——その瞬間、ベアトリスはハヤトの明らかな変化を悟った。
空気感が変わったわけでも、姿形が変わったわけでもない。依然として絶望に落ち込んでいるし、姿勢と表情にもまるで覇気がないままだ。
この男がカンザキ・ハヤトであると言われたら、自分は本気で疑うだろう。それほどまでに今の彼は弱々しく、見ているこっちが泣きたくなってくる。
それでも変化を悟ったのは、ある一箇所にだけ変化が訪れたから。タイミングは彼が「覚悟を決める」と呟いた瞬間、その部分だけに意志の炎が灯り、曇り模様が僅かに晴れたのだ。
——光を失ったはずの、目が。
「ハヤト?」
無意識に目の色を変えたハヤトにベアトリスが疑問を抱いた直後、呼びかけに応答しないハヤトが彼女を放って歩き出す。当然、手を繋ぐ彼女も一緒に歩き出すが、ハヤトの視界には入らない。
今がターニングポイント。ここから先の立ち回り次第で全てが決まる。故に、絶望している暇なんて自分には無い。そう心を鼓舞し、折れる背中をピンと伸ばす。
そうしているうちに目的地に到達したハヤト。「ふぅ」と吐息する彼は足元にいる少女——妹を抱いてじっとし、目を瞑るラムに視線を落として、
「ラム」
呼ぶと「ん?」と喉を高く鳴らして、ラムが閉じた目を開く。直後、彼の空気が変わったことを感覚的に悟り、ハヤトを見上げる首が怪訝そうに傾げられた。
そのことに気づかないまま、ハヤトはアーラム村の正門を見据える。血と殺戮の跡地を視界に入れた途端、込み上げてきたものをぐっと堪えながら、
「生きてる人がいないか探してくる。絶望的な状況だが、可能性に賭けてぇんだ。今こうしてる間にも、どっかで怯えてる人がいるかもしれねぇしな。だからよ」
ただ一言、
「頼むぞ」
それだけ言って、ラムに背を向ける。この一言のみで十分だと背で語り、返答を待たずに離れていく。
実際、その通りだった。逆に、これ以外の言葉は不要。想いをぎゅっと凝縮させれば、一言で全てが伝わる関係性、それが彼らなのだから。
故に、
「ハヤト」
こちらも、ただ一言、
「バカな真似したら殺すわよ」
遠ざかる背中を呼び止め、振り返った男に、それだけ言って口を閉じる。
覚悟を決めた彼の目。今までのとは毛色の違うそれから良からぬ雰囲気を察して、自然と心から湧き上がった言葉だった。
真剣な眼差しと視線を交差させて、数秒。嵐が過ぎ去った後のように沈黙する世界で二人、ハヤトとラムは目だけで言葉を交わし合う。
そして「ふっ」と浅く笑うハヤトが、物言わぬラムに「ああ」と重々しく首肯すると、
「しねぇよ。——二度とな」
それが、最後のやり取りだった。
一度は振り返った体が前を向くと、以降から二度と振り返ることはない。前だけ見続けて、ひたすら歩みを進める。振り返ると、脆い覚悟が揺らいでしまいそうな予感がした。
言葉の裏側に隠された真意に、ラムは気づいただろうか。いや、止めに来ない時点で気づいていないのかもしれない。それ以前に気づく余裕あるだろうか。二度とな、と言ってる自分はラムに自殺を止めてほしいのかも。ここまで追い詰められてもまだそんなこと言うか。振り返ったら気づいてく———。
「今はなにも考えねぇ方がいいな」
頭を横に振り、ハヤトが全ての思考を振り落とす。覚悟を鈍らせる思考が生まれる前に切り上げ、自殺する以外に道はないのだと心に刻み込んだ。
可能性があるのなら賭けるしかない。一か八か、危なすぎる橋だけど。再びテンに会うことができるのならば、なんだってやってやろう。彼は自分にとって家族なんだから。
そのためには、もう一人、遠ざける必要のある存在がいる。立ち止まって腰を下ろし、心苦しい思いを胸の奥に押し込みながら、その存在と視線の高さを合わせて、
「ベアトリス。お前もここに残ってくれ」
「それならハヤトもここに残るのよ」
