「ラムの妹のこと、よろしくね。テンテンの声なら、きっと届くとラムも信じてるから」
「届かせてみせるよ。レムのためにも」
「じゃあ、ラムは寝るわ。後のことは任せるから。……任せるから」
「二回も言わなくていいよ。言ったでしょ。期待には必ず応える、って」
「おやすみ、テンテン」
「おやすみ、ラム。起こしてごめんね」
「全くだわ。ラムの貴重な睡眠を阻害して。景気付けに一撃、殴ってから寝ようかしら」
「待って待って待って」
▲▽▲▽▲▽▲
今まで——今の今まで、テンはこの世界の未来は変わらないものだと思っていた。
否、そうなのだと決めつけていた。原作で定められた運命は、未来は、結末は、変わることなんてないのだと。絶対に変えちゃいけないのだと。それが、みんなの幸せに繋がるから。
だから、レムへの想いも我慢してきた。彼女の相手は既に決まっているから、自分がその間に割って入ることなんて無理と。そうやって自分の心を殺し続けた。
でも、もうそれは我慢できそうにないのが現状だ。ラムに色々と言われて、レムの想いに気付かされて、自分の想いを自覚して、それら全てのおかげでテンは己の心を殺すことが困難になってしまった。
正直なところ、既に心にあった縛りは自分の中から完全に消えつつある。この世界に来てから何度となく過ぎってきた『原作の通りに——』という呪いのような言葉は、取り除かれつつある。
だって、分かったから。
今、自分が生きている世界は人の手によって創り出されたアニメの世界なんかじゃないと。設定なんて言葉で飾られた人間は、この世界には誰一人としていないと。
確かに、土台はそうかもしれない。それが基となってこの世界は存在しているのかもしれない。それが無ければ、この世界は成り立たなかったのかもしれない。
けれど、そうであると断言するにしては、この世界の人たちは人間味がありすぎている。普通の人——自分が故郷で接してきた人とこの世界の人は、なんら変わりないのだ。
嬉しいことがあれば頬を緩ませ。苛立つことがあれば怒鳴り。悲しいことがあれば涙を流し。楽しいことがあれば笑みを浮かべる。
心が揺さぶられる出来事があれば性格に変化が生じることだって。ありえない、そんなこと言うはずがないと思っていたことが容易く覆されて。
ここの人たちは原作とは全く違う姿を見せて、設定された性格をよく知るテンからすれば驚かされることばかりだ。
それらを肌で感じ、テンは思ったのだ。
例え、人の手によって創り出された存在だとしても、ここの世界で息をする人たちには心があって。それは時間と共に全く別の方向へと変化することだってありえるのだと。
そして、テンはその、全く別の方向へと変化した人を知っている。今まさに、その代表的な人物が目の前の部屋で苦しんでいる。寂しがっている。
故に、彼はそこにいた。
「いいか、ソラノ・テン。あとはお前次第だ。お前の働き次第で、レムの運命が決まる。気張れよ。ラムの信用に全霊で応えてみせろよ」
レムの部屋、その扉の前。
この先に自分の助けを求めている存在がいるのだと強く心に刻み込むテン。彼は何度も確認してきた決意を今一度、己に確かめる。
今から自分は、レムを絶望の底から引っ張り上げる。なんとしてでも。なにがなんでも。是が非でも。
姉であるラムに託されたのだ。やるしかないだろう。間接的に「妹のことをよろしく」と伝えられたのだ。レムを助け出す以外の結果など許されない。
一筋縄にはいかないことは分かっているけど、自分の本心なら、きっとレムには届いてくれるとテンは信じているから。
ありきたりな理由で、ありがちな感情論だけど。それがなによりも力を宿していると、テンは信じているから。
迷い、戸惑うことなどない。
「絶対に助け出す。それでハッピーエンドだ」
取っ手を捻り、テンは扉を開けた。
今、ゆっくりと、レムの世界に入っていく。
——この悲劇に終止符を、打つために。
▲▽▲▽▲▽▲
レムの部屋に入ったテンが見たのは、布団越しにでも分かるほどに震えているレムの姿。
寝台の側面、眠るレムの真横に膝をついて分かった。震え以上に呼吸が荒い。仰向けで、布団から顔を出す彼女の息は恐怖に怯える幼子のように乱れている。
表情は分からない。物体の輪郭を捉えることがやっとの薄暗さでは顔色を見分けることは困難で、震えと呼吸の二つしか明確でない。
それでも、苦しそうな表情をしていることなど簡単に察せられるテンだ。たった二つの情報しかないが、二つにはそれを裏付けるだけの力がありすぎている。
「レム……。レム……!」
彼はまずレムを起こすことから始めた。
彼女を悪夢から解放しなければ何も始まらないし、魘されるレムは痛々しすぎて見ていられない。精神的に解放する前に、まずは物理的に解放する。
肩を揺り、呼びかける。自分はここにいる。名前を呼ぶ人は傍にいる。ずっといる。だから苦しむことなんてない。我慢する必要も、隠す必要も、何もないのだと。
「テ、ン……くん……?」
何度も声をかけていると、レムは目を覚ます。
覚ました直後、飛び起きた彼女は過呼吸を思わせる程に呼吸を荒ぶらせていたが。それも治るとレムの掠れた声がテンの鼓膜を叩いた。
調子の悪く、歯切れの悪い声には確かな疑問符が込められていた。疑う、と表現するよりも、信じられないものを前にしたようなニュアンス。
手を握る温かさに覚えのあるレムは、真横で膝立ちしている影が名前の存在だとも知らずに名を溢していた。
「テンくん、なんですか?」
「うん。テンだよ。ちょっと遅いけど、俺も目ぇ覚まして——」
その言葉を聞き終わる前に、眼前にある胸の中にレムは飛び込んでいた。無言で、無音で、衝動に駆られたように、首に腕を回して愛する人に抱きつく。
抱きついた衝撃で「ぅが」とテンが僅かに苦鳴を溢したが、気にしているレムは心のどこにもいない。テンへの配慮を考える余裕のない彼女は縋り付くような風に、回した両腕で彼の身体を引き寄せている。
心が「そうしたい」と叫んでいた。頭の中がそれだけに染められて、レムの行動は自動的にそれ一択に絞られて、何があっても離れない。
「大丈夫。大丈夫だから」
レムの体重が容赦無しに掛かる体を支える腹筋が悲鳴を上げる中、気休め程度に背中をあやすように何度かたたくが、逆効果となった。
「テンくん……!」と。嗚咽混じりに名を呼んだレムの声が耳元で弾け、それを起点に身体が動くと彼女の身体が寝台からずり落ち。当然、支えられないテンが巻き込まれる形で背中から床に倒れた。
