魂を呼び戻そうとする。
「返事して! 返事してって言ってるの! お願いだから私の名前……エミリアって呼んで! 私の言葉に応えてぇ……。もぅ、あんな思いしたくないからぁ。呼んで、呼んで! テン!」
金切り声を上げながら、テンの名を呼んでエミリアは悽愴に泣き叫ぶ。その姿はまるで、永遠の眠りについた親を必死に起こそうとする子どものようで、見ていられないとハヤトが思わず目を伏せる。
わなわなと肩を振るわせ、エミリアは何度も「テン」と呼び、指と指を絡めて彼の手を握りしめる。大粒の涙を頬に垂らし、軌跡を何重にも作りながら、無い魂に呼びかけ続けた。
「うそよ! こんなの嘘に決まってる! テンは私の騎士になるって約束して、絶対に守る、って言ってくれて。だから。違くて。なのに。違う、違う! 違うに決まってるの!」
「————」
「違う違う違う違う違う違う違う! そんなわけない! テンが私を置いて遠くに行っちゃうわけない! 私のこと守るって言ってくれたもん! 約束一回も破ったことなかったもん!」
「————」
「私を否定する全てから私を守ってみせるって言ってくれた! 私なんかのために頑張るって誓ってくれた! 私に期待させてくれた! だから違うの! 違うったら違うの! 違う、違う。違わなきゃだめなのぉ………」
「————」
「ちが、ちがう……ちがう。ちがうって言ってぇ、テン。わ、わた、私を、置いて、いかないでぇ……。だめ、だめなの。やだやだやだやだぁ。ずっと一緒、ずっとずっと、一緒が、いい、の……っ!」
遠のく背を懸命に追いかけ、意地でも連れ戻さんと手を伸ばすような。支離滅裂で、悲哀だけが込められた、聞くに堪えない幼い羅列だった。
大切な人の死に顔を直視できず、体を前に倒すエミリアが、テンの死体に己の体を重ねる。テンの胸板、ちょうど心臓の真上あたりに片耳をくっつけ、命の鼓動に縋った。
皺が寄るほど強く目を瞑り、慟哭。荒ぐ呼吸に体を大きく上下させて、
「——うそつき」
今にも消えてしまいそうな涙声で、呟く。
取り縋る体を抱きしめ、怨念すら込めてしまいそうな悲哀に溺れながら、エミリアは叫ぶ。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき! 嘘つきッ! テンの嘘つきぃーー! 嫌い! テンなんて嫌い! 大っ嫌い!」
絶叫。
己を裏切ったテンを糾弾するように、その二つを連呼した。不本意であると知っていても、言わずにはいられなかった。言わないと、頭がおかしくなりそうだった。
ずっと一緒にいると思って、疑わなかった。パック以外はみんな自分を遠ざけて、離れていくけど、彼は、彼だけは、なにがあっても、絶対に自分から離れることなんてないと確信していた。
なのに———。
「テン……テン、テン、テン」
温もりのない肉体にささやき、エミリアはテンの死を全否定する。頭では死を理解しても、心が飲み込めるはずがないから、理解したそれを無限に吐き出し続けた。
残酷で凄惨な現実を突きつけられ、精神が崩壊していくエミリア。その姿は本当に幼子のようで、ハヤトに次いでラムも目を閉じ、ベアトリスすらも目を細める。
少女一人の傷心
しかし、現実とは非情なものだ。その三人の感情を置いて、事態は容赦なく最悪へと進みゆく。
「ーー?」
ずざっ、と。
地面を滑る音がして、三人の反応が一度に現れる。微かに聞こえたそれに伏せていた目を上げ、閉じていた目を開き、細めた目を開け、音の方向を見やり、
——虚な表情で、抜き身の短剣を喉元に当てるレムに、考えるよりも先に飛び出していた。
「馬鹿野郎ーー!」
僅か一度の跳躍でレムとの距離を詰め、掠れた声で叫ぶハヤトが短剣を握りしめる手に手刀を叩きつける。手首に強く打ち付けられた打撃に対応できず、不意な衝撃にレムの手から短剣がこぼれ落ちた。
その直後、落ちる短剣を正確に狙った風圧が、ハヤトの後方から前方にかけて一直線に突き抜ける。風に攫われる短剣が明後日の方向に飛び、回転しながら夜闇に吸い込まれて消えていった。
