少しでも望む未来へ   作:ノラン

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相変わらず、更新速度の遅さくらい物語の進みが遅いです。ごめんなさい。





温もりの消えた体

 

 

レムにとって———訂正、ソラノ・レムにとってソラノ・テンとは、婚約者である。

 

 

婚約者的存在ではなく、正真正銘の婚約者。だから、レムの中ではレムは既にソラノ・レム。いつの日か王都の役所に届ける婚姻届にも、その名で記述済みだ。もちろん、テンは知らない。

 

レムの名しか書いていないそれにテンの名が刻まれ、二人で一緒に届けを提出したそのとき、レムは社会的な意味でもテンの女となる。

 

社会的に。そう、社会的に、だ。

 

レム的には、テンと恋人になった日から自分はテンの女以外の異論は認めず、『テンくんのレム』として生きているが、残念なことにそれはあくまで心情的な話。

 

それだと周囲の人間からは認められても、社会的には恋人止まり——その事実が、正式な婚儀の予定を立てているレムには、決して無視できない。

 

一度はテンに向ける恋心を諦めかけた身。当然、心情的にだけでも十分すぎるくらい満たされている。けれど、それ以上にもっと満たされたいとも思ってしまう。

 

自分は、欲張りな女だ。

特に、テンに対しては。

 

どれだけ愛を注がれようとも、この()は潤わない。潤っても潤っても、歯止めの利かない渇望に彼の愛を求めてしまう。独占しようとしてしまう。

 

けれど、それが当たり前だとレムは思っている。だって彼を愛しているのだから。愛する人の愛を欲して罪になるだなんて、そんな理不尽な話がこの世にあってたまるか。

 

だからこそ、()()を欲するのもまた、当たり前。愛し合う男女が、愛をより深めるためにする()()を欲するのは、至極自然なこと。

 

 だから———。

 

 

「——ふん、ふんっ、ふーん」

 

 

上機嫌に鼻を鳴らし、肩を弾ませ、軽やかな足取りでロズワール邸の廊下を歩くレム。ご機嫌にステップでも踏み出しそうな彼女の頭の中は今、ソラノ・テンのことで埋め尽くされていた。

 

昨日まで心身を恐怖と不安に陥れていた感情、命を焼き尽くさんばかりの痛み。スバルを発端として爆発的に膨れ上がっていたそれが嘘のように消え、代わりにソラノ・テンへの愛が溢れ出ている。

 

 

「テンくん。……ふふっ」

 

 

愛の名を呼び、それが無意識のうちに音になったものだと気づいて、一人静かに唇を綻ばせる。胸元に両手の平を添え、高鳴る鼓動を感じた。

 

ソラノ・テン——その名を呼ぶだけで、レムは宙に浮いていくような夢心地になってしまう。

 

ソラノ・テン——その名を聞くだけで、レムは自意識の全てが根こそぎ奪われてしまう。

 

ソラノ・テン——。

 

ソラノ・テン——。

 

ソラノ・テン——。

 

 

「テンくん。……ふふふっ」

 

 

今度は意思を持って声にすると、あどけない顔立ちがはにかんだ笑顔で彩られた。なにか、不意に込み上げた感情の暴走に耐えきれず、添えた両手をぎゅっと握りしめ、意味もなくその場で華麗にターン。

 

こんっと床を蹴る踵の音が廊下に反響し、スカートがふわりとひらめき、丹精に整えられた前髪が僅かに揺れた。流れるようなターンを決めると乱れた髪を指先で整え直し、ソプラノ声で鼻歌を歌う。

 

名が持つ効力に即効性がありすぎて、「テンくん」と呟いただけで、ステップどころか今にも歌い出しそうだ。鼻歌ではなく、歌を。

 

玄関前でテンと別れてから、ずっとそのテンション感を継続したまま、レムは次なる仕事場へと向かうべく長い廊下を進み続ける。

 

 

「ふんっ、ふんっ、ふふんっ」

 

 