そうして、二つの影が一つに重なる。薄暗い世界で二人の距離が数センチからゼロセンチに縮まり、その温もりもまた一つに合わさる。
勢いを止めきれなかったテンの上にレムが覆い被さったのは、死の淵から彼が目覚めた時と全く同じ構図だ。上に乗っかるという意味合いでは、日常の光景となんら変わりない。
「ひとりにしないでください……!」
体をどうにかして起こさなければ——上に重なるレムに対し、そんなことを考えていたテンの思考を彼女はその声一つで止めた。
耳元で咽び泣くレムの、今にも消えてしまいそうな声だった。小さく、弱く、けれどもそれはテンの心に強烈な衝撃を齎す。考えること全てを消し去る一声に、文字通り彼は頭の中が真っ白になった。
レムに、己の意識を根こそぎ奪われる。たった一言で考える力を停止させられ、麻痺した思考回路が再稼働するまでの間に、
「もう、どこにもいかないでください……!」
レムは、テンのことを苦しいぐらいに抱きしめていた。強張った体を震わせ、鼓動を恐ろしく速めながら、彼女はやっと会えた人のことを抱きしめて離そうとしない。
やっと掴み取った温もりに縋るように。必死に捕まえた彼が、あの夜のようにどこにも行ってしまわないように。
「……そうだよね」
レムの抱擁を受けるテンが、ポツリと呟く。
その彼の脳裏には今、血の夜に刻まれた光景が過っている最中だった。一生忘れられぬ記憶が今、彼の頭の中で映像化され、覆いかぶさるレムと完全に重なっている。
その記憶——魔女教徒に一人で立ち向かおうとする自分をレムが必死に呼び止めてきた時のものだった。
それを、自分は約束という形で振り切った。レムの「いかないで」も「そばにいて」も、彼女の想いの全てを捩じ伏せ、彼女に背を向けた。本当はそうするべきじゃないのに、そうするしか方法が無くて。
その結果がこれなら、責任の所在は自分にしかないとテンは思う。レムを寂しがらせているのも、不安がらせているのも、怯えさせているのも、全ての原因は自分にある。
なら、その責任はちゃんと取るべきだ。自分とレムの間に築かれた絆につけ込んだ罪は、彼女が望む形で、償う必要がある。
「ごめんね、レム。もう、どこにもいかない。レムの傍にいる。ずっといるよ」
テンはレムの背中に両腕を回して抱きしめる。恐怖に震える彼女の心を温もりで包み込んで、震えを無理やり止めるつもりでその小柄な体を苦しくない程度に強く抱いた。
途端、ピクリとレムの体が跳ねるも、それは一度だけだった。抱きしめられた事を理解すると嬉しがるように抱き返し、身も心も預けられる場所に彼女は落ち着く。
「もういいよ、レム。我慢しなくていい、無理しなくていい。レムは十分すぎるくらいに頑張ったから、全部吐き出していいんだ。吐き出してもいい人がすぐ傍にいるよ」
あの夜に伝えるべきだった謝罪。一週間越しのごめんねを伝え、テンは言った。
好きな人として。好きになられた人として。テンはレムの心に全身全霊で寄り添う。その小さな背中にどれだけの苦痛を背負い、苦しめられていたか分からない少女を、決して孤独にさせない。
「もう、どこにもいかない、絶対にいかない。……レムの気が済むまでこうしてる。レムが、もういい、って言うまで抱きしめててあげる」
「ごめんね、こんなことしかできなくて」と。
そう言葉を付け加えてテンは口を閉じる。以降、彼はしばらくの間だけ言葉を発することを止める。レムを抱きしめる事に熱を注ぎ、冷え切った彼女の心を温めた。
今、レムの心はどうしようもなく泣き叫びたがっていた。彼の損失によって失われていた温もりが心の隅々にまで行き渡っていく感覚に、堪えようにも堪え難い涙が溢れそうになっていた。
我慢しなくていいと言われてしまった。無理しなくていいと言われてしまった。吐き出していいと言われてしまった。
自分の全てを許す羅列は、色々なものを必死に隠し続けていたレムからすれば『安らぎ』の一言に尽きるものだった。隠していたものが爆発して、この人の吐き出してしまいそうになる。
そんなの、迷惑だ。
「我慢してたもの、全部俺にぶつけていいよ。溜め込んでたもの、俺に殴りつけていいよ。遠慮とか、しなくていい」
そう思っていた矢先、テンに重ねるように言われてしまったレムは、もうどうしようもなかった。言葉の次に頭を撫でられれば、なおのこと。
自分の甘えを全て許容してくれるテン——普通のテンなら考えられない行為を望んだ通りにしてくれるテンに、どこまでも溺れてしまいたくなる。
だって、彼に抱きしめられるだけで全てが良い方向に傾いていく。いつの間にか無限に続くと思えた孤独感は自分の心から薄れて、消えて、無くなっている。
今までの一週間が嘘のようだ。生き地獄とすら思えてしまう時間を軽く超越する幸福感が心に浸透して、どんどん満たしていく。
欲しかった温かさが、自分の傷を癒していく。
自分の犯した罪も、許されざる事実も、忘れられぬ傷痕も。それら全てを投げ出せる世界で愛する人の温もりをこれ以上ないまでに堪能することができて、レムは本当に幸せだ。
幸せで、幸せで、幸せで——。
「なんて……」
だからこそ、そう思ったのかもしれない。こんなこと、普通の世界ではあり得ないと、普通のテンはしてくれるはずがないと、心のどこかでは気付いているから。
「なんて、素敵な夢なんだろう」
そう、思ったのかもしれない。
▲▽▲▽▲▽▲
「………は?」
何を言われたのか、よく分からなかった。
鼓膜を振動させる音が体の内側へと流れ込み、水面に落ちた一雫のように波紋する音は、まず始めに脳に伝わる。頭で告げられた言葉の意味を噛み砕き、飲み込もうと働きかけた。
それでもダメなら心に考えさせる。そう思って音を心に波紋させるも、結果として心も理解不能だった。理性的に考えても、本能的に考えても、今の言葉は無理解だった。
何を思ってそう言ったのか。何を感じてそう言ったのか。何を悟ってそう言ったのか。
なんて、素敵な夢なんだろう。その一言の中にぎゅうぎゅう詰めになった、両手では数え切れない想いの数々を一つ一つ解いていこうと努力し、
「………は?」
先と同じ反応に返ってきた。
真顔のまま表情が凍りついたテンは呆気にとられ、幸せそうに喉を鳴らしながら甘えてくるレムの存在が一時的に視野から薄れている。
それ程までに、幸福一色に染められたレムの口から紡がれた言葉の意味は理解し難い。
「なんで——」
「テンくん」
なんで夢だと思ったの?
