少しでも望む未来へ   作:ノラン

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この小説は、決してエミリア虐でもありません。
どうしてこうなったのか、もう意味が分かりません。
心が痛かったです。

本当はもう少し書きたかったけど、力尽きました。次回の内容は書きたかった分だけになるので、短いかもです。





死んでなんかない

 

 

殺意は加速度を持っている。

 

抵抗など意味を成さないほど、大きな加速度を。

 

一度でも加速が始まってしまえば、自分の力では決して止まれない。

 

故に、これより始まるは、不条理のみで作り上げられた、世界が流転するまでの物語。

 

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 ——アレは、なんだ。

 

 

悲劇の中心地に足を踏み入れた、新たな存在を正面にし、ハヤトの表情が恐怖に固まる。その存在の背後に幻視()える異様な存在の気配に、(いと)も容易く気圧されて。

 

意識しなければ、呼吸を忘れる圧迫感。なにか、不可視の力によって真上から押さえつけられたような息苦しさを感じ、身動きを封じられる。

 

本能的に、指一本でも動かせば殺されることを、瞬時に理解した。アレの前ではどれほどの存在であっても敵わない、そう、心が理解してしまった。

 

それが、レムの横に仁王立つもう一人の鬼——ラムの殺意から発せられているモノだと頭で理解したとき、ハヤトは心の底から震え上がる。

 

 

「お前……、ラムなのか?」

 

 

開口一番、口をついて出た言葉は困惑を孕んでいた。

 

目の前にいるラムが、自分の知るラムとはかけ離れすぎていて。そんなはずがないのに、まさか別の人格が、化け物が、その体に憑依しているのかと。

 

肉親の仇を見るような冷酷な目。温かみの一切が欠落したその目は殺意にドス黒く色づき、睥睨されているだけだというのに、頭の中で死を連想させられる。

 

死の感覚——敢えて言葉にするなら、それが最適だ。数々の修羅場を潜り抜け、その数だけ半生半死に追い込まれたハヤトは今、ラムによって死の感覚を味わっている。

 

初めて見る、ラムの殺気立った様子。一度目のループでは見ることのなかった、殺意の矛先を前にしたラムの姿。

 

見るからにブチギレている有様が、見慣れたラムの姿を、ラムではない化け物に変貌させているとでもいうのか。

 

 

「細かく聞かなくとも全部()()()()()。いえ、伝わらなくとも、この惨状を見れば分かる」

 

 

ハヤトの疑問には答えず、ラムは達観した口ぶりで言葉を発した。普段通り冷静で毅然とした声色、けれどそれは、内に秘めた怒りが確かに込められていて、静かな慟哭にも聞こえる。

 

実際、ラムは泣いていた。赤色の瞳から大粒の雫を溢して、溢して、止まらない。まるで、涙だけが感情を実直に表しているように、声とは不釣り合いなまでの溢し様だった。

 

他の全てを取り繕おうとも、それだけは隠せない。殺意に顕現した異様な存在の支配が及ばない、魂の叫び。

 

 

「分かったのはそれだけじゃない。ラムたちの敵が誰であるかも、ハッキリした」

 

 

 敵、と。

 

その単語があるだけで、レムと同様に話し合いの余地が無いことが分かる。当たり前だ。今まさにラムはレムと感情を共有しているのだから。その敵意もまた繋がっているのだろう。

 

思い、心の中で乾いた笑みを溢すハヤト。ラムは彼の背に庇われるスバルを一点集中で睨みつけ、

 

 

「ナツキ・スバル、ラムはお前を許さない。ラムから大事な友人を奪った落とし前、このラムが直々に下してやるわ。楽に死ねると思わないことね」

 

 

一箇所に凝縮された殺意を向けられ、名指しされたスバルが「ひっ」と情けない声を鳴らす。大型の獲物に狙われた小動物じみた怯え方で、自分を庇う大きな背中にさっと身を隠した。

 

無理もない。ベアトリスに「殺す」と脅迫されて萎縮している上から、これだ。ハヤトとベアトリスの両方が戦慄する殺意を浴び、失神していないことが賞賛に値する。

 

