少しでも望む未来へ   作:ノラン

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あまりにも長すぎたため、一話だったものを二話に分けました。もう一話は遅くても明日中には更新します。

このお話と次のお話を合わせて、一つのお話。一つのお話の中に場面転換を入れて6つの視点を書きました。

これは前半三人、悩める少女たちのお話。





思い馳せた夜①

 

 

 ——夜が、世界に満ちていく。

 

 

早朝から正午にかけて澄み渡った青空は色を変え、漆黒の闇に端から端まで塗りつぶされていた。吸い込まれてしまいそうな夜空は曇り模様で、今夜は星々の煌めきも、月の輝きも、地上には届かない。

 

あたり一体には夜特有の静寂が所狭しと漂い、空から降り注ぐ光のない今夜では、世界自体が眠りについていると思うほどの静けさを醸し出している。

 

 

「……おかしいのよ」

 

 

その静けさの中で一人、困惑と苛立ちを含ませて呟きを落とす幼女がいた。その愛らしい顔つきに微弱な怒りを灯し、眉間に皺を寄せて暗がりに包まれた世界を見渡している。

 

場所はロズワール邸の庭園、この時間帯は男二人の鍛錬場として使用される空間。稀に暴発した魔法が轟音と振動を響かせ、屋敷の人間を叩き起こす戦場。

 

 

「あの男……どこ行ったかしら」

 

 

そんな場所で幼女——ベアトリスは誰かを探し求めてきょろきょろしていた。時折、目を瞑っては集中した様子になり、閉じた目を開いたかと思えば物寂しそうに細めている。

 

足元まで迫る夜の闇、灯りから遠く離れた庭園の一角ではどこを見ても闇しか見えない視界。視覚情報以外で気配を探った彼女は、思うような結果が得られず「ふんっ」と形のいい鼻を鳴らし、

 

 

「部屋にもここにもいない、それどころか屋敷の中に気配すら感じない。完全に外に出たかしら」

 

 

腕を組み、均等に刈り揃えられた芝生の上でこの場にいない男のことを考える。姿もない、気配もない、どこに行ったのかまるで分からない男のことを。

 

ベアトリスがいるこの場所は、探している男が鍛錬に使っている庭園の一角だ。今となってはその男専用の場所と認知されて、夜になれば必ずといっていいほど居る。

 

だからこうして、わざわざ、仕方なく、足を運んでやった。想いの拠り所である男——ハヤトがいるであろう場所に来てやったのだが、

 

 

「どう見てもいないのよ。……こんな時間に屋敷の外に出かける? どこになんの用があるかしら」

 

 

現在の時刻は冥日の十一時を半分過ぎた頃。

 

あと数十分もすれば日付が変わり、夜が更けていく。普通に考えてこんな時間の外出はあり得ない——と言えなくもないが、極めて珍しい。

 

早朝から仕事に励む都合上、日付が変わるまでには就寝するハヤト。そのため、十一時には鍛錬を切り上げて入浴を済まし、今の時間あたりで彼は禁書庫の扉を開けて「おやすみ」と言いに来てくれる。

 

しかし、昨日まで毎日必ず起こっていたそれが、今日はなかった。待てども待てども扉は開かず、ついにはいつもの時刻を通過し、不信感を抱いた結果として今の状況だ。

 

禁書庫を出てハヤトの部屋に行き、いないと知って鍛錬場へ。普段通りならいる場所にもいないと分かったら最終手段に魔法を行使して気配を探り、それでも見つからない。

 

さて、どうしたものかと。

 

 

「これじゃまるで、ベティーが寂しがって探してるみたいなのよ。違う、違うかしら。ベティーはただ………。ただ………」

 

 

 ——ハヤトが心配で。

 

口にしかけた言葉を寸前で自覚し、ベアトリスから声が消える。日常となった夜の一幕、その唐突な欠如に反応する心の本音を誤魔化すために刻もうとした思いは、もう一つの本音であったから。

 

ハヤトの様子がおかしいのは昨日から察している。気丈に振る舞う態度——嫌なくらい無理な笑顔を下手くそに浮かべる裏で、どこか焦っているような空気感を感じるのだ。

 

