——ハヤトが屋敷に到着したのは、玄関前で起こった人間ドラマの幕が降りてから数分後のことだった。
帰宅の知らせを受けて速攻で村に向かい、事情を簡単に説明して引っ越し作業に勤しむスバルを連れて屋敷へ。
移動中の会話の中で、テンに対して尋常ならざる嫌悪感を抱えるスバルが小言をぶつぶつと溢すのを苦笑で受け流しつつ、ハヤトは再び屋敷に戻ってきた。
のだが、
「アイツ……なにしてんだ?」
ロズワール邸の正門を通り過ぎて玄関に向かう最中、真正面に見えてきた人影にハヤトは訝しげに目を細める。
ポケットに手を突っ込んで歩く彼の隣では、似たような感情を受けるスバルが眉間に皺を寄せており、
「なんか寝てない? あの人」
「寝てるな」
うんうんと頷くハヤトと、予期していなかった姿を凝視するスバル。カメラのピントが合うように徐々に鮮明に映ってくるテンの姿に、二人は困惑する。
玄関前にある三段程度しかない階段に足を投げ、仰向けになって伸びている。それが二人の見るテンの姿であり、世界からしたら数分前となにも変わらない光景。
クルシュ邸に入院してから今に至るまでの道程。テンが経験した濃密すぎる出来事の数々を知れば、意味不明な行動も納得できる。が、なにも知らない人間にとっては奇行に他ならず、
「前回は出会った直後に悟り開くし、今回は玄関で寝てるし。なんなのアイツ。変人?」
「強ち間違ってねぇな。アイツが変なのはいつものことだし。別に気にするこたぁねぇ。屋敷の奴らもテンがどっかズレてんのは勘づいてるだろうしな」
「それ共通の認識なんだ」
否定されるかと思った発言を肯定され、スバルの中で作られるソラノ・テンという青年の人物像に『変人』のレッテルが貼られた。
昨日の風呂場であった一件——エミリアのような可愛らしい女の子にあれだけ慕われる人間が玄関前で寝るような変人とは、異世界もおかしなものだなと思う。
彼女だけでなく超絶塩対応メイドのレムにも好かれているとなると、美少女に好かれる男が満たす水準というものがよく分からなくなってきた。
そんなことを考えているうちに玄関前に到着。声が届く距離、テンの目の前で足を止めたハヤトは「よぉ、テン」と親しみのある声の掛け方で、
「会いたかったぜ」
「俺も会いたかったよ。会いたくなかったけど」
「どっちだよ」
「どちらかといえば会いたくなかった」
遠目で見ていた玄関前で寝そべるという奇行を目に前にし、ドン引きして言葉が出ないスバル。
前回と態度が違いすぎて印象がぐちゃぐちゃにされる彼女を他所に、テンは
二人の接近を足音で察知していたのか、登場に驚く気配はない。ただその笑みには疲労の色があって、感覚的に気づいたハヤトが「んん?」と低く唸ると、
「お前なんか、すっげぇ疲れてねぇか?」
「ここ最近、ずっと疲れてる。高校と大学の受験期を思い出すね。受験が終わったらなにしたい? って友達に聞かれて、純粋に寝たい、ってずっと言ってた」
「大丈夫か?」
「休んでるのに全く休めてる気がしないの。寝ててもね、不安が頭の中をぐるぐるしておかしくなるの」
「大丈夫じゃなさそうだな」
こちらの心配を無視したテンが遠い目で彼方を見つめると、ちょっとだけ面白おかしく思ってハヤトは吹き出す。なにがあったのか知らないが、ある意味で相変わらずな親友に安心した。
階段に座り、膝を抱え込む体勢で二人を見上げるテン。「ふぅ」と息を吐く彼は重い腰を上げて立ち上がり、首と肩をぐるぐる回して解しながら、
「変なこと言ってごめん。さっき色々とあって」
「玄関で寝そべるほどの色々ってなんだよ」
「面倒だから話さない」
ばっさり切り落とし、テンは全身を大きく伸ばす。「んーー!」と唸りながら両手を高く上げ、少ししたら脱力。そうやって力を抜くと気持ちをリセットして、スバルに視線をやった。
このとき、前回のループで焼印のように刻まれた悪印象が沸々と燃え上がるスバル。しかし彼女は昨日の風呂場での一件を経て認識を改めても良いと思ったので、露骨に嫌そうな顔はしない。
だとしても嫌に思う心に苛まれてしまい、噴火する嫌悪感に頬を引き攣らせながら言った。