それほどまでに、今のラムは、常軌を逸している。

 

 

「……ラム」

 

「聞きたくない」

 

 

スバルがハヤトの背に隠れたことで、スバルとラムの間にハヤトという壁が一枚、挟まれる。必然、ハヤトはスバルを睨むラムと目が合い、言葉を交わす僅かな時間が生じる。

 

しかし、付け入る隙はない。意を決し、言葉を紡ごうとしたハヤトの意志は、にべもなく拒絶するラムに一蹴されて、

 

 

「どうせ、その女はテンを殺していないと、そうほざくのでしょう? でなければ庇ったりしないもの。殺していたとしても庇いそうなのが怖いけど」

 

「ーーっ、だが本当に殺して」

 

「親友の死と、その女の無実を天秤にかけて、傾いたのが女の方だなんて信じられない。どうしてその女に固執する必要があるのか、ラムには本当に分からないわ」

 

 

思考を先読みされて動揺するハヤトが負けじと反論しようとするも、ラムの心には届かなかった。うんざりするように首を横に振り、容赦のない辛辣な羅列が返ってくる。

 

それが、事情を知らない者を除き、今ここにいる人間と、これからここにくる人間の総意——ハヤトがスバルを庇う理由を理解できる人間は、この世界には一人もいないのだ。

 

故に全員が疑問に思う。なぜ、テンを殺した人間をお前が庇うのかと。お前が一番、それに対して怒りを露わにしている人間のはずだろうと。

 

年単位の付き合いの親友。

たった数日の付き合いの女。

 

冷静に考えて天秤が傾くのは前者。テンとの関係値の高さを知っているなら尚更。レムやラムの反応が真っ当なのだ。ベアトリスも思ってはいるが、声に出していないだけで。

 

 だから、

 

 

「その女に呪術か魔術の類で操られているのだとしたら話は別だけど。……その様子を見れば、それも違うと言えるかしらね」

 

 

「ラムとしてはその方が嬉しかった」と。

 

言った途端、憤慨に顔色を変えたハヤトにラムは呟く。人間味に満ち溢れたハヤトの顔、現実(それ)から目を背けるように視線を下に落とし、浅く嘆息。

 

本気で、スバルを庇う気だと、今のやり取りで真に理解した——理解できないことを、理解した。

 

相変わらず理解の範疇を軽々しく越える男だと思うと同時に、意見を変えないことも理解した。

 

吐息し、顔を上げ、ハヤトと目を合わせるラム。彼女は携える杖を構え、

 

 

「早く、その女を渡しなさい。今のラムには余裕がないから、なにをするかラムでも分からないの」

 

「悪いが、スバルは渡せねぇ。スバルはテンを殺しちゃいねぇから、誰がなんと言おうが俺はスバルを庇う。覚悟なんざ、とっくにできてんだよ」

 

「であれば、レムたちと戦うのですね」

 

「ベティーを忘れてもらっちゃ困るのよ」

 

 

始まりに話を戻し、再度同じ言葉を、敵意むき出しの警告を付け足して口にするラム。

 

友人たちと対峙する最悪の展開に弱音を吐きかける心を叱咤激励し、何百重にも覚悟を重ねて言い返すハヤト。

 

薄く鬼神の覇気を纏う姉の姿に呼応し、己の上限を越えて鬼の力を発揮するレム。

 

大精霊としてハヤトの味方をするのだと意思表示し、割って入るベアトリス。

 

二人と二人の間で戦意が衝突し、双方が臨戦態勢を整える。この光景、もしテンが見ているのなら「もうやめてよ」と泣いて止めそうなほど悲しい光景だが、本人たちの意識にはない。

 

一触即発。一人でも動き出せば、それを合図に他三人が動く。

 

ラムか、ハヤトか、レムか、ベアトリスか、睨み合う二人と二人は間合いを図るように息を潜め、相手の一挙一動に目を凝らす。

 

だから、ハヤトは、それに気づけたのかもしれない。

 

 

「ーーーー」

 

 

