「………ぅ」
目を開けたとき、ハヤトは魂が抜けていくほどの虚無感に襲われていた。
心に大きな穴がぽっかり開いて、大切にしてきたものが全て流れ出してしまった後のような、そんな喪失感。なにかをする気も起きず、ただ時間が過ぎていくのを感じる他にない、無気力感。
そんな二つが形も残らないくらい複雑に混ざり合い、出来上がったのがこの虚無感だった。
「ぁー」
悪魔のような呻き声を溢し、ぼんやりとした様子でみじろぎするハヤト。彼は微睡む意識の中、本能的に自分の置かれた状況を確認するべく、体を動かして意識の覚醒を促す。
もぞもぞ体を動かすと、衣擦れ音が鼓膜を小さく震わせた。同時に、柔らかい感触が肩から足の先まで覆い被さっている感覚を覚える。とても温かい感覚だった。
錆びついたように、思考が上手く回らない。寝起き直後のように、頭がぼーっとする。意識が朦朧とし、世界のピントが一向に合わなかった。
しかし、この世界に飛ばされてから過酷な状況下で鍛えられたのがハヤトという男。日々、命の奪い合いと言っても過言でない鍛錬を受けてきた彼の屈強な精神は、早くもそんな状況から抜け出して、
「———はっ」
言葉通りにはっとして、飛び込んできた息が喉に詰まるハヤト。カッと目を見開く彼の肢体がピクッと跳ねた瞬間、その脳裏に今に至るまでの記憶が断片的に駆け巡った。
アーラム村の住民たちとスバルの死に激昂し、ウルガルムを一匹残らず蹂躙。絶望して泣き崩れる最中、突然のテン死亡。
彼を愛する人たちの慟哭に打ちのめされた挙句、ベアトリスの哀願を振り切って一人、森の中へ。死ぬ方法を考えているうちに、何者かによって殺害。
そして、
「……戻ったのか」
次々とフラッシュバックする凄惨な光景が流れ終わると、ハヤトの意識は覚醒する。常軌を逸した地獄絵図——端的に言ってトラウマ級の経験を心が思い出し、眠気が一気に吹き飛んでいった。
戻ったと理解するのに時間を使わなかったのは、自分が殺されたことを瞬時に理解したから。ご丁寧に順を追って記憶が流れたおかげで、最後の記憶がしっかり死ぬ寸前のもので終わったのだ。
だから、自分がどうやって死んだのかもなんとなく理解した。
「首ぃ、刎ねられて死んだか」
曖昧な視界の中で捉えた、月光に照らされる首のない自分の姿。暗闇の中だと目立って見えたあれは、間違えなく自分のものだった。あの状況で見間違えることなどない。
恐らく、一度目の接触で首を深く切られでもしたか。それなら、違和感に思って触った手にべっとりとした液体が付着したのにも納得がいく。次いで、反応する暇もなく背後から首ちょんぱと。
いくらなんでも手際が良すぎる。こちらが違和感に気づいてから首を刎ねられる時間は多分、一秒もない。体感的には刹那もなかったが。
闇夜に紛れて殺害、まるで暗殺者のような殺し方だ。的確に急所を狙うところと一撃で首を刎ねたのも含めて、手慣れている感が凄まじい。
手際の良さからして、犯人の想像はつく。それ以前にハヤトの耳は、死の直前に犯人の声を記憶として保存していた。
それは、
「エルザだろうな、多分」
おっとりした柔らかな口調の、殺人鬼の声。
耳をねっとり舐めるように粘着質な声は、忘れたくても忘れられない。やろうと思えば、今すぐにでも頭の中で解像度百パーセントで再生できる。それほどまでに、あの声は心に深く根付くものだった。