普通の人がハヤトを見たら、今の彼はいつも通り元気な好青年と言えるかもしれない。が、ベアトリスの目は決して誤魔化されてやらない。

 

一体、どれだけハヤトのことを見てきたと思っている。自分にかかれば、気丈の裏に隠れた悲痛な笑みを見抜くことなど造作もない。

 

なにか、良くないことが起ころうとしているのかも。そんな予感が拭いきれない。先程から甲高い警報音が鳴り止まず、耳障りなそれを聞くとハヤトの姿が脳裏を過ぎる。

 

それは昨日の姿。予兆もなく泣きついてきた、今にも崩れてしまいそうだった弱々しい背中———。

 

 

「……もしあれが今のお前なら、放っておけるわけないかしら」

 

 

弱く握りしめた拳に、想いが集まる。暗雲の立ちこめる夜空を見上げる瞳が、憂いに濁る。一人きりのときでしか素直に物を言えない自分に、腹が立つ。

 

一人で戦うな、そう伝えた昨日。その言葉で自分がどれだけハヤトの味方であるかは伝わったはずだ。でも、もしそうなら、どうして自分はこの場にいる。どうしてこの魂はハヤトの隣に居ない。

 

単に散歩に行っただけと。そう楽観視できるほどお気楽な頭だったら、こんな気持ちになることもなかっただろうに。

 

様々な嫌な予感が焦燥として不安を煽り、ありもしない最悪の未来が描かれ、今すぐにでも行動を起こせと本能が叫んでいた。

 

早い話、言い表しようのない胸騒ぎがする。

 

 

「なにか起こるなら話してほしいのよ。話してくれるだけでベティーはいくらだって……」

 

 

ハヤトが聞かれたくないことを無理やり聞くことはしない。彼を苦しめたくないから。けれど、だからと言って話してほしいと思う心がないわけではない。

 

話せるのなら話してほしい、聞かせてほしい。根拠も理由もいらない、ただ事実だけを教えてくれればいい。そうすれば一つ返事で力を貸そう。

 

 ——どうして、そうやって素直に言うことができないのか。

 

 

「ーーーー」

 

 

 怖いのか、なにが。

 ハヤトを苦しめるのがか、違う。

 一歩を踏み出すのがか、違う。

 

触れてはならないものに触れるのが、怖いのだ。かつての自分がそうだったから。ハヤトに触れられて怖かったから、苦しかったから、咄嗟に拒んでしまったから。

 

もしハヤトがその自分のように拒んだら、どうする。

拒絶されて遠ざけようとしてきたら、どうする。

 

ハヤトが冷たいことをしない人なのは知っている。けれど、そんなもしもの話を考えてしまうと、途端に怖くなってしまう。

 

 

「だからってなにもしないのも違うのよ。もう、置いていかれるのは嫌かしら」

 

 

恐れを理由に受け身になってなんになる。

 

これまでずっと、ハヤトは歩み寄ってくれていた、否、歩み寄ってくれているだろう。それなら、今度は自分も歩み寄る番じゃないのか。

 

もっと深く、心の深層まで。

 

 

「そんなこと言われなくても分かってるかしら。ベティーがあそこまで言ってやったのにまだ頼ろうとしない、その頑固な頭をぶん殴ってやるのよ」

 

 

ぐっと体に力を込め、ベアトリスが迷いを振り切って歩き出す。胸を張り、背筋をぴんと伸ばしながら、落ち着いた足取りで、行くべき場所へと照準を定める。

 

向かう先はロズワール邸の正門。目的地はハヤトの隣。彼の居そうな場所に心当たりのある彼女は、あの夜のように一人でロズワール邸を抜け出していくのだった。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

「う〜〜〜!」

 

 

ベアトリスがひっそり屋敷から抜け出しているのと同時刻、エミリアは自室で身悶えていた。

 

入浴を済ませてパジャマに着替え、部屋の明かりを消して寝る準備は万端。明日のテンとの再会を楽しみにしながら、寝台に寝転がってお布団の中でいざ夢の世界へ——–。

 

 

「うぅうぅうう!」

 

 

夢の世界へ、旅立とうとしたところで、無理であることを理解した。いや、無理だなんてこと数時間前から理解している。今になって改めて思い知っているだけだ。

 