 不意に。

 

ラムが、物言いたげに、唇を震わせたことに。

 

なにか言おうとして口を開き、けれど言わずに閉じられる。それは、喉から出かかった言葉を、寸前で閉じ込めたような雰囲気だった。

 

それからラムは、ふっと、殺意一色だった瞳の奥に悲哀の情を湛えて、

 

 

「——ハヤトのことは、信じていたかった」

 

 

か細く、息を吐くように小さな音。薄く木霊した、静かな空間で息を潜めてやっと聴こえる声が、ハヤトの耳に届く。

 

ラムがテンやハヤトを愛称ではなく本名で呼ぶとき、それは、天地がひっくり返ろうとも揺れないラムの精神が、極限状態まで乱されている瞬間に他ならない。

 

だから、その一言に自分に対する想いがぎゅっと込められているだなんてこと、ハヤトには考えなくとも分かった。

 

 

 ーーあ、もうだめかもしれねぇ

 

 

閉じた口の中で舌を噛み締め、ハヤトは崩れかける心を殴りつけて黙らせる。ラムに弱った姿を、その一端を見せつけられ、なけなしの戦意が削がれていき、目の裏側が号泣の灼熱に熱せられた。

 

心なんて、レムの慟哭を前にした時点で崩壊寸前。至る所がひび割れたそれを立て直しても、所詮はセロハンテープで補強したようなもので、きっかけ一つで簡単に剥がれ落ち、バラバラに壊れる。

 

体に込めた力を抜けば、自分は崩れる。それが分かる。けれど、ここで膝をつくわけにはいかなかった。

 

もう終わった世界のことだとしても、ここでスバルを引き渡すわけにはいかない。自分は、自分だけは、彼女の味方で在り続けなくてはならないのだから。

 

 

「これはなんの騒ぎかぁーな?」

 

 

小石の落ちる音すら開戦の合図になり得る緊迫した世界に、また新たに侵入する者が一人。普段通り飄々とした口調で、耳に残る声色が、扉があった場所から、足音を引き連れて流れ込んでくる。

 

あるいはそれは、ハヤトとベアトリスにとっては破滅の足音かもしれない。そしてその足音を立てる存在は、数秒と経たずに姿を現す。

 

 

「テン君もやーぁっと帰って来て、ようやく落ち着けると思ったんだぁーけど。相変わらず忙し………」

 

 

扉があった場所から顔を覗かせたのは、ピエロのようなメイクを施した長身、ロズワール。彼はふざけた調子のまま言葉を続けようとし——その光景を目にした瞬間、止まった。

 

ゆっくり、視線が、足元に、落ちる。

 

捉えたのは死したテンの亡骸、虚空を見つめる目から生者の光が抜け落ちた、可愛い生徒の死体。

 

一瞬、オッドアイが過去に類をないほど大きく見開かれ、刹那でその歪みを修正。物言わぬテンからスバルに移した目を細め、ロズワールは左右の目に計り知れない感情を別々に浮かべる。

 

状況を素早く飲み込み、「ほぅ」と含みを持たせて低く喉を鳴らし、

 

 

「そうきたか……。こればかりは予想していなかった。これほどまでに我が身を恥じるのは久しいよ」

 

 

ゆるゆると首を横に振り、深々と息を吐く。目も当てられないとばかりに顔に手を当て、俯いた。自分の失態を心底悔いるような素振り、その様はハヤトも初めて見る。

 

道化が擬人化したような男だ、ふざけたメイクも含め、ハヤトはこの男から人間味を感じたことなど一度もない。が、テンの亡骸を見るロズワールの姿は、嫌に人間っぽい。

 

 

「——みんな!? さっきの音はなに!? お外にいて遅くなっちゃったけど、なにがあったの!?」

 

 

ロズワールという人間の隠された部分が露出したタイミングで、その声は全員の鼓膜を強く叩いた。ひどく焦燥感に駆られた声は、誰もが知っている銀髪少女の声だ。

 

その瞬間、スバルを除く全員が、レムと同等にこの場に来てはいけない人が、来てしまったのだと理解して、

 