繋がれた手を、強く強く、なにがなんでも離さないと言わんばかりに、ベアトリスは握る。それがダメなら自分も連れて行けと、口よりも目が雄弁に語っていた。
たった一度のやり取りで、目の前にいる幼女が離れてくれないことをハヤトは理解した。こんな状況じゃなかったら彼女の優しさに胸を打たれただろうに、今はそれが苦痛でしかない。
彼女の思いやりを振り切って、今から自分は死ぬ。
そんな酷い仕打ちをしてまで、今から自分は死ぬ。
今から、自分は。
「……ベア」
「絶対ひとりにしないかしら」
ハヤトの弱々しい声を遮り、断固たる意志を言葉にしてベアトリスは力強く言う。信じられないくらい弱い声に驚きながらも、優しさに満たされた声で。
自分が寂しいとき、彼は自分をひとりにしなかった。どれだけ雑に扱って、振り払おうとも、ひとりにすることだけはしなかった。毎日毎日、うるさい声と笑顔で、自分の
だから同じことを、ベアトリスもするのだ。彼が自分にしてくれたように、ひとりにしてやらないのだ。
ひとりにしてほしい人間ほど、ひとりにしちゃいけないことを彼女は知っている。誰よりも、よく思い知っている。
それに、
「頼まれたのよ」
ーーソイツのこと、頼んだよッ!!
「ベティーは頼まれたのよ」
アーラム村に向かう途中で巨大な魔獣に襲われ、二手に分かれることになった際の出来事。テンに切羽詰まった声でそう言われたことを、刹那も忘れてはいない。
ハヤトの親友に、ハヤトのことを頼まれた。ベアトリスにとってこれがどれだけ大きなことだったか、言った本人は気づいているだろうか。多分、気づいていると思う。
なら尚更、ここを譲ることができないベアトリス。あの言葉がこんな形で意味を持つことになるとは思わなかった彼女の意志に、しかしハヤトは「いや、ダメだ」と、
「俺とお前がここからいなくなったら、他の四人はどうなる。放心状態のエミリアと眠るレム、それに…………死んじまったテン。この三人をラム一人に任せるのか? あいつだって今は万全じゃねぇのによ」
「それならハヤ……」
ハヤトも残ればいい。
言おうとしたベアトリスの声が、中途半端な場所で止まる。言葉を継ぐように蝶を宿す瞳が見開き、息の詰まる音がはっきりと聞こえた。
原因は頭の上に予兆なく置かれた、大きな手の平。幾度となく置かれてきた場所に温もりが添えられると、びっくりして、いつも言葉が出なくなってしまう。そして、意図せず体から力が抜ける。
今この瞬間を惜しむように、ゆっくり、穏やかに、ベアトリスの頭を撫でるハヤト。目で抗議してくる彼女に彼は初めて、ここに来て初めて、柔らかな笑みを見せて言った。
「みんなみんな崩れちまって、頼れるやつがお前しかいないんだ。だから頼む、俺の願いを聞いてくれないか? お前にしか頼めないんだよ」
「ぁ………」
切実な思いを聞き届け、ベアトリスの口から小さな声が落ちる。精神的に追い詰められた男の縋るような物言いに、固めた決意がぐらぐらと音を立てて揺らいだのが分かった。
ハヤトが、自分に、縋り付いている。
あのハヤトが、不可能を可能に変えるハヤトが、なにがあっても絶対に屈しないカンザキ・ハヤトが、涙すら乾いてしまうほど泣いた後に。
その事実一つで、ベアトリスは動揺を禁じ得ない。自分を安心させようと無理に笑ってでもそうする精神状態に、言葉にし難い感情が胸の中でふつふつと湧き上がってきた。
今のハヤトは壊れている。自分で、自分が壊れていると判断できないくらい、おかしくなっている。
「心配すんな。すぐ帰ってくる」
なのに、そう言ってぎゅっと抱きしめてくれるところは変わりなくて。その部分だけを切り取れば、いつも通りの優しいハヤトで。でも、正常な判断力を失っているのは明白で。
止めなければ、ならない。止めないと、絶対に止めないと、彼はきっと遠くにいってしまう。