レムが最高潮と言っても過言でない上機嫌な理由など、語るまでもない。彼女の心をここまでふわふわさせられる人間など、この世には一人しかいないからだ。そして、その名は何度も口にされている。

 

ソラノ・テン。レムは今夜、その青年と心ゆくまで愛し合う。恋人として明確な一線を、越える。

 

愛する男と愛し合える——このときをレムがどれほど待ち望んでいたか、レム自身ですら計り知れない。少なくとも、そろそろこちらの方から寝込みを襲おうかと思うくらいには待ち望んでいた。

 

手を繋ぐことよりも、もっと繋がれること。

抱き合うことよりも、もっと触れられること。

添い寝することよりも、もっと温かいこと。

 

彼と愛し合えたなら、どれだけ幸せな気持ちになれるのだろう。彼の証がこの身に注ぎ込まれたなら、どれだけ満たされるのだろう。

 

好きです、大好きです、愛しています。

 

そんな言葉なんかじゃ表現できないくらい、幸せになれるし、満たされる。下手をすれば死んでしまいそうなくらい。とは、流石に言い過ぎだろうか。

 

確証はない。けど、確信はある。

 

 

「ーーーー」

 

 

立ち止まり、鼻歌を止めたレムが窓に顔を向ける。見上げた空は依然として青々と澄み渡り、差し込む陽光は眩しい。昼食の時間を過ぎてから二時間程度しか経過しておらず、陽が沈む気配は皆無。

 

もし時間を操ることができたら、と。都合のいいことを考えながら窓枠に寄りかかり、

 

 

「早く、夜になればいいのに」

 

 

そんな願望を空に送り、ふとレムは己を客観的に捉え、吐息するように「ふっ」と苦笑。仕事中、色情にひかれて気が緩むことも咎めるべきだが、一番はこんな自分に対して。

 

数時間前まではテンの帰宅時間を指折りで待っていたというのに、それが過ぎたら今度は愛し合う時間か。色々な意味で忙しない女だと思う。

 

テンのこととなると、本当に、本当に乱される。今夜は全く別の意味合いで乱され、

 

 

「いけませんね」

 

 

 妄想が止まらなくなる。

 

考えているそばから乱されていることを自覚したレムが、首を横に振る。今は仕事中だと己を咎め、背筋を伸ばして気を張った。へにゃっとだらしなく弛緩する表情筋に力を込め、きゅっと唇を結ぶ。

 

幸せすぎる妄想は一旦隅っこにおいやり、メイドとしてやるべきことに専念しなければならない。そもそも、仕事が終わらなければ愛し合うことができず、妄想が妄想に終わる。

 

 

「そんなこと、絶対に許しません。今日こそ絶対の絶対にテンくんと愛し合うんですから」

 

 

ぐっと拳を握りしめ、気合いを入れる。妄想を妄想で終わらせるなと言い聞かせ、レムは頭のスイッチを仕事に切り替えた。

 

妄想の余韻を若干引きずりながらも、与えられた使命に意識を向け、寄りかかっていた窓から離れ、止めていた足を動かし、それから———。

 

 

「ーーっ!?」

 

 

 ——雷が、落ちた。

 

 

「………は?」

 

 

 一拍遅れて、素っ頓狂な声が漏れる。

 

 本当に、突然のことだった。

 

一度、胸の下で大きく跳ね上がった心臓に釣られ、レムが大げさな動作で後方を振り返る。静寂が満ちる廊下の先を見据える瞳には、途端に警戒と恐怖が色濃く浮かび上がる。

 

足を止められたレムに突如として降りかかったのは雷が落ちた——否、雷が落ちたと錯覚するほどの衝撃。脳天から足先にかけてそれが落ち、数秒前までの幸せな感情が簡単に消し飛んだ。

 

 

「ーーーー」

 

 

バケツいっぱいの黒い絵の具を、色彩豊かな絵にぶちまけたみたいに、幸せな気分が、一瞬にしてぐちゃぐちゃに塗り潰される。

 

