タイトルが見えないのはわざとです。このお話のタイトルは後書きに書いてあります。理由はなんとなくです。
このお話を読む前に、今作の『逆鱗』がタイトルのお話を読み返すと「あっ……」って思えるかもしれません。
具体的には戦闘描写を読み返すと尚のこと良しです。
——初めて、人の死を見た。
これまで、ナツキ・スバルという少女は、息絶えた人間の有り様を一度も見たことがなかった。
当たり前だ。少し前まで彼女は死と無縁の生活を送っていたのだから。剣と魔法で構成された世界—–異世界とはまるで反対の平和な世界、日本で時を過ごしていたのだから。
争いもなければ、血が流れることもない。ただ平凡に過ぎゆく毎日に不満を垂れ、モニターに向かってぼそぼそ愚痴を溢す。それが、ナツキ・スバルを囲んでいた世界。
そんな世界の元住人の彼女にとって、目の前にある光景は、あまりにもショッキングすぎる。
「嫌ぁぁ……、ペトラぁ、ペトラぁ!」
「頼む……頼む、ママとパパを置いて逝かないでくれ。ペトラ……嘘だと……っ。嘘だと言ってくれ」
スバルの目の前に、小刻みに震える背中が二つある。地べたに崩れ落ちるルーナとロイが、肩を振るわせながらペトラの名前を呼び続けていた。
ルーナは右の足が、足首から先が目も当てられないほど酷く潰れていて、なのに痛みを全く感じさせない様子で慟哭し。ロイは爪で抉られた傷が片腕にあり、なのに苦痛を思わせない様子で声を殺して泣いていた。
身を蝕む痛みなんて、この二人にはどうだっていいことだった。失ってしまったものに比べてしまえば、激痛なんて些細なことだった。
「神様……神様……! この子を助けてください……っ! 私の命でもなんでも差し上げますからこの子だけは……! ペトラ、ペトラ」
「どうして……。ペトラ、返事をしてく、れ。ペトラ! 頼む、頼むから……ママとパパに、声、を、聞かせてくれ……っ!」
人目も気にせず声を上げて泣き、頬に涙を流して神に縋るルーナ。溢れる嗚咽に息を詰まらせ、歯を食いしばるロイ。必死に我が子を呼び求める絶望に支配された声は、鳴り止む気配がない。
既に、ルーナの胸に抱かれるペトラの目から炎は失われている。生者の目に宿る命の炎、子どもらしく常日頃から灼熱に昂っているそれは、彼方を見つめる虚無の目のどこにもない。
母親譲りの綺麗なエメラルドグリーンの瞳。ハヤトを見つけると途端に乙女になるその目から、眩い輝きは奪われていた。
「私が……私がちゃんと守ってあげてれば……。どうして私が生き残って……! ずっと抱えて離さないって、命に懸けて守らなくちゃいけないのに……!私は……この子の母親なのに……!」
胸に抱くペトラを両腕で強く抱きしめ、ルーナは胸の奥から迫り上がる後悔と憎悪を叫ぶ。決して誰にも連れていかれまいとする抱き方に、ルーナの肩を抱くロイの表情がくしゃっと歪んだ。
最愛の娘を目の前で失ったルーナの辛さが分かる人間など、この世界には一人としていない。手の届く場所にいながら我が子を守れなかった母親の気持ちなど、父親ですら完璧には分からない。
だから言葉ではなく行動で、ロイはルーナに寄り添う。気休めにもならないとは分かっていても、なにもせずにはいられなかった。
「ーーーー」
ペトラが、死んだ。
受け入れ難い光景を前に、スバルたちはかける言葉が見つからなかった。ルーナの慟哭とロイの嗚咽が響く惨劇の跡地の中で悲嘆に暮れ、精神を飲み込む深い悲しみに心を埋め尽くされていく。
村一番の村娘と誰もが太鼓判を押し、村中の人たちから可愛がられてきたペトラ。健気な様子で友達と一緒に村を走り回っていた少女の壮絶な最期に、彼らは世界の残酷さを突きつけられる。
「ーーーー」
——そんな、己の感情に気づく心の余裕など、今のスバルにはなかった。
目の前の現実に呆然とし、ただただ打ちのめされる。動き始めた思考がピタッと音を立てて止まり、自分がなにを感じているのかすら、まともに理解することができない。
一連の流れが怒涛の展開すぎて、無慈悲に叩きつけられる感情の数々に心が追いついていないのだ。次から次へと異常事態が心に侵入してきては、精神をごちゃごちゃに掻き乱されてしまう。