理由はない。けど、そんな気がしてしょうがない。目の前の笑みが、儚いものに見えてしかたがない。
「みんなのこと、頼んだぞ」
体から温もりが消えて、握っていた手がするりと抜ける。精神が崩壊したハヤトの傷心ぶりに動揺し、放心しかけるベアトリスを他所に、立ち上がるハヤトが逃げるように去っていく。
一刻も早く、ベアトリスの前から消えなければならないとハヤトは確信した。ラムと同じように、彼女と言葉を交わしていると、なけなしの気力を振り絞って固めた死ぬ覚悟が、あっさり崩れる予感がしたのだ。
死ぬ、死ぬ、死ぬ。自分は死ぬ。死んで世界をやり直す。頭と心の中をその言葉で埋め尽くし、ベアトリスを意識の外へ。
「ーーーー」
背を向け、遠ざかっていくハヤトの後ろ姿。
呆然とした様子でそれを眺めるベアトリスの目には、普段から見慣れているそれが、今に限って全く別のものに見えていた。いや、別のものという表現だと、少し違うかもしれない。
この光景、この構図、この感情、自分を取り囲む全てがひどく身に覚えのあるものだったから。
去っていくハヤト、置いていかれる自分。前にも、こんな経験をしたことが———。
《ベアトリス。君にワタシの知識の書庫の管理を任せる。来るべき時がくるその時まで、書庫の番人として知識を守り続けたまえ。――誰にも、それを奪われないように》
——ザザザッ。
一瞬、目に映る世界に大きなノイズが走った次の瞬間、懐かしい声と共にあり得ない現象がベアトリスの前で起きる。駆け抜けるノイズが世界をあっという間に作り変え、一瞬にして光景が変貌した。
まるで、瞬間移動でもしたような切り替わり方。気がつけば自分の体は禁書庫にあって、ハヤトがいた場所には居るはずのない母の姿があった。母は、開いた扉の前でこちらを見つめている。
それが過去の記憶であると理解するのに、大して時間は使わなかった。どうしてか、この光景は夢で何度も見ているからだ。
最近は不思議と見なくなったそれが、夢ではない形で姿を現して、現実と混ざり合っている。
その中で、母は淡々と言った。
《仮に『その人』としておこうか。期限は、『その人』が禁書庫の扉を開けて、君に役目の終わりを告げたときまでとしよう。――ワタシからの最後の願いだ》
ああ、そうだ、そうだった。
母はそう言って自分の前から消えたんだ。呼び止める声を無視して、こっちの感情を度外視して話を進めて、自分を置いて消えてしまったんだ。
母は。
お母様は。
《ベティー。――せめて、健やかに》
あの言葉を、最後に。
ベティーの前から、永遠に。
永遠に。
「…………だめ」
——ザザザッ。
手を伸ばし、呟いた瞬間、視界の中で再び大きなノイズが走り、世界が元の形を取り戻す。母の姿が消え、過去の記憶が無音で崩壊していく。瞬きよりも早い速度で、光景が戻った。
気がつけば禁書庫にあった体はアーラム村にあって、母がいた場所には離れていくハヤトの姿があった。
消えた母の姿と、ハヤトの姿が、嫌なくらい重なる。いつもは重ならないものが重なるのは、重ねてしまうものが心に芽生えたからで、
「まって……待って!」
飛び出す。
あの日の後悔に突き動かされるように。あの日に言えなかった言葉に背中を押されるように。
ドレスの裾を踏んで転びそうになりながらも、懸命に走る。遠のき続ける背に必死に手を伸ばし、届かなくなる前に届かせてみせる。
行かせない。行かせてなるものか。行かせたら絶対に後悔する。嫌だ、行かないでくれ。待って、待って、待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って待って、
「ハヤトーー!」
「うおっ!?」
体に触れる直前で思い切り跳躍し、ベアトリスはハヤトの背に飛びついた。その背には大剣も、大剣の鞘もない、自分と彼を隔てようとする物は一つもない。