この間、三秒にも満たない出来事。レムがなにを図ったか刹那で理解した二人が計画を阻止し、ぎょっとするハヤトが間髪入れずにレムを羽交締めにして、
「レム! テメェ今なにしようとしやがった!?」
「死なせて……、死なせてください! テンくんのところにいかせてくださいーー!」
投げかけた問いに返された言葉が、レムの全てを物語っていた。答えになっていない答えは、皮肉にも最も簡潔で分かりやすい答えとして、三人に最大級の驚愕を齎す。
焦点の定まらない目から粒ではなく線の涙が、文字通り滝のように流れるレム。恐らく今のがスイッチだった。途端に暴れ始める彼女を抑えるハヤトは、体に力を込めながら「ふざけんなッ!」と、
「お前が死んでアイツが喜ぶと思うのか!? それで死んで、アイツに会えると決まったわけじゃねぇだろ! 早まったことすんじゃねぇーーッ!」
「死なせて! 死なせてぇ! いやだぁ! テンくんがいない……いないいないいないいないいなあああああッ! ああッ! あぁあぁぁああーーッッ!!」
身を捩り、両腕を激しくばたつかせ、自由の利く足で体を前へ前へと押し出し、奪われた短剣を拾いに行こうと躍起になるレムが狂乱する。駄々を捏ねる頭が横に振られ、青髪がぼさぼさになっていく。
先程までの静寂が、嵐の前の静けさであったと納得させられる乱心。レムの命が呪術に
だから自分たちの声が届かないことも、ハヤトには理解できていた。
「レム! 頼むから早まるな! お前まで死んじまったら俺ぁ、アイツに会わせる顔がねぇ! やめてくれ! これ以上、大事な人が死ぬのは見たくねぇんだ!」
「離して、離して! 離し、てーー! テンくんとレムは運命共同体なんです! テンくんが死んだらレムも死ぬんです! 死んで一緒に逝くんです! 離してくださいハヤト君! ハヤト君! ハヤト君!!」
自殺のことしか視野にないレムの悲嘆に暮れる懇願を聞き、ハヤトの表情が悲憤慷慨したとばかりにひどく歪む。恋人の死を嘆くレムに対してではない、過酷な運命を強いるこの世界に対してだ。
もういい、もう十分じゃないか。今よりも自分たちを苦しめてなんになる。なんの
狂乱するレムを必死に抑えながら、ハヤトは思う。端的な思考で死に一直線なレムは、そんな彼に力では勝れないと判断すると目の色を変え、不意に口を閉じた。
意味の分からない行動。その真意は、
「ーーっ!? やめなさいッ!!」
喉を張り裂かんばかりの怒号を上げ、いち早く意味に勘付いたのはラム。仰天する彼女は閉じたレムの口を強引にこじ開け、その中に自分の人差し指を根元まで突っ込んだ。
瞬間、目論見を悟られたレムが首を横に背けて口内に侵入した細い指を吐き出す。姉に勘づかれてもなお、狂気とも言える奇行を実現させようとして、
「レムを地面に押さえつけて!」
「分かった!」
短いやり取りが交わされた直後、足を引っ掛けられたレムの体勢が大きく崩れる。死ぬことしか頭にない今のレムには咄嗟に立て直せるはずもなく、前に進もうとする力のままうつ伏せで地に落ちた。
硬い地面に胸から叩きつけられる衝撃に「かはっ」と息が漏れ、背に跨るハヤトの重みに肺が圧迫されて口が開く——その開いた口に、猿轡のように手拭いが噛まされた。
「んー! んーー! んんーーっ!」
閉じきれない口から言葉の代わりに苦鳴を鳴らし、レムはじたばた暴れる。死にたい、愛する人の
けれど、両腕の自由はハヤトの怪力に掴まれて封じられ、腹部から下はハヤトの体重によって動かず、完全に身動きを奪われている。誰がどう見ても、無駄な足掻きであった。
鬼化して脱出。否、そこまで冷静な判断ができないから、無意味にも暴れているのだ。
「レム……!」
うつ伏せで倒れるレムの眼前に正座し、激痛に堪えるように痛ましげな表情で、ラムは妹を見下ろす。こちらを見上げる妹の、この世の終わりに直面したような顔を見ると、目の内側が感情に焼かれていく。
実際、この世の終わりに直面しているのだろう。絶望一色に染め上げられたレムは、世界で一番の人を失ったのだから。死にたくなるのも、分からなくもない。
