少しでも望む未来へ   作:ノラン

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ハヤトの大メンタルケア回。
つまりベアトリス回。
つまりオリ主×ベアトリス回。

切りが悪く、本来なら二話に分けるものを一話にまとめたので少し長め。目が疲れない程度に読んでくださいね。




言えなかった言葉

 

 

ベアトリスが住む禁書庫に行く方法は、大きく分けて二つ。屋敷中の扉を総当たりするか、彼女に招かれること。

 

禁書庫自体が常に屋敷のどこかの扉と繋がっている性質上、こちら側から向こう側に行くとなると、彼女から招かれられない限りは前者の手法で辿り着くしかないが、明らかに効率が悪い。

 

かと言って彼女が他者を招く機会も極めて稀で、そのケースは限りなくゼロに等しい。そのため、常人ならば禁書庫に辿り着くことはおろか、ベアトリスと会うことすら困難である。

 

 ただ一人、ハヤトだけを除いて。

 

 

「ーーーー」

 

 

静かな廊下で一人、ハヤトは穏やかな速度で歩いていた。ポケットに手を突っ込み、窓の外から見える外の景色を眺めながら、その場所に向かって、無言で歩き続ける。

 

場所は一階から移って二階、東棟の廊下。ハヤトの部屋がある二階の西棟とは真逆に位置する場所。

 

全三階層から成るロズワール邸。その二階の階段を抜けた先には大きな踊り場があり、踊り場から見て右に続く長い廊下が東棟、左に続く長い廊下が西棟といった具合。三階も同様。

 

恐ろしく長い廊下には対面する部屋の扉が等間隔で設置されており、その数は左右合わせて軽く五十を越える。一体、それほど多くの部屋を作ってどうするのかは謎。

 

ただ、これだけの数があると禁書庫を探すために総当たりをするのがバカらしく思えてくるのは確かなことだ。

 

 

「今日はそこか」

 

 

にもかかわらず、ハヤトの足には一切の迷いがない。そう呟いた彼の視線は一つの扉に集中しており、なんの変哲もない普通の扉に近づいていた。

 

根拠も理由もない、けど確信はあった。『そこにいる』というハヤトにしか分からない感覚が、言葉にできない不思議な感覚が、その扉からは薄く漏れているのだと。

 

禁書庫の気配と言うべきだろうか、ベアトリスの気配と表現してもいい。普通の人間には決して理解できない気配を扉越しに察知し、ハヤトを誘っている。

 

断るわけもない誘いに乗り、扉にたどり着いたハヤトはいつも通りドアノブに手をかけ、

 

 

「………なにビビってんだよ、しっかりしろ」

 

 

扉を開ける寸前、僅かに躊躇した自分を強く咎める。初めてベアトリスと会うことに戸惑った心を容赦なくブン殴り、弱音を吐きたがる情けなさを刹那で捨てた。

 

怖がっている時間も、下を向いている暇もない。そんな自分なんて、この世界には必要ない。男なら男らしく胸を張って堂々としているべきだ。

 

一息つき、精神を整える。与えられた試練と向き合うだけの覚悟を内に秘め、ハヤトは扉を開けた。

 

 

「よぉ、ベアトリスぅ。偶には朝早くから来てやったが、起きてっかー」

 

 

扉を開けたハヤトの視界に飛び込むのは、いつもとなにも変わらない禁書庫。その管理人もいつも通りの体勢——扉を開けた直線上、三脚に座って膝に乗せた本を読んでいるところだ。

 

この時間から来てもベアトリスは変わりない。ひょっとしたら寝ているのかと思ったが、声に反応してこちらを見てくる彼女の姿にそんな考えも散る。

 

寝ていたら寝起きドッキリでもしようかと思ったのに残念だ。どの時間帯に行っても大体が同じ体勢な彼女にハヤトは笑いかけながら、

 

 

「お前、もうその体勢なのかよ。朝から早いな。まだ早朝の五時だぜ? いくら良い子でもまだ寝てる時間だぞ」

 

「ベティーをガキ扱いすんじゃないのよ。少なくともお前が思ってるよりはずっと大人かしら」

 

「見た目幼女なお前が言っても説得力ねぇぞ」

 

「朝っぱらからぶっ飛ばされたいのかしら」

 

 

扉を閉め、くつくつと笑いながら歩み寄ってくるハヤトをベアトリスはジト目で睨む。が、「悪い悪い」と適当に謝られるだけで全く効果はない。否、本気じゃないから当然だ。

 

こうした軽口から会話が始まるのはお決まりのパターン。だからこれは、二人にとって挨拶の一種。お互いにそれを理解しているから、言葉に本気さはない。

 

顔を上げて読んでいた本をパタンと閉じ、視線をハヤトに向けるベアトリス。——たったこれだけの動作で関係値の高さを無意識に示しながら、

 

 

「お前こそ朝から早い……早いなんてもんじゃないかしら。陽日の六時にもなってない、いつものお前ならまだ眠りこけてるはずなのよ」

 

「そのはずなんだが、なんでか目ぇ覚めたんだよ。んで、二度寝すんのもアレだから、お前に朝の挨拶でもしに来たってわけだ。起きてなかったら起こそうかと思ってたしな」

 

「誰も経緯なんて聞いてないし、頼んじゃいないのよ。お前に起こされなくてもベティーは規則正しく起きれるかしら、いつもイカれ男に起こされるお前と違って」

 

「規則正しく起きて朝方の五時から本を読んでるやつがあるか。お前、マジで何時に起きて何時に寝てんだよ」

 

 

どちらも自分のペースを崩すつもりはないけれど、自分のペースを相手に強要することもしない。

 

相手の声を全て聞いてから言葉を繋ぐハヤトはベアトリスとそんな風に言葉を交わしつつ、ゆっくり距離を縮めていく。脳裏に過ぎる最悪の光景に蓋をし、感情を押し殺して。

 

膝に乗っけた本の上に手を置くベアトリス。ハヤトはその本に目を向けながら、

 

