前回の続きです。今回は後半三人、不安と決意に悩める青年少女のお話。
「ついに明日、か」
妄想逞しいレムが描いた絵面に身悶えているのと同時刻、ロズワール邸の客人に与えられる部屋でスバルは緊張していた。
灯し方がまるで分からない明かりは使えず、月光のライトも当てにできない真っ暗闇な部屋で、彼女はキングサイズのベッドに大胆にも大の字になって寝転がっている。
緊張の理由は一つ、明日に起こるアーラム村の襲撃。頭を占めるその考えに表情が強張り、布団に入って四十分経った今でも寝つけそうにない。
「ハヤトのやつ、いつまで村にいるつもりだろ」
寝れそうで寝れない、その境界線を行ったり来たりしているスバル。後頭部で手を組む彼女は窓から見える外の景色に目を向けた。
異世界系で描かれる夜空というのは大方が満天の星空だったからこの世界でも期待したが、今夜は生憎の曇り模様。分厚い雲が地上と天空を分け隔て、暗雲が彼方まで広がっている。
出て行ったきり帰ってこないハヤトも、この夜空を見ているのだろうか。
「……アタシもやっぱり行こうかな」
のそっと上体を起こし、スバルは使命感にも似た弱い衝動に心を揺さぶられる。ハヤトが一人で頑張ってくれているのに、自分はこんな安全な場所で寝ている場合なのかと自問した。
自分が行っても使い物にならないのは知っている。けどそれは戦力という意味合いであり、他のことで役に立てることがあるのではないかと考えたら、割といけるんじゃないかと思えていたのだ。
この自問をしたのはこれが初めてじゃない。眠れない間、何度も何度も「アタシもやっぱり……」と葛藤している。
通算二十三回目。故に答えも同じく、
「でも、屋敷からどうやって村まで行くんだって話だよなぁ。やっぱ無理か……」
起こした上体を後ろに倒し、ぽすんっと音を立てながら背中からベッドに沈む。柔らかい感触に受け止められるとスプリングがぎしっと軋み、体が上下に弾んだ。
前回のループを含め、屋敷と村を行き来したのは五度。短期間の間にそれだけの回数往復すれば自然と道を覚えるのが物覚えのいいスバルの頭だが、真夜中となれば話は別だ。
まともな舗装がされておらず、森を真っ二つに割って作ったと言われても頷ける獣道。加えて所々に点在する街頭の数も少なく見通しが悪い。それ以前に右折左折を繰り返したり丘を越えたりと悪路。
月明かりもない中、そんな道のりを歩いてみろ。気がつけば遭難している。道標があればワンチャンとも考えたが、王都と村に分かれる分岐点にしか置いてない不親切設計という。
「つまり、ハヤトに置いていかれた時点で詰んでたってわけね。どんだけ田舎なのよ、この地域」
この周辺で人が生活を営んでいるのは屋敷を除けばアーラム村だけだとハヤトから聞いたし、地域全体が大自然に囲まれていることも加味すると、辺境の地と呼ぶに相応しい。
「アタシの住んでる地域の方がまだ都会だったわ。ちょっと歩けばコンビニあるし、バスも一時間に五本は通ってるし。ほんと、どうなってんのよ」
やり場のない怒りを声にして発散し、スバルは謎の都会マウントをとって深くため息。
一時間に一、二本しかバスが通っていない。近くのコンビニまで歩いて最短十五分。家の近くで稀にタヌキと遭遇する地域に住んでいたテンが聞いたら苦笑いしそうな愚痴を吐き、
「ハヤトが上手くやってることを信じるしかないわね。明日の朝になれば帰ってきてるでしょうし、そのときにでも聞けばいい」
頼れる男に任せることで楽観的に物事を捉え、胸を突く罪悪感をぴしゃりとシャットアウト。とりあえず明日の夜までは猶予があると余裕を持ち、この場にいることに納得した。