だって、凄まじい勢いで感情が流れてくる。共感覚という姉妹を繋ぐ絆を伝い、レムの絶望という絶望が、ラム自身にも影響を及ぼしかけるほどの量で、止まることなくだ。
自分が取り乱したとき、レムにもこんな痛みが伝わっていたのだろうか。考える余裕がなかったから分からない。分からないから、今は考えない。
未だに暴れるレムの頬に手を添え、顔を固定しながらラムは言った。
「許さなくていい。ラムのことを一生恨んで、憎んでいい。それでも、ラムはレムを死なせない。レムがどれだけ辛くても絶対に死なせたりなんかしない。この痛みを背負って、一緒に生きていくの」
「んーんん! んーんん! んーーッ」
「舌を噛み切って死んだレムが会いに来たら、きっとテンは悲しむわ。それ以上に怒られる………いえ、それはないかもしれない。あの男なら多分、それがレムの決断なんだね、って言うかもね」
「好きな人には甘い男だから」と、ラムは言葉を閉じる。自分のことは卑下して否定するくせに、他人のことは褒めて肯定するめんどくさい男、それがラムの知るソラノ・テンだ。
そんな男に愛されて、存在を強く欲されたのがレムという女。だから、自分の存在意義とも言える恋人が消えた今、必死に死のうとしているのだろう。人生を狂わせた男に、ついていこうと。
「でも、それはラムが許さない」
「んー! んーっ!」
「レムがテンの死を受け入れる日まで、ラムはレムを止め続ける。絶対、今すぐには無理でしょうけど。だってラムも———」
そこから先の想いは、暴れ続けるレムの絶叫に掻き消されて聞こえなかった。けれど、言い切ったラムの視線がテンの死体に向き、表情が寂しげなものになったのは分かったハヤトだった。
視線を下に落とし、ハヤトはレムに意識を集める。恋人を失ったレムの声は止むことを知らず、狂乱もまた止むことを知らない。今もずっと、「んー!」と泣き叫んでいる。
正直、見ていられない。ラムの、エミリアの、レムの絶叫は、慟哭は、もううんざりだ。
だから、
「ベアトリス」
呼び、駆けつけてくれたときからずっと真横にいて、寄り添ってくれているベアトリスの目を見る。
この場において、唯一冷静な判断力を保つことができる彼女のことを真剣に見つめて、
「お前、前にテンのことを強制的に眠らせたことがあったよな。傷だらけで、痛みに悶絶する前に意識を断ったやつ」
「やれ、ってことかしら」
「実害あんのか?」
聞いた直後、沈黙するベアトリスの表情が少し曇る。言葉を選ぶように口元がもごもご動き、向けられるハヤトの視線からぎこちなく目を逸らした。
躊躇する様子から察するに、どうやら実害があるらしい。眠らせる原理は分からないが、あまり人にやるべき事ではないことを様子で語っている。
だが、
「いや、それを承知で頼む。実害があってもいい、あってもいいからやってくれ。自殺されるよりはいい」
「……………はぁ。あの夜といい、この夜といい、ベティーには損な役回りしか回ってこないのよ」
若干、渋る予感を匂わせていたベアトリスが、長い沈黙の末、ため息と愚痴をこぼして首を横に振る。
言葉と仕草は拒否反応そのものではある。が、行動はそれと反するものだった。
「ごめんな。ほんと、いつも助かってる」
そんな風に言ってくるハヤトを心に留めながら、ベアトリスはレムの肩に手の平を添える。粛々と目を瞑り、ふっと真剣な顔持ちになった次の瞬間、レムの言動がぴたりと止まった。
尾を引いて木霊する、レムの金切り声。耳を塞ぎたくなるほどの絶叫の余韻が世界に響いていく中、力を奪われた彼女の肢体がだらりと地に落ち、続くように見上げていた首も落ちた。
「んんー。ん」
それでも声を絶やそうとしないレムが、誰かに向けて何事かを呟いている。命を削って作られた言葉は、しかし形にはならず、その人には届かない。
即効性がありすぎる魔法の効力に、レムの意識がどんどん落ちていく。誰の声も届かない体から、意志の力が断ち切られる。自殺したい、そんな意志すらも。
「ん、んん……っ」
落ちる、落ちる、落ちていく。抗いようのない力に意識の電源が次々と落とされ、視界が真っ暗に閉じられていく。