そう聞きたかった言葉に名前を重ねられたテン。途端、声が重なったことにその先の言葉を繋げようか迷いの生じるレムの声が吃った。
問いかけようか戸惑うテンの「あ……」と、紡ごうか迷うレムの「えっと……」の声が再び重なると、両者共に沈黙。お互いが譲り合う構図が世界に完成すると気まずい沈黙が二人を包んだ。
「レムが話していいよ」
沈黙を壊したのはテンだ。レムのことを何よりも優先する彼は浮かんだ疑問を一旦思考の手前に下げ、発言権の一切を自分から彼女に差し出す。
テンはそのためにいるのだから。レムの『今』と真摯に向き合うと心に決めた彼は、彼女の言葉を全部受け止めて、それから話し合う姿勢で抱きしめている。
どうして夢だなんて悲しいことを言うのか。本当はその言葉の意味を知りたい。知って、否定したい。けど、レムの望むことを全て叶えてあげたいテンは、その心をグッと堪える。
「テンくん………」
その姿勢に全幅の温もりを感じたレム。現実世界ではされるはずのないテンの行為に、やはりこの世界は夢の世界なんだなと心の片隅で悲しんだけれど、それに反して頬は緩んでいた。
それ以上に、嬉しかった。自分の望んだことが全て実現してくれることが、たまらなく幸せだったから。悲しみなんて、忘れさせてくれる。
こうして欲しい。こう言って欲しい。自分の甘い欲望をこの世界の彼は快く叶えてくれて、絶望しか無かった自分に希望を与えてくれて、心が安らいでいく。
だからレムは、この世界の愛する人に「それでしたら、甘えちゃいますね」と甘く声を弾ませると、
「少しだけ、わがままになってもいいですか?」
——それから、レムはテンにたくさん甘えた。
場所を、床から変えて寝台の上。
縦長の寝台に対して縦に座るテンが壁を背もたれにして寄りかかりながら足を伸ばし、伸ばした足の間にするりと座り込み、その体を抱きしめながら眼前にある胸元に体を沈める。
これまで、ずっと我慢していた分を発散するように抱きつく。抱きしめられる。吐息が絡み合う程に近い距離で、大好きな人に甘え続ける。
普段とはかけ離れすぎているテンという人間に心を溶かされていく彼女は、もう全てがどうでもよくなって。嫌な事を全部忘れさせてくれる彼に、どうしようもなく甘えていたかった。
この際、夢でもなんでもいい。この心が感じている温もりも、聞くだけで安らぐ声も、全身を包み込んでくれる感触も、全部全部まやかしだとしてもいい。
今はただ、この人に溺れていたい。
愛しい人に甘えたい分だけ甘える彼女は、『テンとレムだけの世界』に溺れていく。自分の弱さが作り出した世界に泥酔して、現実から目を背けていく。
ーーああ、これが夢じゃなかったらいいのに
世界で一番落ち着く場所に身を委ねながら、レムは考えたくないことをふと考えてしまう。心の端っこにその事を悲しむ自分がいるせいで、心の底から幸せなれない自分がいた。
だって自分は今、本当は眠りについているのだから。今、自分のいる世界は、心を守るために弱い自分が自分に与えたものなのだから。
明晰夢——世界はそのような現象のことをそうやって定義しているくらいだ。
自分が知らないうちに精神崩壊でもしたのだろう。悪夢から逃れるために現実から目を逸らし、夢の世界に逃げたと思うことだってできる。
夢だ。この世界は、本当は夢なんだ。
彼はまだ寝ていて、自分の名前を呼んでくれるはずもなくて、今のように甘えさせてくれなくて、自分を置いて遠くに行ってしまう。
「そんなの……、ひどすぎます」
考えていると幸せだけの心の中に悲哀が生まれるレムが、テンことを掻き抱く。こんなにも近くにいるのに、とても遠く感じてしまう存在が消えないよう、無駄だと分かっていても繋ぎ止める。
一度でも悲哀が姿を見せれば、レムの心の半分がそれに支配されるのに時間はかからなかった。今が明晰夢であること自覚している彼女は、いつ自分自身が目を覚ますのかも分からない恐怖に途端に襲われる。
彼に夢中になって気にしないようにしていた事が、考えないようにしていた事が、現実に引き戻されるかの如く次々と溢れて。次第にそれは涙となって瞳から溢れ出して。
溢れて、溢れ出して。耐えきれなくなって、
「ーー!」
——感情が、爆発する。
「やぁ……! やだ。やだやだやだ……っ! やだぁ! テンくんと離れたくない、もっと一緒にいたい、たくさんたくさん甘えて、ずっとこうしていたい……!」
世界そのものに訴えた縋りが、世界に鈍く響く。レムにとっては叶うはずのない哀願が、起こるはずのない奇跡が、テンに甘えたがるか弱い少女の一途な想いが。
「言ってくれたじゃないですか、二度とどこにもいかないと、レムの傍にいてくれると。なら、いてくださいよ! 夢の世界だけじゃなくて、現実の世界でも傍に……!」
か弱い女の子の力を精一杯に捻り出して彼を抱き、ひたすら叫ぶ。
夢だと、そう思い込むレムは「夢じゃない」と言い聞かせるテンの声も無視して世界に訴える。お願いだから覚めないでくれ、ずっとこのままでいてくれ、と。
ずっとこのままがいい。ずっとこの人とこうしていたい。ずっと幻想に溺れていたい。ずっと二人だけの世界で過ごしていたい。
「夢なんかじゃないよ、レム。今レムが見ている景色は、感じている温もりは、夢でも幻想でもまして悪夢でもない。現実……この声は現実だよ」