乱暴に蹴り飛ばされた掛け布団が垂れ下がる寝台の上、枕を抱き抱えるエミリアは右へ左へ転げ回る。かと思えば枕に顔を埋め、足をペタペタと寝台に叩きつけ、可愛らしく「うーー」と唸った。

 

その顔は暗がりでも分かるくらい真っ赤で、それどころか耳まで赤く、首から上がリンガのように赤く染まっていると言っても過言ではない。

 

 

 ーーエミリアたん、本当にテンのことが好きなんだ。

 

 

きっかけはその一言。お風呂場でスバルが放った爆弾発言にあった。

 

不意なそれに思考が停止し、言葉の意味を少しずつ咀嚼し、自分の中で一つの仮説が出たとき、慌てふためいて浴室から飛び出してしまったのは恥ずかしい。

 

 ——なんてことを気にする余裕なんて、今のエミリアにあるはずもなく。

 

 

「テンの、テンのバカ……。ばかぁ!」

 

 

心から離れてくれない青年に罵倒を溢し、横向きにした体を丸めて枕を強く抱きしめるエミリア。頭を埋め尽くす言葉に悶える彼女は、こうなった一番の元凶に感情をぶつけるしかなかった。

 

鼓動の音が過去一番にうるさく、頭から湯気が出ていると思うくらい顔が熱い。感情という感情が内で暴れ回り、外へ出たがるそれらに体が動かされてじっとしていられない。

 

部屋の明かりを消したのは大失敗だった。暗闇は人間に等しく考えることを強制させ、良くも悪くも思考が前へ前へ進みゆくのだから。月明かりの薄さも重なって部屋が真っ暗だと、尚のこと。

 

今のエミリアにとって、それが良いのか悪いのか。その判断も上手くできなかった。

 

ただ一つの言葉が、思考を支配するせいで。

 

 

「すき……すき、すき、すき」

 

 

発する度に胸が高鳴る単語を連呼して、エミリアはどうにか口に馴染ませようとする。知っていたはずなのに、初めて知ったような変な気分を味わいながら。

 

言葉自体は知っていた。けれど、明確な意味合いを真面目に考えたことは人生で一度もない。だからだろうか、こんなにも馴染みのないものだと感じてしまうのは。

 

 

「だって私、誰かにすきだなんて言ってもらうことなんて考えたことなかったもん……」

 

 

まして自分が男の子にすきを向ける日が来ることなど、それ以上に考えたことがない。そんな相手なんてこの世界にはいない、いるはずがないと思っていた。

 

だって自分は銀髪のハーフエルフ。嫉妬の魔女と同じ姿で、他者から愛されることが許されない存在。そんな自分がすきを向けられる人なんて、すきを向けていい人なんて、そんな夢みたいなお話———。

 

 

「……テン」

 

 

夢みたいなお話を、夢じゃなくしてくれる青年の名。

エミリアという少女を、いつの間にか恋する乙女にした青年の名。

 

その名前を呼ぶだけで、直前まで考えていたことが簡単に消えていくのが分かる。名前一つで、孤独でしかなかった人生が優しく否定されていくのを感じる。

 

銀髪のハーフエルフ——その事実だけで世界から遠ざかられ、遠ざけられ、目に映る全ての人間から拒絶と迫害を受けてきたのがエミリアだった。

 

故に、それがどれだけ薄く、淡いものだとしても、人との繋がりができる度に、その繋がりが切れてしまうことをひどく恐れてしまうのがエミリアだった。

 

他者に期待しては裏切られ、縋りついた繋がりは容易く切られ、抱いた希望は呆気なく崩れる。その瞬間、エミリアは身を焼かれる以上の苦しみを味わうことになる。

 

故に、恐れた。そしていつしか、そうなるくらいならいっそ自分から遠ざかってしまった方が、と。そう考えるまでに彼女自身の心も他者を拒むようになってしまった。

 

自分は誰からも愛されない。自分は誰も愛してはいけない。その悲しい現実を仕方ないと受け入れ、孤独の未来へと進んでいたのだ。

 

 大切な人が、できるまでは。

 

 