 

「いつもいつも同じ体勢で本ばっかり読んでてよ、飽きたりしねぇのか? もっと体を動かせ、体を。そんなんだから()っこいままなんだぞ、多分」

 

「知識は力、何事においても無知な人間ほど怖いものはないのよ。それを理解していないお前の頭はお気楽でいいかしら。そもそもベティーは精霊、成長とは無縁なのよ」

 

「つーことは、嫌がろうにもずっとそのままなんだな……。いや、待てよ、それはそれでありか?」

 

 

抱きしめたくなる愛くるしさが永遠に保たれるのならそれも良し。身長云々の話は仕方ないことではあるが、気にしなければいいだけ。ありのままの自分を受け入れ、大切にするのも一つの選択肢だ。

 

顎に手を当て、ニヤニヤしながらベアトリスを眺めるハヤト。その生温かい目にベアトリスはみじろぎ、いかにも嫌そうな顔をして、

 

 

「なにを考えているのか知らないけど、とりあえずその目をやめるかしら。背中がむずむずするのよ」

 

「なんでだよ、別にいいじゃねぇか。今のお前のままでもいいと思えたぜ、可愛いし」

 

「かわっ……! お前……っ」

 

 

前後の繋がりが微妙に分かりずらい言葉を受け、不意打ちに息が詰まるベアトリス。咄嗟に言い返そうとしても詰まった息のせいで声が喉に渋滞し、言葉は出てこなかった。

 

驚きに目が見開かれ、頬の下から薄い赤色が浮かび上がるベアトリス。耐性の無さすぎる彼女の反応にハヤトは満足げに頬を緩め、

 

 

「というわけで、ほれ、こい。マナ徴収の時間だぞ。たっぷり食え」

 

「なにが、というわけで、かしら! 地竜の餌やり感覚で言ってんじゃないのよ! お前、さっきっから小っさいだの可愛いだの、本当にいい加減にするかしら!」

 

 

詰まった声を吐き出してがなるベアトリスが顔を赤くし、ハヤトに突き向けた指をブンブン振り回す。羞恥の感情を怒りに変換し、勢いに任せて残さず言い切った。

 

対するハヤトはベアトリスに反して冷静だ。彼女の前で膝立ちになり、両腕を広げて胸元を全開放。いつもの体勢で待機し、目で「早く来い」と語る。

 

表情は相変わらずのニヤニヤで、ベアトリスには不快でしかない——不快でしかないはずなのに、なぜかその顔から目が離せないのはどうして。

 

 

「ーー? どうした、来ねぇのか?」

 

「お前、絶対に分かっててやったかしら」

 

「なにが、どれが?」

 

「なにもかも、全部なのよ」

 

 

いつもならすぐ飛び込んでくるはずのベアトリスに小首を傾げ、不思議そうな顔をするハヤト。そのふざけた顔面をぶん殴ってやりたい衝動を宥めつつ、ベアトリスは膝に乗せる本を真横の机に置く。

 

ひょいと軽く三脚から飛び降りると、服についた埃をぱっぱと払う。それから胸に溜まった熱に「ふぅ」と一息つき、

 

 

「ムカつくから今日はいつもより長く多く吸ってやるかしら。干からびても文句は聞かんのよ」

 

 

そう宣言して、正面にある胸の中に入り込む。小さな両腕をいっぱいに使って背を抱き、肩に顎を乗せる。もぞもぞして落ち着きやすい体勢を整えれば、特等席の独占は完成だ。

 

しばらくしないうちにハヤトからも優しく抱きしめられ、背中に触れる逞しい両腕の感覚に体がピクッと跳ねる。そのまま体を胸板に押し付けられ、体と体の間隔がゼロになった。

 

一瞬、恍惚とした表情が溢れるベアトリス。頬の緩みを感じた彼女は頑張って切り替える。背に回した手でハヤトの服をきゅっと握りしめ、マナの徴収を始める。

 

ハヤトに触れる手の平から、ハヤトの温かいものが自分のなかに流れ込んでくる感覚——一ヶ月以上続けているのに全く慣れない。

 

流れ込む瞬間、形容し難い興奮に襲われ、ぞくぞくして体が震えかける。服を握っているのは、このぞくぞくに抗うためだ。

 

 

「一応聞いておくが、どれくらい続けるつもりだ?」

 

「普段の倍かしら」

 

「殺す気か」

 

 

反射的に声を突っ込んだハヤトが、そう言って息を吹き出しながら失笑。いつも通りベアトリスの表情が溶け始めたことには特に触れず、すぐには離してくれないことを悟る。

 

ただでさえ「あと五分」を繰り返して三十分は拘束されるのに、今回はその倍。一時間も拘束されるとなると、流石のハヤトも冗談抜きで干からびる気がしてきた。

 

膝立ちの体勢も長く続けると膝が痛くなってくるのだが、言ったところで無駄だろう。「お前には徴収を受ける責任があるかしら」とか言って離してくれないに決まっている。

 

 

「まぁ、仕事が始まるまでに離してくれりゃいい。どうせすることもねぇし」

 

「その言葉、忘れんじゃないのよ」

 

「吐いた唾は飲まねぇよ」

 

「吐いた唾は飲むものじゃないかしら」

 

「口にした言葉は撤回しない、ってことだよ」

 

 

突っかかってくるベアトリスに丁寧に説明しながら、ハヤトは横目で彼女の様子を窺う。既に柔らかくなりつつある声色と同様、見えた幼女の横顔も情けなく弛緩していた。

 

スバルが心配だから、できることなら三十分程度で離してほしいと思わなくもない。けど、この顔を見せられて断れるほど薄情な男ではないつもりだし、ハヤトは彼女の心のケアも必要だと覚えている。

 

スバルが来たことで精神的な負担がかかるであろう少女一人と幼女一人、レムとベアトリス。前者はテンに任せたから、後者は自分がなんとかするのだ。

 

前回の世界で絶望を味わった、ハヤト自身の心のケアも含めて。

 