 

「……ロズワール?」

 

 

一番に動いたのは、その少女を一番に目にした、ロズワールだった。

 

扉があった場所に立ち尽くす彼は廊下の奥から駆けつけた銀髪少女——騒ぎを聞きつけたエミリアに手を出し、彼女を立ち止まらせる。

 

困惑し、首を傾げるエミリア。対応に困惑したのではない、こちらを見るロズワールの表情が、見たこともないくらい陰っていたことに、違和感を覚えていた。

 

そのままの表情で、ロズワールはエミリアを横目に、

 

 

「エミリア様は見ない方がよろしいかと。あなたは耐えられない」

 

「耐えられない? どーいう……それにここ、テンの部屋……」

 

 

口にされた言葉の意味を反芻しても、理解できなかったエミリア。その目がロズワールの少し横、扉があった場所に向く。

 

扉があった場所。そう、扉があった場所。本来ならあるべき扉は無く、代わりに粉々になった扉の残骸が部屋の前に散らばっているのが確認できた。

 

明らかに異常、そしてそれがテンの部屋であることに、エミリアは形容し難い不安衝動に心臓が締め付けられ、

 

 

「テンになにかあったの?」

 

 

変調なロズワール。

扉が破壊されたテンの部屋。

 

たった二つから嫌な予感を察知し、エミリアの表情が一気に青ざめる。その感情の揺らめきを感じ取ったのか、パックが彼女の顔の真横に無音で姿を現した。

 

確信を持った声で問い、真実以外を許さない真剣さでロズワールを見据えるエミリア。パックもまた状況を把握しきれていないのか、彼女と同様の態度。

 

 

「ーーーー」

 

 

二人からの視線に、ロズワールは口を開くことができなかった。真実を伝えてしまうと、きっとこの少女の精神は容易く崩壊してしまうから。

 

 しかし、

 

 

「どいて、ロズワール」

 

「ですが」

 

「どいてッ!」

 

 

不安が声となって爆発したエミリアが、立ち塞がるロズワールの静止を無視し、両手で力一杯に押し除ける。少女の力、耐えようと思えば耐えれた力だが、ロズワールは抗うことができなかった。

 

この胸を締め付ける不安感、テンの身に良くないことが起きたと知らせる警告が間違いであったと確かめるために、エミリアは部屋の中を見て、

 

 

「———ぇ」

 

 

間違いではなかったと、皮肉にも知った。

 

それを見た途端、視界の範囲が極限まで狭められ、他に映るもの全てが、意識から除外される。急激に周囲が暗転していき、彼女の目に映るのはそれ一つとなる。

 

眼下、視界に飛び込んだのは。

倒れている、テン。

 

ぴくりとも動かない体は真っ赤な液体に浸っていて、その液体の正体がなんなのか、無意識に理解を拒んだ。

 

彼方を見つめる双眸からはあるべき光が消失し、消えてしまった光がなんの光なのか、無意識に理解を拒んだ。

 

自分の見ている光景が現実であるか、夢を見ているように安定しない精神の中、無意識に理解を拒んだ。

 

目に焼きつくテンの死に様を、無意識に理解を拒んだ。鼻をつんざく血生臭い匂いを、無意識に理解を拒んだ。心を抉らんとする絶望を、無意識に理解を拒んだ。なおも理解しようとする利口な頭を、無意識に理解を拒んだ。無意識に理解を拒んだ。無意識に理解を拒んだ。無意識に拒んだ。無意識に拒んだ。無意識に無意識に無意識に無意識に無意識に無意識に無意識に、

 

 

「ぇ、ぁ、うそ……うそよ、うそうそ! てん、てん!」

 

 

 拒め、なかった。

 

エミリアの中にある生存本能が、足元の事実を理解してはエミリアの心が瓦解すると、本人に無意識に理解を拒ませていた甲斐もなく、エミリアはそれを、テンの死を理解してしまう。

 

理解の許容を越えた事実を受け入れられず、取り乱すエミリアが、膝から崩れ落ち、テンに身を寄せる。必死に、懸命に、彼の名を呼び、置いた手で胸を揺すって、

 