 ーーすごーく大切な人、っていうより、すごーく大好きな人でしょ。完全に恋しちゃってんじゃん。

 

 

大切(それ)が、すきってことなの……?」

 

 

不意に記憶から聞こえてきたスバルの声に、エミリアは思う。大切の意味合い、理解できなかったその言葉を、自分の中でゆっくり形作る。

 

その人を大切に想うことが、その人をすきに想うということなら。本当に、それが誰かをすきになるということなら、答えなんてとっくに出ていた。

 

胸が高鳴ってしまうのも。目で追ってしまうのも。ずっと一緒にいたいと思うのも。心がぽかぽかするのも。もっと近くにいたいもっと触れてほしいと思うのも。

 

 全部全部全部、

 

 

「テンのことが………大切(好き)だから」

 

 

言った瞬間、心に複雑に絡まっていた感情の糸が一気に解かれていくような、凄まじい爽快感がエミリアの全身を一気に駆け巡る。

 

無理解の感情、名前の知らない感情。どれだけ頑張っても解けなかったそれらの糸が消え、モヤモヤしたものが薄れていく。心を覆っていた雲がぱっと晴れ、曇り模様が晴れ模様へと変化を遂げていく。

 

そうして想いを隠すものが消えたとき、エミリアはようやく、この温かい気持ちを真に理解するのだ。

 

 

「私———テンに恋してるんだわ」

 

 

自分は、ソラノ・テンのことが好きなのだと。好きじゃない、大好きなのだと。

 

 

「好き、大好き……。わ、わた、わたし、テンのこと……テンのことが、大好きなんだ……っ!」

 

 

大切だと想う大きさが、好きだと想う大きさ。

 

それを理解した途端、無意識に堰き止められていた恋の感情が心に傾れ込み。猛烈な勢いでどっと迫る激情に、エミリアは再び身悶える。

 

数ヶ月もの間ずっと溜め込まれていたのだ。恋を自覚したばかりの彼女が耐え切れるわけがない。

 

 

「好き好き好き。好きってことでいいのよ、ね? そーよね? そーよ、きっとそーなんだわ。私はテンが大好き……! 大好きなのよ!」

 

 

自覚しても不安に思う心を強引に納得させつつ、エミリアは寝台の上でのたうち回る。その声色には若干の戸惑いが含まれているものの、大部分を占めるものは情熱的な感情以外になかった。

 

ただただ、嬉しいの一言に尽きる。理解(わか)らなかった感情の正体がやっと理解(わか)った。それがテンに対する特別な感情で、どうにかなってしまいそうだった。

 

ぼふっと枕に顔面を突っ込み、エミリアは足をペタペタさせて暴れる。埃が舞うことも気にせず、我慢できない感情を外に放出して。

 

 

「……ちょっと待って」

 

 

ひとしきり暴れるとぴたりと動きを止めて、がばっと顔を上げる。一度、冷静になってエミリアは今の自分を客観視した。

 

掛け布団が乱れた寝台。その上で枕を抱きしめながら転がり、じたばたしながらテンのことを考えて声を荒げる。それが今の自分。

 

確か、前にもこんな夜を経験した覚えがある。あれはレムが危険な目に遭って、テンに屋敷で待っていろと言われて、不満を一人で発散していた夜だった。

 

その時の自分もまた、今のように暴れ回っていた。理由はレムが危険なのにじっとしていられないことと、テンが無事に帰ってきてくれるか不安なこと。

 

もし、もしも、後者の理由がテンが好きなことと直結しているのだとしたら、

 

 

「あのときからずっと、テンのことが……っ!」

 

 

ずっと前から好きだったと判明し、エミリアの頬が極限まで紅潮。ただでさえ真っ赤なところに重なり、比喩でもなんでもなくリンガ色に染め上げられた。

 

あのときから好きということはつまり、これまで自分は好きな相手に抱きついたり、身を寄せたり、頭ナデナデを要求していたということで、

 

 

「なんでそんなことしちゃうの、私のバカ! そんな恥ずかしいこと、す、好きな人にしてもらうなんてできるわけないじゃない!」

 

 