実際、塗り潰されたようなものであった。レムは今、妄想という名の色鮮やかな絵に真っ黒い絵の具をぶちまけられ、台無しにされたのだ。

 

 

「ーーーー」

 

 

呼吸が止まり、ぴくりとも動けない体。その体を貫いた衝撃に、レムの思考は次なる行動を瞬時に選択する。

 

その衝撃をレム流に例えるなら、鍛錬の最中にテンがロズワールに半殺しにされて気絶したとの知らせを受けたとき——その瞬間に受ける衝撃と同等の衝撃が、レムの頭をがつんと殴りつけた。

 

テンが半殺しにされた。その報告を受けるたびに比喩抜きで寿命が縮まり、気絶して中庭に倒れる彼を介抱していると心配で目眩を起こしかけるのがレムなのだ。

 

慣れるはずがない。慣れていいものじゃない。それが日常であることの異常性に、テンは気づくべきだと心底思う。

 

そしてその衝撃を受けた次の行動は、いついかなるときも決まって一つ。

 

 

「——魔女」

 

 

刹那、前のめりになるレムがその場から飛び出す。思い切り蹴り上げられた硬い床に亀裂が入り、一歩目で最高速に近い初速を得たレムの体が二歩目で加速し、三歩目にはトップスピードを引き出した。

 

限界まで引き絞られ、一直線に放たれた矢のように廊下を突き進むレム。彼女が通り過ぎた跡には豪風が吹き荒れ、開いた窓たちがけたたましく音を立てて揺れ動く。

 

しかしそれとは比較にならないレベルで、レムの中では警告音がけたたましく鳴り響いていた。本能的な危機感を感じさせるそれは、非常事態を知らせるものに他ならない。

 

 

「上……」

 

 

一階、玄関の大広間まで移動し、急停止。

 

鼻を利かせるレムが視線を四方八方に飛ばし、二階へ続く階段を睨みつける。キッと鋭く尖った青の瞳の見据える先から、焦燥感を強く煽る邪気——嗅覚をつんざく異臭が流れ出ていた。

 

ただの異臭ではない。ここ数日間、レムの気を狂わせんばかりに漂っていた異臭。ナツキ・スバルとかいう不気味な女が常時纏っていた魔女の臭い。レムのみに理解できるそれが、爆発的に増している。

 

この臭いを嗅ぎつけるときは基本、レムにとって最悪な事が起こる。前回だって、そうだった。だからこれは、最悪の予兆———、

 

 

「ーー! あの女ぁーーッ!」

 

 

咆哮し、床を蹴り、飛び出す。

 

思考する暇なく動き出し、レムは鬼の形相になりながら階段へ急ぐ。一段一段を登る時間すら今は惜しく、斜め上へ跳躍して全ての段を省略し、二階の踊り場まで一気に飛び上がった。

 

着地し、再び鼻を利かせ、周囲を見渡す。

 

上か、右か、左か。神経を逆撫でする、常軌を逸した魔女の臭いは一体どこから———、

 

 

「………うそ」

 

 

左を向いたレムから、これまでとは一転して弱々しい声が漏れ、息が喉に詰まる。顔が驚愕に青ざめ、尖っていた両目がカッと見開かれた。

 

レムの向いている方向が、異臭の元。その方向から、嗅ぎつけた魔女の臭いが流れてきている。

 

正確な位置も把握できた。ロズワール邸二階、西棟、長い廊下を端っこまで抜けた最奥の部屋。

 

 

「ーーッ!!」

 

 

元凶の位置を特定した瞬間、喉に詰まった息を吐いたレムが思考を放棄し、その位置めがけて射出される。非常事態を察知した時を遥かに越える焦燥感に駆られ、呼吸が荒れ始めた。

 

その部屋がただの部屋なら、ここまで焦らされることもなかった。張り巡らされた様々な思考の一切合切を一蹴し、なにも考えず感情に任せて先走ることもなかった。

 

なんでなんだ、どうしてなんだ。どうしてその部屋なんだ。よりによって、どうしてその部屋なんだ。

 