思い出して鳥肌が波のように立つハヤト。ぞわぞわしたものが背筋を駆け上がる感覚に彼は思わず身震いする。勝手に固くなった身を「はぁ……」と吐息してほぐし、
「なんでいんだよ、あの野郎ォ。テメェなんざ、お呼びじゃねぇっての」
珍しく鬱屈そうな声色で苦情を垂れ、拒否の意を込めて首を横に振る。この状況、普段なら戦闘大好きな心がひどく躍る場面だが、今回はそういう気分にもならなかった。
本来、いるはずのない存在、というかいちゃいけない存在だと思う。あの女が一人いるだけで、二章突破の難易度が頭おかしい勢いで跳ね上がるのだから。
正面切って
そんな奴と、また戦うのか。前回に引き続き、命の奪い合いをしろと。
「いや、ほんと……なんで出てくんだよ」
スバルが性転換した時点で物語が原作通りに進行していないのは確定、だから出てきてしまったものは仕方ない——そう簡単に割り切れる相手ではない。
そこに二章の元凶であるメィリィも加わるとなると、悲惨すぎて頭が痛くなってくる。メィリィ単体の戦闘力は皆無だが、彼女自身が持つ力、魔獣を操れる力みたいなやつが厄介なのだ。
自分と同格かそれ以上の不死身の女、エルザ・グランヒルテ。魔獣を意のままに操る少女、メィリィ・ポートルート。どうやって化け物二人組を退けば———。
「……随分と弱気だな、俺」
戻った直後にも関わず意外にも冷静に、それでいて後ろ向きな考えをする自分に気づき、止まらない思考を止めるハヤトが「はっ」と嘲笑を声に出す。
原作が始まるのだとウキウキしていた頃の自分に今の姿を見せたら、確実に笑われるだろう。強敵が現れるのなら真っ向からねじ伏せてやればいい、なにを弱気になっているのだと。
全くその通りだと思う。これまでだってそうして乗り切ってきた。けれど、あんな出来事を経験して心が折られたのも事実で、
「流石に
——死に戻りの弊害。
例え世界のリセットに伴って全てが巻き戻ろうとも、心だけがリセットされない。感情だけが置いてけぼりにされて、そのまま丸ごと引き継がれる。
その事実に、極度に苦しめられていた。立ち上がる力を容易く奪われ、虚無感に体が重たく沈んでいく錯覚すら起こす。
「あーー、きっつ」
その一言に尽きる。
大切な人たちを失ったこと。ラムたちの泣き叫ぶ姿を見たこと。ベアトリスの信頼を裏切ったこと。なにより、親友を目の前で失ったこと。
人並み以上に情に厚いハヤトにとって、それは自死以上の苦痛に違いない。一夜にして全てを失った衝撃の余波は心に深い傷跡を残し、トラウマとして強く刻まれてしまった。
正直、立ち直れる気がしない。精神力には自信があったのだが、一度に重たい出来事が降りかかりすぎた。
ーーこの先、どうなるかマジで分かんないから、言えるうちに言っておくね。
ふと、テンの声がした。
世界の外側からではない声は、自分の中だけで反響した声、記憶の中の声。前回の世界で心に保管されたときの映像が、頭を通して目の奥で流れている。
それは、アーラム村に向かっていた途中のこと。物語が予測不可能な事態になっているから、感情だけで突っ走る自分のために彼が三つの約束事を取り付けてきたのだ。
その最後、約束は絶対に守ると言った自分に、彼はこう念押しした。
ーー俺が死んでもだよ?