明日になれば引っ越し作業で村に行く。策を講じるのならそのときがラストチャンス。そのときまでにハヤトと話し合って、手を打たなければ間に合わない。
襲撃の寸前で村人を全員避難させて化け物——魔獣を驚かせるのはどうだろう。その場合、奴らに避難していることがバレないよう細工する必要があるが。
魔獣が村に侵入した原因である結界の決壊を防ぎ、侵入そのものを防ぐ手もある。ハヤト曰く、あの結界はエミリアの力が宿る結晶石によって張られているものだから、結晶石を守ればあるいは。
村の青年団とハヤトに警備してもらうのはどうか。その場合、結晶石に細工をした『なにか』と対峙する危険性があるが。
「前途多難だわ、これ。どっちの策を取るにしても穴がある。でも、なんとかして村の人たちを守らないと」
表情を険しくしたスバルが、そう言って拳を握りしめる。阿鼻叫喚の夜を経験して足がすくむ恐怖を味わいながらも、目的は絶対に見失うなと心を燃やした。
そこかしこで老若男女の断末魔と泣き叫ぶ声が飛び交い、逃げ惑う彼らの体が食い荒らされる不快な音が混ざり合う地獄絵図。トラウマ確定となった悲劇を意地でも防いでみせる。
誰も死なせない、傷つけさせない。そのためならなんだってやってやる。自分になにができるのかは曖昧だけど、できることは必ずあるはずだ。
「ハヤトに任せっきりになるなよ、アタシ。アタシだってYDK、やればできる子ってところを見せてやるんだから。女だからって舐めんじゃないわよ」
頼りっぱなしは性に合わない。この世界に召喚されてから今のところ、足を引っ張ってる気しかしないからこの機会に名誉挽回、いいところを見せて活躍しなければ。
であれば、その方法を模索するのが、布団の中でぬくぬくするスバルにできる最大限。が、あんな化け物が蔓延る村を見てきた後だとなにをすれば良いのかイマイチ思いつかないのがリアルなので、
「考えても仕方ない。もう寝る!」
と、潔く寝ることにした。
このまま考えていてもそのうち寝れそうではあるが、いつになるのやら。そういう時は区切りをつけた方がいい。睡眠不足が原因で、土壇場でやらかすなんて笑えない冗談だ。
布団を肩まで被り、余計なことを考えて眠ろうとしない体に「寝ろ寝ろ」と念を送りながら目を瞑り、明日のことでいっぱいいっぱいな頭の電源を落とそうとする。
それだけだと眠れないとは理解の上。だから古くから日本に伝わる伝統、羊の数を数えて睡魔を呼び寄せる儀式を始めた。
その瞬間、不意にも風呂場での出来事が脳裏を通り過ぎ、
「エミリアたんが一人、エミリアたんが二人、エミリアたんが三人………ってデカすぎんだろ! アタシにもその養分ちょっとくらい分けやがれ!」
瞼の裏側に映るエミリアの姿に飛び起き、インパクトのある想像をして逆に目が覚めてしまう。寝るはずの儀式で覚醒を促しては逆効果である。
歩く度に揺れていた豊満な果実——嫉妬通り越して感心すらさせてくるエミリア。頭をブンブン振って彼女の姿を振り落とすと、スバルはもう一度布団に潜り込んで再チャレンジ。
今度はエミリアから連想してパック。あのモフモフした猫が柵を飛び越える、というより柵の上を泳いでいく想像を開始した。
「パックが一匹、パックが二匹、パックが三匹、パックが四匹、パックが五匹………」
しんとした部屋で、パックカウントを始めるスバルの声が弱く響き始める。
ふとした瞬間に思い出される地獄の光景に怯える感情と、思い出した分だけ燃え上がる感情の板挟みにされながら、意識は睡魔に誘われていくのだった。
▲▽▲▽▲▽▲
「
スバルが羊の代わりにパックを数え始めたのと同時刻、ハヤトはすごく眠かった。