「アタシはナツキ・ス——」
「自己紹介の必要はないですよ、ナツキさん。それはもう聞きました」
テンがループ現象に巻き込まれていないことを前提とした自己紹介をしようとした瞬間、その前提をぶっ壊す発言がテンの口から軽々しく飛び出す。
天と地がひっくり返るほどの衝撃がポンと叩きつけられ、言葉にしようのない驚愕に時が止まるスバル。その真横で同様の反応を見せるのはハヤトだ。
たった一言、されど一言。隠せない嫌悪感に歪む表情が驚愕のものに変貌するスバルも、心臓が跳ね上がって目を剥くハヤトも、とてつもない感情の紛糾に揉まれている。
「まさかお前も」
「その反応だとやっぱりお前も……二人も、って感じかな。それなら、俺の部屋に行こう。ここだと他の人に聞かれるかもだし」
歓喜に喉が震えるハヤト。時の硬直から抜けた彼の言いかけた言葉を遮り、テンは親指で屋敷を指差す。
今のやり取りでなにかしらの確信を得たのか、疲労に緩む表情筋を引き締めると、なにやら緊張した声色で言った。
「話はそれから」
その様子が、ひどく怯えているように、ハヤトには感じられた。
▲▽▲▽▲▽▲
——テンの様子がおかしい。
テンの部屋にスバルと共に案内されたハヤトは、親友が放つ異様な緊張感に不信を抱いていた。
先の発言からして、テンも自分たちと同じく死に戻りに巻き込まれていると思っていい。でなければ自己紹介に対して「もう聞いた」だなんて反応はしないし、第一スバル性転換の事実を流すわけがない。
テンは戻っている。心強い親友が死に戻っている。果たして、これ以上に喜ばしいことがあるだろうか。
戻っているということは、死に戻りの情報を共有できるということ。死の共有者である自分とスバルができるのだから、彼ができないわけがない。
それが大きすぎて、喜ばしすぎて、ステップを踏みながら踊り出したくなる。
「どうしたんだよ。なんでなにも言わねぇ?」
そんな喜びを分かち合うこともできず、ハヤトは目の前に佇むテンにただただ困惑させられていた。隣にいるスバルも同じなようで、背を向けてから直立不動なテンのことを不気味な目で見ている。
不審に思った理由は、この部屋に満ちる息が詰まるような緊張感だけではない。部屋に来るまで、どれだけ声をかけても一言も話さなかったことも一つとしてある。
まるで、言葉を交わすことを恐れているようにも捉えられた態度。なにが彼にそうさせているのか、二人には分からなかった。
「雑談してる暇はないから、単刀直入に言うね。聞きたいことがたくさんあるから、おふざけ無しで聞いて」
ようやく口を開いたテンがそう言った瞬間、部屋の空気が限界まで張り詰める音がした。振り返った鋭利な目に睨まれた途端、背筋が凍るような緊張感に総毛立つ。
無駄話を許さない徹底した態度に姿勢を正したハヤトが「おう」と頷くと、人が変わった様子に動揺を隠しながらスバルも「わ、分かった」と辿々しく頷く。
その反応を受け取ったテンは二人の目を見ながら、
「まず、二人に確認したいことがある。さっきの反応で答えは出てるけど、明確にしたい。どの道二人の口から言われそうだから、誤爆する前に聞いとくね」
誤爆。
普通に考えて口にしなさそうな単語に、二人の頭の上に大きな疑問符が浮かぶ。テンの考えていることの不透明さに言い回しの意味が理解できず、分かりやすく表情に出た。
当たり前の反応に「まぁ、そーなるよね」と、期待が外れたように切なげに目を落とすテン。大きく深呼吸する彼は二人から説明を促される前に言葉を続け、
「不安なことがあってね。でも、その不安を口にしていいかも分かんない状態なんだよ。だから二人は俺が、よし、って言うまで黙ってて。絶対に黙ってて」
「なに「黙ってろッ!」
鋭い怒声が室内を席巻した瞬間、本当に風が巻き起こったような錯覚を二人は感じた。強い焦燥を感じさせるそれに声を発しかけたスバルが息を呑み、思わずたじろぐ。
付き合いの長いハヤトですら稀に見る、テンの本気で叫ぶ姿。戦闘中以外では片手で数えられる回数しか見たことのないそれを突然に受け、彼の目つきが変わった。