「アイツ、自分が死ぬのが分かってたのか?」
彼は、この世界の残酷さを知っているから。
魔女教徒と戦い、テンが殺されかけたあの夜。彼があの日になにを経験したのかは分からない。けど、自分という人間の在り方を変える覚悟をさせられるほど、壮絶な経験をしたのは知ってる。
だからこそ、あんな発言が出たのかもしれない。自分が死ぬだなんて、ハヤトが考えもしなかったことをあの場で。
それなら、自分も同じはずじゃないのか。彼と似たような経験を、王都でしたはずじゃないのか。
「俺ぁ、弱ぇな」
静かな寝室に、低い声が響く。
自覚した言葉は誰にも拾われることなく、そのまま静寂に溶け込んでいった。
「ほんと、弱ぇよ」
覚悟が、違った。
たった一度の経験で覚悟を決めたテンと、決められなかったハヤト。自分と彼が対照的だとは分かっていたが、こんなところでもそのクオリティが光るとは皮肉なものだ。
強く決めた覚悟やら決意を容赦なくへし折ってくるのがこの世界——その意味を正しく理解できた気がする。今こうして実際に戻って、ようやくその実感が湧く。
世界は理不尽で、不条理で、こちらの都合なんてまるで考えてくれないのだと。気を抜けば大切な人が手から
こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎ、なにもしなければ世界は同じ未来を辿る。また、大切な人たちが、無惨に殺される。もう二度と見たくない光景が、作られる。
なにもしなければ。なにもしなければ、だ。
「——なら、弱いままで終わるわけにはいかねぇよな」
ボロボロに崩れ、塞ぎ込みそうなる心を叱咤し、ハヤトは上体を起こす。ここで初めて、自分が寝台の上に寝かされていたことを知った。けれどそれも一瞬の感情で、すぐさま別の感情に支配される。
この身を熱く燃やす真っ赤な感情が、心の奥底から噴き上がってくるのを感じる。打ち砕かれ、粉々に散って形を失った覚悟を、決意を、再構築するものが。
「弱いまま終わるなんざ、それこそ情けねぇもんな」
終わった世界で己の甘さを思い知った。その甘さのせいで何人もの罪のない人が犠牲になり、知らない間にぬるま湯に浸かっていたことを痛感させられた。
大切なものを失ってから初めて気づいた己の未熟さに、ハヤトはこれでもかと打ちのめされた。しかしその引き換えとして、自分の弱い部分をやっと自覚した。
「弱い
そのことをハヤトは知っている。自分にとって一番身近な人間が、それを証明し続けている。
己の弱さに絶望して心がへし折られ、もう二度と立ち上がれないかもしれない——そんな最悪の淵から泥臭く這い上がろうとする人間の努力する様に、ハヤトは教えられた。
それは終わりじゃない、始まりだと。
「そうだよな、テン」
情けないという言葉がいくつあっても足りないくらい情けなかったテンは、その自分を自覚してから一体なにをした、なにをしている。
変わろうともがき、克服しようと足掻き、行動し続けている。例えそれが半歩であったとしても、毎日少しずつ前に進んでいるだろう。決して、こんな風に虚無っていたわけではない。
ならば、いや、ならばこそ、今ここで自分が折れるわけにはいかない。彼が踏ん張っているのなら、自分だって踏ん張るのだ。
ソラノ・テン。その男にだけは、他の誰よりも負けたくないから。
「立てよ、カンザキ・ハヤト」
テンと立てた誓いを、契りを思い出せ。
あの日の感情を、想いを、心に灯せ。
「下を向くなよ、カンザキ・ハヤト」
未来は捻じ曲げるもの。
結末は覆すもの。
運命は変えるもの。
それが自分たち、
「真っ直ぐ前ぇ向いて、歯ぁ食いしばって、しっかり気張りやがれ」
そうでなければ、自分がここにいる意味がない。