思い出して恥ずかしくなったエミリアが、埋めた枕に頭をすりすりする。過去の自分がテンにしてきた愚行に「うーー!」と唸り、とてつもなく恨めしく思った。

 

この感情を自覚してしまったら、テンのことを以前のようには見れない。『大好きな人』として見てしまう気しかしなくて、これまで通りに接するのは無理だと確信している。

 

そんな人になにをしてきた、なにを言ってきた、思い出せ。いや思い出すな思い出すな思い出、

 

 

 ーーテンは、私から離れてほしくないな、って心の底から思えた初めての人なの。

 

 

「うそ……私、そんなこと言って……」

 

 

 ーー頭、撫でてくれたら許してあげる。

 

 

「うそ、うそうそうそ」

 

 

 ーーテンと一緒にいると、とっても落ち着いてくる。理由は分からないんだけどね。心がぽかぽかして、安心するの。こうしてると……離れたくないな、って思っちゃう。

 

 

「〜〜〜〜っ!!」

 

 

声にならない声を上げ、エミリアが羞恥心に破裂する。意志に反して鮮明にフラッシュバックしたテンとの思い出、拷問とも言えるそれらにキャパオーバーとなった。

 

ぼっ、と。頭のてっぺんから湯気を吹き出し、撃沈するエミリア。無自覚がいかに罪深きことであるかを認識する彼女は、甘く蕩けた吐息と、恐ろしく早い鼓動の音を聞きながら、

 

 

「ど……どぉ、どーしよう、どーしよう。どーしようどーしようどーしようどーしよう! 本当にどーしよう。どーしたらいいの」

 

 

起き上がり、枕と一緒に膝を抱え込んで恋に頭を悩ませるエミリア。頭がショートした彼女は額を枕に打ち付け、テンとの再会を思い浮かべる。

 

明日、テンが帰ってくる。そのとき、平常心を保って出迎えることができるだろうか。テンと目を合わせることが、できるだろうか。

 

 

「絶対、無理よ……。だって、初めての好きな人なんだもん」

 

 

さっきまで待ち焦がれていたはずなのに、ちょっとだけ抵抗が生じてしまった時間。テンとの再会の時間(とき)が、無情にも着々と迫る。

 

正真正銘、恋する乙女になったエミリアはそのことに「どーしよう、どーしよう」と、時間を忘れてひたすら悩み続けるのだった。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

「テンくんに会いたい」

 

 

エミリアが恋情に襲撃されているのと同時刻、レムはテンの部屋で魂が抜けかけていた。

 

今日の仕事を終えた彼女はメイド服からネグリジェに着替え、当然のようにテンの布団の中へ潜り込む。彼の匂いが染みついた毛布に包まり、枕を抱きしめ、不足したテンを精一杯に補う。

 

テンと離れた生活が始まってから今日で二日目、初日を含めると三日目。半日離れただけで寂しさを感じる彼女にとってこの布団は生命線で、限界ギリギリの瀬戸際で精神を保つための安定剤だ。

 

最悪なことに、それも効果を失いつつあって。テンの匂いが自分のものに侵食されていくのを嗅覚で感じ取ると、

 

 

「テンくんが足りない」

 

 

顔の型がくっきり残るくらい枕に強く顔を押し付け、レムは僅かに感じるテンの匂いを掻き集める。胸を大きく膨らませて息を吸い、不足したテンを必死に足した。九割自分の匂いである。

 

足りない、全然足りない。

満たされない、全然満たされない。

 

テンを補充する容器、その体積の上限を百とするならば今は一も残っておらず。匂いを嗅いで補充しても寝台の現状では一の足しにもならない。

 

ひどい話だ。あまりの使用頻度の多さに寝台がレムの匂いに染まってしまうだなんて。その事態は予想外だった。

 

 

「テンくんが欲しい」

 

 

切ない声で恋人を欲し、レムは今すぐにでもテンの胸の中に飛び込んでしまいたい衝動に駆られる。

 

悲しいことに、心に補充したテンはテンと離れた日で使い切った。レムの原動力となってくれるそれはもう、レムの体には小さじ一杯分も残っていない。

 

一日の稼働に必要なエネルギーはその日の朝、起床と共に始まるテンとの甘い時間にチャージされる。その分は一日をかけて使い切り、不足した分は翌日の朝に補充。その循環でレムの命は続いている。