「お願いだから、黙ってて」
二人が驚きに声を封じられる中、テンは罵声を飛ばした己を咎めるように声を静めて言い聞かせる。
溺れかけの人間が藁に縋りつくような、そんな必死さがあった。それがテンの身に何か起きているのだと二人に理解させ、先ほどから様子がおかしかった理由となる。
「よし、って言うまでなにも喋らない。俺のためにも約束ね。お願いします」
おぼつかない感情を努めて冷静に保とうとするテンの哀願。口を開いたら死ぬのかと聞きたくなる必死さに、ハヤトは唇を固く結んで首を縦に振り、流されるスバルも釣られて同じ動作。
再度、深呼吸。吐きそうな緊張感に胸元——心臓部に手を当てると、テンは「いい?」と前置き、
「さっきの不安なんだけど。その不安を口にしたら俺は
言葉を何度も書き換え、慎重に選びながら口にする。真剣な表情でびくびくしながら一言一句を世界に放つ様子は、端的に言って異常だった。
まるで、銃口を突きつけられながら話しているような。一言でも間違えれば死ぬ、命の瀬戸際に立たされているような。スバルにはそんな光景を思わずにはいられない。
「俺の中で仮説があって。その通りなら、コレを聞いたら俺はヤバいことになる。だから、二人と話すこと自体、かなりリスクがあるんだよ。本当なら話したくない」
核心をつく部分だけを濁すテンの曖昧な訴えに腕を組み、ハヤトは全力で思考を働かせる。何かに気づけと目で伝えてくる親友のヘルプサインに、言葉の裏に隠された真意を探り始めた。
スバル、ハヤト、双方が別々の方向で思考を回し始める中、テンは「でも」と、
「コレと長く付き合う上で避けては通れない、はっきりさせなくちゃいけないことだとも思ってんだよ。迂闊に口を滑らせてしょーもないことになる前に」
心臓部に当てた手を軽く握りしめ、不安を閉じ込めながら意志を伝えようとしてくるテン。しかしスバルは何が言いたいのかまるで分からず、困惑するばかり。
重要な部分を敢えて隠しているから当然だ。だからスバルには初めから理解を求めていない。テンが真に理解を求めているのはハヤトだ。
スバルと違って彼は事情を知っている。自分が一番に恐れている可能性を、きっと前の世界で見てきたはずだから。
「自分で言っててイカれてると思うよ。こんな馬鹿げたこと、絶対にしない方がいいに決まってる」
「でもね」と、掴んだ心臓部を服に皺が残るほど強く握りつぶし、
「今ここで確かめないと、タイミングが無くなる。俺はこれから先ずっと、この曖昧な恐怖に怯えながら生きることになる。それと、二人ともまともに話せなくなる」
と、わざとらしくハヤトだけを見つめて不安の一端を打ち明ける。スバルの存在を無視する視線の送り方に違和感を覚えるハヤトの横で、ハブられた気分にさせられたスバルが露骨に嫌な顔をした。
シグナルを発し続けられるハヤト。テンの言動を一つも拾い損ねないよう集中する彼がスバルの変化に気づくことはなく、
「ねぇ、ハヤト。俺がなに言いたいか分かんない? お前なら分かってくれると信じてるよ。ほら、俺のことよく見てよ」
その言葉によって視界がぎゅっと狭まり、テン以外の情報が世界から消えた。親友に縋られて心が燃え上がり、集中力が極限まで高められる。
「分かったら、分かった、って言って。それ以外は何も言わないで。ナツキさんは俺が、よし、って言うまで話さない約束を守り続けてください。ハヤトと話し終えたら必ず事情を説明しますので、それまで待っててください」
「アタシは犬か」と。言葉を禁じられた世界で一人、早口で押さえ込まれたスバルは真面目な雰囲気に似合わないツッコミを心の中で入れる。
理解が追いつかない彼女は異様な空気感の中、場違いな疎外感に焦ったい思いをさせられながら、言われた通りに話の流れを黙って見守るしかなかった。
「ーーーー」
これ以上の言葉は不要だと口を閉じ、考える時間を与えるテン。未だ心臓部を握りしめる彼の熱い視線を浴びながら、静寂を取り戻す世界でハヤトは必死に考えた。
テンが抱えた不安——言葉からして彼に危害が与えられるものなのは分かる。その危害が『ヤバいこと』だとは思うが、肝心な『ヤバいこと』がなんなのか分からない。
