少しでも望む未来へ   作:ノラン

7 / 84
0章 総集編『結②』

 

 

 

日数としては八日という、眠るにしては長すぎ日数を費やして目を覚ましたテン。

 

彼は目覚め直後に朧げな意識の中で状況を整理。自分が寝台に寝かされることになった経緯を記憶を辿るように思い出し、理解。あの夜、ベアトリスに眠らせれて今に至ったのだろう、と。

 

というか、どうして夜に目を覚ましてしまったのかとテンは思う。朝ならば誰かしらに気付いてもらえる可能性があるから目覚めに適していると言えるが、自分の場合は夜。誰にも気付いてもらえない気配しかしない。

 

自分のせいなのか、どうなのか。取り敢えずため息として世界の理不尽さを発散し、テンは体をゆっくりと起こそうと上体を起こし始めた。

 

 

「んぬぬぬ……」

 

 

起こそうとして一番に分かった。

 

自分の体が信じられない程に重い。体が寝台に貼り付けられている感覚を錯覚として得ると、思わず歯を食いしばり喉を低く唸らせる。

 

体重云々の話ではないと思う。理由は分からないが、そんな気がする。寝過ぎて体が鈍ったか、体を起こす動作すらまともに行えないとは。幸先不安すぎる。

 

それでも腹筋の力を総動員。声にならない声を小さく上げながら気合いでテンは上体を起こし切る。

 

 と、

 

 

「っーーー!」

 

 

骨の軋んだ音が鼓膜の内側から弱く響いてきた瞬間、右の脇腹に激痛が走った。

 

反射的に痛みの根源に手を添え、テンは心を落ち着かせる。体を起こす時に歯を食いしばっておいて正解だった。でなければ今頃、自分の声で誰かしら起きているかもしれない。

 

それはそれで結果オーライだが。仮に自分が数日間寝ていたとして、そんな人間の絶叫が夜に木霊したら向こう側も驚くはず。やめておいた方がいいだろう。

 

 

「とりあえず……」

 

 

言い、テンは布団を剥ぐ。未だに鈍い痛みを生じさせ続けている脇腹と胸の内側は我慢するとして、寝台から足を下ろした。

 

 

 ーー傷の度合いを確認しないと

 

 

痛みを感じたことが一つのキッカケで、己の受けた致命傷の数々を思い出したテン。色々とやらかしていたと再自覚した彼は、イヤな予感に突き動かされるように立ち上がる。

 

立ち上がった瞬間に感じた重力の枷を無視し、一歩、二歩、三歩とおぼつかない足取りでよれよれと洗面台へと歩数を重ね。五歩目に到達し——、

 

 

「———ぁ?」

 

 

不意に世界が歪み、眩暈が生じる。

 

微小ながらに左右に揺れていた体が大きく左によろけ、傾く体を支えきれない両足が体重移動の制御を失うとそのまま左へ流れ、左肩が壁に盛大に激突。

 

 

「ッーーー!!」

 

 

 ゴン! と。

 

かなりの勢いで衝突。鈍い音が明らかになってはいけない音量で部屋の中に響き渡る。ついでに、衝撃によって先ほどの傷が再び疼いたことによるテンの激痛を押し殺した声も響き渡る。

 

脇腹から全身に滞りなく波紋するような痛み。痛覚を極限まで刺激するそれが受けた傷痕の全ての目を覚まさせ、一挙に襲い掛かったのだ。

 

想像を絶する激痛に身悶えるテン。体を大きく動かすことも叶わない今は、のたうち回る事もできず。ただ壁を支えにしながら歯を食いしばり、痛みの波が引くのをじっと待つことしかできなかった。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

その後、自分の身に残った傷の度合い戦慄。

 

右目の下と右肩にはっきりと残る斬撃の痕。上裸の所々にほんのりと残る火傷と打撲のような痕。更には強い激痛を感じた右の脇腹にある紫色の痣。

 

ぱっと見であれだけの情報量。洗面台の鏡に映った鏡の中の自分にあんぐりしてしまったテンだった。

 

尤も。初めこそは受け入れるのに時間は掛かったものの、一度でも受け入れてしまえば案外あっさりと事実を頭の中で整理できたもので。

 

痛々しい光景に目が慣れると、その次に頭が慣れ。最後に心が慣れ、状況の把握に至る。

 

起こってしまったものは仕方ない。変えようがないことを引きずっていてもしょうがない。そう、無理やり納得させた。その程度のことなどあの夜に覚悟したはずだ。今更気にしても無駄。

 

寧ろ、気にするべきは他にあることを今現在、テンは痛感している。

 

 

「なん、だ。なんで、こん、なに疲れて……っ」

 

 

鼓動が異常なまでに加速したことを始めに安定していた呼吸が大きく乱れ、肩を激しく上下させるテンは無意識に心臓に手を添える。

 

少し歩いただけで凪を保っていた肉体が大荒れとなった彼は、深呼吸を何度も繰り返した。

 

ありえない疲労感。感じたことのない倦怠感。

 

ほんの少し歩いただけで限界まで走り込んだ直後のような息切れは、どう考えても異常としか言えず。抗いようのないそれらは、壁を支えにしなければ立つことが不可能なほどに程度が酷い。

 

いつから自分はこんなに弱くなったのか。体が鈍っている感覚はするが、それ一つでここまで弱ることはないだろう。

 

何か、他に原因があるはずだと思うが。

 

 

「思い当たる節がねぇ……。なんだよ、これ」

 

 

まともに歩くことすら困難な自分に苛立ち気味に吐き捨て、転びそうになりながらもテンは前を向く。静かな廊下で一人、己に愚痴を言いながら進んだ。

 

現在位置は二階を降りて一階と、ここまで来たら引き返さないという強い意志を胸に抱いた彼の足が回れ右をすることはない。

 

 

 ——現在、彼は自室を出て厨房に向かっているところだ。

 

 

本来ならばあのまま部屋にいる方が心身共に最善なのだと思う。もしも、今この場所に自分以外の誰かがいるなら、無理やりにでも連れ戻されるのだろうとも思う。

 

 が、

 

 

 ーーお腹すいた

 

 

三大欲求には打ち勝てなかった。

 

回復したとはいえ、満身創痍と遜色ない状態で外に出る——デメリットしかない選択をしてでも空腹を満たしたいという意志が心を動かし、結果として地獄を味わっている。

 

そこまでして食欲を満たそうとする自分が恐ろしい。否、空腹を満たさせようとしてくる三大欲求が恐ろしい。欲求不満とはよく言ったものだと心底思う。

 

何日間、食事を取らなかったのだろうか。そもそもの話として何日間、寝ていたのか。それが分からなければ前者も分からない。

 

分かるのは、ボロボロの中でも歩かせる程に腹が減っていることくらい。まずはその空腹をなんとかして満たせ、という指令が頭の中に永遠と流れ込んでくるせいで体が嫌でも動く。

 

 

「とーっちゃく。し……しぬぅ」

 

 

部屋を出てから約十分程度。普段ならば三分とかからない距離を、半分以上もの時間をかけて歩き切ったテンが漸く念願の厨房の扉に手をかける。

 

腹が減ったり喉が渇いたりと、割と死にそうな思いでここまで来た。もう既に生ける屍に成らんとしている感が否めないが、何かを口にすれば少しはマシになるだろう。

 

顔色を悪くしながら、テンは扉を開けた。

 

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 

扉を閉めたテンは、まず厨房の灯りをつけた。一部を照らすものではなく部屋全体を照らす程に力のある魔鉱石ならば、この暗い夜にでも活躍してくれる。

 

その際に少し違和感。マナを使った瞬間にゲートが軽く疼くような感覚、言い表しようのない痛みがズキリと走った。

 

差し詰め、体を動かした衝撃で傷痕が疼いたのだろう。今に始まった事ではない。つまりは気にする必要もなし。

 

理由の見当もつき、加えて痛みは一瞬だったために原因を探ることもできず、結局は流したテンだった。

 

 そして、現在。

 

 

「なんか……なんかないかなぁ」

 

 

何か食べるものはないのかと漁った結果、蓋をされたボウルを発見。細切りにされた野菜が乱雑に混ぜられているそれを見たテンは「まぁ、いいか」と適当に理由をつけて手を伸ばした。

 

見つけたそれを夜食とし、普段は調理用に使用している長机にボウルを置くとテンは食器棚を開く。取り出すのは取り皿とフォーク。そのまま食べるほど行儀は悪くない。

 

あとはドレッシング。一応、この世界にもその概念はあったらしく、調味料の名前は違うが似たような物は存在している。サラダを食卓に並べるときの必需品だ。

 

必要な物だけを並べ、テンはやっと椅子に座る。

 

 

「ふぅ……。疲れたな」

 

 

座った途端、背中にかかっていた疲労感と倦怠感がどっと降りてくる感覚。意図せずにため息を吐いたテンは机に突っ伏す。

 

日常的な作業を熟すだけでも精一杯なんて事実、知りたくなかった。何が原因で脆弱で貧弱になったかは未だに不明と、これでは解決法も対策の仕様も分からない。

 

故に、理不尽な倦怠感と疲労感が無限に続いたとしても耐えるしかないことが明らかで。それがテンに軽めの絶望を齎しているのだ。

 

動く度にこの感覚と戦わなければならないのか、と。

 

 

「こうなったらやけ食いだ。食べるだけ食べてやる。体重も落ちた気ぃするし」

 

 

心に飛来した絶望に対し、半ばやけくそ気味にテンはボウルの中身を取り皿にぶち込む。

 

色々と考えることはあるけれど、今は胃袋の渇きを潤したい。考えるのはその後でもいいだろう。どうせ嫌になるくらいに考えさせられるのだから。

 

適当な量を取り分け、味気なさを解除するためにドレッシングを掛ければ準備はできた。後は、「いただきます」をして食べるだけ。

 

やけを起こしていても変に律儀なのがテンという男。食べ物に対する礼儀は忘れない。

 

 

「……そういえば」

 

 

そんなとき、ふと思った。

 

考えようとして考えたわけではなく、唐突に思ったことが一つだけある。心を突き動かしていた食欲を忘れさせるような、そんな思いが。

 

 それは、

 

 

「あの音、まさか誰も起きてないよね」

 

 

机に両肘をつき、組んだ手に顎を乗せながらテンは脳裏に過ぎった記憶を見る。頭の中で鮮明に映り出した映像に、彼は少しばかり顔を顰めた。

 