 

「昨日の傷は癒えたかしら」

 

 

ベアトリスと言葉を交わして誤魔化しながら、心を苛む激痛にちょっとずつ慣れようとするハヤト。彼は、不意に昨日の話を持ち出されると「昨日の傷?」と言葉を真似する声が上がる。

 

回らない頭を無理やり動かし、ベアトリスの言う『昨日の傷』がなんなのか適当に見当をつけ、

 

 

「王都でのやつか?」

 

「それ以外にないのよ」

 

 

見当を肯定するベアトリスが小さく頷き、正面を向くハヤトに目を向ける。その仕草に死に戻りのスタート地点、セーブポイントがどこなのかはっきりと理解した。

 

思えばレムも、「昨日は大変だったとハヤト君から聞いた」と言っていたかもしれない。感情に揉みくちゃにされるのに忙しすぎて、それどころではなかったから素通りしていた。

 

リスタート地点は二章開始、一日目。一章が終わった翌日からということになる。つまり、この体はエルザとの激闘を終えたばかりの体で、その傷の心配をされたと思っていい。

 

 

「それなら心配はいらねぇ、ベアトリスのお陰で傷も治ってるしな。この通り、元気だぜ」

 

「そう……。ならいいのよ」

 

 

元気さをアピールするために歯を見せて笑うハヤトに、ベアトリスはそっけない。聞きたいことだけ聞くと視線を外し、マナ徴収に意識を集めてしまう。

 

心配していることを隠しているのか、どうなのか。どちらにせよ、なにかと自分の気持ちを隠したがるツンデレだから無理やり暴くのは無粋だ。

 

王都に出発する前、傷付いたら自分が癒すと言ってくれた思いやりのあるベアトリスに、ハヤトは「へへっ」と口角を釣り上げて、

 

 

「いつも気にかけてくれてありがとな」

 

「死なれちゃ困るだけかしら。お前が死んだら、ベティーは誰からマナを徴収するのよ」

 

 

取ってつけたような理由を述べ、澄ました声のベアトリスがハヤトから顔を背ける。建前が建前であるとバレないように、そうやって表情を隠す。

 

だから彼女は、ハヤトの笑顔が凍りつき、陰ったことには気づけなかった。

 

 

「………死なれちゃ困る、か」

 

 

少しの沈黙を挟んで、吐息混じりにハヤトは呟く。寸前の笑顔が崩壊し、その裏側からは重苦しい表情が露出し、心の痛みに歪んでいるのが見える。

 

 ——死。

 

今のハヤトにとって、その単語は地雷のようなものだった。蓋をした容器、絶望という感情がぎゅうぎゅうに箱詰めされたそれを容易く破壊してしまう、特大の。

 

感情を溜め込む器が壊れれば、濁流が如く心に絶望が流れ込む。心に流れ込めば途端に気が沈み始め、

 

 

「そう、だよな。死なれちゃ……困るよな。死んじまったら、そこで終わりだもんな」

 

「急になにを……」

 

 

ハヤトの低く沈む声、その異質な声音を耳にし、ベアトリスが背けた顔をハヤトに向ける。怪訝な目をする彼女はその先を続けようとして、言葉を失った。

 

お互い抱き合っている状況、これほど近い距離にいて今の言葉がピンポイントで聞こえないなんて、そんな都合のいい話はない。

 

だからこそ、ベアトリスは言葉を失った。意味の分からない言葉を聞き、次いでハヤトの暗い表情を見てしまったから。

 

 

「お前……」

 

 

神妙な顔つきになり、ベアトリスはハヤトの顔を観察する。両腕の力を抜いて体を離し、彼女はハヤトの体から僅かに離れようとする。自然、意図を汲むハヤトも抱擁を解き、二人の間に空白が生まれた。

 

横顔ではなく、真正面からハヤトの顔を見つめるベアトリス。当然、ハヤトもまたベアトリスを真正面から見つめる形になり、二人の視線が至近距離で絡まった。

 

 

「らしくない顔かしら。なにがあったのよ」

 

「まぁ……色々とな。変な顔しちまって悪い」

 

 

耐えきれず、隠しきれなかった苦痛の表情に目を細め、寄り添おうとしてくるベアトリス。躊躇のない手の差し伸べられ方をされたハヤトは、その優しさに全身を滅多刺しにされる思いだった。

 

前回の世界、ハヤトはベアトリスを見捨てた。世界をやり直すために彼女の想いを振り切り、自分一人で全てを終わらせようとした。

 

「おいていかないで」と泣きじゃくり、「ひとりにしないで」と必死に縋りついてくるベアトリスを放る。

 

一体、それがどれだけハヤトを苦しめたか、ハヤト自身も分からない。分かりたくない。

 

 

 ーー嫌ぁ、絶対に嫌なのよ! もぅ、もうあんな思いしたくないのよ! ひとりぼっちは……い、いや、いやかしらぁ……!

 

 ーーだめかしらぁ、ハヤトぉ……だめぇ。ベティーをお、おいていか、ないでぇ……やめてぇ……。

 

 

今さっきレムと会った時にも起きた現象が、再びハヤトに襲来していた。トラウマが呼び起こされ、泣き叫ぶベアトリスの姿が情け容赦なく蘇っていく。

 

ベアトリスを揶揄い、会話を楽しんで誤魔化していた感情が、ここぞとばかりに心の中で暴れ回る。まるで心を痛めつけて喜ぶように、人一倍人情深いハヤトを殺すように。

 

それは、ハヤトにとって一つのスイッチのようなもので、

 

 

「あぁ……やっぱダメかよ、クソが」

 

「は?」

 

 

言葉を理解できなかったベアトリスが短く喉を鳴らす。理由を聞かれるよりも先に、暴言を吐くハヤトは行動に出ていた。

 

 

「ベアトリス」

 

「なにかしら」

 

「ちょっと悪い」

 

 