アーラム村と魔獣の森の境界線に張られた不可視の結界、その効力の源であるエミリアの結晶石の設置場所を転々と回る彼は今、真っ暗な森の中を歩いている最中である。
その手には、ランタンのような容器に白く光る魔鉱石が入った灯りが一つ。周囲の暗さと静けさも相まって肝試ししてる気分、
「ああクソ、
になるわけもなく。
かれこれ二、三時間はアーラム村や森の中を巡回していることもあってそれなりの疲労を感じ始め、絶賛睡魔と格闘している。おかげで、木々を通り抜ける風の音が不気味に聞こえても無反応。
何度も何度も同じ場所を巡っては、なにも起きていないか確認。事が起きるのが明日だとしてもなにかしていないと気が済まず、一度や二度の巡回だけでは収まらないのだ。
「しっかりしろよ俺。眠くなってる暇なんてねぇぞ」
十分に一回は口を押し開くあくび、睡魔の攻撃に反撃として頬を叩く。突然に現れる木の根に掬われないよう灯りで足元を照らしながら、ハヤトは目端に溢れる涙を拭った。
こんなことをする必要はないのかもしれない。襲撃があるのは明日だから、今日は屋敷に帰ってゆっくり休んで明日に備えた方がいいのかもしれない。
言われなくても分かっている。しかし、例えそうだとしても屋敷に帰る気は起きなかった。数時間も巡回が続いているのが証拠で、それも終わりが見えない。
「だが、そろそろ帰った方がいいよなぁ。夜通し見回ってなにもなくて、寝不足で本領発揮できねぇとかマジで笑えねぇし」
ポケットに入れた魔刻結晶を取り出し、手の平サイズのそれを見て時間を確認。既に日を跨ぐ寸前まで時間が経過していることを把握すると、流石に巡回の限界を感じた。
魔刻結晶——色の濃さで時間を知らせる、日本でいうところの時計のようなもの。
この世界では午前を陽日、午後を冥日とし。陽日の零時から六時までを『風の刻』として、六時間刻みで『火の刻』、『水の刻』、『地の刻』と時間が定められている。
ハヤトの見る魔刻結晶は黄色が満ちる寸前、『地の刻』が終わろうとしている。どうやら、冥日の十一時はとっくに過ぎているらしい。
「いっそ村で仮眠をとりゃいい………いや、最後に村一周して帰るか」
極端な思考に走りかけた頭を小突き、ハヤトは体の向きをアーラム村に合わせる。確認すべき結晶石は三割ほど残っているが、確認自体が数十回目なのでスルー。
期末テスト前日に一夜漬けで勉強した結果、テスト中に眠くなって意識を失う。そんな悲惨な出来事を経験したことのあるハヤト。
同じ過ちを犯す前に切り上げ、彼は最後の巡回へと歩き出す。
「明日が勝負だ。今から気合い入れて本番までにガス欠になったら意味がねぇ。休む時は休まねぇとだよな」
そのせいでぶっ倒れたことのあるテンを、ハヤトは知っている。魔法がまともに使えなかったとき、少しでも早く習得しなければと焦り、寝る間も惜しんで過度な鍛錬を続けて意識がプツンと切れていた。
同じ轍は踏まない。片腕を大きく上げて背筋を伸ばすハヤトは親友を反面教師にし、予兆もなく浮かぶあくびに口を大きく開けて、
「あー、疲れた。サクッと見回ってパッと帰るか。明日の朝も
おそらく、クルシュ邸でぐっすり眠っているであろう親友に届くことのない愚痴を溢し、ハヤトは強く思う。この場にテンがいてくれたら、どれほど心強かったことかと。
一度目のループと同じルートを辿るための努力をする中で、襲撃者に対する対策を考える。文字にすると単純なそれがどれだけ難しいのか、この二日間で痛感した。
やることも、考えることも多い。なにをすれば正解なのか、なにをしたら失敗なのか、全てが手探りで、答えのない問題を一生解かされているような気分になる。