そんな彼女にテンは必死に呼びかけた。この痛みも、この温もりも、この愛も、全部が本当——そう伝えるように震える体を痛いくらいに強く抱く。偽りの真実に絶望する彼女に、彼は語った。
夢だと思うな。これは現実だ。ちょっと前の自分とは人が変わってるように感じるかもしれないけど、この自分は正真正銘ソラノ・テンだと。
夢だと思う理由も分かる。けど、それはレムの思い込みに過ぎない。彼女は自分と同じで自己完結が悪い癖なのだから。第一、今のレムに自分がそのような酷い仕打ちをするわけない。
そんな切実な思いは、
「やめてくださいーー!」
必死に紡ぐテンの想いは、伝わらない。
熱を帯びた想いを掻き消す怒号が世界の静寂を一度だけ破壊するとレムはテンの胸を突き飛ばし、身を捩って彼の胸元から離れた。離れないでと言い聞かせたレムが、テンのことを拒絶する。
想い人の声、それすらも今の彼女は受け止めようとはしていなかった。
絶叫を上げる心が不安定に揺れ始め、首を横に振るレムは「うそ、は、ダメですよ……」と声を詰まらせ、肩を抱き、啜り泣きながら現実の言葉を否定して、
「そんな酷いこと、言わないでください! 優しい言葉でレムの心を痛めつけないでください! これ……これ以上、レムは壊れたくありません……っ!」
その発言に、テンは喉が凍りついた。
世界を夢だと思い込むレムに「夢ではない」と言うこと。それはつまり、辛い現実を余計に突きつけることになる。溺れていた甘い世界から這いあがろうとする彼女を、引き摺り下ろすことになる。
溺れれば溺れた分、目覚めた時の反動が心の許容値を超える。当然の話だ。近くにあった愛しい温もりが目を覚ましたら消えている、その事実に今のレムが耐えられるだろうか。
無理だと分かっているから、テンを拒絶する。夢の世界が夢であると、己に突きつける。
「……もう、いいですよ」
掠れた、今にも消えてしまいそうな声だった。近くにいるテンの耳にも辛うじて拾われる声量の、死期を悟ったような穏やかな声だった。
「この世界は、レムにとっては毒なんです」
「どく? なんで、また、そんなこと……」
胸を小さく上下させるテンが途切れながらに文字を言葉として並べる。レムは「だって」と鼻を啜る音を一度だけ弱く立て、
「テンくんがレムを甘やかす度に、レムはテンくんを欲してしまう。テンくんのことを求めてしまう。そんな状態で目覚めてしまったら、レムは耐えられません。大好きな人の温かさが欲しくて欲しくて、きっと壊れてしまいます」
この世界が自分にとって毒なんてこと、レムはとっくに理解している。彼の優しさは、甘さは、一滴でも取り込んでしまえば病み付きになってしまう麻薬。
テンとは、レムにとってそのような存在だ。
だからこそ、レムは拒絶した。無駄だと分かっていても、彼女は彼のことを求める本心とは真反対に自分の方から逃げる。
「だから、レムはここにいてはダメなんです。目を覚まして、現実と向き合わないと、ダメなんです。テンくんに背を向けて、その温もりから逃げ去らないと、ダメなんです。だから………」
だから、その前に一つだけ。
完全にサヨナラをする前に一つだけ、伝えさせてほしい。現実では決して言えない一言。言っちゃいけない一言。言う資格などない一言。
それを言って、お別れだ。
それを言って、満足しよう。
「テンくん」
愛しげに名を呼び、レムは両手でテンの顔を掬い上げる。表情の見えぬ顔は、しかし今だけは動揺の顔が明確に見えて。やっと見えたと、微笑みながら。
夢世界の愛しいあなたへ————。
「レムは、テンくんを愛しています」
▲▽▲▽▲▽▲
それは、死期を悟った人間が最期の最後に伝えたような儚さがあった。もう死んでしまう人の、最後の力を振り絞って溢れたような美しさがあった。
もう二度と伝えられない、伝えることができない。そんな意味合いを深く刻んだ告白だった。
「な、ん……で?」
予期していなかった愛の告白に、テンは動揺を隠すことができなかった。眼前、吐かれる熱っぽい吐息が口元にかかってしまう距離で告げられた、世界で一番優しい言葉に、再び頭の中が白く塗りつぶされる。
決して心構えをしていなかったわけではない。いずれは伝えて、伝えられると確信していたことだ。なのに、どうしてそんなにも動揺してしまう。
——それはきっと、それが自分の望んだ告白の形ではなかったからだ。
「なんで……? なんでいま?」
「今、言っておかないとダメなんです。今でないと、もう二度とテンくんに言えないんです」
レムの胸の内。秘めてきた想いの一つ一つ。その一言一句が今、テンの心に刻み込まれていく。彼女の痛みが奥深くに強く響き渡っていく。
自分には、現実世界のテンを愛する資格なんてない。愛してるなんて言っていいはずがない。だって、自分はこの人を傷つけてしまった。想いを寄せる人を傷つけた罪深き人間が、その人を愛する資格なんてない。
「だからレムは、レムの世界のテンくんに伝えちゃいました。せめて、夢世界の愛しいあなたにくらい伝えたくて」
でも、それでも、その想いだけは揺るぎはしなかった。ソラノ・テンを愛する気持ち——それだけは鮮明だった。嘘偽りのない純粋な想い、それ一つは穢れなかった。
例え自分を許せなくても、彼のことを愛する気持ちだけは曲げることなんてできないから。