反応を待たずに、ハヤトは動く。ベアトリスを包む両腕で小柄な体を抱き寄せ、「わっ」と声を漏らす彼女の頭を胸に沈めた。

 

有無も言わさず、抱きしめる。こちらを見上げようとする頭、その後頭部に手を添えて額を胸に押し付け、この表情を絶対に見られないようにした。

 

 ——震える下唇を噛み締め、涙を堪える表情が。

 

 

「ベアトリス、今から言うことは全部、俺の独り言だ、大きすぎる独り言だ。だから無視してくれ」

 

 

震えて怯える喉に、手に、足に、心に、己を形作る全てにありったけの力を込め、ハヤトは無理すぎるお願いをベアトリスに押し付ける。

 

言うなら今しかないと思った。心に絶望が流れ込んだこのタイミングじゃないと、言えない気がした。

 

果たして、彼女は許してくれるだろうか。こんなお願いをするのは初めてで、なにかしらの疑問を投げかけて———。

 

 

「分かったのよ」

 

 

 一言。

 それだけだった。

 

なんの脈絡もない言動に、ベアトリスは一切狼狽えていなかった。無茶苦茶なお願いを即座に飲み、静かに頷く。

 

急な出来事に困惑したはずだ。なにがあったのかと聞きたいこともあるだろう。意味不明で不審がられてもおかしくない。しかしそれらを全部引き下げ、ハヤトを一番に優先してくれている。

 

なにも言わない優しさが身に染みて、彼女の頼もしさを改めて感じるハヤト。吐息する彼は脳裏に映るベアトリス——滂沱の涙を流すベアトリスに向かって言った。

 

 

「ごめんな、ベアトリス。お前のこと置いて行って、本当にごめんな。そうするしかなかった……なんて言い訳はしねぇ。ごめん……ごめんな」

 

 

震える唇で感情を言葉にし、絞り出すように想いを紡ぐ。

 

後悔と自責からくる謝罪の声は悲しみに満ちていて、身に覚えのない事を語られるベアトリスには、とてもハヤトのものとは思えなかった。

 

 

「俺がもっとしっかりしてりゃ、あんなことにもならなかったのによ。情けねぇよな。ここんとこ自分の情けなさを痛感するばっかりだよ」

 

 

どれだけ世界に甘えていたか、残酷な現実を叩きつけられ、大切な存在を失ってようやく自覚した。それが一番の罪であり、取り返しのつかない事態を招いた原因であることも。

 

一生を使っても償える罪ではない、だってそれはもう取り返せないから。真に贖罪すべき人たち——前の世界の人たちにはもう、どんな方法を使っても会えないから。

 

 

「だから、もうそんなことは起きさせねぇ。俺が全部助けるから。……もう、お前を一人にしねぇから、置いて行ったりしねぇから。お前のことは、二度と泣かせたりしねぇ。約束する」

 

 

「おいていかないで」と言ってくれた。

「ひとりにしないで」と言ってくれた。

 

ずっと言えなかった、言いたくても言えなかった言葉を、やっと言ってくれるようになった。

 

なのにその想いを振り切って、結局は彼女の言った通り彼女を置いて彼女の前から永遠に消えた。せっかく心を全て開いてくれたのに、見捨てた。

 

拒絶してはいけなかった。あの手を振り払い、断ち切ってはいけなかった。分かっていた。分かっていても、そうするしかないのだと自分を納得させるしか方法がなかった。

 

 

「約束するから……。ごめん、ごめんな。ごめんな、ベアトリス」

 

 

そこから先の言葉が出てこず、ハヤトはひたすら謝罪を吐き出す。一度でも溢れれば止まらない涙のように。この世界のベアトリスを抱きしめながら、記憶の中のベアトリスに。

 

言ったところで意味はない。だからこれは自己満足なんだろうなとハヤトは思う。この世界のベアトリスに、前の世界のベアトリスを重ねて、感情を発散しようとしているだけだ。

 

しなければならないと思った。胸に積もる感情を発散して、区切りをつけなければずっと引きずると思った。その方法がこれとは、我ながら自己中だと思うけれど。

 

 

「——一つ、訂正するかしら」

 

 

ありったけの想いを吐き出し、最終的に謝ることしかできなくなってしまったハヤト。一生の傷が心に刻まれた彼の独白にベアトリスが一番に放ったのは、そんな言葉だった。

 

涙を堪え、ハヤトは小さな音を立てて鼻を啜る。理解不能な行動に対する反応を受けられるだけの余裕を作り、次なる言葉を待った。

 

胸に押さえつけられ、顔を上げられないベアトリス。彼女はハヤトの顔を見れないことに若干のもどかしさを覚えつつ、

 

 

「お前の独り言を独り言にするのは難しい。流石に無理があるかしら。独り言にしては長すぎるし、内容が濃すぎる。大体、ベティーの名前を出したくせに無視しろは無理なのよ。だから……」

 

 

言葉を切り、ベアトリスは一呼吸分の余白を作る。

 

続きを気にするハヤトの「だから?」と言う声が頭上から落ちてくるのを耳にしながら、彼女は「ふっ」と唇を綻ばせて、

 

 

「聞くだけ聞いて、終わりにしてやるのよ」

 

「それでいいのか?」

 

「独り言にしようとしてる時点で、ベティーに詳しく訊かれたくないのは分かったかしら。それなら訊かない。お前が聞かれたくないことを無理やり聞き出すほど、ベティーは無粋じゃないかしら」

 

「………そうか」

 

 

察しのいいベアトリスの気遣いに低い声を鳴らし、ハヤトは目を瞑って深呼吸。淡々とした声の羅列に骨抜きにされるほどの衝撃を浴びせられ、情けない声が溢れる直前で口を閉じた。

 

前の世界でも、ベアトリスに似たようなことを言われた記憶がある。それで、今のような弱音を吐きたくなる感情に襲われていた。

 

訊かれたくないなら訊かない、こちらが話してくれるまで待ってる——簡単に言えることじゃない。

 

今の独白を聞いた後なら尚更、なにがあったのかと気になって仕方がないはずだ。

 