未来の出来事を知っているだけに、なにをしていても焦燥感は常について回る。それが目に焼きついた最悪の光景を呼び起こし、じわじわと心を蝕むのだ。
「お前がいたら、この焦りも解消する気がするよ。お前とバカみてぇな会話して、ヘラヘラ笑ってな」
テンと交わす何気ない日常会話は、ハヤトにとって心休まる瞬間の筆頭。頭を空っぽにしながら中身ゼロの話をしているだけで、自然と緊張の糸が緩まる。
だから帰ってきたテンが死に戻りを知っていて、情報が共有できたら最高、そうでないなら最悪だ。死に戻りの説明ができない相手として頼れなくなる。
ベアトリスを頼らなかったのはそれが理由。ハヤトがこの場にいるのは死に戻りをして得た知識があるからで、その説明もなしに彼女を連れてくるわけにはいかなかった。
戻らない相手に死に戻りを話そうとすればペナルティがくる。スバルに来るのか、自分に来るのか、両方なのか。いずれにしても、知っているのに受けるのは間抜けだ。
そもそも、夜遅くまで連れ回すのもいかがなものか。
「ベアトリスのやつ、俺が屋敷から抜け出してること知ったら
一ヶ月前からデレの傾向が強く表れ始めたベアトリスのことだから、ムキになった様子でキレるに違いない。
ひょっとしたら抜け出したことを察知して、こちらに向かってきてる可能性も———。
「いや、ないな。それはない。寝てる」
一瞬だけ浮上した可能性に口角を釣り上げ、ハヤトは息を吹き出して笑う。
彼女がいつ寝るのかは知らないけど、少なくとも日を跨ぐ寸前まで起きていることはないだろう。仮に不在を察知したとしても、アーラム村まで追いかけてくることはないはず。
そんな風に考えをまとめて、ハヤトはベアトリスの話題を頭の隅に追いやった。
「よっと」
正面に見えた、森の入り口に建てられた背の高い柵をひょいと飛び越え、膝のクッションで衝撃を吸収しながら着地。
姿勢を整えて顔を上げると、夜を彩る輝きの一切が見えない夜空が見えて、
「……嫌な夜空だな」
森から出て開けた視界の全てを、暗雲の立ちこめる空が埋め尽くしている。
それはまるで、これから起こる不吉な未来を示唆しているようにも感じられて。あるいは、自分自身の胸の内を表しているようにも見えて。
対抗するハヤトは見上げた夜空をギロリと睨みつける。深呼吸をして精神を落ち着かせると、ランタンの持ち手を握りしめ、
「気張って、頑張れよ、カンザキ・ハヤト。お前はそうすることしかできねぇんだから。明日、なにがあっても折れンじゃねぇぞ。いいな」
月の祝福も受けられない地上で、今一度、己に誓う。終わった世界で起きた悲劇を十字架として背負い、二度と誰も死なせないと何度も言い聞かせる。
自分たちのせいで死なせてしまった命を、命を懸けて助けるのだ。そう握りしめた拳に闘志を宿し、ハヤトは未来を変えるべく魂を燃やすのだった。
▲▽▲▽▲▽▲
「些か精が出過ぎているな、ソラノ・テン」
「え? クルシュ様?」
ハヤトが絶望の未来を変えるのだと燃えているのと同時刻、テンはクルシュの登場に驚かされていた。
場所はロズワール邸から移り、王都にあるクルシュ邸、その庭園の一角。街路灯の真下で汗を垂らしながら木剣を振っていたテンの下に、屋敷の主人とも言える存在が赴いている。
「随分と遅くまで起きているんですね。貴方のようなお方が、こんな時間まで起きててよいのですか? 夜更かしはお肌の天敵ですよ」
「私を見て真っ先に浮かぶのが美容の心配か。その調子だとエミリアにも同じことを言っているとみえる」
「あっ……」
驚いた衝撃で素の自分が顔を出し、エミリアに接する態度で言葉が出てしまったテン。