だってその部屋は、

 

 

「テンくん……ッ!」

 

 

棘つきの鉄球と鉄の持ち手が一本の鎖で繋がれた凶器——モーニングスターを携え、レムは愛の名を呼ぶ。先程までとはまるで違う悲痛な呼び方は、彼女の心情をそのまま表していた。

 

魔女、テン、凶器。

 

三つの要素が絡むだけであの日の記憶が脳裏を駆け巡り、拒絶反応を起こす精神によって動悸が激しくなる。次いで、獲物を握りしめる手が小刻みに震え、冷や汗が額に滲み出す。

 

この凶器を直接手にするのは、あの日以来だ。その日、この凶器()でテンを傷つけた。暴走していたとはいえ、決して許されない罪を背負った。

 

テンはその自分を許してくれた。自分を許せない自分を許して、許せる日が来るまで一緒に生きようと寄り添ってくれた。だから、自分は彼の優しさに応えなければならない。

 

大切なものを、守るために。

 

 

「ーーーー」

 

 

持ち手を力強く握りしめ、手の震えを抑える。

怯える弱い心に喝を入れ、心の震えを抑える。

彼から貰った言葉の数々を思い出し、活力に。

 

もう間もなく部屋に到着する。部屋と自分を隔てるものは一枚の扉、邪魔な障害は破壊してしまえばいい。必要なものは、手の中にある。

 

今度は傷つけるのではなく、守るために。世界で唯一の存在を魔女から守るために、この凶器を振るうのだ。

 

 

「るぁぁぁッ!!」

 

 

そんな想いを乗せ、遠き日の記憶を破壊するように、レムは手にした凶器を渾身の力で投げ放った。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

轟音が背後から聞こえた刹那、ハヤトはなにも考えず本能的に手を伸ばしていた。

 

殴りつけるように手の平を突き出し、適当に伸ばしたそれがスバルの胸元に当たる。声も出せず寝台にスバルの体が倒れ——その体があった場所を、真っ黒い物体が風を纏って通り過ぎた。

 

標的を見失った真っ黒い物体は部屋の窓に衝突し、ひび割れる音を連鎖させながら窓ガラスが割れる。陽光を反射した破片が床に飛び散り、一部が血の海に沈んだ。

 

 

「———あ」

 

 

一連の流れを見届け、ハヤトは自分が無意識にスバルを突き飛ばしたのだと気づく。自分の体が行動を起こしたのだと心が遅れて理解し、紙一重だったことに肝を冷やす。

 

今のは理性と紐付けられた動きではない。本能的な危機察知能力、修練の中で磨かれた野生の勘と表現してもいいそれが、勝手に体を動かしていた。

 

危機を察知してから動き出すまでのタイムラグがゼロに等しく、いわゆる『体が勝手に動いていた』がスバルの命を間一髪で救ったのだ。

 

飛来した真っ黒な物体——いや、鉄球から。

 

 

「遅かったか……!」

 

 

一秒にも満たない攻防の処理を終えたハヤトが、最悪の事態を悟って雑に吐き捨てる。

 

目を白黒させているスバルの無事を確認しつつ後方を振り返ると、そこには鉄球が突き破ったであろう穴の開いた扉があり、

 

 

「テンくんーーッ!」

 

 

半壊した扉を、取り乱した声で叫ぶレムが、鉄球以上の豪快さでぶち破ってきた。

 

ハヤトが扉を見た直後、体当たりそのまま部屋に飛び入り、室内の光景を目に入れ、

 

 

「ーーーー」

 

 

 ——時が、止まった。

 

 

猛然と扉を破壊し、問答無用で突撃したレム。その後の行動に続くよりも先に、彼女は己を待ち受けていた光景に目と思考力を奪われ、時間の停止に囚われた。

 

その影響はハヤトとスバルにもおよび、固まったレムを前にした二人はぴくりとも動けない。ハヤトはレムを刺激することを恐れ、スバルは状況に置いてけぼりにされ。

 