 

「今の独り言にとやかく言われたくないなら、俺の話を聞いてくれ、くらいでいいのよ。回りくどいのはお前らしくないかしら」

 

 

本気の声色だった。芯のある声で断言してくる彼女に軽口を叩く冗談さはなく、真剣そのものだ。

 

強く身を捩り、拘束から抜け出そうとするベアトリス。これまでのとは力のかけ方が違う動き方にハヤトが素直に引き下がると、彼女の体がすぽっと抜け出た。

 

視界が開け、眼前にいるハヤト。ベアトリスはその両肩にそっと手を添え、ハヤトの目を一心に見ながら、

 

 

「お前に遠慮される筋合いなんてないのよ」

 

「……やっぱ、お前はお前だな」

 

 

諦観の笑みを薄く浮かべたハヤトの体から、ふっと力が抜ける。膝が折れ曲がり、保っていた体勢が一気に崩れた。

 

身長の都合上、普通に立つベアトリスの前でハヤトが膝立ちをすると二人の頭の高さが合う。マナ徴収の際にハヤトが膝立ちをするのは、そういった理由からだ。

 

その均衡が崩れた今、ハヤトの頭がベアトリスの胸あたりにまで下がり、ベアトリスがハヤトを見下ろす絵面が完成する。

 

珍しい光景になにか言いかけ、けれど引っ込めるベアトリス。開いた口を閉じる彼女はその場で腰を下ろし、目線の高さをハヤトに合わせて、

 

 

「さっきの独白、ベティーの中では悪い夢でも見たってことにしておいてやるのよ」

 

「ゆめ? ゆめ……ああ、あぁ、そうかもな。夢だ。あんなの、夢に決まってんだ」

 

 

うわごとのような弱々しさで繰り返し、ぼんやりした様子で天井を見上げるハヤト。その瞳には濃い絶望と淡い希望の二色がぐちゃぐちゃに混ざり合い、刹那で希望が消える。

 

本気でそう思えたなら、どれだけ安らかになれるのだろう。大切な人たちが一度に死に、慟哭が木霊し続けた夜——悪夢と割り切れるのなら割り切りたかった。

 

しかし、割り切れないのが現実。向き合っていくしかないことなんて、頭ではとっくに理解している。

 

 

「なぁ、ベアトリス。お前は悪夢を見ることってあるか。精霊のお前でも寝てるときに魘されることって、あるのか?」

 

 

なにとなしに聞き、ハヤトはベアトリスと目を合わせる。蝶を宿す双眸が真摯に向き合ってくれているのが見えて、わけのわからない安心感が心を包み込んでいった。

 

身の覚えのない謝罪を受けても否定せず、黙って傾聴していたベアトリス。考える時間を作る彼女は数秒だけ沈黙すると、

 

 

「無いと言えば嘘になる。でも、最近はないのよ」

 

「なんで最近はない………ぁ」

 

 

素朴な疑問を重ねようとした瞬間、声が途切れる。悪夢が解消した理由を聞くはずの声は両者の鼓膜を叩かず、代わりにハヤトの口から乾いた息が溢れた。

 

数瞬もせずハヤトの視界が真っ暗に閉じ、直後に温かい感触が顔面に広がっていく。小さな両腕が首に回される感覚がして、左右から頭を包み込む両手にぐいっと引き寄せられる。

 

 

「なに、し、てんだ?」

 

「ーーーー」

 

「ベ、アトリ、ス?」

 

 

予期していなかった行動の意図が掴めず、歯切れの悪い言葉を発し、呆気にとられるハヤト。先程とは真逆、ベアトリスの胸に頭を抱かれて、彼の頭は端から端まで白く塗りつぶされた。

 

額を胸に擦りながら、ハヤトは顔を上げる。ベアトリスの真意を知りたくて、胸の中から彼女の表情を見て、

 

 

「ーーーー」

 

 

 言葉が、消えた。

 

物言わぬベアトリスと至近距離で目が合った瞬間、ハヤトの呼吸が止まる。すぐそこにいるベアトリスの表情に目が釘付けにされ、考える力が根こそぎ奪われてしまった。

 

あまりにも優しすぎる、微笑みだった。こちらを見下ろす笑みは赤子を抱く慈母のようで、慈愛に満ち溢れたそれは、出会ってから初めて見せたもの。

 

心を抉るように刻まれた一生の傷、跡になるには時間がかかる傷口に、贈られる笑みが流れ込んでいく。傷口から漏れ出した気力を補うように、覚悟と決意で誤魔化した絶望を浄化するように。

 

 

「ーーーー」

 

 

表情だけで全てを語るベアトリスが、笑み以上に優しい力でハヤトの頭を胸に沈める。視界が再び暗転したかと思えば、自然な動作で後頭部を撫でられた。

 

ちょっと頭を撫でてやれば、びっくりして頬を赤らめる女の子だったはずだ。可愛いの一言に敏感に反応して、わちゃわちゃ騒ぐ分かりやすい女の子だったはずだ。

 

なのに、抱き寄せる両腕に躊躇はなく、頭を撫でる手に迷いはない。そうすることが当然であるかのように、何度も、何度も、際限なく撫でられる。

 

 

「ーーーー」

 

 

だらりと垂れ下がる両腕、抵抗しなくなったハヤトに微笑みかけ、ベアトリスは無言で安らぎを贈り続ける。それは、終わりのない愛情の他にない。

 

独白の間、埋められた胸の中で、ハヤトの心臓の音が加速していくのをずっと感じていた。目を瞑って声だけに意識を注いでいると、その音が悲痛な叫び声に聞こえた気がした。

 

なにがあったのかは分からない。けど、なにかあったのは分かった。それが彼をひどく苦しめていることも、漠然とだけど理解した。

 

カンザキ・ハヤトという男は、基本的に弱みを決して人には見せない。相手が親友だとしても、絶対に見せたがらない。そういう不器用な生き方しかできない。

 