落ちる、落ちる、落ちていく。静止を促す暇も与えられぬまま、最後には主電源も落とされて。
ーー俺は、レムが好きだ。ありきたりな言い方しかできないけど。必ず、レムを幸せにしてみせる。
意識が落ちる、刹那。永遠の愛を誓ってくれた愛しい人の声が聞こえた。
「レムも、ぁ———」
手拭いから解放された口で愛を誓おうとして、届かないままレムの意識が途絶える。
愛は、その人には届かなかった。
▲▽▲▽▲▽▲
狂乱していたレムが深く眠ると、世界は思い出したように夜の静けさを取り戻していく。テンを失った者たちによる慟哭が嘘のように、静まり返った。
物音一つしない世界で最初に動いたのは、深く息を吐くハヤトだった。レムの口から手拭いを外す彼は跨がる体から退き、彼女の体をそっと持ち上げてラムに預ける。
預けたのは、ラムが小さく両腕を広げていたから。「渡して」と声が聞こえたわけではないけれど、レムを見る彼女の目が姉の目をしていたから。
渡さなければと、思わされたのだ。
「辛かったわね、レム」
正座したままの体勢で、胸に預けられた妹の体を、ラムは抱きしめる。慈愛に満ちた表情で優しく呟き、涙の軌跡が残る赤い頬を拭いながら、声以上の優しさで頭を撫でた。
ーーレムのことはラムに任せるか
自分じゃどうにもできない問題をラムに任せ、心の中でそう言ってハヤトは歩き出す。ベアトリスがその横に並び、有無も言わさず手を握ってきた。
ふらふらとした足取りで向かう先にいるのは、声にならない声でひたすらにテンの名を呼び、咽び泣くことしかできないエミリアで、
「う、うそ、つき。テンの嘘、つきぃ……。嫌い……嫌い……嫌い嫌い。テンなんて嫌ぃ」
抱えた膝に頭を押し付け、彼女は小さく縮こまっている。受け入れきれない現実から目を背け、枯れた声で『嘘つき』と『嫌い』の二言を、呪いのようにぼそぼそと囁いていた。
僅かに見える横顔は放心していて、常日頃から可愛らしく華やぐ少女は存在していない。彼女の心も、ぼろぼろに崩壊している。立て直すことは、きっと無理だろう。できるのはソラノ・テン一人。
今のハヤトにできるのは、崩壊の果てに病まないことを祈ることだけ。
「……情けねぇな」
嘲笑。
色のない笑みを顔に浮かべ、嘆息する。心に大きな穴が空いたような喪失感に笑い、同時に猛烈な無力感を得た。他のみんなもこうなっていないかと、不意に心配になる。
首をぐるりと回し、一度、ハヤトは全員の現状を簡単に確認した。
ぐったりして眠るレム。レムを抱きしめて離さないラム。延々と咽び泣くエミリア。手を握ってくるベアトリス。絶望のどん底にいる自分。
それらの情報を結合し、ハヤトの頭は一つの結論を導き出した。ベアトリスの手をぎゅっと握り、空っぽの表情で夜空を仰ぐと、
「見ろよ、テン。お前が死んだだけで、俺らはこうなっちまう。分かるか。お前はこんだけ、俺たちから愛されてたんだぞ。なのに、なんで死んじまったんだよ」
もっと、生きなければならない存在だった。決して、欠けてはならない存在だった。彼の死が与える影響というものは、それほどまでに大きなものだった。
それでも死ぬというのなら、もっとちゃんとした別れ方にしてほしかった。いきなり口から血を吐いて、別れの言葉を残すことも、伝えることもできず、逝ってしまったのだから。
唯一、最期に言い残した言葉といえば———、
「そういや」
ふと、状況に飲み込まれて忘れていたことを思い出した。ここまでが怒涛の流れすぎて、知らない間に頭の片隅に追いやっていた思考がある。
それは今まさに考えていた、テンが最期に残した言葉。
ーーなんで、なんで死に戻。
そう言い残してテンは死んだ。まさか、最期の言葉がそれになるだなんて、本人もびっくりだろう。しかし、幸運なことにそれが思考を広げるヒントとなってくれていることに、今、気づいた。
それに、こうも言っていた。
ーー俺がなに言いたいか分かんない!? スバルが死んでんだよ!? この状況がどれだけ異常なことかお前、分かんないの!?