「ぺ、とら」
覇気のない声で少女の名を声にすると、スバルは膝から崩れ落ちた。全身から力が抜けたように背筋が丸まり、ルーナの背からはみ出るペトラのぐったりする肢体を見て首を横に振り、俯く。
違う、そんなわけがない。ペトラが死ぬはずないじゃないか。死ぬことなんて、許されるわけがないじゃないか。
だって五分前——そう、ものの五分前、彼女と普通の会話をしていたはずだ。ハヤトが好きだから好きにならないでと、そう言ってきた少女と指切りの約束をしただろう。
僅かな時間で、その幸せな光景が奪われるなんてこと、あるわけがない。だからきっと、これは夢なんだ。悪い夢でしかないんだ。
目を瞑って、少し時間を置いて、目を開く。そうすれば———。
「ごめんなさい、ペトラ。こんなママで……ママがあなたを守れなかったから……悪いのは全部ママだから……ママが、ママが死ねば……!」
「そんなことないルーナ! 君は最後までペトラを守ろうと」
「でもッ! ペトラは私のせいでこうなってしまったの! 私が全部悪い……私のせいだ……私のせいだッ!! 私のせいだーー!!」
そんな悲痛なやり取りが、逃避に走ろうとするスバルを現実に引き摺り込む。逃がさない、逃げられない、そう悟った瞬間、これが紛れもない現実であると真に自覚した。
大口を開けて泣き叫ぶルーナ、自責の念に身を焼かれる彼女を見ていると胸が締め付けられ。ペトラとルーナを二人まとめて抱きしめるロイの痛々しい表情に、詰まっていた感情が一気に溢れ出る。
「なんでだよ。どうして、どうしてだよ」
喉の奥が熱く、急激にぼやけていく視界を晴らそうとするスバル。両目を右腕で雑に拭う彼女の声は変に裏返り、固く閉じられた唇は凍えるように震えている。
一緒に過ごした時間は少ないけれど、関係を築く第一ステップを踏むには十分すぎる時間をペトラと共に過ごした。そんな少女の死に様に涙を流さないほど、スバルは薄情ではないのだ。
スバルに触発される角刈りの男——
目を瞑って視界を閉ざし、背を向けて目を逸らし、俯いて涙を流し、拳を握りしめて声を殺す。ペトラの死を前にした反応は三者三様だが、思いは一つ。
「ペトラがなにしたって言うの? 殺される必要がどこにあるんだよ……!」
スバルの口から漏れた言葉が、全てだった。
まだ十二歳になったばかりの幼い少女、輝かしい未来のある子どもが、どうして死ななければならなかった。そんなことを強制して、なんの意味がある。
彼女に限った話ではない、魔獣によって殺された他の村人たちもだ。罪のない人が殺される理由がどこにある。痛めつけ、泣き叫ばせ、そうして死を押し付けるこの世界に、慈悲なんてないのか。
「これが、アタシが知ってる異世界だって? こんな残酷な世界が?」
召喚直後に神様からチートスキルや武器を貰うこともない。冒険者ギルドで計測したステータスに周囲が「わっ!」と驚くこともない。魔王とか倒す旅に出れることもない。
実は隠された力があって土壇場で覚醒する、なんてこともなかった。だってもしそうなら、自分はとっくに覚醒しているはずだから。
これが覚醒イベントなら良かった。否、覚醒イベントであってほしかった。迫り来る化け物に誰かが襲われて、助けるために覚醒する。そんなテンプレが自分に訪れてくれたら。
「ふざけんじゃ、ないわよ」
握りしめた拳を地に弱く叩きつけ、スバルは歯を食いしばる。この世界の残酷さを味わい、異世界の在り方が分かったような気がした。
異世界が夢と希望に溢れているだなんて嘘だ。なにもない人間が異世界に行った途端に無双できるだなんて嘘だ。
テレビで観てきた、小説で読んできた物語。現代社会に嫌気がさす誰もが一度は思い描く、自分都合な理想郷とは正反対の世界——それが自分の召喚された異世界。
異世界召喚されたてのスバルにとって、ひょっとしたらその事実は、ペトラの死と同等に受け入れ難いものかもしれない。
そんな世界の結果が、今なのだから。
「………くそ」
自分の中にある異世界像が壊れ、異世界という概念が新たに形作られていく音を聞きながら、スバルは暴言を吐いて立ち上がる。