指摘されて気づいた彼は、急いで他所行きの仮面を被り直す。それから木剣を置いて頭を下げると、
「申し訳ございません。まさか、クルシュ様がこのような時間に来られるとは思わず。少しばかり驚いてしまって……。気を悪くしてしまったのでしたら」
「突然に顔を出したのは私の方だ。気にすることはない。その頭を上げろ。……肌の心配をされた程度で気を悪くする女も不思議なものだが」
純粋に疑問に思うクルシュが僅かに苦笑するのを横目に、言葉を遮られたテンは心の中で一安心する。予想外も予想外な登場に驚愕する精神を宥め、他所行きの仮面を装着完了。
肌の心配云々ではなく態度の悪さに対しての謝罪だったのだが、許されたので特に触れない。下げた頭を上げて「ほっ」と一息つくと、
「こんな時間まで起きているとは思いませんでした。お仕事ですか?」
クルシュ邸の使用人から借りたハンドタオルで汗を拭くテン。小さく息を切らす彼にクルシュは「そうだ」と頷き、
「雑務を片付けて夜風に触れていたら、窓から卿の姿がうっすら見えたものでな。日を跨ぐまで当家の患者を動かすわけにもいくまい。一度、釘を刺しにきた」
「そうですか……。わざわざすみません。鍛錬をしていると自然と夢中になってしまって。熱が入ると時間を忘れることとか、よくあるんですよね。悪い癖です」
そのせいでレムに「また倒れたいのですか?」とキレられ、エミリアに「寝なさい!」と怒られたことも多々。長い時は余裕で日を跨ぐこともあって、付き添う二人が肩に寄りかかって寝たこともあった。
懐かしきお姫様抱っこ事件。思い出すと微笑ましさに仮面が外れてしまいそうだから、今は深くは思い出さないでおく。
あくまで患者を慮った行為とはいえ、自分のために足を運んでくれたことに恐縮した様子で苦笑いを浮かべるテン。そんな彼の心を見透かしたようにクルシュは「ふっ」と優しく笑み、
「剣舞を舞うことに意識を奪われる理由も分からなくはない。私もヴィルヘルムに指南を受ける時間は興が乗ることが多いからな。が、卿は患者の身であることを忘れるなよ」
「もちろんです」
宣言した通り釘を刺してくるクルシュに顎を引くように頷き、テンは彼女の忠告をしっかり受け止める。
その真摯な態度を見ながらクルシュは「それで?」と言葉を続けて、
「私こそ卿に問おう。冥日が終わるまで鍛錬をする理由が今の卿にあるのか?」
ふっと目の色を変えたクルシュがそう言って、テンの目を一直線に射抜く。鋼の刃のように鋭い瞳はこちらの心の内を探るように細められ、目の中を覗き込まれる感覚に、テンの背筋が無意識に伸びた。
実際、探っているのだろうなと彼は思う。世界から授かった力——才能とも呼べるその力が、彼女にはあるのだから。
「先も言ったが卿は患者だ。加え、メイザース辺境伯の親書にも、卿は致死するほどの怪我を負ったと記されていた。それに卿のゲートを治したフェリスも言っていただろう? どんな戦い方をすればあのようにゲートが歪むのか、と。——休養を取るようにと、伝えられていたのではないか?」
その物量の多さの理由はなんなのか。妙に畳み掛けてくるクルシュに、テンはなんて答えようかと考える。
もしや、変なことをしているのかと疑われているのかもしれない。あるいは、遅くまで鍛錬していたことを咎められているのか。仮にそうなら、この方も優しい人だなと思う。
考えたところで仕方ない。圧を感じるクルシュにテンは「えっとですね」と冷静な声色で、
「少しでも、戦いの感覚を取り戻しておきたかったんです」
「ほぅ」
素直に言ったテンに、クルシュは含みを持たせて相槌を打つ。