 

「ぱっく! 嘘でしょ? テンはちょっと、ちょっと……疲れて寝ちゃってるだけなんでしょ? だって、ちがう……ちがう! そんなはずない! 寝てるだけって言って!」

 

 

ふんわりと飛んで、手の平でそっと触れるように、肉球をテンの頰に添えるパック。目を瞑って触診する彼に懇願し、エミリアは頭に浮かんだ偽りの真実を押し付けた。

 

嘘であると、いつものように穏やかな声で伝えてほしかった。「うん。リアの言う通り。入院の疲れが出たんだね」と、微笑んで言ってほしかった。現実を否定してほしかった。

 

目を開け、テンの目を覗き込むパック。たっぷり十秒、時間をかけてじっと見つめると、その顔がエミリアに向けられようとして——真下に向けられた。

 

 

「ぱっ……く? どーしたの? なにか言って、なにか言ってよ! 嘘って! テンは寝てるだけって私に言って! 言ってってば! ぱっく! ぱっくぅ!」

 

 

顔を背けたようにも感じるパックの挙動、不安を煽られたエミリアが表情をくしゃっと歪ませ、叫ぶ。声には涙が混じり、嗚咽に震える銀鈴は聞く者の心に痛みすら感じさせる哀切に塗り潰されていた。

 

縋り付く娘の呼びかけにぎりっと歯を食いしばり、パックは凍えたように身を震わせる。僅かな触診でテンの死を悟った彼は言葉に詰まり、なんて伝えるべきか迷い、刹那で覚悟を決める。

 

 

「……ぱっく?」

 

 

顔を上げ、我が子を、まっすぐ見る。

 

 

「嘘って」

 

 

焦点の合わない紫紺の瞳に、猫耳がしゅんと垂れてしまいながらも、力無く首を横に振った。

 

 

「言っ………」

 

 

非情だと分かっていても、テンは死んでしまったのだと、親として伝えた。

 

 

「ーーーー」

 

 

言葉にされずとも、パックの伝えたいことが分かり、絶望を告げられたエミリアから、声が途絶える。パックに視線が固定された体勢で凍りつき、呼吸が止まった。

 

 ——テンが死んだ。

 

ただ一つの事実に思考が凍結し、頭が空白で埋め尽くされる。懇願破れ、瞼の裏側まで迫り上がっていた涙を流すことも、できない。感情を表現する機能の大半が、生存本能により停止したから。

 

眼下の意味を、真に理解すれば狂う。理解の侵食に心が破壊される寸前で、心を閉ざした。それなのに、死したテンの亡骸が、閉ざされたそれをこじ開けようとして、

 

 

「……うそ、うそよ。約束、したもん。約束したこと、絶対に守ってくれるって、言ってくれた。だから、うそなの。うそじゃないと、だめなの」

 

 

遠ざかるように拒絶し、エミリアは己の心を嘘で覆った。悪夢を否定するように、テンと結んだ絶対の誓いを空言のように脆い声で呟き、死んでなんかないと言い聞かせる。

 

死んでなんかない。死んでなんかない。

死んでなんかない。死んでなんかない。

 

ソラノ・テンは、唯一で。生まれて初めて自分のことを普通の女の子みたいに、違う、普通の女の子として接してくれた人で。そんな人が、死ぬはずないんだ。

 

大切だと思っていた人は、大切にしたいと思っていた人は、みんな消えていった。けれどテンは、テンだけは違う。今も、そう、心の底から信じているんだ。

 

不意に、エミリアの両手が、のろのろ動く。

壊れかけた少女の挙動に、誰もが目を奪われる中。

 

日頃、テンの前では、溌剌と輝く紫紺の瞳。

 

時に優しく、時に無邪気に。

時に甘ったるく、時に怒りっぽく。

 

感情豊かに、輝き方を変える瞳。

 

曇ることを知らないその瞳を真っ暗に曇らせ、エミリアはその目で、テンを見る。仰向けで横たわるテン、その胸元に両手を置き、

 