というより、先ほどからテンの仕草が妙に気になる。胸ぐらを握りしめて離さない、あたかも心臓を握り潰すような痛々しい仕草———。
「ーーーー」
唐突に、本当に唐突に、その仕草を見てフラッシュバックした記憶があった。それは、一生涯消えることのないトラウマとして心に刻まれた、人生最悪の悲劇。
テンが、死んだ夜。
「ーーーー」
あのとき、テンはどうして死んだ。死に戻りを口にしようとして、口から血を吐いて死んだ。もしそれが、禁忌の言葉を外に漏らそうとしたことによる、ペナルティーだとしたら。
でも、それだと、ペナルティーを受ける対象があやふやになる。前提条件が覆える。だってそれは死に戻りを知らない人間の話であって、知っている人間に当てはまることではないのだ。
死に戻りをしない者が、死に戻りを口にしようとすると問答無用で死ぬ、だからテンは殺された。知ってはいけないことを知っているから、死に戻りをさせる元凶に命を奪われた。
それがハヤトの立てた仮説——テンが死に戻っていると発覚したことで粉々に砕け散った、使い物にならない仮説。
死に戻っていない可能性があったから成立したこの仮説も、現状では思考の無駄遣い。頭の容量を増やすだけのお荷物となる。
「ちっ」
舌打ち。
元から完成していた仮説を再展開し、湯気を吹いて高速回転する思考。しかしそれが無駄骨だと知ると、ハヤトは焦りに苛立ちながら即座に切り捨てる。再度、仮説を組み立て始めた。
自分らと同じ死の共有者なのに、どうしてテンだけが殺された。自分もスバルも咎められることがないのに、どうしてテンだけが見逃されない。
あのとき、ペナルティーを受ける条件は整っていなかったはずだ。死に戻っている者同士だけの間では、それを話しても問題ないのだから。
事実、自分とスバルの身には今のところなにも起きていない。テンが死んだ瞬間だって、あの場にいたのは自分と彼だけだ。話を聞ける者など、他にいるはずがない。
「……まさか」
死に戻っている者が、同じく死に戻っている者に、死に戻りの事実を共有して、死んだとでも。
前回の時点ではテンが死に戻っておらず、今回が初めての死に戻りだとしたら。そう考えたら廃棄処分になった仮説も再利用できる。が、流石に楽観的すぎるので却下。
確かめるには本人に聞く必要があるから——いや、危険すぎる。ハイリスク・ハイリターンではなく、ハイリスク・ノーリターンになる可能性が極めて高い。
テンにそれを言わせてはいけない。最悪、また殺されることになる。そうなったが最後、考えうる中でも最悪のケースとして、この部屋で血の雨が降る。
とにかく、だ。
「なんとなく、お前の言いたいことは分かった。お前の不安も、お前が確かめたいことも、なんとなくだが分かった」
不確かな情報を想像力で補強し、新たな仮説として組み立てたハヤト。親友が自らの口から禁忌の言葉を発することを恐れていて、理由が死であると理解した彼は、そう言って力強く頷く。
瞬間、強張っていたテンの表情が僅かに柔らぐ。空間に充満していた突き刺すような緊張感が薄まり、声を封じる効力が弱まった。
短く息をつき、生唾を飲み込むテン。よかったといった風に胸を撫で下ろす彼はハヤトだけを見て、
「イカれてるでしょ?」
「イカれてる。自殺行為だ。
「もしかしたらだけど、それもダメかもしれない」
「は?」
自分の心情を悟る理解力の早さに救われつつ、テンは否定の意を込めて首を横に振る。すると、疑問と困惑に眉を顰めるハヤトが小首を傾げて目を細めた。
即席で組み立てた仮説に一言で亀裂が走った気がして、考えが違ったのかと聞きたくなる。が、変に喋らせると地雷を踏ませかねないと危惧し、言葉を発するまでに時間差が生じる。
その僅かな間にテンは「最悪の最悪まで想定してよ、ハヤト」と声色を強くして食い気味に前置き、
「俺はソレを話すことも、聞くことも、ダメかもしれないんだよ。だから二人とは話したくない、って言ったんだよ。いわば、俺からすれば二人は特大の自爆スイッチなんだよ」