それは、寝台から降りた直後。洗面台に向かうまでに壁に激突した時のこと。今考えると、静かな環境で立てるにしては大きすぎる音だったと振り返るそれ。

 

床に倒れるはずの勢いをそのまま吸収したのだから当然と言えば当然だが、流石にうるさかった。壁は厚いはずだが——多分、衝撃が様々な方向に飛んでいったはず。

 

そう考えると、自室の真上に位置する部屋、その付近の部屋を自室としている人間が起きている可能性が僅かながらに生じてしまうことにテンは気付く。

 

テンの部屋は二階、西棟の一番端っこの部屋。つまりは、三階西棟の一番端っこの部屋か、その付近の部屋を自室としている人間がいるならば目を覚ましているかもしれないということで。

 

 その辺りを自室としている人は、

 

 

「確か……ラムだった気がする」

 

 

言った瞬間、テンは「ならいいか」と思った。考えていたことが馬鹿馬鹿しくなり、その思考を放棄する。

 

どうしてか、あのラムが夜に目を覚ますはずがないからだ。夜に弱く、朝にも弱い人間が並大抵の衝撃で眠りから目覚めるわけがなく、自分の懸念も要らないものだと判断し。

 

 

「ラムならいっか。起きるわけないし」

 

「テンテンの価値観でラムの程度を決められるのは不愉快ね。取り消しなさい」

 

 

その判断こそが、本当に馬鹿馬鹿しいものだと即座に理解することになった。

 

組んだ手の上に顎を乗せた体勢で硬直したテン。肩を跳ねさせるなどの挙動を見せない彼は、しかし硬直という形で動揺を表に出しながらゆっくりと声の方向に顔を向かせると、

 

 

「……おはようございます」

 

「こんばんわ、の方が正しいわ。……そう。眠り過ぎて教養までも退化したのね。かわいそうに」

 

 

よろけ、壁に激突した衝撃で鳴り響いた音。真上の住人が理由で特に気にする必要もないかと思った矢先、それに起こされた少女が一人。

 

軽めのあいさつに軽めのあいさつ毒舌を返してきたその少女。

 

 

「で? 何をしているのか、説明しなさい」

 

 

厨房の扉を開いたラムが、テンのことを見ていた。

 

その音に起こされた人は、いた。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 ——今、テンの瞳は異様な光景を捉えている。

 

 

異様、というのは些か失礼な気がしなくもないが。普段のラムを知っているテンからすればその言葉が頭の中にポンと浮かんできてしまうのも事実で。

 

それを言ったらなんと言われるだろうか。間違えなく、百倍になって毒舌込みの言葉が弾丸の如く飛んでくるだろう。それも、一発一発が致命傷の乱れ撃ち。

 

知らぬが仏、言わぬが花な絵面。しかし、どう考えても異様な光景として見てしまうテンだ。その光景が広がってから唖然として様子を見つめてしまうほどに。

 

 その光景とは、

 

 

「ーー? なに、ラムが手料理を振る舞うことがそんなに不思議? そんなアホ面で見られても困るのだけれど」

 

「不思議……ではあるけど。それよりもお前が仕事以外で調理器具の前に立つ姿が珍しいというか、なんというか」

 

「立つ機会が無いだけよ。それ以前にラムの手料理自体が希少価値のあるものだから、テンテンみたいな男に手軽に出して良いものではないの」

 

 

 ーーふかし芋如きでなに言ってやがる

 

 

とは口の中だけで言っておくとして、テンは「そうだよなぁ。ラムのだもんなぁ」と適当な返し。唖然とした態度を顔の内側に引っ込める彼は椅子の背もたれに深く腰掛けた。

 

テンが壁に激突した音よって起こされたラム。それだけでテンの目覚めを予感し、部屋に訪れた彼女は彼の姿が忽然と消えていることを知り、色々と探し回っているところに灯りがついている厨房を発見。ついでにテンを発見。

 

「お腹すいたからさ」と言って呑気に夜食を食べようとしている彼を見たとき、彼女は心底呆れた。珍しく本気で心配した自分の気持ちを返してほしいくらいに。尤も、彼らしい姿を見れて安心したから良しとするとして。

 

ラムとしてはすぐにでも部屋に帰ってほしいが、彼は頷くことはなかった。とりあえず空腹を満たさせてほしいの一点張りで、どちらかが譲らない限りは平行線だった。

 

 その結果、

 

 

「一応、聞くけど。何を作るおつもりで」

 

「決まっているわ。——ふかし芋よ」

 

「ですよね」

 

 

ちゃんとしたものを食べてほしい事と、色々と話したい事があるという理由から、ラムはテンに手料理を振る舞うことに。

 

 

「ーーーー」

 

「ーーーー」

 

 

一つの会話が終わると二人の間から言葉は消える。先程のやりとりが僅かに反響する中、次に続くやりとりが刻まれることはない。手料理を振る舞うべく作業するラムと、その後ろ姿を椅子に座りながら静かに見つめるテンという構図が再び完成した。

 

とても貴重な構図だ。真夜中の厨房でテンとラムが二人、それもラムが調理台に立っているというオプション付き。真夜中にラムが起きている時点でかなり衝撃的な上に、手料理を振る舞うと。

 

どうしてその行為に至ったのかは分からない。別に作る必要もない手料理——自分の手元には簡易的なサラダがあるのを知っていて作るのだから相応の理由があるのは分かるが、肝心な理由が分からない。

 

自分と同じく感情を表に出さない彼女の心境を読み取ることなどテンにはできず、読み取ろうとすれば「ジロジロ見ないで。気色悪い」と言われるのが結末。

 

結局のところ、考えるだけ無駄となる。それでも、特に見るもののないテンはラムの背中を眺め続けることに変わりはない。

 

 

「……なぁ、ラム」

 

 

ぼーっとしていたテン。彼は慣れた手つきで順調に準備を整えていくラムに言葉をかける。

 

体が振り向くことはないものの、「なに?」と言葉だけ振り返られればテンは「あのさ」と言葉を繋げ、

 

 

「俺が寝てる間のこと、教えてほし——」

 

「それは後にして」

 

 

言葉を遮断するような切り返し。

 

食い気味に言葉を割り込ませたラムにテンは口篭る。その発言自体が触れてはならないものに触れたような、途端に拒絶の色をラムは見せた。

 

察するに、色々とあったのだろう。先程も色々と話したいこともあると彼女は話していたし。そうでなくともあの悲劇の後日談となれば、何かしら問題が起こっていてもおかしくない。

 

踏み込んだことを聞いたかとテンは反省、「ごめんね」と真面目な声色で謝る。その中には聞かれたくないこともあったはずで、無神経な己を心の中で強く咎めた。

 

 

「別に謝ることじゃない。ただ、話したいことがありすぎるから落ち着いた状態で話したいだけ。作業片手間に話せることじゃないから」

 

「そんなにたくさんあるの?」

 

「ある。たくさん……沢山あるの」

 

 

そう言った瞬間、ラムの雰囲気が明らかな変化を見せる。低く、重く、沈んでいくような。彼女を取り巻く空気が悲哀にまみれ、彼女自身もそれ一色に染まっていく。

 

後ろ姿に哀愁が漂ったラムの声はどこか悲しげで。今、その脳裏には何が過っているのだろう。分からない。分からないけど、

 

 

「沢山、ね」

 

 

そんな儚い笑みで振り返られればテンは反射的に立ち上がることを止められなかった。体が勝手に動いたとでも美化しようか、ラムらしからぬ笑みを見せられて黙ってられるテンではない。

 

勢いよく立ち上がった反動で腰掛けていた椅子が音を立てて倒れ、ついでに右の脇腹が小さく疼いたが、耐える。痛みを内側で押さえつける彼はこちらを見るラムを一直接に見つめた。

 

今のは嘘を言っているようには聞こえなかった。冗談や軽口で済ませるニュアンスではなく、心の声をそのまま言語化したように捉えられた。事実としてその笑みに偽りは感じられない。

 

物言わぬテンの口は、しかし「なんかあったの?」とでも言いたげ。敢えて言葉に発さずに態度で伝える彼は無言に対する返しを静かに待ち、

 

 

「……ふっ」

 

「え?」

 

 

予想とは大きく外れた返しに思わず間抜けな「え?」を溢した。哀愁の漂っていたはずの彼女に届けられたのは笑み。それも、ただ純粋に笑ったような好感の持てる笑み。

 

途端、纏っていた雰囲気がいつも通りに戻ったラム。取り巻いていた空気が四散していくように、悲哀色もまた滴り落ち、数瞬もすればいつものラムが帰ってきた。

 

そんな彼女にテンは腑抜け面を引っ込められずにいた。意図して浮かべたはずではないと思いたいが、そう思ってしまう程に切り替えの早い彼女には状況の把握が追いつかない。

 

 

「そーゆーの見せられると、色々と心配しちゃうよ。何があったのかは知らないけど、あの出来事があっての今だしさ。……あんまり抱え込みすぎないでよね」

 

 

倒した椅子を立てながらテンは低い声で投げかける。深く吐息する彼は喉に詰まった息をゆっくり吐き出し、椅子に座り直すと少しばかりの疲労感を纏いながら机に突っ伏す。

 

その体勢で「心臓に(わり)ぃよ」と。心労したような風に口から溢せば、テンに背を向けるラムは更なる微笑を溢さぬように片手を口元に当てた。そうしなければ多分、緩んでしまう。

 

 

「揶揄われた、とは思わないの?」

 

「思わないわけじゃないけど。そうであってもなかったとしても関係ないよ。俺にとっては、ラムがその顔を見せたっつー事実が大事なんだ」

 

 

「揶揄いで済むなら好きなだけ揶揄えばいいんだけどさ」と一言添え、テンは言葉を閉じる。手持ち無沙汰なのを誤魔化す彼は人差し指で机の木目をなぞりながら、

 

 

「俺が単純な奴だって知ってんだろ? ラムのその顔はずるすぎるんだよ。ったく、王都の時といい、森の中といい、今回といい。ラムは基本的にずるいんだ」

 

「女ってのは基本的にずるいものなのよ。まぁ、ラムのずるさは一級品だから、テンテンが悩殺されてしまうのは無理もない。安心してそのまま単純な男のままでいなさい。なに、悪いようにはしないわ」

 

 

既にラムの中で自分の捉え方が扱いやすい下僕として確立していることが発覚。

 

ここまではっきり言われると、清々しさすら感じてくるテン。彼は「ははは」と抑揚の欠片もない笑声で笑い、

 