原作が始まるまでの五ヶ月間、なんのために地獄のような鍛錬をしたのか、思い出せ。
なんのために強くなったのか、なんのために戦うのか、それを絶対に忘れるな。
「『みんな』を助けるためだろ」
それが、
「戻ってきた意味だろうが」
体に掛かる布団を思い切り剥ぎ、ハヤトは勢いに乗って立ち上がる。寝台から足を下ろし、二本の足で堂々と地に足をつけて胸を張り、折れ曲がる背筋を一直線に伸ばした。
マイナスなことばかり考えていても仕方ない。失敗を悔いるよりも、失敗をどう巻き返すかを考えるのが今の自分に求められる努力。
嘆き、悲しみ、弱腰になっていられる余裕などないのだから。
「しっかりしろよ、カンザキ・ハヤト。お前が頑張んなきゃどうしようもねぇだろ? お前がしゃんとしないでどうすんだよ」
喝を入れるつもりで頬を叩き、ハヤトは
足取りは軽快で、歩く姿は実に堂々としている。その瞳には、終わった世界で欠落したはずの生気の炎が轟々と音を立てて燃え盛っていた。
ひりつく頬の痛みを感じつつ、流した冷水を顔面にぶつける。両手で作った桶に限界まで冷水を溜め、溢れ出したところで一気に解き放つ。
冷水を浴びると突き刺すような痛みがして、ぼやけていた意識が完全に覚醒した。
「……ふぅ」
五度程度浴びたところで冷水を止め、手近に置いてあるタオルで余分な水を拭き取る。水と一緒に流した要らない感情の余韻もここで拭き取り、切り捨てる。
それから顔を上げて、正面、洗面台に取り付けられた鏡に映る自分を睨みつけ、
「いいか、カンザキ・ハヤト。お前が真に戦わなきゃいけねぇのは死に戻りでもねぇし、エルザたちでもねぇ。——てめぇ自身だ」
ゴンッと額を鏡に打ち付け、間近に迫った男の目を覗き込んで言った。
「てめぇにだけは絶対に負けんな。この理不尽な世界で挫けかけるてめぇに、意地でも負けんな」
それさえできれば、なんだってやれる気がするから。
どれだけ打ちのめされようが、心さえ折れなければなんとでもなる。そんな経験、これまでにも数えきれないくらいしてきた。その度に、こうして自分を奮い立たせた。
確かに敵は強大だ。不死身の女に魔獣を従える少女、こちら側の被害をゼロにするとなると攻略の難易度は想像を絶するだろう。スバルの信頼云々の話も加味すると、ここが一番の鬼門だと確信できる。
けど、怖くはない、自分一人で戦うわけじゃないから。一章と同じく頼りになる仲間がたくさんいるのに加えて、今回はテンという最高の味方もいるのだから。
「やってやろうぜ、カンザキ・ハヤト。お前はこんな程度で折れるような男じゃねぇはずだ。限界なんてねぇ、んなもんいくらでも越えてやるんだろ?」
死に戻りはチャンス、絶望必至の未来を覆すための力。無理矢理にでも前向きに捉えることができれば、この心も軽くなる。
予想外ではあったが、せっかく与えてくれたこの力、存分に利用してやろうじゃないか。なにを思って自分を巻き込んだのかは知らないが、使えるものはなんでも使うの精神だ。
決して、死を軽んじるわけではないが。
「うし! いける!」
そこまで考えて、ハヤトは気合いの声を上げた。声に出して言葉にすることで己に言い聞かせ、弱る心を奮い立たせる。
病気は気からとも言うように、何事においてもまずは気持ちからだ。気持ちが入らなければできるものもできないし、今の自分に足りないものは気持ちだと思った。
「なら、まずはこれからだな」
レムにかけられる呪術。魔獣のアーラム村襲撃。二章にはいなかったエルザの存在。テンの不可解な死。
色々と考えなければならないことはある。反省しなければならないこともある。
けれど一旦、それら全てを頭の片隅に置き、ハヤトは思い切り意気込む。思った通り、気持ちの切り替えをしようと思い立ち、歩き出す。