それなら、ベアトリスにできることは無言で抱きしめることだけだった。

 

なにも言わず、想いを受け止める。独白の中にあった確かな弱音を、受け入れる。言葉が無くても自分たちは心を通わせられると、信じているから。

 

 

「悪夢を見なくなった理由、分かったかしら?」

 

 

しばらくして口を開き、ベアトリスは手を止めないまま聞いた。

 

自分しか——自分だけしか見ることのできないハヤトの姿。ひょっとしたら二度と見れないかもしれない姿をしっかり目に焼き付ける彼女に、ハヤトは「ああ」と頷き、

 

 

「なんとなく、だけどな」

 

 

深く息を吸い、深く吐くハヤト。胸に溜まったものを残らず吐き出す彼は、そう言って頬を僅かに緩ませる。気が抜けたような、思わずといった緩み方。

 

こうしてもらって、情けないなと思う気持ちはあった。ハヤトが思い描く理想の男というのは、絶対に弱音は見せず常に堂々とし、絶望しても歯を食いしばって立ち向かっていくものだから。

 

実際、そうしようとした。完膚なきまでにへし折られた心を無理やり立ち上がらせ、動かない体に喝を入れて頑張っていこうとした。俯きかける頭を上げ、前を向いて歩もうとした。

 

その結果が今。見事に躓き、前の世界との区切りをつけたことでベアトリスに心労を見抜かれ、頭を撫でられている。

 

 

「あんまり、こうはなりたくなかったんだけどな。誰かに……というよりも女の子に励まされるのが俺としちゃ、嫌だからよ」

 

「それを言うなら、お前の親友はどうなるのよ」

 

「だから俺は、ちょっと前のアイツの、そういうところが大嫌いだったんだよ。自分の力だけで立ち上がれねぇのか、って思ったことだってあるぞ。情けねぇヤツだなって」

 

 

初めて聞いた辛口な意見に「へぇ」と息を溢し、ベアトリスが意外そうな顔をする。大嫌いとまで言わせるテンの情けなさと、割と辛辣な感情を抱いていたハヤトに対して。

 

元から正反対な性格、お互いに好きになれない部分があるのは予想できなくもない。が、本人の口からこうもハッキリ言われると驚くものがある。

 

 だから、

 

 

「それと同じ状況にならないように、頑張ろうとしたんだけどな。まぁ………流石に今回は無理だった。無理があったことに気づかされた」

 

 

自分一人の力で立ち上がるには、降りかかった厄災の規模が大きすぎた。鍛え上げた精神力を跡形もなく崩壊させる絶望は、一人で太刀打ちできるものではなかったのだと、温もりに満たされて気づいた。

 

誰かに頼るのが悪いと言っているわけじゃない。一人の力には限界があって、その先に辿り着くために仲間の力を借りることだって大切なことだと思う。

 

でもそれは、みんなが慕うカンザキ・ハヤトではない。自分が理想とするカンザキ・ハヤトではない。

 

弱いところを全部飲み込んで、みんなに明るく振る舞う。誰もが俯く場面でも、声を上げてみんなを明るく照らす。そんな、英雄のような存在に震えるほど憧れてしまったのだ。

 

 でも、

 

 

「また助けられちまったな、ベアトリス。ありがとうよ。お前がこうしてくれてすげぇ安心した。本当、お前には助けられてばかりだな。感謝してもしきれねぇよ」

 

 

首に回された腕を解き、曲がった背筋を伸ばすハヤト。ベアトリスに顔を向ける彼は、口角を釣り上げて柔らかく笑顔を浮かべる。

 

自然体そのものな彼に微笑んだまま、ベアトリスは目尻を下げて首を横に振る。それから開いた右手を己の胸に当て、

 

 

「お互い様かしら」

 

「お互い様? 俺、なんかお前にしたか?」

 

「その自覚がお前にないなら、ベティーが話すことはなにもないかしら」

 

 

テンとは違った意味合いで鈍感な男に言い、ベアトリスは心の奥底にしまってある感情を抱きしめる。胸に添えられた拳は、まるで宝物を握りしめるかのようにゆっくり閉じられた。

 

この感情を話すとき、そのときがきっと自分にとっての運命の瞬間。いつになるかは分からないけれど、そのときまでこの感情は秘めておく。

 

ハヤトもなにかを察したのだろう。深く詮索することはなく、「あー、その、なんだ」と彼にしては下手くそな話題の切り替え方をすると、

 

 

「色々と言っちまって悪かったな。なにがなんだか意味分からなくて混乱したろ」

 

「別に気にすることじゃないかしら。言葉にすることで(らく)になるときがあることくらい、ベティーも知ってるのよ」

 

 

「それに」と、ベアトリスはふっと表情を変える。人を小馬鹿にするような顔を一瞬で作り、

 

 

「お前はいつも意味が分からないから、気にするだけ無駄なのよ」

 

「おい、どういうことだそれ」

 

「言葉そのままの意味かしら」

 

 

手を広げて戯けるベアトリスが鼻で笑うと、今度はハヤトが不意打ちを食らう。雰囲気に似合わない態度と表情に思わず破顔し、笑いが音となって口から吹き出た。

 

一方的であったとはいえ、ベアトリスからすれば意味不明な言葉を溢し続けたハヤトを気遣ってなのか、どうなのか。もしそうなら、彼女はラムにも匹敵するレベルで優しさの権化かもしれない。

 

ひとしきり笑うと、ハヤトは一息つく。心が軽くなったことを実感する彼は笑みに真剣さを含ませて、

 

 

「ベアトリス」

 

 

呼ぶと、「ん?」と喉を短く鳴らして簡素な返事が返ってくる。

 

その返事の仕方に不思議とテンを重ねてしまい、ハヤトは意図せず「ふっ」と微笑を音にして言った。

 

 

「本当に救われた。お前のおかげでこれから先、なんとか頑張れそうだ」

 

 

その言葉と、表情を彩った太陽の笑みに、嘘偽りは感じられなかった。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