 

静寂が、世界に落ちる。

 

 

それは二人がついさっき無色の世界に閉じ込められた時に感じたが、しかしそれとは毛色が異なる静けさだ。なにせ、窓の外の環境音、全壊した扉の破片が落ちる音、完全に音が隔絶されたわけではないのだから。

 

かえってそれが、静寂の主張を際立たせる。その主張が、他者の鼓動音が幻聴として聞こえるほど不気味な静寂が、無限に続くとさえ二人に思わせた。

 

 

「……っ」

 

 

 ——テンの亡骸を見つめるレムの額から、白光りする一本のツノが、生え始めるまでは。

 

 

「ーーっ。くそが……!」

 

 

 最悪だ。

 

悪態をつき、両の拳を握りしめるハヤト。血の滴る下唇を噛み締める彼は、事態に対する感情の揺れ動きを強引に遮断して、この場からの逃走手段を必死に考える。

 

部屋から出るルートは二つ。一つは扉があった出入り口、もう一つは割れた窓。

 

出入り口は無理だ。レムに塞がれて強行突破するには遅すぎる。

 

窓も無理だ、自殺行為。地上から十メートル以上も離れている場所から飛び降りでもしたら確実に死ぬ。

 

 脱出、不可。

 

 

「スバル」

 

 

早くも詰みの状況であることを理解したハヤト。テンが死んだ時点で詰んでいることに違いはないが、それでも彼は足掻くことを諦めなかった。例えそれが、無駄だとしても。

 

せめてスバルだけでも、と。レムが動き出すまでの僅かな時間、与えられた猶予で彼女を庇える体勢だけは整えようと名前を呼ぶ。だが返事はなく、横目で見た彼女はどこか放心しているようにも見えて、

 

 

「スバルッ!」

 

「……ぇ?」

 

 

一瞬の判断ミスが命取りになる現状、一秒たりとも無駄にできないハヤトが焦り、怒号でスバルを殴りつける。鼓膜にゼロ距離で叫ばれたようなそれに、スバルの意識が帰還した。

 

瞠目するスバル。テンが死んだこと以外では文字通りなにも理解できない彼女の混乱した様子に、ハヤトはレムの一挙一動に細心の注意を払いつつ、

 

 

「俺の背中にいろ。絶対に前に出るな」

 

「なんでテンが、それにこれ……」

 

「早くしろ!」

 

 

疑問をかき消し、片手で背中を示すハヤト。目を向けずに指示だけ飛ばす彼の切羽詰まった横顔に恐ろしいものを感じ取り、スバルは大慌てで寝台から降りて背中へ回った。

 

なにがなんだか、さっぱり分からない。

 

いきなり世界が灰色になったかと思えば体の自由が奪われ、現れたのは真っ黒な手。その手がテンに伸びた次の瞬間に『消えて』の声が聞こえ、直後に何事もなかったかのように世界は元通り。

 

それからテンが血を吐いて死に、なにかが破壊された音がしたのと同時にハヤトに突き飛ばされ、起き上がってみれば扉と窓が破壊されていて、さっきまではいなかったレムの姿。

 

以上が、今に至る道程。

 

 

 ーーあの現象はなんだ?

 

 ーーあの黒い手はなんだ?

 

 ーーどうしてテンが突然死んだ?

 

 ーーハヤトはなにを知っている?

 

 ーーどうしてレムがここに?

 

 ーー扉も窓も破壊されて。それにこの鎖は?