首の後ろから両腕を回し、腹部に両脚を回す。四肢を使って自分の体をハヤトの体に結びつけ、肩を顎に乗せる。
ありったけの想いを込めて、
「いかないでーーッ!」
「ーーっ」
耳元で叫ばれた一言に、体勢を崩しかけたハヤトの足が止まる。刹那も間を置かずに、ベアトリスは言葉を畳み掛けた。
「いっちゃだめ、だめ! 行ったら帰って来れなくなる、そんな気がするのよ!」
「気がする、ってもな……。思い過ごしだろ?」
「思い過ごしじゃない、事実かしら! お母様もそうやってベティーを置いていったのよ! ベティーの声も、感情も、全部全部置いて、ベティーの前から消えていった!」
「俺は違っ………」
違う。
言おうとして、言えなかった。
取り乱すベアトリスの魂の叫びに、頭をガツンと叩かれたような気分になって、考えないようにしていたことを考えてしまった。
自死の選択がなにを齎し、どのような結末をベアトリスに迎えさせるのか。死ぬということは、その世界にあるものを全て置いていくということで、それはハヤトだって例外ではない。
死ぬということは、そういうことだ。テンを、テンの死に泣き崩れる少女たちを見ていて、嫌というほど理解できた。
ハヤトも、ベアトリスも。
「嫌ぁ、絶対に嫌なのよ! もぅ、もうあんな思いしたくないのよ! ひとりぼっちは……い、いや、いやかしらぁ……!」
「ベア………」
「だめかしらぁ、ハヤトぉ……だめぇ。ベティーをお、おいていか、ないでぇ……やめてぇ……」
小粒の涙を流し、ハヤトを濡らしながら、ベアトリスは哀願する。堰き止めてきた感情という感情にもみくちゃにされ、頭がおかしくなりそうになりながら、それでも掴んだ体は離さない。
それは、ベアトリスが溜め込んできた四百年ものの感情だった。気が遠くなるほど長い時間の間、孤独に耐え、寂しさを我慢してきた幼子の心に秘められた言葉が、一気に解き放たれている。
本来、母親に向けられるべき想いたちの絶叫。それがハヤトに向けられているのは、ベアトリスが彼を母親と同じ程度のものであると認識し、心を開いていることに他ならない。
自殺を図ろうとしていたハヤトにとって、それは他のなによりも痛みを与える凶器であった。
「……ベアトリス」
ぎりっ、と。
奥歯を歯噛みし、ハヤトは拳を握りしめる。あまりの力に爪が皮膚に食い込み、小刻みに震えるそれに血が滲み始めた。それから、なにも隠せてなかったのだと知る。
なんとなく、悟らせるものがあったのかもしれない。自分では気づけない部分で、自殺する雰囲気が外に漏れていて、背中に抱きつくベアトリスにバレてしまったのかも。思い当たる節がなくもない。
全く、どうしてこうも自分は嘘が下手くそなのか。ついた嘘は悉く見破られ、その度に心配されて心が痛む。今回だって例外ではない。
しかし、死ななければならないのが現状。それが今の自分が選ぶことのできる最後の選択肢、この絶望から脱せられる唯一の方法。
だから、
「俺は………」
ーーこの子を捨てて死ぬつもりか
死ななくちゃならないのだと言い、自分に言い聞かせようとした途端、どこからか反響してくる声があった。覚悟を強く揺らがせるこれは、自分によく似た声、心の奥底からの声。
口の声に反する心の声が、語りかけてくる。その声に反論するように、ハヤトは吐息と遜色ない声で言い返すのだ。
ーーこの子を捨てて死ぬつもりか
「そんなわけない。俺はただ、誰も死なせたくなくて……」
ーーお前が死んだ後、この子はどうなる
「『みんな』を救いたくて……」
ーーこの子を犠牲にしてか
「ちがっ………」
ーー『みんな』の中に、この子はいないのか
「ーーーー」
迫る己の声に大きくたじろぎ、ハヤトの口から言葉が潰える。たった二言で脆い覚悟で取り繕った意志に小さな亀裂が走り、徐々に崩壊の音を立て始める。