その先の言葉を待つような仕草。まるで「それで?」とでも言葉が聞こえてきそうな彼女に、テンは不思議と怒られているような気分になりながら、
「ちょっと前に起こった出来事が原因で、クルシュ様が仰られたように僕は死にかけました。でも生き延びたんです。その代償として身体機能が著しく低下しまして、ここ一ヶ月くらい激しい運動ができなかったんですよ」
「卿ほどの腕を持つ戦士を致死に追い込むほどの出来事か……」
「卿ほどの、って……買い被りすぎです。あと僕は戦士ではなく使用人です。忘れないでください」
興味深そうな表情を深める
肩をすくめ、「僕なんてまだまだですよ」と薄く笑いかけると、クルシュはそれこそ今の態度を咎めるように首を横に振り、
「卿の身分を忘れてなどない。ただ、昼間のあれを見た私には少々無理はある。悪いが、既に私は卿のことを使用人として見ていないぞ。勿論、あの場にいた者たちもだがな」
「戦士として見ていると」
「違いない」
力強い表情ではっきり断言するクルシュ。迷いのない速度で肯定されたテンは「なるほど」と適当な言葉を返す。
なにも「なるほど」ではないが、とりあえず納得して話を先に進めたい。この話を引っ張られると面倒なので、なにか言われる前に「話を戻しますが」と前置き、
「そういうわけもあって、運動ができなかったんですね。でも、最近になってやっと機能が回復してきたので、ゲートが治った今、完全な再起に向けて頑張っていたんです」
「だから遅くまで木剣を振っていたと」
「はい。向こうに帰るまでに、ある程度の感覚は取り戻しておかないとですし。元気になった姿を見せて安心させたいんです」
芝生に置いた木剣を拾い上げ、柄を握りしめて己の握力を確かめる。手の中に返ってくる木の感触で力が全快ではないことを理解すると、他所行きの仮面にピキッとヒビが入った。
隠していた表情が露わになった瞬間、テンの表情に焦燥の色が塗られる。握りしめた木剣の柄に視線が落ち、見つめる瞳に不安が渦巻く。
「今のままで帰ったら絶対に後悔する。できる限り仕上げていかないとダメなんです」
物思わしげな声で呟き、一度だけ嘆息。それに含まれる感情を知ることができるのはテンだけであり、他者が知り得ることは決してない。
僅かに生じた表情の乱れを修正し、恐ろしく早い速度で他所行きのものに変えてしまうのなら尚更。
「なにか気掛かりがあるなら話すといい。私でよければ聞こう」
だからその申し出にテンは心底驚き、直後に
やりずらい相手だと思うと同時に、気を遣わせてしまって申し訳ないとも思う。その思いすらもクルシュは見透かしたように、
「なに、卿は当家に迎え入れられた客人。それも、メイザース辺境伯からの上客だ。それ相応のもてなしをするのが道理だろう。そう憂うこともない」
「だとしても、まさかクルシュ様直々に相談に乗っていただけるのかと思いまして。感謝いたします」
毅然としたクルシュから紡がれた優しさが身に沁みて、彼女という存在の器の広さが知れる。もてなしの一環だったとしても、今の言葉には気分を安らげるだけのものがあった。
少し、張り詰めていたのかもしれない。
口にしたばかりの『悪い癖』が再発していたことを自覚するテン。クルシュに気遣われて気づき、ぶっ倒れる事態を未然に防がれた彼は「ふぅ」と力を抜いて一息つくと、
「気掛かりがないと言えば嘘になります。でも、
自分のことではない誰かを心配するような物言いでやんわりと申し出を断り、なにも見えない夜空を仰ぐ。その先に続く思いを言いかけて立ち止まり、閉じた口の中で生唾をゴクリと飲み込んだ。