 

その循環が消えてしまったレムの精神は狂いかけ、辛うじて自我を保っている状態だ。あと半歩、状態が悪くなればテン欲しさに狂乱する自信がある。

 

 

「テンくんを感じたい」

 

 

こんな幼稚なものではなく、実物に包まれたい。あの逞しい両腕に、壊れてしまうくらい強く抱かれたい。病みつきになってしまった温もりに、永遠にぎゅーっとされていたい。

 

お願いだから早く帰ってきてほしい。気が狂ってしまいそうなんだ。刹那でも早く戻ってきてほしい。あなたのことを考えると胸が張り裂けそうなんだ。

 

 

「テンくん……テンくん……」

 

 

凍えたように体を小刻みに震えさせ、レムはたくさんの願望を浮かべながら愛の名前を囁く。実物だと見立てた枕を掻き抱いて寂しさを紛らわし、襲いかかる苦痛と孤独感に耐えようとした。

 

こんな風になるのはいつぶりか。多分、あの悪夢、テンを傷つけた記憶を夢に見るようになったとき以来——奇しくもテンが不在という点では似通っていることにレムは気づく。

 

今となっては懐かしい記憶。決して忘れてはならない戒め。精神を蝕む苦痛と孤独感に耐えながら、生き地獄のような日々を懸命に生きていた。

 

その自分と今の自分、状態的には同じ。けれど、苦痛と孤独感の種類が全く違う。これは愛人と再会したときの感動を高めるためのものだ。

 

 

「ふふっ。幸せな苦痛ですね」

 

 

そう考えると頑張れるような気がして、レムは頬を緩ませてはにかむ。この苦痛を乗り越えた先に、感じたこともない幸福が待っていると思うだけで、この心は温まるのだから。

 

我ながら呆れる。たった三日離れただけでこんなにも恋しく、愛おしく、強欲に欲してしまうだなんて。でもそれが彼に対する愛の深さだから仕方ない。仕方ないのだ。

 

 

「テンくんはレムを夢中にさせてしまったんですから。四六時中テンくんのことを考えてしまうくらい好きで好きで、世界で一番大好きなんですから。こうなってしまうのは仕方ないんです」

 

 

顔を埋めた枕に額を擦り付け、強依存を正当化するレムは口角を釣り上げてニヤニヤする。幸福以外に混濁のない笑顔だった。

 

自分は悪くない。自分をこんな女にしたテンが悪い。そもそも、永遠の愛を誓ったのだから当然。だから、帰ってきたら責任を取らせてやる。

 

なんでも一つお願いを聞く権利をテンから与えられたレム。テンにだけは容赦のない欲望をぶつける彼女は「ふふっ」と艶やかに息をこぼすと、

 

 

「今度こそ、その気にさせてテンくんを狼にさせてやります。真の意味でレムはテンくんの女になるんです」

 

 

お互いに愛を誓い合いながら、朝までたくさん愛し合おうと思う。直球に言うのなら性行為をしようと思う。

 

あれだけ触れ合っているのに、まだ一度もしていないのが逆に不思議だ。こっちはいつ寝込みを襲われても構わない、むしろ襲ってくれないと自分から襲ってしまうくらいには準備万端なのに。

 

恋人になりたての頃はぐいぐい迫るとはしたない女だと思われると思って控えていたが、そろそろ我慢の限界。いや、限界なんてとうの昔に超えている。

 

もういい、もういいはず。奥手なテンも流石に準備が整ったはず。整ってなくても知るものか。テン不足の影響もあって我慢できそうにないのだ。

 

この冷えた体を温め、股付近の疼きを満たすには、

 

 

明日(あす)の夜、絶対にシます。覚悟してくださいね、テンくん。もう逃しませんよ」

 

 

今頃、クルシュ・カルステン公爵の邸宅で熟睡しているであろう愛人を想い、やや高揚した様子を抑えながら決意を固めるレム。

 

明日の今頃はテンと燃え上がって——なんて妄想を広げては一人で昂り、彼女は体をくねくねよじらせて身悶えるのだった。

 

 

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