「確かに……変だな」
今この状況、ナツキ・スバルが死んでいるにも関わらず世界が継続されていることが、どれほど異常なことか。冷静になって思えば、とても不思議に感じた。
この世界の代名詞とも言える現象、『死に戻り』がなぜ発動していない。普通ならばしているはずだ。原型を留めないほどぐちゃぐちゃにされて、スバルは死んだのだから。生きているはずがない。
なぜ戻らない、なにが足りない。死に戻りの元凶はなにを求めている。なにを、なにを、なにを。
ーー俺か?
思い出す、一度目のループ。
徽章を巡って盗品蔵でエルザと戦い、腕を切り飛ばされて致命傷を負ったとき。一瞬の隙を狙われてスバルを殺され、逃走するエルザを激情に身を委ねて追いかけようとした瞬間のこと。
正直な話、あの時のことはよく覚えていない。戦闘中の記憶が曖昧なのと同じだ。
覚えている事といえば、なにかに後頭部を強く叩かれて、そこから視界が真っ暗になって——次、視界が開けたときには戻っていたことくらい。
もし、もしも、あそこで自分も死んでいたとしたら、どうなる。片腕切断という致命傷によって出血多量で死んでいたとしたら、どうなる。
死に戻り、その起因がナツキ・スバルの死だけに依存するものではないとしたら、
ーー俺が死んだら戻るのか?
恐ろしい仮説に辿り着き、戦慄するハヤトがごくりと生唾を飲み込む。死に戻りの条件が変わっているかもしれない、考えたくもない思考が頭のど真ん中に鎮座する音がした。
あり得ない話でもない。事実として、死に戻りは既に発動している。その現象に他でもないハヤト自身が巻き込まれ、スバルと死を共有したのは記憶に新しい。
発動した以上、発動しないという話はあり得ないのだ。だからこそ、この状況が不思議でしかなくて、けれど前提条件そのものが書き換えられているとしたら、変に納得できるものがある。
ナツキ・スバル、カンザキ・ハヤト。この二人の死がトリガーとなって死に戻りが発動するのなら、今の世界が続いているのにも説明がつく。
いや、一つだけ引っかかる。
ーーアイツ、このこと知ってんのか?
違和感。
テンは世界が戻ったことを知っているのか。自分が知っているのだから知っていて当然——固定概念じみたものが今ので剥がれ、違和感に思った途端に疑問が膨れ上がった。
心配性で慎重なテンのことだ、知っていたら必ず自分に話してくるに決まっている。なのに、屋敷に帰ってから一言も死に戻りについて触れなかったのはなぜだ。
ーーまさか、知らないのか?
あり得ない、とも言い切れない。
一度目の死に戻りが発動したとき、実際に死んだのはハヤトとスバルの二人だとしても、その中にテンは確実にいない。事態が起こったとき、彼は別の場所、クルシュ邸にいた。
もし、死に戻りの前提条件が二人の死だとして、彼が自分のように巻き込まれていないのだとしたら、知らないのも頷ける。
それに、
ーー巻き込まれてないから、死に戻りの事を口にしようとして殺された。ってか
死に戻りをする者が背負う宿命、その事実を口外してはならないこと。口外しようとしたが最後、元凶による罰が強制的に与えられることになる。当事者以外には、知られてはならないのだ。
自分とスバルがそれについて話しても咎められなかったのは、二人とも死に戻っている者だから。そういう認識で正しいのならば、テンが死んだ理由に筋が通らなくもない。
原作の知識が仇となり、身を滅ぼす。利用するはずのもののせいで殺されるなんて、相変わらず理不尽な世界だ。
ともかく。もしも、自分の考えが正しいのなら、
「覚悟、決めるしかねぇな」
大体の疑問が出尽くし、あらかた考えがまとまったところで、ハヤトは言葉の発声場所を切り替える。
己の内側から外側へ、声に出して己に言い聞かせ、言葉通りに覚悟を決めた。
——自殺する、覚悟を。