どんな精神状態であれ、弱みは口にしない。この屋敷に来た日の夜の時点で、ホームシック気味になるくらい寂しさを覚えていても、それに耐えれるメンタルは持ち合わせているつもりだ。
自分の状態は自分が一番理解している。全く大丈夫でないことを理解できるくらいには、大丈夫であることも。
「
人前でしんみりしそうな中、薮から棒な提案が投げられ、テンは深まりそうな考えから離脱。
デジャブを感じる光景に「お手合わせですか?」と目を向けると、クルシュは「そうだ」と、どこか好戦的に光る目でこちらを見つめていて、
「剣を振る様が、一心に雑念を振り払っているようにも見えた。——生憎と気休めを言うのは得意ではないのでな、少し趣向を変えようと思う」
「気休めは大丈夫ですよ」
「だろうな。卿を見ていれば分かる。故にこれは気休めではなく発散だ。患者の精神的苦痛を解消するための、私なりのな。そのまま返して当家の待遇に文句を言われても困る」
「それ相応のもてなしの一環、ということですか?」
「私情がないわけではないがな」
「だとしても流石に無理があるのでは。僕がここでの待遇に文句を言うわけがありませんし。第一、ゲートを治していただいたんですよ? それだけで十分です」
「そうか?」
「そうですよ」
蓄積した負感情を見抜いていると遠回しに言われて微妙な表情を浮かべるテンに、不思議そうな顔をするクルシュ。凛とした表情がその顔になると印象がかなり変わる。
口にした言葉を撤回するつもりもないらしい。彼女は庭園の一角、広々とした空間に視線を移すと、
「昼間に行われたヴィルヘルムとの模擬戦、実に目を見張るものがあった。あれで剣を振って半年も経っていないと言うのだから驚きだ」
「完膚なきまでにボコボコにされていただけですけどね。一太刀も掠りませんでしたし。何百太刀って打ち込まれましたし」
「そう己を卑下するものでもないさ。剣鬼相手にあれほど果敢に挑み、食い下がれる者は多くない。ヴィルヘルムも驚いていたぞ。——久方ぶりに叩き甲斐のある若者を見つけた、と」
「え……。えぇ……本当ですか?」
本気で嫌そうに聞いてくるテンを見ると、クルシュは清楚に失笑しながら目で頷く。剣鬼に認められて喜ぶかと思ったのだが、思いの外そうでもなかった。
その態度を無礼だと咎めることはしない。なぜなら、クルシュ自身も見ていた模擬戦の内容——気合いの入った剣鬼の鬼指南に打ちのめされるテンに同情すらしたから。
それ以上に、熾烈な指南に心折れず立ち向かっていく心意気に、感心した。
「だから僕と戦いたいと」
「嫌か?」
「いえ、光栄です。貴方が『戦乙女』と呼ばれる所以、その一部が見えたような気がします」
戦乙女——三大魔獣の一つである『大兎』を撃退した百人一太刀、厳密には『大兎』の出現によって暴れていた魔獣や獣を撃退したそれの使い手である彼女にはお似合いの二つ名。
皮肉でも嫌味でもなく、同じく剣を振るう者としてテンはクルシュのことを敬っている。身に宿した力と、その力を使い熟すだけの技量と、その技量を得るだけの努力をする精神に。
「ドレスを脱いで男装し、花を愛でるより剣を振る、剣術狂いの公爵令嬢。かつてそんな噂が立ったこともある。——剣舞を舞う女を、卿はおかしいと思うか?」
「とんでもないです。僕の周りには武闘派な女の子しかいないので、僕からしたらそれが普通です。世の中には鉄球を振り回す子だっているくらいですから、剣を振っていてもおかしくは思いませんよ」
自虐するように問うてくるクルシュに、テンはあっけらかんとして答える。
実際、彼にとって戦う女の子ほど身近な存在はおらず、それら全員が自分よりも格上なのだから恐ろしい。あくまでテンの主観なので、本当のところは定かではないけれど。