「……本当に、レムは救いようのない女ですよね。罪だと知っていても、犯してしまうんですから」
目の前でレムが笑う気配。薄く漏れた音は明らかに己に向けられたもの。自分で言って己の救えなさを再認識した彼女が嘲笑った。今更どうにかなるものでもないのに、それを語る自分が馬鹿馬鹿しい。
そうだ。ああ、そうだ。本当に馬鹿馬鹿しい。でも、本当の彼に聞かれていないだけマシだと思おう。だってこの彼は自分の思い通りにしか動かない人形だから。
ここは自分の欲望が創り出した世界。自分にとっての不都合が全て取り除かれた、言うなれば楽園のようなもの。何を言おうが現実には関係ない。
何を、言おうが。
「こんなレムなんて、テンくんに嫌われてしまえばいいんです。レムは、あの人を愛することなんてしちゃいけないから、いっそ忘れられてしまえば——」
「言うなーーッ!」
忘れられてしまえばいい。
心が闇に閉ざされ、半ば自暴自棄になったレムの心にもない発言が飛び出す寸前、テンの咆哮がそれを蹴散らした。
何度聞いても全く慣れないテンの吠えた声がレムの心を突き抜けると、本人の狙い通り彼女の声は止まる。全身をピクリと跳ねさせ、ピタリと動きを止め、それから不思議がりながら、
「どうして……ですか? だって、今のテンくんはレムの世界のテンくんであって、レムが何を言っても現実のテンくんには関係なんてないから——」
「だから、それが間違ってる、ってさっきからずっと! 何回も! 何十回も! 言ってんだろうが! 大前提から間違ってんの! なんで分かってくれないかなぁ……!」
強めに舌打ちし、「ほんと、レムって自己完結しがちだよね」と苛立ち気味にテンは吐き捨てる。
いつまで経っても自分の世界から帰ってこようとしない彼女のことを見ていると、まるで以前の自分を見ているようで腹が立った。
自分が決めつけたことだけに縛られて、自分の中だけで完成した世界に閉じこもって、身勝手な理由一つでどこまでも沈んで、素直になることができなくて。
あぁ、正しく少し前の自分そのものではないか。
ここにきて初めて——レムと出会ってから初めて彼女に対して苛立ちの感情を宿すテンは、くっつくレムの両肩を掴んで自分の体からグイッと引き剥がすと彼女を正面に捉え、
「レム。今の俺が、レムは本当に夢だと思うの? 夢だと思いたいの? 夢だと思い込みたいの?」
「思い込むもなにも……、夢なんですよ。レムだけの世界に住むテンくんにしてはおかしなことを言いますね」
「それが、目の前にいる『テンくん』が、自分の欲望が創り出した人じゃないことを裏付けてるとは思わないわけ?」
「ーーーー」
言った瞬間、レムの世界が凍りついたように静まり返った。直球で投げかけられた言葉に、世界の支配者の時が止められると、世界もまた時が止まる。
その一言はレムにとって、それなりの衝撃を齎したものだったのだろう。何かを言いかけたレムの吸息音が浅くテンの鼓膜に届くと、以降、彼女は口を閉じた。
その中で、テンは動いていた。現実世界と夢世界の狭間を往来する彼だけは、動くことを可能としていた。
「仮にここが、レムにとっての不都合が全て無くなった世界……夢の世界だとして。じゃあ、なんで俺はレムにこんなこと言ってんの? 今が夢であること、なんで俺はそれを否定してんの?」
「ーーーー」
「これが夢であることを肯定するレムにとって、それは不都合なんだろ? もし、俺がレムの欲望だけで形成された操り人形なら、レムに不利益を齎す真似なんかしないはずだ」
「だってその俺は、レムの操り人形。レムの思うがままに動く、夢に飼われた奴隷なんだから」と。言葉を畳み掛けるテンはレムの世界に生まれた矛盾を的確に射抜く。
自分の世界に閉じこもり、現実を夢だと信じて疑わぬ程に——表現としては最低だが狂気の沙汰にすら匹敵してしまいかねない、衰弱しきった今の彼女を光に連れ出したくて。
なら、どうすればいい。どうやってこの世界が夢ではないと証明すればいい。この自分が現実だと証明すればいい。夢の自分では説明がつかないことは何かないか。考えて、考えて、考え続けて——、
ーーこんなレムなんて、テンくんに嫌われてしまえばいいんです。
「……レム。俺さ、実は少し前に、やっとレムの気持ちに気付いたんだよね」
見つけた一筋の希望に、テンは全てを懸けた。
▲▽▲▽▲▽▲
「………ぇ」
唐突で、脈絡のない言葉を受け、レムは俯きかけていた顔を上げる。直後、不意に世界に光が宿るのを見た。
ゆっくりと、光が灯っていく。自分と彼の周りを照らす優しい灯火が、薄暗くぼんやりとしていた視界を明快に開き、見えなかった彼の顔が彼女の瞳に映し出された。
見えた表情は穏やかなものだった。陽の魔鉱石で作られた灯に触れる彼は「レムの顔、やっと見れた」と笑み。途端、やりづらさを感じて目を逸らす。
が、
「ちゃんと、俺の目を見てほしい。俺から逃げないでほしい」
「ぁ………」
伸ばされた手が頬に触れると顔の向きを強制的に彼の方向へと戻された。温かくて、優しい手つきで、彼のことから目を離すことができなくされた。
別に固定されたわけじゃないのに、もうその手は引っ込められたのに、彼と目を合わせるとそこから離したくなくなってしまった。どうしてだろう。
それは多分、その目がいつも以上に真っ直ぐだったからだとレムは思う。
「さて。話、もどそっか」