涙の衝動が引いた彼女は鼻を啜り、悲劇の中心地に目を向けた。今もなお、ペトラを抱きしめるルーナとロイの姿が見える。魂の抜けたペトラを間に挟み、抱き合っていた。
ペトラの亡骸を見る勇気が、スバルにはない。
なんの罪もない少女の最期を、見る力がない。
立ち上がり、それから立ち尽くす。今がどんな状況であるかも忘れて一歩も動けず、娘を失った夫婦に言葉をかけることなんてできなかった。
自分で動けないのなら誰かに外から働きかけてもらうしかないが、生憎と他の面々も同様。この場にいる誰もが、心を抉る光景に、足を踏み出す力をなくしていた。
——故に、彼らを動かしたのは不意に現れた第三者となった。
「オオオォォォーー!」
ルーナの慟哭のみが木霊する静寂の空間に、空気を読まない獣の遠吠えが割り込む。絶望の渦に飲み込まれるルーナを除く全員の顔が弾かれるように上がり、首を回して周囲を見渡した。
その咆哮に数分前の地獄が脳裏を過ったのはスバルだけではない。尾を引いて夜空に上がった咆哮に目が右往左往し、片手剣を携える青年団の男たちが目に見えて臨戦体勢を整え、
「………ウソでしょ」
絶望の上から更に絶望が降りかかったのだと知り、スバルの口から乾いた声が溢れる。二歩ほど後ずさる彼女の絶望がぶり返したような目、その双眸が見つめる先に、最悪はいた。
漆黒の体毛に大型犬のような体つき。凶暴な獣爪と牙に、こちらを睥睨する真紅の瞳——村人を蹂躙したウルガルムが、スバルたちの前に再来している。
現れたのはペトラを抱きしめる二人の後方、スバルのいる場所とは反対側に六体。こちらを舐め回す目は獲物を品定めしているようにも感じ、スバルの背筋が震え上がった。
「ウルガルムーー! 村をめちゃくちゃにしやがって許さねぇぞ!」
そのスバルを他所に、目の色を敵意に変えた青年団の一人が勇敢に飛び出していく。右手に携えた剣の刀身は男の腕ほどの長さで、片手剣にしてはややリーチに欠ける。
その一人が動いたのを起点に他の者たちも動き出し、泣き崩れるルーナたちを背に庇う形でウルガルムと対峙。即座に陣形が整えられた。
正面で牙を剥き、こちらを威嚇するように唸るウルガルム。幸いにも様子を窺っているのか、見つけた瞬間に襲いかかってくることはない。
だとしても、常人ならばこれだけで恐怖に硬直してしまいそうだが、面と向かって向き合う男たちに恐怖の色はなかった。
「奴らは六体……こっちは四人、これやれるのか? 俺たちだけで切り抜けられるのか?」
「やるんだよ、やるしかないんだよ! 逃げたところでどうせ追いつかれて殺される! ごちゃごちゃ考えるな! 戦闘中に考え事は動きが鈍るからするな、ってハヤト様も言ってただろ!」
「そうだ……ハヤト様ならこれくらい笑ってどうにかしてみせる……! なら、俺たちだって!」
「ロイ、お前は奥さんと娘さん連れてここから逃げろ! ここは俺たちが片付けるからお前は家族を優先しろ!」
「ふざけるな! そんなこと俺にできるわけないだろ!? 第一、数の有利を取られてる時点で君たちから抜けるのが何体か出る! そうなれば逃げたところで殺される。——ここで仕留めるしかない」
状況を判断しかけた男の思考を、別の男が思い切り一蹴して喝を入れ。喝に背中を押された他の男が柄を握る手に力を込め、最後の男が背中越しにロイに発破をかけると、決意を固めたロイが立ち上がる。
誰一人として弱気になっていなかった。これだけの、あれほどの絶望に襲われてもなお、彼らから抵抗の二文字は奪われてなどいなかった。
ウルガルムは六体、対してこちらはロイを含めて五人。考えるまでもなく圧倒的に不利。
個々の力がウルガルムを上回っているなら——生憎と、そう思えないのが彼らの背中を眺めるスバルの視点だった。
「スバルさん、あなたはルーナさんと一緒に逃げてください!」
「………は?」
「は? って、呆気に取られてる場合じゃないですよ! 早く逃げてください、って言ってるんです!」
魔獣と人間が対峙する構図の外側で一人、ぼんやりしていた様子のスバルに怒号が飛んでくる。恐怖に硬直していた精神がその声で現実世界に戻り、自分の置かれている状況を瞬時に理解した。