 

「女の子にいいように利用される男とか、もう俺の立場完全に崩れてんじゃん。これでもエミリア陣営の騎士となる人なんですけど。ほら、なら少しは敬いがあってよくない?」

 

「騎士として必要不可欠なものの殆どが欠けておきながら、どの口が言うんだか。教養、歴史、人格その他諸々、欠けすぎて目も当てられないテンテンを敬うなら死んだ方がマシね」

 

「あーそーですかよ」

 

 

ほんの少しだけ思ったことをポロッと溢しただけでこの始末。言葉でも負かせる気がしないテンがついに投げやりになった。

 

これ以上ラムと話していると、何を言われるか分かったものではない。ただでさえ一のことに対して百で返してくる彼女だ、変に言葉で対抗しようとすると容赦なく弾丸毒舌が飛んでくる。

 

ああ言えばこう言うとはよく言ったものだと思うが、ラムが正にそれ。負けず嫌いな性格の彼女が言い合いにおいて手を引くことなどあり得ないのだ。

 

だから、テンはこれ以上の被弾を避けるべく口を閉じる。もう既にフルボッコにされた、今までの分を含めると死体蹴りされたような気分の彼は突っ伏しのまま軽く瞼を閉じる。

 

 ただ、一つだけ、

 

 

「尤も、志と実力だけは認めてあげなくもないわ」

 

「そお? ありがと」

 

 

そんな会話が最後にあったことを、鼓膜に軽く刻み込みながら。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

テンとラムは、二人っきりになったとしても自然と会話が弾み、互いに軽口を叩き合うことができるほどに仲が良い。あるいは、無言の空間だとしても居心地が良いと思えるほどに心を許し合っている。

 

故にラムがふかし芋を作り終えた後、無駄に駄弁れる二人の会話は本題から談笑へと進路変更。椅子に腰掛け、机を挟んで向かい合う両者はほのぼのに花を咲かせた。

 

そうして色々と話しているうちに時間は進み、その中でも黙々と夜食を続けていたテン。

 

自分が用意したサラダから片付けた彼はボウルや使用した銀食器などを簡単に洗うと、手についた水滴を拭き、徐に食器棚を開くと中からケトルとティーセットを取り出す。

 

きっと、長い話になる——そう判断したテンは今から紅茶を淹れようと動き始めたのだ。

 

耐熱性の高い板に火の魔鉱石を敷き詰めた、故郷で言うところのガスコンロ的な立ち位置のそれ上にケトルを置くテン。彼は、湯を沸かすべく魔鉱石にマナで呼びかけようと、

 

 

「ーー!? 待ちなさい!」

 

 

テンの作業を気になったラムが振り返った途端、顔色を変えた彼女が勢いよく立ち上がる。

 

夜中ということを完全に無視した声量が一度だけ鼓膜を思い切り殴りつけると、肩を跳ねさせたテンの動きがピタリと止まった。

 

反射的に自分のことを見てくるテンにラムは心底戦慄したような表情。声を荒げることが珍しいのに加えてその表情を向けられれば、テンは困惑せざる負えない。

 

 

「今、何をしようとしたか説明しなさい」

 

「えっと……。俺とラムに紅茶を淹れようとして、お湯を沸かすために火の魔鉱石にマナで呼びかけ、よう……と……してまし、たぁ」

 

 

訳も分からずに取り敢えず行動の経緯を説明するテンだが、その声は後半に進むに連れて歯切れが悪く、萎縮するように弱々しくなっていく。

 

どうしてか。普通のことを話しているはずの彼は、ラムの顔色がどんどん悪くなっていくのを真横に動揺が浮き出たのだ。

 

レムやロズワールのこと以外で動揺する彼女を見るのは珍しい——否、ありえないことを知っているから尚更その異常性を理解できて、何が彼女を焦らせたのか不思議で仕方ない。

 

血相を変えた彼女に言い終えたテンは「なんで?」と不安がりながらも問いかけると、テンに詰め寄るラムは唐突に飛来した考えに厨房を照らす光——頭上の陽の魔鉱石を指差し、

 

 

「あの魔鉱石にマナで呼びかけたとき、何か違和感はなかった? 具体的に言うとゲートに普段とは違う感覚とかしなかった? 些細なことでもいい。あるなら話して」

 

「ゲートに違和感?」

 

「正直に答えなさい、でなければ殺すわ。下手に心配かけないように無理しても殺すわ。そんなくだらない見栄を張ったところでラムには一瞬で見抜ける。ラムの洞察力を甘く見ない方がいいわよ」

 

「ラム、急にどうしたの? 静かにしないとみんな起きちゃうよ」

 

「そんなの知らないわ。起きたら起きたよ。それよりもラムの質問にさっさと答えなさい。誤魔化したら本気で許さない、ラムが真剣に聞いてるなら真剣に返すのが筋なことくらい分かるでしょ?」

 

「ラム、ちょっと怖いよ。ほんとにどうしたの? 俺はなんともないから落ち着いて——」

 

「なんともないわけないじゃないーー!」

 

 

 怒号。

 

屋敷の人間が起きてこないか本格的に不安になるラムの荒っぽい声が空間に響き渡る。大気中を駆け抜けるそれがテンの鼓膜に飛び込むと、心を振動させられた彼は言葉を失った。

 

様子が一変したラムは饒舌で、テンの言葉を鼓膜から遮断した彼女は呼びかける声に一切応じず、己の意思を歯止めが利かなくなったように無茶苦茶に叩きつける。

 

声を重ねる度に頭は熱を帯び。嫌な不安が膨らむ度に心が震え出し。数日前のベアトリスの言葉が脳裏に過る度に焦燥に身を焦がされ——それら全てが爆発した。

 

いささか冷静さに欠けるラムは、瞳に浮かびかけた不安色を必死に隠しながら、

 

 

「テンテンは自分のこと、何も知らない。今、自分がどれだけ危険な状態なのかも知らないで、いつも通りに接してこないで。——ちゃんと、正直に、全部話して」

 

 

感情に任せて叫んだ己を咎めるラムの声は低かった。瞬間だけ感情制御の手綱を手放した理性が慌てて手綱を強く握りしめると、彼女は取り乱した態度を少しずつ内側に引っ込める。

 

自分らしくないことをしたと落ち着き、俯きながら熱っぽい吐息を溢すと頭に上った血感情を冷却。意図せずに込み上げて爆発させてしまったものを飲み込む。

 

そうして気持ちの整理をつけて顔を上げると、

 

 

「浸ってる場合じゃないわね……。テンテン、少し興が乗り過ぎたけど、あなたとのほのぼのは一旦終わりよ。紅茶はラムが淹れるから、とりあえず座りなさい」

 

 

状況の理解ができそうでできず、ラムの気持ちを解ってあげられない事にもどかしさを感じるテンの肩をポンと叩いて、

 

 

「さっさと本題に入りましょう」

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 

「本題……。色々と話したいこともあるし、って言ってたやつ?」

 

「そうよ。テンテンが寝ている間に色々とあってね、話さなければならないことが沢山あるの。その中の一つにはテンテン自身のことも。あなたの知らないことを、ラムは沢山知ってるから」

 

 

取り乱した自分を整えたラムと、取り乱した彼女の気持ちを理解してあげられないテンの二人。彼らは改めて机を挟んで対面するように座りながら落ち着いた様子で話し始める。

 

その間に先のような和気藹々とした雰囲気は無く。代わりに神妙な態度をラムが表に出したことで、和んでいた空気が時間が経つに連れて張り詰めていく感覚をテンは感じ取っていた。

 

話し合いの場は整ったとばかりに真剣な顔持ちを向けるラムは、「それで?」と先ほども指差した頭上にある陽の魔鉱石を再び指差し、

 

 

「さっきの質問に答えなさい。あの魔鉱石にマナで呼びかけたとき、何か違和感はなかった? 具体的には……話した通りよ」

 

 

「誤魔化しは利かないから」と念押しするラムが再度、同じ言葉で問いかける。優しい言葉遣いの割には詰問するような目つきの彼女が正面のテンをジッと見つめ、逃がさないという意思を念として送った。

 

この質問、問いかけたのには意味がある。当然、取り乱したのにも理由があるし、テンの行動を全力で止めたのにも明白な訳がある。

 

 

 ーー二ヶ月か三ヶ月か。明確な時間は分からない。けど、最低でも一ヶ月間は様子見かしら。絶対の絶対に魔法は使わせない。ゲートに一切の負荷を与えない事が重要。

 

 

テンが火の魔鉱石にマナで呼びかけようとしているのを見た瞬間、電撃の如く過ぎったのはその言葉。テンの容体を細かく説明してくれたベアトリスの淡々とした声。

 

それは、酷使しすぎた結果として信じられない程に歪み、損傷こそしなかったものの完治するまでに何ヶ月間の時間を要するか不明なまでに壊れかけた、テンの体の中に備わったゲートのお話。

 

彼女が告げた処置は魔法を使わせないこと。歪んだそれを介してマナを使用することが危険な行為だとは考えるまでもなく、故に負荷をかけないことが大切だと言っていた。

 

絶対の絶対に魔法を使わせない。細かく言えば、マナそのものを使わせない。マナを使う行為は程度の差はあれどもゲートを介すことに直結し、負荷をかけてしまう。

 

それを知っていてのあの出来事。

 

正直、マナで呼びかけようとしたテンを見た瞬間は心臓が飛び跳ねた。魔鉱石にマナで呼びかけること、それ即ちマナを使うためにゲートを使うことに繋がるからだ。

 

だからこそ、今、ラムはテンが陽の魔鉱石にマナで呼びかけた事実に戦慄しながらも強く質問している。何か、異常はなかったのかと。

 

そんな、深い理由があるとは知らないテン。彼は「えっとねぇ」と記憶を思い出すように陽の魔鉱石を見上げると、

 

 

「違和感はあったよ。ゲートが疼くというかなんというか、刺す痛みがするような感じ」

 

 

聞いた途端、ラムの喉が戦慄に凍る。二つに重なった戦慄を頭が理解すると、理解の波紋が伝わる心も凍りついた。割と、本気で冗談にならない。

 

基本、魔鉱石に呼びかける際に使用するマナの量は小鳥の涙よりも少ない。つまりは、日常生活には何の支障も来すことはないということ。

 

魔法の素質を持たぬ人間——マナを使用する事に長けていない人間でもごく普通に扱える。それ程までに魔鉱石が食うマナというのは極小なのだ。

 