レムの心と視線を自分に向けさせたところで、軽く脚を伸ばして背筋を伸ばすテンが、レムを夢の世界から連れ出すための第一歩目。脈絡も文脈もない言葉に魂を注ぎ込み始める。
レムにそれを止める気配は見られない。未だ唖然とする彼女はその語りが始まるのを見ているだけだった。
すぅ、と。テンは声を作るのに必要な酸素を肺に取り込むと、
「レムは、俺に対して『好き』っていう感情を何ヶ月も前からずっと向け続けてくれた。俺と過ごした日々の中で、レムは自分が俺に贈れるありったけの愛を表現してくれていた。……今の自分になって、やっと気づいたよ」
「遅すぎるよな」と。力無く首を横に振るテンはレムがしたように己に嘲笑。しかし、彼の場合はその重みが明らかに違った。深くため息をついてしまいたくなるそれは、テンが犯してきた許されざる罪なのだから。
自分の世界に閉じこもり、くだらないものに縛られ続けて、誰にも相談することもなく、ひとりで考え続けては『そうだ』と自己完結——それで何が変わった。
何も、何も変わらなかった。自分に対して注がれ続けていたひたむきな想いに気付くことができず、その想いを蔑ろにしていた。自分のことを見るレムが何を考えているか、理解しようとしなかった。
今になって一つ一つ思い出せば、分かることだったのに。相合傘の意味も、中間試験の夜に語られた言葉の意味も、首飾りの意味も。他にもたくさんあるのに、あの時の自分は一つも分かってあげられなかった。
許していいなんて思わないし、許されていいなんて甘い考え方は絶対にしない。そのせいで何度彼女の心を踏み躙り、傷付けてきたと思っている。
「ほんと……どうして気付いてあげられなかったんだろう、って心底思うよ。気付いてあげられてたら、言ってあげられた事も、してあげられた事も沢山あっただろうにさ」
布団をぎゅっに握りつぶす拳が次第に震え出す。爪が皮膚にめり込んでしまいそうな程の力は、テンが過去を後悔する程度をそのまま表した。
しかし、テンの後悔が止まることはない。
「ずっと、今までずっと。レムが向けてくれた想いを何一つとして気付いてあげられなかった。レムと接してきた時間の全てにそれはあったのに、俺はそれを悉く無視してきた。今の俺になって一つ一つ思い返せば全部分かったのに。あん時の俺は……何も分からなかった」
「ーーーー」
「もっと早く気付くべきだった。レムが頑張って俺に想いを……、直接的な言葉じゃなくても伝えてくれてたのに。俺はお前に向けた想いを受け入れられないせいで目ぇ背けて、いつの間にか、お前が向けてくれた想いからも目を背けてた」
「ーーーー」
「クソ野郎だよな。ほんとに、どうしようもない男だよ。いつまでもくだらないものに縛られて、ダメだダメだって言い訳して、曖昧な誤魔化し方で逃げ続けて、自分が心底嫌になる」
止まらない独白が、テンの口からすらすらと紡がれる。それは、レムの想いに気付いた以降から、まるで堰き止めていたものがどっと押し寄せたように理解できた罪。
一度たりとも言葉が渋滞せずに、全てを一つの流れとして言い終えることができたのは、テンがその事実を己の中で何度も何度も繰り返していることに他ならない。
それだけのことを自分は数ヶ月間、それも毎日のように積み重ねてきたのだ。一つ一つの罪は浅けれど、何百にも何千にも重なれば、それは立派な重罪となる。
否、レムの心を傷付ける罪が浅いはずがない。一つ一つが浅けれど、なんて甘ったれた考え方は今すぐに撤回するべき。
一つ一つが重罪、それが当然だ。好きな人を傷付けたのだから。それが当たり前だ。
だから、
「だからレム。俺は、君に伝えなくちゃならないことがある。傷付けた俺が言っていいのか分からないけど……、傷付けたからこそ、余計に言わなくちゃダメだと思ったから。傷付けた分を取り返したい……って、思っちゃダメかな」
優しい声色で語り、テンは決定的な一言を告げるための準備をひとり静かに完了させる。直後、レムの肩が一度だけ跳ねた。その宣言に、思い当たることがあったからだ。
「レムは言ったよね。今、自分がいる世界は自分が創り出した世界で、この俺は本物じゃない、って。本当の世界では、自分は眠っていて俺も眠っている。要は、これは明晰夢だと」
すぐ目の前。十センチも前に進んでしまえば唇が合わさってしまいそうな距離にいるレム。彼女にテンはそれまでの優しげな声から一転し、芯のある声で話を巻き戻す。
途端から忘れかけていた事が頭のど真ん中を占め、レムの青色の瞳に不安と悲哀の色が浮き始めた。やはり、どれだけ和ませてもその事を思い出すと心が闇に包まれてしまうらしい。
「なら、俺はレムを夢の世界から解き放つ言葉を君に贈るよ。夢世界の俺だと思い込んでる現実世界の俺から、夢世界の君だと思い込んでる現実世界の君へ。俺が言うべきこと……言いたいことを」
故に、テンはその言葉を告げる覚悟を決めた。
彼女を夢の世界から連れ出し、自分が本当の自分であると分からせるために。この温もりは、決してまやかしなどではないと教えるために。
言うための覚悟などとっくにできている。緊張もするし頬は熱いし心臓はうるさいが、紡ぐ声だけは震えていない。深呼吸——する必要はないだろう。
「レム」
名を呼ぶ。
間近で潤む青色がテンのことを一心に見つめている。胸に伸ばされたレムの両手がテンの胸元を小さく握りしめている。レムの全てが、ほぼゼロ距離でテンに向けられている。