 

 

疑問という疑問が次から次へと浮上し、スバルは混乱せざるを得なかった。解消できないそれらのせいで整理がつかず、状況がなに一つとして掴めない。

 

 けれど、

 

 

「ーーーー」

 

 

じりじりと、間合いをはかるように真横に動くハヤト。テンの亡骸から離れ、部屋の中央、窓際に移動する背にぴったりくっつくスバルは、自分が窮地に立たされていることくらいは分かった。

 

戦いとは無縁のスバルでも肌で感じ取れるほどの殺意が、この空間には充満しつつある。喉元にナイフを突きつけられたような緊張感に襲われるそれは、目の前にいるたった一人の少女から放たれていて、

 

 

「アル・ヒューマ……」

 

 

殺意が、今、具現化される。

 

レムの声からは想像し難いほど低く、唸るような詠唱。か細くも明確な意思を宿したそれが空間に響いた直後、彼女の周囲に五十もの氷柱が青色の光を伴って現れた。

 

一つ一つが大人の腕サイズ、直撃は間違えなく蜂の巣にされるそれが部屋の半分を埋め尽くし、有無も言わさず二人を取り囲む。

 

 

「ちょ、ちょ!?」

 

「問答無用かよ!」

 

 

完成した包囲網に戦慄するスバルは血の気が引き、臨戦体勢に入るハヤトはぎりっと奥歯を噛み締める。

 

まともに取り合う気のないレムはテンの亡骸を見つめてから顔を上げず、顔色は窺えない。しかし額から伸びる一本のツノの白光りの眩さを見れば、顔色など火を見るより明らかで、

 

 

「死ね」

 

 

レムによる死の宣告が下され、包囲網が完成してから一呼吸分の間も置かず、思考の介入を許さない氷柱が一斉に放たれた。

 

視界に映っていないのか、攻撃範囲に友人(ハヤト)がいるにも関わらず、攻撃開始に迷いがない。鋭利な先端が、包囲網の中心に捕らえたスバルもろとも串刺しにせんとし、反射的にハヤトは手を構えた。

 

打ち落とす、無理だ量が多すぎる。

魔法、無理だ空間が狭すぎる。

庇うしかない、庇うしか———、

 

 

「——多少、手荒な真似は許すかしら」

 

 

毅然と、落ち着き払った、芯のある幼女の声がして、世界がぐらりと揺れる。

 

急激に加速する思考の果て、打ち落とすことも、相殺することも間に合わず、身を挺してスバルを守る判断を下したハヤト。決死の覚悟でとった選択肢は、意味を成さなかった。なぜなら、

 

 

「っーー!」

 

 

揺れる世界の中、レムの立つ位置、その真横の壁が不意に吹き飛ぶ。衝撃波が横一直線に走り、崩れた壁の瓦礫を巻き込んでレムに直撃、小柄な体が軽々しく舞って反対の壁に叩きつけられた。

 

術者が叩かれたことで効力を失い、直撃寸前でバラバラに砕け散った氷柱が、残存する衝撃波に煽られて舞い踊る。その中を、今しがた壁を破壊した存在が、つかつかと歩いてくるのが見えた。

 

澄ました顔つきに僅かな焦りを含ませ、早歩きでハヤトの横に並んだのは長いドリルテールの幼女、

 

 

「ベアトリス。おまっ、どうして」

 

「お前の近くで邪気を感じたから、隣の部屋まで扉渡りですっとんで来たかしら。移動する時間が惜しいから壁を破壊したのよ。姉妹の妹には悪いことをしたと思ってるかしら」

 

 

凝視してくるハヤトには視線を向けず、ベアトリスは横顔で端的に経緯と謝罪を述べる。異変を感じ取ってからの行動の早さは流石と言ったところか、今度はハヤトが間一髪で助けられた。

 

壁を伝って床に落ち、そのまま這ってテンの亡骸に近づくレムに警戒の目を向けるベアトリス。彼女は「まぁでも」と、レムの額で輝くツノに視線を集中させ、

 

 

「この様子じゃ、ベティーの判断は英断だったみたいなのよ」

 

 

低く呟いた彼女の視線が、今度は寝台近くでドス黒い血の海に沈むテンの亡骸に移る。

 

苦悶の表情で事切れた、テンを見た。途端、蝶を宿す双眸が驚きに小さく見開かれ、痛ましげに眉間に皺が寄り、

 

 

「なにかと思って来てみれば、なにが起こればこんなことに……。それにお前、その邪気……」

 