しかしテンはその、小鳥の涙よりも少ないマナを使用して「違和感がある」と言った。魔法を使わぬ人間ですら影響を及ぼさない量を使用して、魔法を多用するテンは「違和感がある」と言った。

 

たったその程度の量でゲートが疼き、更には痛みまでも伴った。マナの消費に歪んだゲートが過剰に反応している証拠だろう。

 

果たして、これが何を意味するか。

 

 

「んで。違和感があるからなんなの? ゲートになんかあるの?」

 

 

未だ悲劇の後遺症が色濃く残るテンにやるせない感情を抱かざるを得ないラムを放って、テンは訪ねる。澄まし顔のまま眉がひとつ動かない彼女に首を傾げると、彼は返答を待った。

 

しばしの沈黙を得て時が動き出したラム。重なる戦慄の処理を終えた彼女は「えぇ」と軽く頷くと、

 

 

「決して無視できない事がね。……分かった。なら、まずはテンテンの身体のことから話してあげる。手短に話すから黙って聞いてなさい」

 

「分かりました」

「黙って聞いてなさいと言ったはずよ」

 

「ーーーー」

 

「返事は?」

「理不尽ッ!」

 

 

聞き慣れた声色で騒ぐテンだが彼女は気にも留めていない。振り返り、火にかけた水がお湯になったのを確認すると「黙ってたら怒るし、黙ってなくても怒るし。気分屋かよ……」とボヤく抗議の声を無視して立ち上がる。

 

慣れた手つきでケトルを机に置くと蓋を開け、小袋に入った茶葉を投入。テンが紅茶を淹れようとした理由はよく分からないが、これでひとまずの準備は完了した。

 

 となれば、

 

 

「場は整えた。さて、話しましょうか」

 

「うん。お願い」

 

 

片腕で頬杖をつくラムが一呼吸分の間を置くと、テンは椅子の上で器用に胡座をかきながら背筋を正す。

 

聞く態度を示した彼にラムは頬杖をついてない方の手を向け、

 

 

「身体に関して話したいことは全部で三つ。一つ目は、ゲートについて。二つ目は、傷痕について。三つ目は——その脇腹について」

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

時々、緊張した雰囲気を誤魔化すような茶化し合いが含まれたものの、二人の話し合いは順調に進んでいった。ラムが知るテンの今を、彼自身に余すことなく伝え、一つ一つ現実を受け止めさせていく。

 

 

「マナを枯渇するまで過度に消費し、加えてオドまで使ってまで魔法を行使した結果、テンテンのゲートは異常なまでに歪んでしまった。——現状を簡単に説明するならこんな感じよ」

 

 

まず初めにラムが伝えたのはゲートのお話。

 

激化する一方であった魔女教徒との戦闘の中でマナが枯渇するまで使い切り、加えてオドまでもを使ったことでゲートがひどく歪んでしまったこと。

 

恐らく、元から質が良かったことが裏目に出た。燃費が良く、加えて人並みよりも貯蔵量の多いマナを使い果たすとなれば、ゲートに掛かる負荷も相当なものになるだろう。

 

ゲートも身体的な機能と変わりないのだ。使えば使った分だけ疲労し、許容値を越えれば生命に影響を及ぼす前に何らかの形で警告音を発するもの。今の彼は正にその、警告音が鳴り響いている状態。

 

要するに、今の彼のゲートは少しでも——小鳥の涙程度のマナを使うことすら許されぬ程に傷ついているということ。使えば、それは必ず壊れてしまう。

 

 

「その歪みは治るの?」

 

「自然治癒か、王国最高峰の治癒術師を頼るかの二択。そうでなくても最低でも一ヶ月は魔法の使用は禁止だそうよ。絶対、ゲートに負荷をかけないことをベアトリス様は念押ししていたわ」

 

「最低でも……。なら、最長は?」

 

「分からない。二ヶ月か三ヶ月か、それよりも長いか。テンテンの体に治癒魔法を施したベアトリス様もそこまでは把握できなかったそうよ。簡単に戻せるものでもないし」

 

 

それはつまり。テンが魔法という武器だけでなく、身体能力を底上げする流法まで失ったことを意味した。自分にとって無くてはならない刃が、無慈悲にも奪われたことを示唆した。

 

ゲートが治るまでの期間が不明ともなれば、彼が心に得た衝撃は凄まじいものだっただろう。一体、今までの努力はなんだったのか。自分がやってきたことはなんだったのか、と。

 

 尤も、

 

 

「レムとラムが守れたなら、それも本望か」

 

 

目の前の女の子を見ると、それもまた一興なのではと思うことができたテンである。自分の犠牲一つで守れた人達がいるなら、ゲートの歪みなど安いもの。

 

それにずっとではない、一時的なものだ。時間が経てば自然と治癒されていくものならば、それを待てばいい話。

 

色々と思うところはあるが。起こってしまったものはしょうがないし、元より代償もなしに戦いを終えれるなんて甘い考えは頭の片隅にもない。

 

真正面から事実を受け入れ、納得した。

 

 

「驚いた。ラムの中のテンテンはこの事実で気落ちしているのだけれど、実際のテンテンは違ったようね。……精神的にも、ちゃんと強くなったようで安心したわ」

 

 

そんな彼の反応にラムは驚いた様子だった。

 

彼女の知っているテンはもっと弱々しくて、何度覚悟を決めても揺らぐ、過去をずっと引きずるような情けない男だと思っていたのに。良い意味で予想を裏切られる。

 

勿論、少し前——あの夜を経験する前まではそうだった。ラムが思うテンが本当の姿で、情けない彼だった。

 

けど、それじゃダメだとテンはあの夜に知った。弱々しい自分はいらない、色んな人に迷惑ばかりかける精神弱者な『空野・天』はここから先には不必要なのだと痛感した。

 

魔獣の大群に単身で飛び込むハヤトを見て。自分も行くと泣きついてきたエミリアを見て。自分にレムの命を頼んできたラムを見て。いかないでと必死に縋ってきたレムを見て。

 

弱々しい自分じゃダメなのだと。安心して背中を預けてもらえるような自分にならなければダメなのだと。それができるくらいの器にならないと男としてダメなのだと。

 

もう、誰も悲しませたくない。誰も苦しませたくない。だから、もっともっと強くならなくちゃいけない。実力以前の話——精神的に強くならないと。

 

故に、今の自分には人としての成長が求められている。成りたい自分に成るためにも、その自分に一歩でも近づくためにも。

 

 ——自分の気持ちと向き合って、レムの気持ちを受け止めるためにも。

 

 

「いつまでも支えてもらってちゃ、情けないもんな。ハヤトにも、エミリアにも、レムにも、ラムにも。俺はいろんな人に支えられて、やっとここまで強くなれた。——なら、今度は俺の番だ」

 

 

正直、まだ心の整理はついていない。

 

これまでずっと目を背けてきた自分の想いと、レムに向けられる想い。その二つと向き合って、何かしらの答えを出さなければならないのに。

 

なら、これから向き合おう。今この瞬間を超えた先で自分は二つと正面から向き合おう。あの悲劇を受けて心のあり方を見つめ直した今、自分がどう在りたいのかを明確にして。

 

 

「俺がみんなを支える。支えられるように、心の拠り所になれるような男になってみせる。騎士として、友人として、男として。俺は、お前達にとっての安心できる人になるよ。絶対にね」

 

 

情けない自分から変わるため。普通の中にあった、確かな決意のもとにテンはラムに言い切った。

 

前を向け。背後を振り返るな。お前が守りたいと思う人たちはそっちにはいない。今と全力で向き合え。向き合って、前に進んで、進んで、進み続けろ。

 

そうやって、自信なんて皆無で情けなくて弱々しい自分を強く叱咤したのだ。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

テンがラムに、情けない自分を変わる決意と覚悟を強く表明したことはさておき。ゲートに関して、それ以上はなかった。

 

彼のゲートを治すためにフェリック・アーガイルの力を借りようとラムが言い出し、対価という観点からテンが要らないと拒否。そこから少しばかり二人が口論になったりはしたが、

 

 

「今はまだ保留にしてあげる。全員が揃った場でもう一度意見を聞かせてもらうから。そのつもりで」

 

「意見を変えるつもりはないよ」

 

「だとしてもラム以外の意見を聞けば、なにか変わるものもあるでしょうし。ラムの一存で全てを決定する権利があるわけでもない。この場で結論を出すのは軽率にも程がある」

 

 

治癒を受けさせてあげたいラムと、治癒を受けたくないテン。どれだけ長引いたとしても両者の意見は変わらず、話は平行線なそれはラムが強制的に終わらせた。

 

今、大事なのはそれではない。もっと他に言わなけばならないことが沢山ある。それに、絶対にこの場で決めなければならないことでもないだろう。

 

 

「それじゃあ、二つ目はその傷痕についてだけど……話す必要ある?」

 

「んーー。大体把握してるからないと言えなくもないけど。一応、お願い」

 

 

治療の件については頭の片隅に置いておくとして、ラムは話を次に移した。ゲートの次は、テンの体に刻まれた凄惨な傷跡についてだ。

 

 

「その二つは、完全には消えなくともそれに近い状態にまで治すことはできるそうよ。レムとエミリア様に感謝するといいわ」

 

「あの二人が?」

 

「ベアトリス様が疲労している間——あの夜から昨日までの七日間、日替わりで治癒魔法をかけていたもの。ベアトリス様の治癒が大きいと思うけど、あの子達の尽力も無駄にはなってないはずよ」

 

 

聞いたところ、上半身を惨状にしていた火傷と打撲の痕は完全には消えなくともそれに近い状態にまで治すことはできるそうな。

 

理由はラムが語った通り、ベアトリスの以外にも手を尽くしてくれた少女二人がいたお陰だ。残念なことに右目の下に刻まれた一筋の白い線——斬撃の痕は確実に残ってしまうそうだが。

 

仕方ない。そう、テンは受け止めた。全てを受け止め切れたわけではなく、その時のことを思い出して震えていたけれど、彼はラムの「大丈夫?」という心配の声もあってか落ち着けた。

 

考え方次第だ。あれだけの傷を負っておきながら傷痕が一つしかないなんて、良かった方だろう。死すら覚悟していたのだ、生き残れただけでも万歳。傷痕なんて安いもの。

 

 なら、

 

 

「あとでレムとエミリアには会いに行かないとだよね。ありがとう、って言わないとだし。心配かけてごめんね、って言いに行かないと」

 