ハヤトが禁書庫から出たのは、早朝の六時を過ぎた頃だった。

 

独白の間で知らぬ間に止まっていたマナ徴収を再開。その中でくだらない話に花を咲かせていたら時間なんてあっという間で、気がついた頃には始業の時間。

 

そういうこともあり、ベアトリスに「また来るぜ」といつもの別れを告げて禁書庫を退出。部屋を出る最後の最後まで見送ってくれた彼女のデレ度合いに胸を躍らせつつ、幸せなひとときの幕を閉じた。

 

 

「………ふぅ」

 

 

扉を閉め、数秒。ベアトリスの気配が完全に消えたのを感じ取り、ハヤトは閉めた扉に背を預けて息を吐く。扉を伝ってずるずると落ち、膝を曲げてしゃがみ込むと、

 

 

「なんか……スッキリしたな」

 

 

世界が開けたような感覚に陥っていることに気付く。狭まっていた視界が広がり、気持ちを曇らせていたもやもやが晴れたような、そんな清々しい感覚だ。

 

重だるかった体は軽く、締め付けられていた胸の痛みは消え、なにより息苦しさがない。解すために回した肩は普段以上によく回り、思考がクリアになっている。

 

十中八九、ベアトリスのおかげだろう。捨て場のない言葉の捨て場になってくれた彼女が、疲弊した心を温かく包んで癒してくれたのだ。

 

 

「もしかして、マナと一緒に毒素も吸い取ってくれてたりな」

 

 

あのベアトリスのことだ、悪い感情に毒されたマナをこっそり吸収していても不思議じゃないと思う。それがハヤトの精神を侵し、精神的負担となるかはさておき。

 

だとするとベアトリスが心配になるが、禁書庫を出る自分を見送る顔が満足そうだったから、深くは気にしないことにする。

 

持ちつ持たれつ、この屋敷の人間はそんな関係性だ。誰かが傷付いたら、誰かが癒す。物理的にも精神的にも。誰も誰かを放ったりはしない、仲間思いなのが基本のスタンス。

 

全員がそうであるかは知らないけれど、そうであってほしいなとは思っている。

 

 

「俺には似合わないけどよ」

 

 

 苦笑。

 

本音を言えば、助けられるよりも助ける側の人間でいたいのがハヤトだ。女の子に助けられるのなんて、本当ならテンだけで十分。

 

カンザキ・ハヤトという存在は、常に誰かを照らす太陽で在らなければならない。自分を慕い、頼ってくれる人たちの期待に恥じないような存在で在らなければならない。

 

この世界で過ごし、死戦を潜り抜けているうちに、そんな思いを心に宿してしまった。戦士として期待を背負い、人として尊敬の声を受け、男として羨望の眼差しを浴びて、より一層のこと。

 

ある意味、呪いとも言える。カンザキ・ハヤトを無限に強くし、極限まで追い詰める一生の呪いだ。

 

 だから彼は、何度でも立ち上がる。

 だから彼は、何度でも這い上がる。

 

 

「——おし! こっからまた頑張るか!」

 

 

頬をパチンと叩き、気合を入れ直す。

 

曲げていた膝を真っ直ぐ伸ばして勢いよく立ち上がり、驚くほど軽くなった体に文字通り驚きながら、己のやるべきことをやろうと一歩踏み出し、

 

 

「あぁああぁぁああぁーーッッ!!」

 

 

廊下の奥から薄く反響してきたスバルの悲鳴を聞いた瞬間、考えるよりも先に駆け出していた。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 ——悲鳴というものは、いつだってハヤトの心を駆り立てる。

 

 

悲鳴を聞いて良い事があったことなど、一度たりともない。喉を張り裂かんばかりに上げられる声は悪い出来事が起こる前触れ、予兆と言っても過言ではないだろう。

 

故にハヤトの体は、悲鳴もしくはその類の声が聞こえた際には動き出すようにできている。それまでの思考や行動を丸ごと放棄し、悲鳴の元へ勝手に駆け出すようにできている。

 

 

「——スバル!」

 

 

心配の拠り所の名を呼びながら、ハヤトはノックもせずに扉を押し開く。スバルが寝ている部屋の中へ突入、息を切らす彼が見たのは三人の人物であった。

 

三人中の二人はレムとラム。スバルが目覚めるのを待っていたであろう二人は部屋の隅っこで抱き合い、怯える小動物のように何事かと警戒している。

 

驚いた体勢で硬直するメイド姉妹。彼女たちは自分らをその体勢にさせた原因を見ており、視線の先にいるのは布団から飛び起きたスバルで、

 

 

「は、はやと……ッ」

 

 

覚醒したスバルは布団を跳ね飛ばし、上体を起こしていた。なにかの拍子で目が覚め、今しがた飛び起きた形だろう。

 

彼女が死の直前になにを見たのか、なにを体験したのかは曖昧にしか分からない。が、その顔色の悪さと焦点の定まらぬ目が全てを物語っている。

 

二階から一階まで駆け抜けたハヤト以上に呼吸を乱し、己の胸ぐらをぐしゃりと掴むスバル。明らかに大丈夫じゃない少女にハヤトは近寄りながら、

 

 

「お前らは外に出てろ。俺が見るから仕事でもしててくれ」

 

 

視線を送ってくるメイド姉妹に簡潔な指示を飛ばし、扉を指差す。突然の事態に困惑しつつも表情には出していない彼女らと視線を絡ませ、目で意思疎通を図った。

 

ハヤトの真剣な眼差しにただならぬ雰囲気を察したのか、二人は数秒の睨めっこの末に顎を引くように小さく頷く。体の向きを変えてそそくさと部屋から出ていった。

 

レムは、部屋から出る最後の瞬間まで、スバルのことを横目で見ていた。

 

 

「………とりあえずこれでいいか」

 

 

扉が閉まり、二人の足音と気配が消えるのを確認したハヤトが呟く。スバルと話す上での最優先事項、人払いを済ませた彼は一息ついた。

 