「お前の口から言うことだけじゃねぇのか?」
「それが分からないから怖い。確証がない、あくまで予想だから迂闊なことは言えないの。こーやって話してる瞬間だって、いつセンサーに引っ掛かるか。正直、平常心を保つので精一杯」
「緊張で吐きそうなんだよ」と、そう言った声は少しだけ震えていた。抑えようとして、それでも抑えられなかった風に感じられる声。
気丈夫に振る舞う裏から我慢しきれない焦りと不安、恐怖が這い出し、火で炙るように心を追い詰めているのだ。
じわじわと、崖っぷちに追い詰められる感覚——後退り一つできない場所で存在も曖昧な、けれど確実に死を与えてくる敵と睨み合い続ける彼の精神は、気を抜けば簡単に限界を飛び越える。
だから、
「できれば、ルールをはっきりさせたい」
「それだとお前が」
「分かってる。だから俺もどーしたらいいか分かんない。でも二人の知ってることを知らないことには俺も動けないと思うんだよ。矛盾してるよね、ごめん。今、割と焦ってる」
冷静な判断力が鈍ってきていると間接的に伝えるテンに、ハヤトは悩ましげに低く喉を唸らせる。どうしたものかと原作知識を含めて思考を巡らせ、
「なら、結果だけを伝えればいいか? なにがあったのかだけ伝えりゃ、きっと大丈夫だろ。ソレは内容に触れなきゃ大丈夫だったはずだ」
「一発アウトかもしれないんだよ? そんな曖昧な覚えで俺の命を背負えると?」
「背負ってやる」
「死ねない理由があるの分かってるよね?」
「分かってる。変なことは言わねぇ。なにが起こるかだけを伝えてみせる」
「思い切りがよすぎる。下手したら死ぬんだよ? もっと慎重にならないと。もうあんな風になるの
「大丈夫、絶対に大丈夫だ。
話に夢中になる二人の、言葉の応酬が止まらない。
慎重に話を進めようとするテンと、大胆に話を進めようとするハヤトの声。思考と感情が形となって衝突し合うそれが、お互いに譲られず相殺されて散っていく。
黙らされっぱなしのスバルには冷静に話し合っているように感じられるそれは、事情を把握している二人にとっては全くの別物。生死を決める口論——二人は今、そういう話をしている。
己の命が懸けられたテンがひどく慎重になるのも、その彼の不安を晴らそうとハヤトが男らしく覚悟を決めて思い切るのも、彼らの関係性からして当たり前のことだった。
「ーーーー」
そんなことなど、スバルは知る由もない。
徐々に激化しつつある二人の口論を横で聞いている彼女にあるのは、貧乏ゆすりをしたくなるほどの疎外感。蚊帳の外にされて不快感が蓄積し、時間と共に増幅するそれに口元が疼いていた。
先程から黙って聞いていれば『死ぬ』だの『それ』だの『命を背負う』だの、物騒なワードが連発されるが、なにも知らないスバルには意味不明も極まっている。
口論する男たちの間ではなにやら共通の理解が済んでいるようで、なおのこと疎外感を爆発的に膨らませてくる。神妙な話をしているのは分かるが、逆に言えばそれ以外のことはなにも分からない。
自分だって死に戻っている一人、ハヤトと同じくループ現状を抜け出す努力をしてきた苦労人だ。
なのにこの疎外感。死に戻りの情報を共有する時間のはずなのに、蓋を開ければこの始末。話し合いに必要とされていない気がして、嫌なことこの上ない。
「信じていいの?」
「ああ、信じろ」
「俺のこと託すよ?」
「任せろ。内容には絶対に触れねぇ」
二人は信じる信じないの話では盛り上がっていて、恐らくだがスバルのことは一時的に意識下から外されている。そしてその理由が、テンが言葉を禁じたことだと思うと、途端に腸が煮えくり返り出した。
昔から、黙っていることができない性格だ。非常に自己主張が激しく、必要以上に存在感をアピールし、なにかと首を突っ込みたがるのがスバルという少女。
そんな少女が大嫌いな疎外感に焦らされ、加えてどうして自分が黙っていなければならないのかと不満を感じ、悪印象を抱くテンに矛先を向けてしまえば、もう止まることはできない。
故に、話を着地させた二人は、スバルに話を振る寸前——意識を向ける刹那に起こった、