「そうするといい。かなり精神的に追い詰められている様子……、喜怒哀楽が抜け落ちてしまっていたわ。レムもエミリア様も、あの日から笑顔を一度も見せてないもの」

 

「マジかよ……」

 

 

意図して形ではなかった少女二人の現状を聞き、喉を悲痛に震わせたテンが出した声はひどく強張っていた。重ねて、疑心の念が瞳に宿る。

 

けれど、伝えたラムの表情は真面目そのもの。この場で嘘を語るなどと非礼な行為をする気配が一切しない彼女は、何度も見た本気も本気の顔をしていた。

 

嘘を語っていない証拠だ。本当の、本当にあの子達は精神的に滅入っている。けど、どうしてもテンは信じられない。

 

 

「あの二人が……? そんなの……だって」

 

 

 あの二人が。

 

常日頃から輝かしい笑みを浮かべ続けている二人が。時折、甘えたような態度で接してくる二人が。守られるほど弱くないが、庇護欲を煽ってくる微笑みを宿す二人が。

 

 

 ーー信じられない

 

 

そんな顔、見たくないと今さっき決意したばかりなのに。決意した時には既に遅く、自分が死にかけた(こうなった)時点でダメだったようで。

 

 

「分かった。なら、俺がなんとかするよ」

 

 

言葉の余韻から抜け出したテンが拳を強く握りしめながら、それ以上の力強さで語る。自分なんかでどうにかできるのか——そう考えるよりも先に自分のやれることをやる方向に心を動かした。

 

今さっき決意したばかりだから。今度は自分の番だと、弱々しい己に言い聞かせたから。大事な人たちを支えられるようにと、心に深く刻み込んだから。

 

自分の力でどうにかなるのかではない、どうにかする。あの子達の悲しむ理由が自分なら、自分が凍りついた心を溶かしてみせる。他でもない自分が。

 

 それが、

 

 

「俺にできるあの子達の支え方。震える手を……か、か、身体を、優しく包み込んであげることくらいは、頑張ればできるはず……できるはず。いやできる、できるようになれ。できるようにならなくちゃいけない。これからのためにも」

 

「暴走したレムを助け出す時に、その男気を見せてほしかった」

 

「言うな」

 

 

先程の決意が数分と経たず、態度に現れたテンを前にラムは苦笑。

 

現れたはいいものの、頑張って宣言した言葉に心が追いついてこない彼は女の子を受け止めるために努力中。その発言を乱れなくまだ言えないようで。心を通じて伝播する苦笑がテンの表情にも浮かび上がると、二人して苦笑し合う。

 

共通して思い浮かぶのは森の中——暴走したレムを前にしたラムがテンに自分の妹を助けてと放った時のこと。

 

あの時のテンは「自分なんかにそんなことができるのか」と心底不安そうにしていた。自信が無さすぎることが大きな原因で、寸前になってもまだ覚悟が揺らぎ。

 

それを一生懸命に焚きつけたラムからすれば迷惑な話。どこまでもどこまでも脆弱な男は、あの瞬間ですら弱々しかった。本人もラムも、どうにかしてほしいと本気で思っていたところ。

 

尤も。そんな彼も今回の出来事を受けて自分の在り方を見つめ直し、今の発言に至ったと。もっと早く見つめ直してほしかったとは、決して贅沢な考えではないだろう。

 

できれば、そのまま妹の想いに気付けるようになってほしいとラムは思う。気付いてあげてほしいと願う。人として一つ上への成長過程にある今ならば、彼女の接し方に対する感じ方も変わってくるはず。

 

そうすればきっとテンとレムは————。

 

 

「……つぎ。次の説明に移るわ」

 

「よろしく」

 

 

自然、描いた未来絵図に姉としての心が反応してしまうラムが話を戻す。レムとエミリアの精神面においては彼に任せるとして——彼に任せられる事に感動を覚えるが、とにかく話を戻す。

 

少し、余談が過ぎたかもしれない。そんなことを思うテンはラムが自分の言葉を繋げるよりも先に「最後はこの脇腹だっけ」と、指摘した部位にそっと手の平を重ね、

 

 

「明らかに紫の痣が残ってるけど。つーか、この箇所だけ異常に痛いんだよね。体を起こしたときだって悲鳴上げそうになるくらいには痛かったし。とんでもねー痛みだよ」

 

 

視線を更に落としたテンは問題の箇所を見つめる。悩みの元は言った通り、右の脇腹。

 

異常だと感じたのは寝台から身体を起こした瞬間。なんの予兆もなく骨が軋むような音が響いた途端、打撃が直撃した直後のような痛みがした事。

 

 

「ここは治癒できなかったんかな。いや、治してくれただけでも感謝するべき。もっとひどい状態だっただろうし、ここまで治ってるのが奇跡だと思って感謝した方がいいよな」

 

 

恐らく、自分に最も治癒魔法を施してくれたであろうベアトリスの頑張りに感謝しつつ、テンはこれ以上の治療を刹那でも望んだ自分を咎める。

 

死亡同然の体をここまで治してくれた彼女に今よりも先を望むのは絶対におかしい。そんな無礼な真似をするなら、一時は死ぬ覚悟すら決めた自分が生きている奇跡を噛み締めるべきだ。

 

本当は死ぬはずだった自分。一度は行き着いた黄泉路の終わり——黄泉の国に流れ着くはずの運命を変えてくれたのだから。

 

冗談抜きでベアトリスは命の恩人。せめて恩返しとして、ちゃんと回復したらマナを分けてあげなければ。できれば干からびるまで吸われないことを願いたい。

 

 と、

 

 

「………ラム?」

 

 

脳裏に描かれた未来絵図。ベアトリスのマナドレインによって踠く自分の姿に戦慄——テンがラムの異変に気付いたのはその時だった。

 

彼が見たのは、机の上に置いた組んだ手を握りしめて俯いたラムの姿。こちらに顔色を窺わせることを嫌がるような俯き方の彼女は沈黙している。

 

脇腹の話題を出したあたりからか。大凡の見当しかつかないテンは「ラム。どうしたの?」と、もう一度呼びかける。しかし、返答はない。反応はしてくれているが、声には結びついていない。

 

 

「話したくない内容なの?」

 

 

急な態度の変化に、テンはできる限り優しく語りかける。無理に話さなくてもいいよ、と。口に出さずともその想いを込めて、彼はラムの心に寄り添った。

 

思えば、ラムは脇腹の話題に触れた時だけは妙に言葉に詰まっていた。言い辛いそうな、言いたくなさそうな、声にするのが辛そうな。言い表し方など何通りとある様子。

 

何が彼女を苦しめる。何が彼女を俯かせる。

 

その原因は間違えなく脇腹だが、肝心の理由が分からない。ならば、分かってあげられたらとテンは思考を加速させる。考える力に熱を加え、記憶の引き出しを手当たり次第に開けまくる。

 

理由として考えうるものとしては、傷痕が生まれた理由。傷痕そのものではなく、それが刻まれるに至った過程。その過程の中にラムの息を詰まらせる理由があるはず。

 

思い出せ。これ以上ラムに辛い顔をさせるな。

思い出せ。見たくないとついさっき決意しただろ。

思い出せ。彼女の口から『それ』を語らさせるな。

 

あの夜の記憶を駆け抜けるように遡る。意識が落ちる瞬間からずっとずっと前まで。この記憶も違う、この記憶も違うと、殺戮の舞台を越えて様々な記憶を横目にしながら通り過ぎ。

 

人生で初めての体験ばかりで、心が大きく動いた血の夜。レムを救うために暴走した彼女と戦ってまで救い出した————、

 

 彼女と、戦ってまで。

 

 

「ーーーー」

 

 

 瞬間。

 分かった。

 刻まれた理由。

 

 途端。

 分かった。

 ラムが苦しむ理由。

 

 だってこの傷は————。

 

 

「無理に言わなくていいよ。ラム」

 

 

「分かってるから」と。

 

一つの記憶を見た途端から全てを理解した気がしたテンは俯くラムに優しく話しかける。

 

記憶を詮索しすぎた結果として頭の中がオーバーヒートしそうになりながらも、彼はラムの心に寄り添った。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

「話したくないなら話さなくてもいい。その代わり、正しいかどうかだけ教えてほしい」

 

「いいわ。聞きなさい」

 

「この傷は、俺とレムが戦った時につけられたもの。っていう認識で正しい?」

 

「正しいか否かを問うなら、そうなるけど。……まさか、ラムの妹が悪いとでも?」

 

 

ラムが話したがらない以上、あまりその話題を口にさせるわけにはいかないテンの短い問いかけと、そんな彼の声に真実のみを話すラムの問いかけが瞬時に交差する。

 

その問いかけ、テンからすれば愚問も極まったのもだ。答えなど、初めから決まっている。というよりも、あの夜に伝えた。ただ、再確認をしたいのならば今一度、ちゃんと伝えよう。

 

そんな風に思いながらテンは「そんなこと思ってるわけないだろ」と、やや強めに声を尖せ、

 

 

「因果関係で物を語ればレムのせいだと言えちゃうかもだけど。俺はケガをすることくらい承知の上でレムを助けたんだ。その結果として付けられた傷に責任の所在を見つけ出そうとすんのは、違うよ」

 

 

「んーー。上手く言えない」と、そうやって言葉を終わらせる。自分の心を言葉として上手く表せられない彼は、もどかしさから額に手を当てて悩む素振りを見せた。

 

語彙力の無さが仇となって言いたいことが全く言葉にならないのは前々からだが、それがこんな時にも浮かび上がってこられるのは心底困ってしまう。

 

それでもテンは悩み、悩み、その果てに形成された言葉に「そう!」と指をパチンと鳴らし、

 

 

「誰が悪いかとか、そんなんじゃない。みんな自分の意志に従って動いた結果、今なんだ。俺も。レムも。ラムも。ハヤトも。みんなみんな、自分がそうするべきだと思ったから動いた。そこに良いも悪いもあるかよ」

 

「下手な言い回しは結構よ。素直に言いなさい」

 

「レムは悪くないっ! 責任を感じる必要はありませんっ! 以上ですっ!」

 

 

鳴らした親指を聳え立たせるテンは語尾が跳ね上がったと同時に力強いグーサイン。自分の体が傷ついたことなど一欠片も気にしていない彼は、曇り一つない笑顔を弾けさせた。

 

直球で素直な想いを深く受け止めたラム。彼女は、しばしの沈黙を置いてから「ふっ」と僅かに微笑み、

 

 