 

顔色に感情の色づくベアトリスが、なにかを言いかけながら横目で背後のスバルを見る。鋭い視線を向けられたスバルは咄嗟に言葉が出てこず、ベアトリスの顔が訝しげに歪んだ。

 

沈黙したことに対してではない。彼女もまたレムが感じ取った邪気を、レムとは別の方法で敏感に察知できる身——嗅覚をつんざく魔女の臭いに、反応しないわけがない。

 

 

「アレが取り乱すのも納得かしら。それじゃ、なにされても文句は言えんのよ」

 

「ど、どういうことだよ」

 

「お前はそこでじっとしてるかしら。下手に動かれたら厄介なのよ」

 

「なんだよ、それ! 意味わかんない! お前らさっきから命令ばっかりして、意味わかんないんだよ! なにが起きたかアタシにもちゃんと説明しろよ!」

 

 

要領を得ない一方的な物言いに、スバルは焦りと不満に吠える。ハヤトも、ベアトリスも、肝心なことはなに一つとして説明してくれず、ここでも自分は置いてけぼりかと。

 

そんなスバルの感情を無愛想に放置し、ベアトリスは意識を前方に向ける。不意打ちをもろに受けたにも関わらず無傷なレムの挙動、テンの亡骸を抱きしめた体勢から動かない様子に警戒心を引き上げ、

 

 

「詳しいことは後で聞くとして、お前は平気かしら?」

 

「んなこと言ってられる場合じゃねぇ」

 

 

こちらを案ずる質問の答えを曖昧に濁し、生唾をごくりと飲み込むハヤト。少しでも気を抜けば喉元まで迫り上がる負感情に呑まれると肝に銘じ、彼は吐きかけるそれに蓋をする。

 

セロハンテープで補強したようなそれが、いつまで保ってくれるか。図らずとも己の精神力が試される場面に直面し、これまでで最も気を強く張った。

 

 

「……そう」

 

 

明らかに動揺を殺してると分かるハヤトの返事に、ベアトリスは弱く返す。

 

今のハヤトの態度は、ベアトリスからすれば、否、ハヤトを知る人間からすればあり得ないものだった。理由は単純、親友(テン)の死を目の前にした彼が、正気を保っていられるわけがないと知っているからだ。

 

世界で唯一の存在を失った絶望は、ベアトリスの想像を軽く絶するだろう。今こうして、一滴の涙も流さずに立っていられる方が異常なのだ。

 

それでも気丈に振る舞うのには理由がある——そう判断したベアトリスはこれ以上の心配を表に出さず、代わりに、これからなにがあっても、力のある限り彼の味方でいることを己に固く誓った。

 

もとより、そのために来た。

 

 

「——お前が」

 

 

 一言。

 

たったそれだけで、ハヤトとベアトリスの警戒レベルは最大を越えて引き上げられる。今の一言に宿された濃密な殺意に、意識の一切合切が引き付けられて。

 

スバルを背に庇うために、隣り合うハヤトとベアトリス。その正面、床に座り込んだままテンの亡骸を胸に抱き抱え、未だ俯くレム。

 

二人は、彼女から目を離すことができない。

 

 

「お前が……」

 

 

付着したテンの血が、白いエプロンドレスを真っ赤に染め上げつつあった。

 

 

「お前が、殺したのか……」

 

 

瞳から溢れ出る線のような涙が、白い頬を伝い、ポタポタと、血の海に滴り落ち続けていた。

 

 

「お前が、殺したのか」

 

 

呪詛を吐く唇が震え、伝播し、温もりのない体を抱える両腕が、凍えたように震えていた。

 

 

「お前が殺したのかと、聞いているッ!!」

 

 

ぐいっと持ち上げられ、殺意の矛先を睨む、絶望と憤怒が混濁した表情は、正しく鬼のようで。

 

 

「ナツキ・スバルーーッ!!」

 

 

 ——その額には、過去に類を見ないほど白光りする、一本のツノがあった。

 

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