死ねば全て終わりだ。死んでしまえば、この世界と自分は無関係になる。死に戻りが発動すれば今夜の出来事は全て無かったことになり、まっさらな状態に戻れる。
なら死ねばいいじゃないか。そうすれば白紙にすることができる。村人の死も、スバルの死も、テンの死も帳消しにできる。今、こうして泣きつくベアトリスのことだって、無かったことにできる。
考えないようにすればいいだけの話。自分が死んだ後の世界のことなんて忘れてしまえばいい。だって関係ないのだから。関係ない世界のことを考える必要がどこにある。
——そうやって非情に割り切れたのなら、どれほど楽になれただろうか。
「いかないでぇ……いっちゃだめかしらぁ。ベティーをひとりにしないで、置いていかないで……!」
生きるか、死ぬか。
ベアトリスか、死んだ者たちか。
究極の二択を、迫られている。
状況的に考えても選ぶべきは圧倒的に後者。大量の死人が出て、その中にはスバルやテンも含まれているのだ、失ったものが大きすぎる。例え生きることを選んだとしても生き地獄になるだろう。
しかしそこにベアトリスのことを考慮すると、恐ろしい勢いで命の天秤が釣り合う。少数と多数、重さの均衡が驚くほどあっさり保たれて、答えが出せなくなる。
『みんな』を助けたいと願う強欲な心が、後者を選ばせてくれない。背中に縋るベアトリスを捨てる選択肢を手に取ろうとすると、悶絶するほどの激痛が全身を駆け巡る。
目に映る全てを救う——なんて英雄じみた思想に憧れて強くなったせいで戸惑い、葛藤していた。即席で固めた脆い覚悟で押し潰したそれに、どうすれば良いか分からなくなる。
「どうすりゃ……」
この世界に、未来はない。
やり直せれば、違う未来がある。
大切な人の心を、代償として。
この世界に、未来はない。
やり直さなかったら、この子との未来がある。
大切な人たちの命を、代償として。
「あぁ、そうか」
結局、どっちかを選んでも誰かを犠牲にするしかないらしい。
『みんな』を救う選択肢なんて、自分には与えられていなかったんだ。終わった世界で『みんな』を救うことなんて、できないんだ。
それなら———。
「ベアトリス」
思考を放棄するハヤトが、縋り付くベアトリスの名を呼ぶ。涙交じりの声で「な、なに、かしら」と返されると、肩に乗せられた頭に無言で手を置く。
そっと置かれた手の感触に、ベアトリスの体が小さく跳ねる。四肢に全身全霊の力が込められ、これ以上ないまでに抱きつかれた。
その表情を、ハヤトには見る勇気がない。だから前を向いたまま、首から回された手に反対の手を重ねて、
「俺はどこにもいかねぇ。お前をひとりにしねぇ。しねぇから………」
一瞬、言い淀む。葛藤と躊躇に、表情をぐちゃぐちゃに歪めて言った。
「俺を信じて、ここにいてくれ」
ベアトリスの表情が、絶望に染まった。
▲▽▲▽▲▽▲
深い深い森の中へ、ハヤトは入っていく。
どこまでも深く、誰の目にも届かないところにまで、ゆらゆらとした足取りで、放心状態になりながら、一人静かに入っていく。
夜も深まってきた森は真っ暗で、ほぼなにも見えない。暗闇で戦った経験を通して夜目になってきたハヤトですら、地面と物体の輪郭を辛うじて認識できる程度の闇の世界が、そこにはあった。
今宵は満月——その光すらも届かない。所々にカーテンのように差し込んでいる光の筋が見えるものの、ほんの一部。他は森を覆う森林に遮られ、遮断されていた。
「俺を信じてここにいてくれ、か」
おぼつかない足取りで闇の中へ進む中、乾いた声で呟くハヤト。目の前に飛び込んでくる木々を避け、たまに衝突しながら、彼はベアトリスに突きつけた言葉を反芻する。
信頼関係を利用した、最低な言葉だと思う。彼女が自分に全幅の信を置いていると分かって、あの言葉を使ったのだから。否定することができないと、知っていたのだから。