自分らを殺そうとしている魔獣。それを迎え撃つロイを含めた青年団。ペトラを抱いてウルガルムを睨むルーナ。なにもせずに突っ立ってる自分。
この中で最も戦う力がないのが自分で、ウルガルムから最も距離が離れているのも自分。つまり、この構図が完成している時点で、スバルに与えられた選択肢は一つしかない。
「だとしても、逃げるって言ったってどこに! この場所にだけ化け物が集まってるなんてこともないでしょうし、多分だけど村中に化け物が蔓延ってる! 安全な場所なんてどこにあるの!」
「とにかく村の外に! ロズワール様のお屋敷に向かってください! そこの曲がり角を右に曲がって大通りに出たら真っ直ぐ走ってください! 村の正門が見えてくるはずです!」
言いながら状況の最悪さに気づいたスバルが焦燥感に駆られた声で捲し立てると、背中越しに声を飛ばしてくる角刈りの男、マキジがこちらに指を向けてくる。
その顔は依然として正面を向いており、待ちの姿勢を継続しているウルガルムと睨み合っている状態。頬に汗を垂らす彼は、努めて平常心を保とうとしているのがぱっと見でも分かった。
死ぬのが怖くないわけがない。遠くにいるスバルだって死の恐怖に足がすくみそうなのだから。死ぬのが怖くない奴がいるとしたら、それこそ化け物のようなものではないか。
みんな自分と同じ普通の人間だ。だからこそスバルは首を強く横に振り、
「ダメだ、アンタたちも一緒に逃げよう! アタシたちだけ逃して、そしたらアンタたちはどうするんだ! 顔見知り置いて逃げれるほどアタシは腐ってない!」
「囲まれたらお終いです! 逃げ道があるうちにスバルさんたちは逃げてください! ここは俺たち青年団が引き受けます! 時間くらいは稼げるはずですから、早く逃げてくださいッ!」
「そんなの………」
無謀にも程がある。
こちらの意見に全く取り合う気のないマキジの急かす怒号に気圧され、スバルは先に続く言葉が口から出てこなかった。
今の言葉はまるで、己の命を賭してでも魔獣を打ち倒すと言っているように聞こえて。どうしてそこまで勇敢になれるのかと、どうして立ち向かえるのかと、命を捨てることができるのかと。
大剣を担ぐハヤトを見てしまっているからか、剣を持つ背中はとても頼りない。持ち手を握りしめる手には馴染んでいる感が恐ろしいくらい感じられず、何度も握り直している有様。
それなのに、どうして。
「——ハヤト様なら逃げない」
湧いて出たスバルの疑問に、青年団の一人が察したように答える。
人間の本質がはっきり浮き出る死と隣り合わせの極限状況下、図らずとも気概を試されている場面で、迷わず続けて言った。
「俺たち青年団は、あの人のようになりたいと、あの人の戦う姿を見てから思ったんです。自分よりも弱い人たちを守れるような人になりたいと。だから俺たちは逃げません」
言い切った男が剣を構えると決意の波紋が広がっていき、他の面々も同じように剣を魔獣に構える。誰一人として魔獣に屈する気配はなく、本気の本気で抵抗する気をスバルに示した。
蛮勇と呼ぶには決意が固まりすぎていて、恐怖に空回っていると判断するには落ち着きすぎている声。それはどこか、エルザと対峙する時のハヤトと通ずるものがあって、
「ロイさん……」
「心配しないで」
相手を案じるルーナの声に、ロイが一瞬だけ振り返る。世界一愛した嫁と娘に笑いかける彼の顔には、恐怖なんて一欠片もない。
安心して。そう言うように穏やかに「ふっ」と息をこぼして笑い、
「二人は俺が死んでも守るから」
ルーナを見下ろす顔が前を向いた次の瞬間、彼女に見せた表情が真剣なものに変わる。自分が前を向く寸前、ルーナがなにか言いかけたことにも気づかず。
横目で目配せし、仲間たちに合図する。今一度剣を握り締め、ハヤトの勇姿を心に宿す。肺を膨らませて大きく息を吸い込み、
「スバルさん、ルーナを連れて行ってください!」
スバルから逃げの選択肢以外を断ち切ったロイが飛び出し、戦いの火蓋を切った彼を中心に、世界が揺れるほどの雄叫びを勇ましく上げた男たちがウルガルムに特攻していく。
納得はできない。だが、青年団たちの決意と今のやり取りに迷いが断たれてしまったスバル。強制的に後戻りできなくなった彼女は舌打ちし、悪態を吐きながら素早くルーナに駆け寄ると、