今しかない。言うなら今だ。
ずっと言えずにいた言葉。自分ではダメだと抑え込んできた感情。それもできなくなった想い。
それを今、
「俺は、レムのことが好きだ」
万感の想いと共に、伝えた。
好きだ、好きだとも、好きでしかないと言い切ろう、ずっと前から好きだった。レムと接していくうちに好きになって、それを必死に抑え込んできた。
でも、それは無理だと自覚してしまった。自覚した想いから目を逸らし続けるのは不可能で、くだらない縛りを抜け始めたらもっと不可能になった。
だから、テンはこのタイミングでレムに想いを打ち明けた。それに、他にも理由はある。
「さっきレムは言ったよね。こんなレムなんて、テンくんに嫌われてしまえばいいんです。って」
「———ぁ」
レムの、何かに気がついたような息が薄く吐かれる。次の瞬間、彼女はテンの意図を理解することになる。一秒たりとも時間を置かず、テンは言った。
「嫌ってほしいんだろ? なら、俺はレムのことを好きになるよ。レムが嫌ってほしくても、好きだと言うよ。好きですと、伝え続けるよ」
告白したテンに戸惑いはない。好きと伝えることに躊躇することが消えた彼は何度でも伝える。その世界を否定する言葉の羅列を、レムが自分の世界を否定するまで。
「夢? 幻想? 明晰夢? 上等だよ。やっと言えた俺の想い、そんな言葉で操れるものならどうぞ操ってください。夢の世界なんだろ?」
ここぞとばかりに夢であることを肯定し始めたテンに、レムは今にも泣き出してしまいそうな顔つき。
だって、全く自分の思い通りに動いてくれない。夢の世界は自分の世界——何もかも全てが叶う世界で、明晰夢ならば操ることだってできるはず。思うだけで、形になるはず。
なのに、
「ほら。変えてみなよ。レムの世界なんだろ。お前のやりたいように俺を操ってみろよ。嫌い、って言わせてみろよ。レムの言う通り、今が夢の世界なら、なんでも叶うぜ?」
余裕そうに笑う彼を見ていると、自分の思い通りには動かないと理解してしまった。夢であるはずの世界が、夢ではないと分かってしまった。
自分が見ていた世界は、感じていた温もりは、包まれていた優しさは、正真正銘の本物で。この人は本当に自分のことが好きで、甘えさせてくれていた——。
「……うそ」
テンの言葉を頭と心が理解するレムは、まだそれを否定したがる。弱々しく、本人ですら聞こえない、雨粒のような大きさの声が、ポツリと落ちる。
「本当だよ」
ありえない、ありえるはずがないとする心が必死になって薄っぺらい言葉を投げかけ、しかし刹那で否定された。
それでもまだレムは答えの解り切った嘘を幼子のようにつき、何度でも刹那で否定される。この胸を熱くさせる感情に自分を支配されながらもレムはテンを誤魔化し続け、何度でも刹那で否定される。
「レム」
そんな彼女の体をテンは引き寄せる。「ぁ」と小さくレムの声が漏れ、次の瞬間には彼女はテンの胸に優しく抱かれていた。
この短時間で何度も抱きしめた小柄な体を、テンは離さない。もう離さないと言ったから。ずっと傍にいると決めたから。
「もう一度聞くよ、レム」
言いたいこと、言わなくちゃいけないこと。
想いの丈を全て伝え終えたテンが、レムの心に直接響かせるように、穏やかで、落ち着いた声を彼女の胸に投げかける。
一雫。レムの頬に垂れる涙を人差し指で拭いながら、
現実世界の愛しい君へ——。
「レム。今の俺が、レムは本当に夢だと思うの? 夢だと思いたいの? 夢だと思い込みたいの?」
▲▽▲▽▲▽▲
色々と頑張った結果として、レムは夢の世界から救われた。今が現実であることを認め、彼女は偽りの真実が偽りであると正しく認識し、今のテンが本物であってほしいと言ってくれた。
安心したテンである。本題に入る前にかなり疲れてしまったけれど、彼女が現実を受け止めてくれたようで一安心。
時間はかかったけど、これでやっと話し合いの場を整えることが叶った。
「テンくんが眠っている間、レムなりに色々と考えたんです。罪を犯した自分と向き合ってみたんです」
今。
壁に寄りかかりながら座り、後ろからレムを抱きしめるテンと。抱擁を受けながら脱力し、座椅子のように彼に寄り掛かるレム。二人は、いよいよ本題に突入していた。
レムのことを本気で絶望から救い出す気概のテンに、レムが自分のことを打ち明け始めたのだ。
「テンくんを傷付けた自分を許せるのかとか。テンくんを愛していいのかとか。自分を許せない自分がそれを許せるのかとか。本当に、色々と考え続けたんです」
考えて。考えているうちに、もう何も分からなくなった。自分の罪と向き合っていうちに、レムは自分の考えていることが何も分からなくなった。
いつの間にか、レムがレムを理解することができなくなっていた。いつもなら明快な自分のことが、今は他人のように分からなくて。
「テンくんを傷付けたレムがレムは許せなくて、テンくんを愛する資格なんてないと思ってて。でも、レムはテンくんのことが大好きで。大好きだから、レムも頑張って答えを見つけようとして、でも見つけられなくて」
好きなのに好きになっちゃいけない。そんな資格ないのに、愛してしまう。そんな矛盾を抱えているうちに、どうしたらいいか分からなくなった。答えの形を見つける事ができなくなった。