「それが聞ければ十分。あの夜に聞いた事の再確認の意味を込めたものだったけど、意見が変わってなくて良かったわ。テンテンもそう思ってくれてるなら、ラムも安心できる」

 

 

底知れぬ激痛を受けた。否、現在進行形で受け続けている当人の素直な意見にラムは心の中で「ほっ」と一息。物理的に胸を撫で下ろしたくなったが、それはやめておいた。

 

自分がそうするべきだと思ったから動いた。そこに良いも悪いもない。——確かにその通りだと思う。

 

あの夜は誰かに「動け」と言われて動いたわけでもなく、自分がそうしたいと思ったから動いた。故に、そこから先の出来事が招く悲劇に責任の所在を見出すのは絶対に違う。

 

そもそもの話として、あの戦いに『責任』という言葉は似合わない。

 

何がどうなったとしても誰も悪くない。みんな本気で生きようとして、助けようとして、今になったならばそれを一つの形として受け止める。問題は、受け止めてからどうするか、だ。

 

敢えて見出すとしたら魔女教徒だ。アレが来なければこんなことにはならなかった。あの夜が齎した全ての悲劇の根元は世界にとっての最悪にあり、自分達は何も悪くない。

 

 悪くない、はずなのに。

 

 

「テンテンがそう言っても……あの子は、責任を感じてるわ」

 

「だろうね。レムのことだから、なんとなくそんな気はしてたよ」

 

 

事実は変わらない。結果は揺らがない。

 

「責任など無い」「悪くない」「自責の念に駆られる必要はない」——例え、テン自身がそんな言葉をかけても、レムにとっては無駄になってしまう。

 

だって、レムにとって一番優先されることは愛する人を傷付けた事実そのものなのだから。どんな言葉をかけられようとも、その事実一つが全部を蹴散らす。

 

 

「テンテンを傷付けたこと自体が許せないから、レムは自分を許すことができない。自分のせいだ、ってずっと苦しんで、ずっと悲しんで。そのままにしてここまで引っ張ってきた——。それが今のレム」

 

 

レム自身、テンが自分のことを許してくれるなど分かっていると彼女は話していた。テンが贈り届けてくれた愛に満ちた言葉の数々に、自分に罪などない、責任など無いと思わされていた。

 

それでも、今もなお苦しみ続けるの腹頭では理解していても心が受け止め切れなかったからだろう。心はその意味を理解しようとはしなかったのだ。

 

自分がテンを傷つけたという事実がなによりも先行することが原因だろう。他の事実を置いてけぼりにして、それしか見えていないのだから。

 

 

「レムがレムを許せない、ね。俺を傷付けたことが精神的に大きかったのかな。まぁ、人一倍、責任感を抱え込みやすい子だからそうならないとは言い切れないけど。そこまで気にする……ことか。気にすることだよね」

 

「えぇ。気にすることね」

 

 

 ーーレムは貴方のことを愛しているから

 ーーレムは俺のことが好きだから

 

 

今、奇しくも同じことを同時に心の中で声として発したテンとラム。二人の表情が目に見えて暗がる。両者とも目の前の存在に釣られる形で顔に影が差し、心が勝手に作った言葉のお陰で無意識に沈んだ。

 

 ——想い人を傷付ける。

 

果たして、これ以上に辛いことなどあるだろうか。あるとすれば殺めることか。どちらにせよ傷付けることに変わりはない。

 

理由はなんであれ、愛する人を傷付けることは許されることはあっても許すことはない。他の誰もが許しても、当人だけは許せるはずがない。それはラムもよく分かっている。自分だってそうなのだから。

 

姉妹の心は、いつだって同じ方向を向いているのだから。それ故に、現状を打破することが一筋縄ではいかないことを完全に理解できてしまうのがラムにとっては辛い。

 

 

「それで、レムは今どんな状況? 病んでたりしない? 鬱病とか、それに近しい状態になってたりしてない……よね?」

 

 

精神的な負担から派生して辿り着いた事をテンが恐る恐る問いかける。その声の大半は、願望で作られていた。

 

だってその問いかけは、半ば答え合わせのようなもの。問いかけの返答に予測がつくそれは間違えなく愚問だ。聞かなくとも分かり切っている。

 

 その僅かな願望は、

 

 

「どうかしらね。昨日の今日だから、少しは発散できたと思いたいところだわ。それでもまだ、悪夢に魘されてる可能性は否定しきれない。あの子の表情から感情が無くなったことも。あの日から——」

 

「ちょい。ちょい待ち。まったく追いつけない」

 

 

広げた右手をラムに突き出すテンは「待て」の仕草。言動で止まらない語りに区切りをつける彼は小指と親指を折り畳んで『三』の意味を形作り、

 

 

「情報が混濁しすぎて分からないよ。昨日の今日ってなに? 昨日、なんかあったの? レムが悪夢に魘されてるどーゆーこと? 最後の、感情が無くなった、ってなに?」

 

 

その小さな慌て様にラムは急ブレーキ。それに関しては自身の落ち度だと一瞬で理解した彼女は、はっとしながら立ち止まった。

 

なにせ、テンはまだ目覚めてからここまでラムの口から語られた事しか知らない。知っていることを前提として話したのが間違えで、配慮に欠けていた。

 

 

「昨日のことは……話すと長くなるから省略してもいい?」

 

「いいけど。要点だけまとめると?」

 

「レムの溜め込んだものを少しだけ発散させる出来事があったのよ」

 

 

「ん。そっか」と。三つのうちの一つが解消されたテンは無理やり納得。説明足らずにも程があるが、後々聞くとして今はそれだけで済ませる。

 

レムの溜め込んだものを少しだけ発散させる出来事は、気にならなくもないけど別に無理に聞くことじゃない。

 

 

「悪夢、ってのは?」

 

「想像つかない?」

 

 

問いかけに対して問いで返されたテン。問いただすはずが逆に疑問符を投げかけられた彼は一呼吸分の間を置くと、

 

 

「話の流れ的に……俺を傷付けた事が夢に出てくるみたいな? そんな感じ?」

 

「そんな感じよ。あの日から毎晩、レムは悪夢に魘され続けてる。寝不足になって顔色が悪くなるまでね。化粧までして誤魔化していたもの」

 

 

淡々とした口調で語られたテンは眉間に皺が寄る。軽いテンポで明らかになった事実だが、軽々しく口にしていい内容ではないことは分かった。それを話すラムの表情もあまりいいものとは思えない。

 

背負う責任感が悪夢に繋がっているとは。知りたくなかったし、予想が正しい事であってほしくなかった。それに、実現もしてほしくなかった。

 

もしかしたら今も苦しんでいるかもしれない、そう思うテンは珍しく「チッ」と舌打ち。苦しむ彼女を放って自分は八日間も寝ていたのか、と。

 

 

「最後のだけど。感情が無くなったのは表現が突飛すぎたわ。喜怒哀楽が欠け落ちてしまった、と表現するのが適切かしら。笑顔を見せていないと言ったでしょう。それのことよ」

 

 

荒ぶる感情を抑え込むテンに、ラムはどことなく嬉しそうな気配を漂わせながら語り終える。

 

どうして漂わせたか。普段から穏やかで荒ぶる事が殆どない彼が、他でもないレムに対して荒ぶっている——それが不謹慎ながらに嬉しいからだ。

 

 

「要するに、昨日なんかあって溜めた感情を発散させたけど。それが悪夢の解消に直結するとは限らないから、まだ笑顔が戻っている確証はないと」

 

「えぇ」

 

「ついでに、悪夢に魘されている可能性も否定できないと。発散できたとしても、根本的な問題を解決したことにはならないから、一時的な凌ぎにしかならないと」

 

「そういうことね」

 

 

情報の糸を解き切ったテンが要点だけをまとめると、返された言葉はラムの無慈悲な肯定。何一つとして間違っていないことが明るみになったところで「そんなの辛すぎるよ」と、彼の声が震え出した。

 

どうしてレムばかりが辛い想いをしなければならない。何も悪くない——本当の本当に悪くないのに、どうして苦しめる。化粧までして憔悴していく自分を隠そうとする彼女を思うと、涙が出そうだ。

 

 

「レムが自分自身を許さないのか……。じゃぁもう、これはレム自身の問題、ってことになるのか。レムの心をなんとかしないと、悪夢からは解放されないのかな」

 

「それなら、テンテンはどうしたらあの子があの子自身を許すことができると思う?」

 

 

自然な流れで聞きたかったことをラムは問いかける。彼女はその答えをテンに迫った。

 

テンならばなんて言うだろうか。ラムという人間にとって行動の先読みが恐ろしく困難な相手ならば、どんな答えを導き出すのだろうか。

 

相変わらず読めない思考回路が辿り着く答えは、レムがレムを許せるようになる答えは、きっと屋敷の誰もが頭の片隅にもないようなもので————、

 

 

「別に、無理に許す必要はないんじゃないかな」

 

 

それら全てを、当然のようにひっくり返してきたテンにラムは己の時を停止させられた。

 

許せないなら許さなくてもいい。それがテンの答えだ。生きていれば絶対に許せないことの一つや二つはあるもので、わざわざ譲る必要はないだろう。

 

 だから、

 

 

「その代わりに受け入れる。許せない自分を受け入れて前を向いていくしかない、と思いました。レムの場合は、自分が許せない、で止まってるから今みたいになってんじゃないかな」

 

「ならテンテンは、レムが自分を許せない自分を受け入れられたら、そうなることができたら。悪夢から解放されると思うの?」

 

「そーなるね。否定でも肯定でもない許容。それをそれだと受け入れてあげる。どんな自分だって自分なんだから。そうやって前を向いていくしかない」

 

「テンテンは情けない自分のこと否定したのに?」

 

「それは、俺の場合はその自分を否定できるからの話だよ。レムの場合は、許せない自分を否定も肯定もできない、なら受け入れてあげようよってこと」

 

 

レムが自分を許せないなら、別の方向から救い出すしかない。否定と肯定だけが救済の形だと思っているのなら、それは間違えだ。やり方は、もっと他にある。

 

なら、テンはそこに新たな選択肢を作る。許せない自分を受け入れる『許容』という最後の選択肢を。

 

目を逸らさず、真正面から受け止めさせる。受け止めて、前を向かせる。前を向かなければ、何も進まないのだから。そこに蹲ったままでは、何も始まらないし終わらない。

 

それをテンは知っている。否、知った。

 