「ルーナさん! アタシと逃げよう! せめてルーナさんだけでも…………」
一緒に逃げよう。
早口で、言い聞かせるように続けようとした言葉が、またしても言い切る直前に止まる。気圧されたわけではないのに止まった理由は、彼女の目の前にあった。
肩を揺すり、意識を引き寄せ、ルーナの顔がこちらに向く———覚悟を決め切った目が、見えたのだ。
ペトラを抱いて離さない、母の目が。
「いきません」
一言。
たったそれだけで、ルーナはロイの意志もスバルの想いも遮断する。力強い眼差しでスバルの目を射抜いて言葉を封じると、無言で彼女から視線を外した。
ゆっくり動く顔が向くのは胸元で眠るペトラ。刹那でも目を逸らすことを惜しむような彼女は、死後から開いたままの我が子の目をそっと閉じ、
「この
「でも、ロイさんは」
「私は、ここから逃げるだなんて一言も言ってませんよ。なので、ロイさんが私の言葉を聞いてくれなかったのはこれが初めてになります」
「最初で最後になっちゃいますね」と。
今にも消え入りそうな儚い声で、ルーナは弱く笑う。美女には似合わない、感情のない空っぽの笑みだった。
最初で最後。それがなにを意味しているのか、この状況であれば誰だって分かる。子を失ったルーナの目を見れば、どんなに鈍い人間だって刹那で理解できる。それから、この先にある彼女の末路も。
ひどく諦観するルーナ。気力も涙も枯れ果てた彼女の悟った様子に、スバルは悲鳴を上げてしまいたくなるくらい胸が締め付けられる。
その痛みを、泣きたくなる思いをぐっと堪え、それでも漏れ出す苦痛に表情を歪めて、
「でも、早くしないと………」
魔獣が襲ってくると思い、男たちの戦う声が聞こえてくる方向に目をやる。視界に飛び込む光景に、やはり現実は非情なのだと思い知らされた。
意を決してウルガルムに挑む男たちの剣は、一つとしてウルガルムには届いていない。不恰好な動きで刃を振り翳しては避けられ、生じた隙には反撃の一撃が入る、その繰り返しだ。
皮膚の裂ける音が弾け、男の苦鳴が鈍く鳴り、鮮血が吹き上がる。
どれも致命打には程遠い一撃。しかし、ウルガルムが敢えてそうしていることに気づくのに時間は使わなかった。奴らの釣り上がる口角が、笑っているように見えたから。
痛めつけ、弄んでいる。積み重なってきた想いや努力を、踏み躙るように。そうして心ゆくまで男たちを玩具にしたところで、容赦なく食い殺すのか。
「ひどい……。アイツら……!」
心が沸騰し、恐怖の対象でしかなかった魔獣にスバルは憤慨しそうになる。身震いさせる感情を一時的に忘れさせてくれる感情に名前をつけるのなら、それは殺意というのだろう。
自分が行ったところでなにもできない。そんなこと分かっている。だが、分かっていても我慢できないことはあるのだ。
不幸中の幸いというべきは、ウルガルムの意識が男たちに注がれていることだろう。彼らが気を引いているおかげで、スバルたちへの被害が今のところはない。
今のところは。
「……やっぱり逃げよう、ルーナさん。ロイさんの思いを無駄にしちゃダメだ! ルーナさんが逃げなきゃ、なんのためにロイさんが命懸けて戦って」
「子どもに先に逝かれること以上に辛いことなんて、親にはありませんよ」
ありきたりな言葉を並べ、スバルは必死にルーナを説得するも、声を遮られて届かない。無理やり言葉を続けないのは、ルーナの一言一言がスバルの心を大きく揺らし、動揺させているから。
ルーナはスバルの言葉に耳を傾けないまま、血を浴びて濡れたペトラの髪を優しく撫でる。ボロボロに乱れてしまった毛の一本一本を整えるように。
「スバルさんには理解できないことかもしれない。でもね、親にとって子どもは全てなんです。ペトラが産まれて、私が『ルーナ』ではなく『ペトラの母』になった瞬間から、この子が世界の中心なんです」
「だからって……そんな目しないでよ! 死んじゃうんだよ!? ここから逃げないとルーナさん、本当に死んじゃうんだよ!?」
「だから言いました。私にとってこの