その罪と向き合おうとすると、過去に刻まれた一生の罪が頭の中を駆け巡るせいで、余計にどうしたらいいか分からなくなる。だって彼を傷付けた事実は、その罪が元凶なのだから。
「レムは、どうすればいいんですか? どうすれば自分を許すことができるんですか? テンくんを傷つけたレムにテンくんを愛する資格は、あるんですか?」
次第に、その疑問が心を支配するようになった。
悪夢で目覚めては呼吸困難に精神を殺され、程なくして自分の罪と嫌でも向き合わされ、同じ疑問ばかりがいつまでも廻り続けると、答えの出せない自分に打ちひしがれる。
「全部、レムのせいです」
顔を出した弱虫な自分が己を責め立てると、レムも自分を責め立てる。罪だらけの自分に永遠と罵詈雑言を浴びせるのだ。
お前は一体、今まで何をしてきた。なんのために生きてきた。何をするために生きてきた。
と。
「レムは、あの時から何一つとして変わっていない。変わる予兆すらない。変わった気でいただけで、あの時から一歩も前に進んでいない」
そんな言葉がレムの心臓を貫通する。
姉の代替品として生きてきた数年間が無駄であると強く叩きつける冷え切った怒号に、自分の人生を全否定されて。贖罪のためにしてきた事の全てが無意味であると笑われて。
実際にそうなのだろう。事実として罪は重なったのだから。
自分のせいで姉が傷付いたように、自分のせいで愛する人は傷付き、満身創痍に追い込まれた。元を辿れば自分を助けるために彼は死にかけた。
どうしてか。
「レムが出来損ないで、姉様の代替品にすらなれなかったから。鬼族の落ちこぼれで、何をしても本当の姉様には追いつけなかったから。その背中に触れることはおろか、近づくことすらできなかったから」
どうしてか。
「本当の姉様には普通にできる事が、レムには普通にできないから。追いつこうとしても、追いつけなかったから。どれだけ努力をしても、無力で無才で弱虫で、何の取り柄もない凡人にしかなれなかったから」
どうしてか。
「レムは残ってしまって、姉様は失ってしまったから。レムが生まれてきたこと、それ自体が間違っていたから。レムと姉様が………双子だ——」
「ダメだ」
否定して、嫌悪して。
己の存在を否定し、ついにラムとの関係性すらも否定しようとしたレム。止まるはずのなかった声を止めたのは、不意に部屋に響き渡った張りのあるテンの声だった。
自分が生まれなければよかったなんて、言わないでほしかった。ラムと自分が双子であることに、疑問を抱かないでほしかった。世界でたった一人の姉で、妹なのだから。
「なぁレム。一つ、提案してもいい?」
「なんなりと」
「そのこと、俺に話してほしい」
言った瞬間。肩を数ミリ程度跳ねさせると、戸惑ったレムが喉に声を詰まらせる。その間にも、テンは言葉を重ねていた。
「話してくれれば、俺も一緒に悩んであげられる。レムが抱えてるもの、一緒に抱えてあげられる……なんて、大層なことは言えないけど、軽くしてあげることくらいはできると思う」
レムの耳元でテンは鼓膜を撫でるように言葉を流し込む。心の中で何度も反響させれるような、そんな優しさで。
話を聞いているうちに、曖昧な知識だけではレムの心とちゃんと向き合うことができないとテンは判断したのだ。
どちらかと言えば。言った通り、彼女が背負う十字架を少しでも軽くしてあげたい気持ちの方が強いが。とにかく。彼女から直接、過去を聞く必要が今の自分にはあると即断したテンの行動は早かった。
「ずっと我慢してきたんだよな。苦しいのも、怖いのも、寂しいのも。全部全部、溜め込んできたんだよな。……きっと、今まで辛かったよね」
「俺が想像もできないくらい」と、指を絡ませてきたレムの手をテンは痛ましげな表情で握った。小刻みに震えているのは、彼女の心が震えている証だ。
「全部吐き出していいよ。全部叩きつけていいよ。レムが抱えてきたもの、俺に全部教えてよ。そうしたらスッキリするかもよ?」
「ーーーー」
「それを聞いて、それからレムと向き合いたい。レムのことを全部知って、それでレムを助けたい」
おそらく、彼は自分の過去を知りたいと言っているのだろうとレムは話の流れから察する。自分の醜い部分しかない、誰にも明かしたくない罪を知って。その上で助けたいと、そう求めている。
なら、自分は応えるべきだとレムは思うが。
「テンくん……」
名前を呼んだレムはテンの横顔を見る。瞳に映し出されたのは何度も見てきた真剣な顔のテン。
自分の心と真摯に向き合おうとしてくれている、とっても安心してくる表情だ。安心してきて、絶対に嫌われたくないと思える人だ。
絶対に、嫌われたくない人。
「何を聞いても、嫌いになったり……」
「しないよ。俺は、どんなレムの姿を知ったとしても軽蔑したりなんかしないよ。嫌いになったりなんかするわけないよ。良いところも悪いところも含めて『レム』なんだから。そーゆーところを丸ごと好きになる」
自分の全てを話したら嫌われるかもしれない——そんな幼いレムの想いは、今の一言で容易く否定された。軽々しく言われた重みのある一言に、不安な心を温められる。
どんな君でも好きでいると、直球で語るテンの声は本気だった。疑う自分の面倒な心を嫌に思わない態度はレムに決心させる勇気を与え、
「レムの生まれは、人里離れた鬼族の村でした」
と。
自分の