立ち止まったままでは、自分に向けられた想いと向き合うことなど決してできないと。俯いてる暇があれば、前進することに意識を向けるべきだと。

 

 

「許せないなら無理に許す必要はない。けど、その代わりに受け入れる。これが、否定も肯定もできなくなった人に残された最後の道だと俺は勝手に思ってる」

 

 

今、レムの目の前に『否定』という道と『肯定』という道があったとして。

 

否定の道を進むなら、許せない自分をレムは許す必要がある。それができたら今のようになっていない。許す方法が分からないのだから。なら、この道は進めない。

 

肯定の道を進むなら、許せない自分を正しいと認める必要がある。これはレムとしては論外だろう。愛する人を傷つけた自分を誰が肯定できるか。なら、この道も進めない。

 

自分に与えられた道を進めない。それが今のレム。なら、別の道を示してあげれば良い。

 

 

「許容って言葉は『許す』っつー意味もあるけど。この場合は『受け入れる』って捉えてほしい。許さなくていいけど、受け入れる。許せない自分を受け入れる、みたいな」

 

「でもそれは、否定も肯定もできずに決断することから逃げた人間がすることだとラムは思うわよ。責任感の強いレムが、そんな簡単に現実を飲み込めると思っているの? 許せない自分を受け入れる? 本気で言ってるの?」

 

「それは………」

 

 

核心をついた言葉にテンが黙り込む。

 

その通りだ。自分が引いた道はあくまで否定と肯定のどちらからも逃げた選択肢。受け入れるということは、決断することから目を背けたことに等しい。

 

美しく語っているが結局はそう。許容という最後の選択肢は、その二つから逃げた者が手に取るもので、形としては良くはない。受け入れて前に進めることなんて、簡単にできることじゃない。

 

果たして、レムができるだろうか。許せない自分を丸ごと飲み込むことができるだろうか。飲み込んで、前に進むことがレムにはできるだろうか。

 

 否、

 

 

「なんとかする。受け入れさせる。肯定も否定もできないなら、それしかないでしょ。他にもあるかもだけど、悪いけど俺には思いつかない」

 

「レムの姉として言わせてもらうけど、それは厳しいわよ。あの子の責任感の高さは筋金入り……そんな子に受け入れさせられるの? テンテンは、自分の声をあの子の心に届かせられるの?」

 

「俺の声なら、届くと信じてる」

 

 

否定的な疑問を叩きつけてくるラムにテンは一歩も譲らない。自分の考えを真っ直ぐ貫き通す彼は、ついに精神論まで持ち出してレムにレム自身を受け入れさせると断言した。

 

その言葉の意味。もしかしたら、自分が待ち望んでいた発言を聞き出すことができるかもしれない。本当に偶然だが、次の問いかけ次第ではテンの口から言わせたい言葉を言わせられるかもしれない。

 

ならば試す。確かめさせてほしい。そして、期待通りの言葉を言ってほしい。そうすればきっと、自分は妹のことを任せられる。

 

彼に——ソラノ・テンという男に、レムという世界で唯一の妹の全てを預けられる。

 

 

 ーーならば何を問う?

 

 

そんなの決まっている。考えるまでもない。

 

普通通りに、平常心を装い、込み上げるものを抑え込みながら、万感の想いを胸に抱いて、

 

 

「どうしてそう言えるのか。教えなさい」

 

 

 ラムは、問う。

 

数ヶ月間、ずっと聞きたかった言葉を聞くために。もどかしかった日々を終わらせるために。

 

問われたテンは命の時間が止まったように静止した。問いかけに対しての答えが一つしかないことに、彼は数秒間だけ沈黙を纏っている。

 

その沈黙も終わると、テンは覚悟したように「うん」とひとりでに頷き、

 

 

「そんなの決まってるよ」

 

 

陰りの一つもない純粋な笑み。迷いのない真っ直ぐな瞳。邪な感情が含まれぬ声。それら全てを目の前の存在に向けて。

 

その発言をすれば後には引き返せない、そうなられた人間としての役目を背負うことになると。今、そな胸に深く深く刻み込みながら。

 

 

「だって、レムは——俺のことが好きだから」

 

 

ラムにとってずっと聞きたかった言葉を、彼はやっと言ってくれた。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 

「この鈍感男ーー!」

 

 

テンがレムの想いに気付いたと分かったラムが、一番初めに言った言葉はそれだった。レムのお姉ちゃんとしての心が何よりも先行し、目の前の情けなかった男に叩きつけられた。

 

色々と掛ける言葉はあるかもしれない。一挙に声を上げた胸の内に秘める疑問の羅列、聞きたいことは山ほどある。

 

掛けなければならない言葉はあるかもしれない。その関係が起点となって渦巻き続けてきた、掛けたい言葉は星の数ほどあるから。

 

でも、それでも、ラムの口はテンに対する怒りの激情を吐き散らしていた。レムの姉としての自分が、妹を変えてくれた感謝を語る前に心を埋め尽くしていた。

 

 

「一体あの子が、何回、何十回、何百回、あなたに想いを伝えてきたか知っているの? 直接的な言葉ではないにしろ、それに近しい態度は日々の中で沢山あった。今、思い返せば分かるわよね? 分からないなら本当に殺すから」

 

「はい。わかります……」

 

「どうしてもっと早く気付いてあげなかった……とは、言わない。言いたいけど、言わない。それは、テンテンが一番分かってるとラムは信じてるから。言わないでおいてあげる」

 

 

そうして殴りつけられ続けた怒りの情に、テンは心が沈みゆく一方であった。レムの想いに気付けなかった回数が底知れぬと理解した心が深く抉られて、刻まれて、一生の傷痕が深々と残る。

 

本当に自分は最低だ。あの瞬間——精神が黄泉路にいたとき、レムの愛を聞いてやっと気付いたのだから。

 

遅すぎるにも程がある。言われないと分からなかった。弁明する気にもならない。嫌われてしまえとす思えてしまう。

 

思えたならば、言うことは一つだけ。

 

 

「俺は、ほんとうにダメなやつだな」

「そうね。ダメすぎる」

 

 

事実をポツリと落としたテン。心の中の声が無意識的に漏れたそれにラムが反応したのは刹那。己の弱さを自覚し、打ちひしがれるテンの声にラムの芯のある声が重なった。

 

その声に冗談の二文字はない。一秒たりとも視線を外そうとしない彼女は本気で、ソラノ・テンという一人の男のことをダメなやつだと言い切っている。

 

思考を介せず脊髄反射で反応したと思わせるそれにテンは笑った。「ふっ」と、あまりにも感情が無さすぎる笑みだった。

 

それが過去の己を嘲笑ったものであることなど、ラムには容易く分かる。テンと深く接してきたラムには、彼の心境がよく分かる。

 

だからこそ、ラムはその先の言葉を繋げた。

 

 

「でも、そこで終わらせないのが()()()の『ソラノ・テン』でしょう」

 

 

テンの正面に座り直すラムが俯く顎に手を伸ばし、指を揃えた右手が彼の顎を優しく掬い上げる。

 

上がった視線、その先にいるのは赤色の瞳に確かな温かさが浮かび上がったラム。

 

 

「ダメな男から変わると言ったのは誰? 自分の弱さを否定したのは誰? ラムの知っているあなたを過去のものにすると語ったのは、誰?」

 

 

力強い眼差しで、テンの語った決意と覚悟をラムは再び問う。

 

いつの間にか怒気の気配を消失させて、代わりに森の中で覚悟を問いかけてきた彼女と同じ気配が漂っていた。

 

 

「それなら、あなたはどうなるの? どんな自分になって、どうしたいの? それを今一度、教えなさい。——このラムに期待させておいて、情けない回答をしたら許さないから」

 

 

そこに、今回は新しく『期待』の二文字が加わったことにテンは心を震わせる。

 

厳しめの言葉をかけながら。しかし今の言葉には常日頃から言霊に込める皮肉も、投げやりな感情もなにもなく、純粋な好意のみによって作られた温かみがあった。

 

なら、自分はそれに応える必要がある。彼女に期待を向けさせた人として、それに対する想いを伝える必要がある。

 

 「ふぅ」と、深く息を吐く。

 それで胸の中にあった決意と覚悟を妨げる感情を諸々全て吐き出す。

 

 「すぅ」と、深く息を吸う。

 それで肺を大きく膨らませて曲がっていた背筋をピンと伸ばし。ラムと目を合わせ。

 

 そして、

 

 

「自信なさげで弱々しかった自分を振り切って、ラム達を支えられるような自分になる。向き合うこととちゃんと向き合えるような自分になって、レムの想いに応えたい、応えてあげたい」

 

「それで?」

 

「だから、俺はレムのことをたくさん好きになる。今よりももっと……、気づけてあげられなかった分を取り返せるくらいに好きになって。好きになられた人としてやれることを尽くすよ。前からの『空野・天』じゃなく、今からの『ソラノ・テン』として」

 

 

今この瞬間、故郷の自分を完全に振り切るとテンはラムに固く誓う。決意という決意を、覚悟という覚悟を重ねてようやく、彼は本当の意味で殻を破った。

 

今まで——十八年という人生の中で築き上げられてきた『空野・天』から。この世界に来て、様々な経験を越えて、初めて自分という人間を見つめ直して、本気で変わろうと思えた『ソラノ・テン』へと。

 

 

「……そう」

 

 

言い表しようのないテンの変化を見届け、それを肌で感じたラムの声はいつになく弾んでいた。一言、たった一言でも伝わる弾み度合いは、彼女の心境をなによりも語っていた。

 

どうしてだろうか。目の前の男がいつも自分が見てきた男と少し違って見える。別段、これといって変わったことはないが、なんとなくそう捉えてしまう自分がラムの中にはいた。

 

姿形——ソラノ・テンという男は至っていつも通り。が、覚悟と決意を告げてから心持ちが以前とひっくり返った彼は、明らかに何かが違う。

 

 

「鈍感で、レムの想いに気付けなかったことに関しては許さない。悪いけど、姉として許していいとは思わない」

 

 

言った瞬間、ラムは笑む。

 

ただ純粋に、嬉しいから笑ったと見る者が勝手に思うような美しい笑みから作り出される言葉は、割と辛辣だ。姉として決して譲らない気持ちだけは曲げはしない。

 

けれど、表情が辛辣を相殺しているお陰で全く辛辣に聞こえない。ラムが向けてくる柔らかな笑みがその言葉を完璧に破壊している。

 

 

「けど、それ以上に感謝してる」

 

 