「自分の全てとも言える存在が消えたから自分も死んでいい、って言いたいの!? ふざけないでよ! 死んだペトラの分まで生きようって思わないの!? 思ってよ! 思えってば! アタシにルーナさんを見捨てさせないでよ!」
必死の声はいつしか涙が混じった怒りの声に変貌し、癇癪を起こしたようにスバルは怒鳴る。死を受け入れたような目に苛立ち、荒れた呼吸に肩を激しく上下させる。
支離滅裂で、ルーナの気持ちに全く寄り添わない暴言。親の気持ちなんて少しも
死した我が子を想い、失った娘を果てなく愛するルーナ。彼女のその姿勢がスバルには理解できない、理解したくない。だってそれは、スバルにとって———。
「それに、この足ではもう歩けもしませんし」
感情に任せて暴言を吐き散らかされたルーナはそう言うと、己の右足を見る。反発しても不思議じゃない羅列に言い返さなかった理由は、彼女にしか分からない。
自分が言ってしまった言葉にも気づけないスバル。彼女はルーナの視線を追うように目を動かし、無造作に伸びる右足に目を向ける。
潰れた、右足があった。足と認識できるのはそこに足があったのを知っているからで、この状態から見たらきっと、コレを足だと認識することはできないとスバルは思った。
「感覚がないんです。痛みを感じることもできなくて、動かそうとしても全く動かないんです。それに、どうしてか、左足も動かしづらくて……困っちゃいますよね」
「ははは」と戯けるように言い、ルーナはスバルに顔を向けて笑う。やっぱり感情のない、空っぽの笑み。
今のを嘘だと思い込む心を、スバルは持ち合わせていなかった。ペトラを抱えて地べたに座ったままのルーナは歩くことはおろか、自分の力で立つこともできないのだと、確信してしまった。
どうしてロイに言わなかった。いや、答えなんて、ペトラを失ったときから、彼女の中で既に出ていたのかもしれない。
「お屋敷に行って、このことをテン様とハヤト様に、皆さんに伝えてください。村がこんな状態じゃ、きっと青年団の方たちも村から脱出できていないと思いますし」
「いやだ」
「この足の私を引っ張ったところで、二人とも食われて死ぬのは目に見えてます。ロイさんたちも時期に死んでしまう……それくらい、スバルさんも分かりますよね」
「いやだ、嫌だ……嫌だ!」
「せめて、スバルさんだけでも逃げてください。ロイさんたちの言うとおり、そこの曲がり角を曲がって大通りに出て真っ直ぐ走る。最短で行けばあるいは……」
「嫌だぁ……! 嫌だよ、ルーナさん!」
「テン様とハヤト様が来てくれているかもしれない。村の正門まで行けば、駆けつけてくれたお二人が助けてくれるかもしれない。お願い、どうか希望を捨てないで」
「嫌だって言ってるの! ルーナさんだって希望捨てないでよ! だってそんなことしたらルーナさんが……ルーナさんも……っ」
死期を悟ったルーナの声、諦観し切っている優しい声色にスバルは否定を連呼するしかない。「嫌だ嫌だ」と駄々を捏ねる様は子どもにそっくりで、その頬には大量の涙が垂れて、煌めいている。
ルーナの説得は無理だと頭は理解した。置いていくしかないと諭されてしまった。けど、心は理解しようとも諭されようともしない。
住む場所のない自分を受け入れてくれた、唯一の人だった。勿論、ハヤトの言葉があったからかもしれない。けれど彼女から伝わってきた温かさは、それだけでは説明がつかないほど心地よいものだった。
そんな人を、置いて行けと、言うのか。
「テン様やハヤト様はこんな苦しい思いを……いいえ、この苦しみ以上のものを背負いながら、私たちのために命を懸けてくれていたんですね。どうしてそこまでしてくれるのか、少しだけ分かりました」
ふと、ルーナがそんなことを呟く。文脈のない言葉に反応したスバルが声を発するよりも先に、彼女は動いていた。
「ーーっ」
右手が掴まれたと思った瞬間、ぐいっと引っ張られてスバルの体が沈む。感情がぐちゃぐちゃになっていたこともあって抵抗できず、簡単に折れ曲がった両膝が地についた。
正座するように地に落ちる体。スバルの体は突然のことに体勢を立て直せず前に傾き———その体を待ち構えていたルーナに、抱きしめられる。
「ぇ……?」
予想だにしない展開に変な声を漏らし、スバルは固まる。これで何度目か、柔らかい感触に思考が止まり、考える力が一時的に奪われた。