それから嫌がる彼女をどう説き伏せたかなんて、思い出したくもない。
「俺はどれだけ最低なんだろうな」
ベアトリスの悲痛な想いを、純粋な願いを、踏み躙ったのだ。情に訴えかける「いかないで」を強引に振り切り、ここではないどこかへ足を運んでいる。
死に場所を、探していた。ラムに生存者を探してくると嘘をつき、アーラム村を出て森の中へ。誰にも発見されない場所で息絶え、自分の死に様を見せないためにだ。
ベアトリスを置いて死を選んだ以上、後戻りはできない、今から自分は死ぬ。果たして、これを越える最低なことがあるだろうか。
「ごめんな。ベアトリス」
信頼して送り出してくれたベアトリスを思い、ハヤトは燃え尽きた様子で謝罪の言葉をこぼす。彼女にとって『待つ』という行為がどれほど恐ろしいことか、理解していながら無理強いしたことに。
涙は出てこなかった。拳を握りしめる気にもならなかった。歯を食いしばる元気も、大声を上げる気力もない。当然だ、それら全てを引き起こす心が崩壊し切っているのだから。
ベアトリスを置いていったことが致命傷だった。死ぬことしか残されていないハヤトには、それ以降から全てがどうでもよくなりかけている。否、きっとそれだけではなく、もっと前から———。
「………早く死のう」
死ぬことに思考を支配され、それ以外に考えられなくなったハヤト。精神が崩壊した彼は、どうやって命を断つか考え始める。
化け物じみているとはいえ、自分は人間の体。心臓を貫かれれば出血で死ぬし、首を刎ねられれば頭が宙を舞ってあっさりと死ぬだろう。命とは、脆くて呆気ないものだとついさっき知ったばかりだ。
不思議と、考えているときの恐怖はない。ないというより感じないと表現した方が適切かもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
死ぬ方法、死ぬ方法だ。死ぬ方法さえ思いつけば、あとはなんだっていい。
刃物は村に置いてきてしまったから、刺殺の選択肢はない。飛び降り自殺、ちょうどいい高所がぱっと思い浮かばない。となると魔法、
「………ぁ?」
本当に、不意な出来事だった。
今、喉仏から頸にかけて冷たいものに撫で上げられた感覚を得て、足を止めるハヤトが短く唸る。
一瞬で真横を通過した細い影に、首を沿うように滑らかに撫でられた気がして、思考が強制的に途切れた。
「ん……?」
立ち止まり、違和感のあった場所に反射的に手を当てるハヤト。特に異常がないことに彼は再び唸る。
あるとすれば、熱湯のように熱い液体が付着したことくらいで———、
「——余程、お友達が死んでしまったのが悲しかったのね」
声がした瞬間、皮膚の裂ける音が鼓膜に飛び込み、同時に鋭い痛みが訪れる。次いで、刹那もしないうちに大量の液体が自分の首から噴出していく。
足から力が抜け、自然と前に傾く体。声の正体と、その原因を理解するよりも先に、
「この程度の不意打ち、あなたなら絶対に反応すると思ったのだけれど。とても残念な結果だわ」
世界が、飛んだ。
右から左へ、一筋の光が首元を通過した瞬間、視界に広がる光景が跳躍したように縦に跳ね、視点が地面から遠ざかる。高速で天地が逆転し、地上が逆さまになり、かと思えばすぐに戻った。
地上が上に、下に、上に、下に、上に、下に、天地が逆転、逆転、逆転、逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転逆転———。
「あぁ……。本当に残念だけれど」
ぐるぐる、ぐるぐる、世界が回る。不規則に、乱雑に回る。おかしなことに、月光に照らされる首のない自分の体が見えて、
「さよなら。——カンザキ・ハヤト」
聞き覚えのある殺人鬼の声を最後に、ハヤトの命は呆気なく散った。