そうして呼吸のリズムを整えてから、改めてスバルに意識を注ぐ。未だ呼吸を荒げる彼女の背に手の平を添えると、

 

 

「大丈夫だ、スバル。大丈夫、大丈夫だから深呼吸しろ。ここは安全だ。お前を襲うものなんてなにもねぇ」

 

 

穏やかにさすり、優しめに声をかけて、恐怖に揉まれるスバルの心に安らぎを。こちらが深刻な顔をしていると不安がらせてしまうから、気丈夫な表情を作った。

 

 

「あ、アタシ、死ん……ぁ? アレが、最後? だってまだ村のみんなが……! アタシを逃がそうとして、アタシがハヤトたちにあのこと伝えなきゃ、アタシが、違う……違う、違う」

 

 

歯切れの悪く、支離滅裂な言葉を呪文のように小声でぶつぶつと溢すスバル。ひどく錯乱した様子を受け、身を掻き抱く彼女もまた死に戻りの代償に苛まれているのだとハヤトは理解する。

 

死に戻りの代償——死の直前の記憶を引き継いでいるせいで、戻った瞬間の切り替えが上手くできていない。いや、できる方がおかしい。おかげで前の世界と今の世界がごっちゃになっている。

 

その対処法は知っている、今さっきベアトリスにされた。が、流石に彼女と同じことをするのは良心が痛むので、ハヤトなりのやり方でやることにした。

 

 

「スバル、俺の目を見ろ。俺の目だけを見ろ」

 

 

肩を揺すり、閉じこもる意識を外に向けさせ、スバルの目を少々強引に引き寄せる。なにかに意識を囚われてしまうのなら、別のことで上書きしてやればいい。

 

視線のやり場を作ると、焦点の合わないスバルの目が恐る恐るといった具合で向けられる。この瞬間、小刻みに揺れる黒い目にハヤトの真剣な眼差しだけが映り、一直線に射抜く視線に意識が僅かに逸れ、

 

 

「大丈夫、絶対に大丈夫。俺がついてる。俺がいるから安心しろ。なにがあっても……なにがあっても、ぜってぇに守ってやるから」

 

 

力強い言葉に鼓膜を叩かれ、スバルの目が衝撃を受けたように見開かれる。はっとする喉に息が詰まり、強制的に荒ぐ呼吸が止まって、少しして深々と吐き出された。

 

スバルの瞳に映るのはハヤトだけで、心の中に流れ込むのもハヤトだけだ。だから心を錯乱させるものを全て押し流されれば、最後に居座るのはハヤトだけ。

 

大荒れだった感情の海が、徐々に凪の状態へと戻っていく。ハヤトという存在に齎される全てによって、水面に波一つ立たなくなっていく。

 

その影響は鼓動や呼吸のリズムにも表れ、次第に死に戻りの余波は落ち着いていき、

 

 

「………落ち着いたか?」

 

「たぶん、大丈夫」

 

 

その言葉が聞けた頃には、スバルは錯乱状態から抜け出せていた。胸ぐらを握りつぶしていた手から力が抜け、深呼吸を繰り返す彼女の目はしっかりとハヤトを見ている。

 

「なら良かった」と、安心したハヤトの頬が緩む。掴んでいた肩から手を離すと、スバルの手がその部分に添えられた。

 

触れられていたのは少しの間なのに、とても温かく感じる。その温度にほっと一息つくと、スバルは自分の体をペタペタと触診するように触りながら、

 

 

「ハヤト、これって」

 

 

言葉を切り、ハヤトを見上げる。その先を託す彼女に答えを望む目を向けられると、腕を組むハヤトは「ああ」と低い声で応じて、

 

 

「戻ったらしいな。今は一日目の朝、スバルが屋敷に来た翌日だ。やってくれるぜ、全くよ」

 

「そう、なんだ」

 

 

恨めしげなハヤトの言葉を耳にすると、スバルは表情を暗くして俯く。触診を終えた手で布団をぎゅっと握りしめ、下唇を噛み締めた。

 

表情に浮かび上がるのは後悔と自責、深い悲しみ。それらは死に戻りをしたばかりのハヤトが抱いていた感情に違いない。彼女もまた、前の世界に未練があるのだろう。

 

 

「その感じ、お前もお前で色々とあったっぽいな」

 

 

言うと、ハヤトは徐に動き出す。

 

寝台から離れて部屋に置いてある椅子に向かい、片手で背もたれを掴んでひょいと持ち上げる。寝台に戻ってくるとスバルの真横に置いた。

 

椅子を逆向きにして座り、背もたれに両腕を置いて体重をかける。座る場所を確保し、話し合いの場を設けると、

 

 

「起きた直後で混乱もしてるだろうし、目が回りそうだとは思うが……なにがあったか話せるか?」

 

「うん。話せる……と思う」

 

「無理しなくていいんだぞ」

 

「無理しなきゃハヤトになにも伝わらないでしょ。覚えてるうちに全部伝えるわよ。ハヤトだって頑張ってんのに、アタシだけヘラってるわけにもいかないしさ」

 

 

胡座をかき、後頭部を掻くスバルにハヤトは「そうか」とだけ。内心、恐ろしく早い切り替えの早さにビビりながらも表には出さない。

 

努めて毅然とした態度を一貫しようとするハヤト。二章開始一発目から精神が揺れに揺れた彼に体を向けて、スバルは重々しく話し始めた。

 

 

「黒い化け物たちが村を……みんなを殺し回ったんだよ」

 

 

 人生最悪の夜の、悲劇を———–。

 

 

 






後半は駆け足でしたが、今回のお話でハヤトは完全復活。

まともな死に戻りを経験した彼が絶望を乗り越えてまた一つ、レベルアップしました。いつまでもうじうじさせてらんないのでね。

次回は少しだけ時間を遡ったお話。割とキツめのお話にしようと思うので、そんな感じでよろしくです。

まぁ、私の表現力が乏しいのでそこまでのものにはないと思いますが。

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