「——ちょっと!」
喉の手前で暴れ回っていた言葉の一端が、口をついてキレ気味に吐き出される。
二人が反応するよりも先に、刹那の間も開けず、スバルはテンの忠告を無視して次を言い放つ。
「さっきからなんの話? 要はテンも死に———」
それが、引き金だった。
言葉にしようとしたスバルが口を動かし、不満を捲し立てようとした刹那、三人の世界にあり得ない現象が起きる。
「ーーーー」
「ーーーー」
「ーーーー」
なんの予兆もなく音が、消えた。
窓の外から流れ込む環境音が、室内に反響する声が、己の心臓の音が、消えた。最後には静寂という音すらもが消え、世界から音の概念が突如として失われる。
次に消えたのは、時間の概念。
刹那が無限に引き伸ばされ、終わりのない今が無音のまま過ぎていく。それを三人は黙って見ていることしかできない。なぜなら彼らの時間もまた、同じく奪われているのだから。
ハヤトの真横、声を大にしたスバルがそれからぴくりとも動かない。否、その次元で語れるほど優しいものではない。瞬きもせず、呼吸に胸も膨らまないまま。静止画状態と表現してもいい。
不意なスバルの介入に反応途中の二人もまた同じく、体のどこも動かすことができなかった。
それら全てが世界の時が停止したものだと理解する間もなく、次なる変化は訪れた。直後、それが終わりの始まりだったのだと、三人は思い知らされる。
ーーおい待て、嘘だろ! 前はこんなのなかったぞ!
ーーなに、あれ
ーー誰だ。誰を狙う。俺か、ナツキさんか、ハヤトか。考えろ、次に活かせソラノ・テン!
テンの死に様が過り、戦慄に血の気が引くハヤト。
現実離れした事態に、恐怖が駆け巡るスバル。
泣きそうな絶望を感じながら、状況を見るテン。
決して混じり合うことのない三人の心の声が、なにもかもが消え去った無の世界に消える。身体機能、五感、己の全てを縛られた——ただ一つ、思考だけが許される世界で、視界に現れる異形を見た。
——黒い靄が、ある。
三人の視線が交わる場所に、予感も感じさせず唐突に姿を見せた、不気味に揺らめくソレ。両手の平に乗せられる大きさのソレだが、三人に強烈な恐怖を与えるには十分すぎる物体だった。
停止した世界の中、ソレだけが蠢き、数秒と経たずに姿を変えていく。質量を増やし、歪な姿に。かと思えば減少させ、また歪な形に。まるで望みの形を探るように、ソレは蠢く。
完全に輪郭がはっきりしたとき、三人の目にはソレが長細い腕に見えた。肘から伸びるように形成された、五本の指を揃えた一本の黒い腕が、三人の中心で浮遊している。
指先を震わせるソレは形成されたを己が姿を確かめるように動くと、迷いもなく一方向に進み始めた。
——テンの、方向に。
ーーなんでスバルじゃねぇんだ!? 言ったのはスバルだろ! 聞いただけでもアウトって、そんなの無しだろうが! やめろ! そっちにいくな! 殺すなら俺にしやがれ!
ーーなにが、え、どうしてアイツに? どういうこと?
ーー待って、待って! お願いだから待って! 死にたくない! 死ねないんだよ! 約束したんだよ! つかなんでナツキさん勝手に喋ったんだよ! 話すなって言ったじゃねーか!
想定した最悪の未来が確実なものになり、動かない体を無理やり動かそうとして叫ぶハヤト。
眼前で起こる光景にただただ困惑させられ、真っ白の頭では状況の理解が追いつかないスバル。
仮説が真実であったと非情にも告げられ、容赦のない死が迫る事態に、半ば八つ当たりに泣き叫ぶテン。
三人の感情を意に介さず、黒い手はテンの体に狙いを定める。殺すなと叫ぶ声も、死にたくないと願う声も無視し、ソレだけは時が停止した世界で緩慢に動き続ける。
思考以外の自由が奪われた色褪せた世界では、ソレを避けることなど到底不可能で。終わりの見えない無限地獄に囚われた末路から、逃げ切ることもできない運命だった。
やがてソレはテンの心臓部目掛け、体の中に無抵抗で入り込む。肉の壁を越え、肋骨の間を縫って奥へ進み、鼓動を刻まない心臓に触れた。そして、
『———消えて』
音が隔絶されたはずの世界に、嫉妬に