腰を横に限界まで捻らせて背後にいるスバルを抱きしめる、かなり無理な体勢で胸に抱き、スバルの首に両腕を回すルーナ。ペトラの頭を膝下に添える彼女は、そうしてスバルの頭を胸元に招き、
「生きてください、スバルさん。私たちの分まで生きて、生きて、生き残ってください」
「必ず」と言葉を閉じ、ルーナは震える体を抱きしめ、小さく横に動く頭を慈愛をもって撫でる。胸と頭の隙間から漏れ出す嗚咽と鼻を啜る音に微笑み、撫で続けた。
抱きしめたのは多分、目の前にいるスバルにペトラの姿を重ねてしまったからだとルーナは思う。ペトラよりいくつも上のスバルには怒られる話だけど、重ねてしまったのだから仕方ない。
「い、ぎぎゃーーぁ!」
「やめろぉ! そいつを殺すなーー!」
そう思っていたとき、ついに背中で一つの断末魔が跳ね上がる。ロイの切羽詰まった声が続き、その次に肉が裂ける耳障りな音。
ーーああ、もう死ぬのか
音のみで状況を判断したルーナは、心の中でその時が来たのだと悟る。今の断末魔で夫たちを弄んでいたウルガルムが攻勢に出たのだと察し、胸にいる少女を送り出す覚悟を決めた。
首に回していた両腕を戻し、胸元からスバルを解放する。顔が持ち上げられて、涙と鼻水でひどい顔になった少女にちょっとだけ苦笑すると、
「さっ、スバルさん」
「ルーナ、さ」
「立って、私に背中を向けてください。それで、走って、曲がり角を右に曲がる。大通りに出たら真っ直ぐ走る。いいですね?」
弱音を吐きかけたスバルを宥め、ルーナはできる限り穏やかな口調で催促する。
言われた通りにスバルが動き、立ち上がる彼女が背を向けると、「そうしたら」と前置く。
胸いっぱいに息を吸い込み、
「いきなさいーーッ!!」
「ーーっ!!」
下手に尻込みされる前に、情けない背中を思い切り突き飛ばす。後ろから押される感覚にビクッとした直後、スバルは叱咤とも怒号とも受け取れる母の声に押し出され、勢いそのままに駆け出した。
震える拳を握りしめ、腕を強く振って前に走る。すくみかける脚に全霊の力を込め、地を蹴り上げて前に出る。
振り返ると立ち止まってしまうから、絶対に振り返らない。立ち止まってしまうと感情に押しつぶされてしまうから、絶対に振り返らない。
「うぅ……うぁぁぁあああ!」
喜怒哀楽の制御を手放した心が絶叫し、呼吸を整えることもできずにスバルは叫ぶ。とっくに崩壊した涙腺から涙が滝のように流れ出し、走る勢いに負けて背中に流れていった。
自分の判断は正しかったのか。無理やりにでもルーナを連れて逃げるべきじゃなかったのか。
そう語りかけている心の声を絶叫することで打ち消し、スバルは無我夢中で走る。心に体が追いつかずに転倒しそうになりながらも走り、涙で滲む目を拭って走り、念願の曲がり角を右に曲がって、
「ーーーーっ!」
ルーナの絶叫が聞こここここここここここここここここここここここここここここ、
「があああああああああああッッ!!」
精神が限界を越え、奇声を発し、僅かに聞こえた断末魔を掻き消して、耳を塞ぎながら、スバルは曲がり角を右に曲がって、逃げるように走った。
走って、
走って、
走った。
ひたすら、走った。
▲▽▲▽▲▽▲
「殺さないで……殺さないでぇ! 嫌ぁぁ! 来ないで! 来ないでよぉ!」
「お母さん! お母さぁん! やだ! やだぁ!」
「やめて、その子だけは殺さないで……! ぁ、ごぶぎゃぁあぁああ!」
「逃げろぉ! 外に、早く外に逃げろ! 外に逃げればなんとか……ぎゃぁぁぁああ!」
「ははは! あひゃひゃひゃひゃ! あははははははははははは!」
「ひっく、ぐずっ、まま、ままぁ……」
「ハヤト様、テン様……どうして来てくださらないのですか! あのときのようにまた……」
「誰が結界を破ったんだよ! 誰だよーーッ! おい! 答えろよ! 誰かって聞いてんだよ!」
「死ぬ……みんな死ぬんだ。この村は終わりだ、ハヤト様もテン様も来てくれない……」
——大通りに出たスバルを出迎えたのは、阿鼻叫喚の嵐だった。
「ーーーー」
逃げ惑う人々、道端で大泣きする少女、戦う青年団、行き場のない怒りを嘆く青年、食い殺される女、狂ったように笑う老人。