「一日の始まりは太陽の光を浴びることから、だよな。空気もどんよりしてっし、換気だ換気」
そうと決まれば早い。普段通りに一日を始めようとするハヤトは、カーテンを大袈裟に開けて部屋の窓を全開にした。
▲▽▲▽▲▽▲
「ぁッッ!」
目を開けたとき、テンは今にも死にそうな思いをしていた。
潰れた苦鳴が短く小さく弾け飛び、雷撃でも受けたような勢いで跳ねた体が、がばっと起き上がる。足にまとわりつく柔らかな布団を乱雑に蹴飛ばして剥ぎ、寝台から飛び降りる。
そこになにかがいるわけでも、あるわけでもない。太陽の光が遮られた薄暗い部屋にいるのはテン一人——にも関わらず彼は右手を左の腰、普段から刀の鞘を差している場所に添えて、周囲を見渡す。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
ひどく、取り出した様子だった。ギラリと光る眼光は化け物を前に怯えて威嚇するように尖り、小刻みに震える双眸でなにもない空間をひたすら睨んでいた。
左の腰に添えられた右手は無い刀の柄を探し回り、まるで過呼吸のように荒ぐ呼吸に肩が大きく上下している。構える体は外側からでもはっきり分かるほど震え、呼吸の度に喘鳴が漏れる。
悪夢を見て飛び起きた。今の彼の状態を言葉として表現するのなら、それが一番適していた。
「い、いま、おれ……ぁ? だって、しん……ぇ? はやと? なんで、さっきおれ……は?」
うわごとを呟き、錯乱した様子のテン。自分で言っててなにかを思い出したのだろう。目をかっ開く彼はそう言った直後、己の首に両手を当て、ぺたぺたと触り始めた。
存在を確かめるような、そんな手つきだ。その表情には不安や困惑、恐怖といった様々な感情が混沌として渦巻き、目の焦点がまるで定まっていない。
「脈……ある。生きてる。死んでない」
ペタペタすること十秒。満足したのか、今度は脈拍を測って一言。首で測ってもよく分からなかったから、心臓に手を当てて心臓の音を確認した。
結果として、人がなっちゃいけない心拍数になっていることが分かったテン。大太鼓を凄まじい速度で打ち鳴らすようなそれを振動として確認すると、次は呼吸を落ち着かせるべく深呼吸を開始。
それが三十秒ほど続けば、ある程度の落ち着きは取り戻す。
過呼吸気味な呼吸、焦点の合わぬ目、身震いする体。寝起き直後の衝動が全て静まったとき、テンは「マジ、で……?」と震える声で紡ぎ、
「戻っ………た?」
両手を顔に当て、今しがた発した言葉を受け入れられないと言わんばかりに、首を横に揺らすテン。整理した記憶を覗き見る彼は、顔を青くして「ははは」と空笑い。
「いくらなんでも冗談キツいよ」
言いながら、倒れ込むように顔面から布団へダイブ。心身を痛めつけた衝撃の余韻が尾を引く中、ぼふっと音を立てて受け止められた寝台の上で脱力する。
心の底から気が抜け、疲労困憊といった具合のテン。「はぁ……」と吐息混じりに低く唸る彼は、布団のシーツをぎゅっと握りしめて、
「一発目からこれかぁ。流石リゼロ、こんなのがあと何回も………」
途中で言葉を区切るテンは、その先を表情で語った。心の中では最後まで続いたそれに表情が曇り、ただでさえ青い顔色が更に悪くなる。
寝台の上でバタ足をする両足が暴れ回り、めちゃくちゃに捩る体がくねくねと踊り始める。発作でも起こしたような勢いで顔を枕の中に埋めて「うーー」と唸り、
「あーー、しんど」
顔を横に向け、片頬を枕にくっつけて疲労の声を形にした。それまで動かしていたものを全て止め、完全に脱力する。以降、目と口を閉じるテンは言葉を発さなくなった。