膝上に手を添えて背筋を伸ばすラムが放った言葉は、テンにとっては予想外に予想外を重ねられたようなもの。まさか、このような場で感謝を贈られるとは思わなかった。

 

否、このような場だからかもしれない。雰囲気の整った場でないとラムは性格上、自分の胸の内を出したりはしない女の子。

 

一つ一つ。その中で言えずにいた言葉を紡いでいくのだ。

 

 

「あなたの存在が、あの子を変えるキッカケになったことは確かで。そこから色々と悪い方向に進むだけだった事が変わりつつあるのも確かだから」

 

 

ずっと伝えたかったこと——ラムがテンに言いたかった想い。レムの姉として密かに抱き続けてきた感情。あの夜に言えなかった言葉。

 

それらが行き着く一つの気持ちを今。今しか伝えることのできない気持ちを今。ラムはテンに伝える。

 

一度だけしか言ってやらないからよく聞けよ、と。そう思いながら——、

 

 

「——ありがとう、テン。レムを助けてくれて」

 

 

 ——ラムがテンに、出会ってから初めて満面の笑みを咲かせる。

 

一輪の桃色の花が満開になったと錯覚させられるそれは、意識していないと呼吸を忘れてしまう程に綺麗だった。

 

それに、ラムはテンの名前をなんと言った。

 

 

「俺はまだ、レムを助けてないよ。彼女はまだ悲劇から解放されてない」

 

 

全部が全部クリティカルヒットすぎるテン。可愛いというよりも美しすぎて照れてしまいそうな自分をどうにか隠す彼は咄嗟に浮かんだ事実を口にし、

 

 

「でも、助けてくれる。そうでしょう? 前もって言わせてもらっただけよ」

 

「ーーーー」

 

「それに、今に限った話ではないわ。テンテンがあの子と出逢ってくれたこと、あの子の好きな人になってくれたこと、あの子が変わるキッカケになってくれたこと。全部まとめてよ」

 

 

いつもよりも情に色彩が宿る彼女は小さく頷き。「ラムのことも、ね」と、最後に口元を柔く緩ませて長く続いた語りを締める。

 

そんな中、目の前の存在が自分の知るラムなのかと本気で疑うテンだ。

 

今日は少し、いつもと違うラムの顔を見ることが多い。毒舌で、横暴で、自分勝手な——誰よりも心優しき少女ラム。設定された性格を存分に振るう彼女は、しかし今だけは違っている。

 

そんな彼女を見ていると、もう自分が画面の中で観ていたラムはいないのかもしれないと不意に考えた。

 

だって、こんな彼女、見たことも観たこともない。人の手によって創り出された存在とはまるで違う。設定という言葉を簡単に覆してくるラムは、自分しか知らないラム。

 

だとしてもラムらしくないとは思わない。どんなラムだってラムなのだから。例え、初期設定からかけ離れていたとしても、ラムはいつだってラムなのだから。

 

 

 ーーなら、もう原作なんて言葉に縛られる必要などないのではないか?

 ーー自分の気持ちに、正直になってもいいのではないか?

 ーー自分達はこの世界で生きているのだから。自分達の物語を、歩んでいるのだから。

 ーーいつまでくだらないものに縛られているつもりだよ?

 

 

 ーー『空野・天』(その自分)は、もういないだろ。

 

 

鼓膜の内側から己の声が反響する。

 

運命、原作、それに近しい何かに縛られ続けて苦心する自分を叱咤する己の声が。今まで以上に大きく、強くなって自分の想いを膨らませていく。

 

「原作の通りに進ませなくてはならない」

「原作の通りに進ませればみんな幸せになれる」

「原作の通りに進ませればレムは救われる」

「原作の通りに、原作の通りに——」

 

原作を知っているからこそ、その通りに進めることだけに意識を回しすぎて、結果として自分の心を殺していたのが今までのテン。

 

一体、それに何の意味がある。

 

だって自分達がリゼロのこの世界に来た時点で——主要人物と関わりを持った時点で、それはもう自分の知る世界ではない。

 

自分達というイレギュラーが迷い込み、めちゃくちゃしたお陰で、原作と比較して大きく変わった人物が、少なくとも目の前にいるのだから。それを証明する人物が、笑っているのだから。

 

自分の知っている原作は、運命は、道筋は、結末は——とっくに空白に染められていたのだと。テンは今この瞬間にようやく思うことができた。

 

 なら、自分は————。

 

 

「テンテン。一つだけ聞かせなさい。レムの想いに気付いた経緯とか聞きたいことはあるけど、この際いいわ。けど、一つだけ確かめさせて」

 

「……………うん、なに?」

 

 

考えを遮るラムの声が鼓膜を通じて心の中に侵入し、引き込まれていたテンの意識は現実世界に帰還する。

 

レムへの恋心を自覚しそうになる度に邪魔してきた事と向き合う最中に、彼は強制的にそれを中断させられた。

 

 そんな彼女が聞いたのは、

 

 

「あなたは、レムのことが好き?」

 

 

その言葉は、テンにとっては人生で最も悩まされた言葉かもしれない。悩んで、葛藤して、諦めて、でも諦め切れなくて、様々な感情という感情がぐちゃぐちゃにされた、大きな疑問。

 

聞いたのは初めてじゃない。その問いかけ自体はこれまでに何度も自問自答してきた。否、自問しかできなかった。自答などできた覚えはない。

 

でも。それでも。そうだとしても。

 

答えなんてなくても、言えることはある。レムのことを想うと、勝手に描かれる言葉がある。伝えようとしても、縛りが口を麻痺させてくるものがある。

 

ごちゃごちゃで、ぐちゃぐちゃしたもの。それら全てを度外視して言えること。

 

 それだけは、

 

 

「好きだよ」

 

 

それだけは絶対だから。曲げたくないから。

 

矛盾してると言われてもいい。支離滅裂だと言われてもいい。その気持ちに嘘はつきたくない。

 

 

「そう。ならいいわ」

 

 

初めて聞いたテンの想い。

 

何かと自分の気持ちを抑えて相手の気持ちを優先しがちの男が告げた告白は、ラムが思っていたよりも純粋な理由だった。

 

好きになってしまったものは仕方ない——単純かつ明快。

 

 

「ーーー?」

 

 

不意にラムはテンの表情に陰りが差したことに気付き、目を細めた。胸の内に秘めた想いを解き放った割には、晴れない顔をしている。

 

どうしてだ。どうして好きな人と両想いである事実を他所にそんな顔ができる。どうして目の前の男はこんなにも浮かない顔をしている。

 

 

「なにか、自分に素直になれない理由でも?」

 

「……うん。まぁ、ちょっとね」

 

 

自分の心を見透かしたラムに驚くような表情を浮かべたものの、テンは正直だった。

 

悩んでいることを隠さぬ彼は「分かってる。そんなの、分かってるよ」とラムではない誰かと会話をするように吐息し、

 

 

「決意もした、覚悟も整えた、受け止めると決めた。でも、どうしても拭いきれねぇもんがあんだよ。無理やり拭おうとしたら、きっと良くないことになる」

 

 

曖昧な形で拭うことは簡単だ。それを適当に受け流してしまえばいい。けど、そうすると良くない事が起こる気がしてならない。

 

良くない事がなんなのかは分からない。未来のことなんて分かりやしない。けど、そうしないと納得いかないことは確かだ。

 

 

「だから、ちゃんと拭いたい。中途半端に振り切りたくない」

 

「ラムに話せること?」

 

「ううん。話しても分かってもらえないと思うから、ちょっと話せない」

 

 

この世界が人によって創り出された世界で。生きとし生けるもの達の全てが設定された世界で。自分はそれを画面の外から見ている人間でした。

 

そんなことを突然に言ったら、ラムは混乱するだろう。だから、言えない。信用してないわけではないけど、言えない。

 

 

「なら、ラムにできることは()()として助言することくらいね」

 

「それでいいの?」

 

「話したくないことを無理に聞くラムじゃないわ。それが、テンテンがラムを信用してない理由には繋がらないし。……話したくなったら、話せばいい。それまで待っててあげる」

 

 

温かさしかない言葉の羅列に、テンは口元まで噴き上がってきた弱音を思いっきり飲み込む。全身を優しく包み込んでくるラムの優しい声に、溢れかけた涙を抑え込んだ。

 

無理に聞かず、問いたださず——ただ待ってる。

 

自分とラムの間に築かれた絆の深さが色濃く浮かび上がった、絶対的な信頼関係が前提条件の発言を軽く放ってくる彼女には本当に敵わない。

 

そんなことなど知らずに「いい。よく聞きなさい」と前置くラム。自然、背筋を整えて聞く姿勢をとるテンに、彼女は同じく姿勢を整えて軽く微笑む。

 

そこから伝えられたのは、ただの信頼だった。

 

それは、ソラノ・テンの原点となる。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

「テンテンが何に縛られているのか、ラムには分からない。きっとラムには想像もつかないことがテンテンを苦しめてる……とだけしか分からない、分かってあげられない」

 

「うん」

 

「けど、それのせいで想いに迷いが生じてテンテンがレムに対する恋心を抑え込んでいるのは分かる。自分に素直になることが難しくて、ずっと悩んでいることは分かる。……ラムも、同じだ・っ・た・から」

 

「……うん」

 

「だから、先輩として言わせてもらうけど。その縛りを拭いたかったら、テンテンが何を思い、誰を想っているのか、その胸に訊いてみなさい。自分の心に素直になるには、それが一番よ」

 

「何を思い、誰を想っているのか……」

 

「好きの感情に余計な考えは不要。そんなくだらない縛りなんて今すぐ蹴散らしてやりなさい。もしそれが、過去にあった出来事が原因なら、そんなもの今すぐ捨てることね。捨てて、自分の気持ちを一番に優先する。その人のことが本気で好きなら、愛しているなら」

 

「ーーーー」

 

「それが、素直になるということよ。テンテン自身がレムとどうなりたいか。それをよく考えて、自分の想いをよく聞きなさい。聞いたら、それを一番に考えることが大切よ。逆に、それ以外は考えなくていい。例え、胸が痛んだとしても」

 

「ーーーー」

 

「それができたら、今のテンテンなら大丈夫。大丈夫だと、ラムはそう信じてる。信じてるから、裏切るなんて馬鹿な真似、絶対にやめてちょうだい。信じさせた男として、ラム達にかっこいいところを見せて。前の自分とは違うことを証明して」

 

 

「返事は?」

 

「——分かった。期待には必ず応える」

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。