そういった意味合いで肯定的な意見を述べられ、クルシュは「そうか」と満足そうに朗らかに微笑む。その反応を受け取ったのを区切りとして、テンは「さて」と手を叩き、
「そろそろ休みます。クルシュ様に釘を刺されたのですから、無理に続けるとフェリックス様に怒られてしまいます。もちろん、クルシュ様にも」
「それに」と肩を回しながら、
「僕のせいでクルシュ様が寝不足になられたと知ったら、もっと怒られてしまいますから。クルシュ様も早くお休みになられた方がよろしいですよ」
「卿に言われるのは筋違いだな」
「返す言葉もないです」
ハンドタオルを肩にかけ、使用していた木剣を右手にしたテンがその場から歩き出す。その横にクルシュが並ぶと、二人は暗い庭園の中を横断して屋敷に帰り始めた。
この光景の相手は、エミリアとレムの二人以外にいないと思っていたテン。鍛錬終わりにクルシュと屋敷に帰ることになるとは思わなかった彼は、今になって事の異常性に気づく。
ーーシュルクとクルシュって名前似てるよな。ってことはクルシュ様ってモナドの使い手か?
特に話すこともないので、くだらないことを考えて気を紛らわしていると、ふと思ったように表情を変えたクルシュが「ときに」と口を開き、
「ソラノ・テン、卿はエミリアと恋仲と聞いたが、それは本当か?」
「ーーーー。フェリックス様からですか?」
「そうだ」
「あの人……」
だんだんノッてきた金髪の男が頭から消し飛ぶ爆弾発言に足が止まりかけ、動揺を刹那で切り落とす。どうにか足を止めることを防ぐと、額に手を当ててため息をついた。
王都でエミリアと別れる前にあった一幕、それをフェリスに見られていた事実。なにも知らない人間があれを見たらそう思うのも不思議じゃないが、立場的に大問題なのでテンは「いえ」と否定し、
「クルシュ様、それは誤解ですよ。僕はロズワール様に仕える一使用人、エミリア様とは友人になることも許されないのですよ。恋仲なんてもってのほかです」
「当家に来る直前、待ち合わせ場所で卿とエミリアが抱き合っているところを見たと、そう話していたが?」
「あの人ォ……」
「にゃはっ!」とウィンクして笑うフェリスのうざったらしい笑顔が脳内で輝き、舌打ちしそうになるテンが絡まった誤解の糸をどう解こうか考える。
堅苦しい態度よりそっちの方が卿らしく思える——真横に並ぶクルシュにそう思われているとも知らず、彼は次々と降りかかる災難に途方に暮れるのだった。
▲▽▲▽▲▽▲
——それぞれの思いを馳せた夜が、過ぎていく。
「ベティーがどれだけありがたい存在か、あの男に思い知らせてやるのよ」
一人は、全てを守ろうとする男に寄り添うために。
「どーしよ、これ、絶対寝れない……。もぅ、テンのあんぽんたん」
一人は、無理解の感情の意味を知り。
「おやすみなさい、テンくんっ」
一人は、愛人との再会を待ち焦がれながら眠りに落ち。
「ぱっくが……にひゃくよんじゅーごひき……」
一人は、夢の世界でもパックのことを数え続け。
「もう二度と誰も死なせねぇ。俺が全部守るんだ」
一人は、幾度も心に刻んだ誓いを全うしようと。
「クルシュ様、本当に違うんです。違……わなくもないと言えなくもないですけど、でも違うんです。弁解の余地をください」
一人は、敵陣営の王選候補者に揶揄われて。
同じ時の中で六人の思いが並行し、強い意志となって一つの運命へと導かれていく。
全ての意志が交錯した瞬間、その運命は誰もが予想しなかった事態へと変貌を遂げることになる。
——運命の日は、目前だった。そしてその日、この六人の中から命を落とす者が出る。