そしてそれらを喰らい尽くす大量のウルガルムと、踏み荒らされる村人たちの死体。死体の道を軽々しく越える光景は、死体の道ではなく死体の大地という表現が適切だ。
「もぅ、やだ」
度重なるショッキングな出来事に気が滅入り、スバルの口から知らぬ間に溜まっていた弱音が溢れる。
一度でも溢れれば、溢れた場所から一気に溢れ出し、瞬く間に激流となってスバルの精神を狂わせ、
「やだ、やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ」
今すぐ消えてしまいたい。この世界から逃げ出したい。そんな思考に支配され、この世の全てを否定する声が次から次へと吐き出される。
頭を掻きむしり、頬を引っ掻き、体をくねらせ、自分でもなにをしているのか分からない行動を取り、
「嫌だぁぁぁぁあああああああああーー!!」
狂った。
金切り声で奇声と涎を吐き出し、血走った目になりながら走り出すスバル。自我を見失った彼女は一点集中、離れたところに見える村の正門に向かって一心不乱に駆けた。
助けを求めて必死に伸びる手。「行かないで」と呼び縋る声。ぐずって泣き叫ぶ少女。自分を標的にしたウルガルム。ウルガルムから助けてくれた青年団。
自分に刺さる一切合切を意識から除外して、死体を踏みつけて逃げ出す。逃げる自分を咎めるように四方八方から飛んでくる断末魔を無視し、スバルは一人で走り続ける。
「待って、行かないで! 助けて! ねぇ助けてよお! 待ってってばあ! 嫌ぁ、来ないで! こっちに来ないでっ! あっち行ってよぉ!」
嫌だ。
「お母さん、お父さん! 死んじゃイヤぁ……! 僕を置いて行かないでよ! 助けて! 誰でもいいからお母さんとお父さんを助けてーー!」
嫌だ、嫌だ。
「危ないッ! スバルさん! そのまま逃げてください! 一人でも多く、この地獄から抜け出してくれれば僕たちは……っ! がぁぁぁぁあ!」
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「ああああーーーっ!」
「ごぶっ、ギャァァーー!」
「痛い、痛いよぉ! 千切れちゃう、千切れちゃうぅぅぅああああ!」
「ぁ……ぁあ……おがぁぁあ!」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌———、
「——————ぁ?」
視界がぱっと開け、光景が変わる。
見えていた地獄絵図が消え、森が広がった。
ちょうど、その時に、それは目に映った。
「——っだ?」
奇跡的に正門を抜けたスバルの目が、遥か彼方の夜空で止まる。その瞬間、狂人としか言いようがない彼女の顔に理性が宿り、僅かながらに知性が息を吹き返した。
今、一瞬だけだが、ずっと遠くの空で白い爆発が見えた。特大の爆発、光に遅れて音が轟き、鼓膜を小刻みに揺らしている。
理性を取り戻させるそれに足を止め、スバルは光に集る羽虫のように光があった夜空を見つめる。愚かにも爆発の正体を刹那だけ考え、
「オオーー!」
その刹那が、命取りとなった。
「ぁ………」
地鳴りが足裏を伝って全身を揺らしていると感じ、凄まじい圧迫感が真横から迫って来ていることに気づいた時には遅い。
横を向くスバルの目と鼻の先に、象のように大きな化け物がいる。突進するそれは頭を前に突き出し、頭突きでスバルの全身を砕こうとしていた。
考える時間は与えられない。刹那もなくスバルの体に岩のように硬い頭が衝突し、
「ぶッ———」
一瞬の激痛に白目を剥き、そこでスバルの意識はプツリと消える。もんどりうつ肉体がバウンドして転がるも、激痛の絶叫は聞こえない。
全身の骨を砕いた一撃に失神する——それが、直後にウルガルムに食い散らかされて絶命する彼女に送られた、死神からの手向けであった。
▲▽▲▽▲▽▲
カンザキ・ハヤトが村に駆け付けたのは、この数分後のことだった。
更にその数分後、一人の命が無慈悲に奪われ、新たな悲劇がこの村で幕を開けることになる。
しかしそれを知る術など、肉塊に変わり果てたスバルには無かった。
ヒーローは遅れてやってくる