見慣れないクルシュ邸の寝室に、不気味な沈黙が満ちていく。聞こえるのは不規則に鳴く小鳥の声と、皺ができた布団の上で倒れるテンの呼吸音のみ。
割と寂しがり屋なテン。クルシュ邸に入院した日の夜の時点で既に弱ホームシック状態であった彼にとって、その静寂はかなりダメージがあったらしく、
「やばぁ、レムに会いてぇぇ」
抱いた枕に顔を深々と埋めるテンが、情けない態度で女々しく呟く。この状況、偶然なことにロズワール邸のテンの自室で勝手に眠るレムとぴったり重なった。
離れていても思うことは同じなテンとレム。今のところレムがテンに依存する関係なそれが、徐々にテンもレムに依存して共依存になりつつあるだなんてこと、お互いに知る由もない。
レムに会いたい、その言葉に含まれた意味合いが分かるのは言った本人だけ。ホームシックからくるものなのか、それ以外のものからくるものなのか、怯えた子どものように僅かに震える理由は———。
「……顔、洗お」
額から冷たい汗が垂れてくるのを感じ、枕を離してテンは起き上がる。流れるように寝台から足を下ろし、いつの間にか床に落ちていた掛け布団を拾い上げて寝台に投げ、部屋の中にある洗面所へ。
片手にタオルを持ち、水の魔鉱石にマナで働きかけて冷水を流す。蛇口から勢いよく水の流れる音がして、手で桶を作るのが面倒だったから洗面台の中に頭から突っ込む。
後頭部に当たる水圧を感じた直後、髪の中に浸透する冷水が頭の輪郭をなぞるようにして顔に流れ、鼻先や顎の先からポタポタと滴り落ち始めた。
「——よし」
顔どころか頭から冷水を被り、あっという間にびしょびしょになったテン。なにもよろしくない状態を作り出した彼は、頭のネジがイカれたのだろう。否、元からである。
水を止めて顔を上げ、頭部の様々な箇所から滴り落ちる水滴に服すらも濡れていくのを見ながら、テンは手に持ったタオルで顔や頭をがしがし拭く。
そうやって余分な水分を適当に拭き取り、「あーー」と声を出しながら髪を全て後ろに流した。髪型をオールバック、なぜか故郷の友人のほとんどから似合うと評されたそれにすると、
「とりあえず、太陽の光でも浴びよう。気持ち切り替えなきゃ」
色々と考えなければならないことはある。反省しなければならないこともある。
けれど一旦、それら全てを頭の片隅に置き、テンは一つのことに意識を向けた。思った通り、気持ちの切り替えをしようと思い立ち、歩き出す。
「落ち着け。焦っても仕方ないからね」
そうと決まれば早い。普段通りに一日を始めようとするテンは、カーテンを静かに開けて部屋の窓を全開にした。
▲▽▲▽▲▽▲
——奇しくも、それは同時に起こっていた。
「おお、良い天気だぜ」
「快晴快晴。髪が良い感じに乾くよ」
全く違う場所にいるはずのハヤトとテンは、同じ空をそれぞれの部屋の窓から見上げながら、あたかも一緒にいるような言葉を口にする。
この日だけは珍しく早く起きたハヤトと、普段から早起きなテン。
そんな二人が、同時刻に、同じ思考で、同じタイミングで、空を見上げる、という偶然が重なったことでこの光景は世界で成立して、
「すぅーー」
「すぅーー」
自然と共鳴反応を起こした二人が両腕を上げて体を伸ばし、同時に大きく息を吸って、
「はぁぁ」
「はぁぁ」
上げた腕を下げて伸ばした体を縮めながら、同時に大きく息を吐く。そうして体の中にある汚れた空気を外に吐き出し、新鮮な空気を取り込んで換気完了。
死に戻ったことが本編開始の合図——故に、ここからが物語の本番なのだと気を引き締めて、
「今度こそ、
「ともかく、まずは状況を整理しないと」
同じ目の色をした男二人が、それぞれの意志に従って動き始めたのだった。
二章『真実の代償』、本編開幕ぅ!
(開幕までに33話もかかってるってマジ……?)