 

「ーーっ。リア……」

 

 

 ——その行為を、いったいどれほどの者が、直視できようか。

 

 

最も色濃く反応したパック。思わず伸ばしかけた右手を引っ込め、彼は我が子の名を、今にも消え入りそうな声で呼んだ。

 

ハヤトが目を逸らし、スバルが漏れる声を抑えようと口に手を当て、ベアトリスが目を瞑る。

 

ラムの杖を握る手が小刻みに震え、ロズワールですらも痛々しすぎると視界から外す。

 

 

「大丈夫……わた、わたしが、治すから。テンのこと、癒すから、大丈夫……、大丈夫」

 

 

虚ろに言って聞かせるエミリアの両手には、青白い光が淡く灯っていた。

 

それは鍛錬後、ロズワールによる模擬戦と称した虐待が行われた後、エミリアが傷ついたテンに施す温かい魔法—–—治癒魔法の他にない。

 

通常、治癒魔法は患部に当てるものだ。右手に切り傷があるなら右手に、左足を骨折したなら左足に。患部に直接当てることで、治すことを可能としている。

 

今、エミリアが手を当てているのはテンの胸元、つまり心臓の真上。その部分に、治癒魔法を施していた。

 

動かない心臓に、命を吹き込もうとして。

抜け殻の体に、魂を呼び戻そうとして。

 

 

「くッ……」

 

 

再び、感情の爆発しかけたレムが、目に滲む涙を噛み殺す。感情の第二波が荒波を立てて心に衝突し、握りしめられた拳に血がじんわりと滲んだ。

 

エミリアがテンに向ける想い——好きの感情を薄く察している彼女には、エミリアの気持ちが痛いほど分かるのだ。目の前で大切な人を失った痛みが、共感覚で繋がっていると錯覚してしまうほどに。

 

受け入れたくない、受け入れられるはずがない。

どこにもいかないで、ずっと一緒にいて。

 

その想いが波紋する分だけ、レムの殺意は、抑えることのできない激情に変換され、外に放出されるまでの猶予を失っていく。

 

 

「分かったのに……」

 

 

 不意に。

 また、不意に。

 

エミリアの口から、微かに音が溢れる。

 

その小ささに、全員が息を殺し、まるで彼女の言葉に耳を澄ますように、世界が静まり返り、

 

 

「テンのことがすき、って」

 

 

紡がれた言葉は、聞く者たちの心を、情け容赦なく滅多刺しにした。

 

 

「やっと分かったのに……分かった、ばっかりなのに。テンのことがすきだって、だいすきだって、分かった……のに」

 

 

一つ、また一つと、雫をテンの胸元に落とし、エミリアは治癒魔法を掛け続ける。その光は、吹けば消えてしまいそうなほど、ひどく弱かった。

 

テンは死んでなんかないと思う心。

テンは死んでしまったと理解する頭。

 

(うそ)(まこと)の狭間で、精神が破壊されていくエミリア。彼女の脳裏に、走馬灯のように、テンとの思い出が、宝物が、次々と溢れ返り。

 

見えた、記憶。

ついさっき、ほんの数十分前の出来事。

 

『好き』と言えなかった自分に、彼は言った。

 

 

 ーー待ってるよ。ずっと。

 

 

「待ってる、って言ってくれたのに。待っててくれる、って約束した、してくれたの、にぃ……」

 

 

鼻を啜り、胸元に添えた手で、服をきゅっと握る。裏切りを弾劾する声は涙声に消され、最後の方は声にならなかった。

 

 

「なん、で……なんでぇ……っ。どーして、こんな風になったの……? 私の、せい? 私が、テンのこと、すきになったから?」

 

「ーー! エミリア、それは違うッ! 絶対に違う! 人が人を想うことなんて当たり前で、君にだってその自由はあるに決まってる!」

 

「私って、やっぱり不幸なんだ……。私に関わる人、みんな……不幸になって……、テンも、私と一緒にいるって、やくそく、したから……。私が、悪い子だから……っ」

 

 

あまりにも突然に訪れたテン——大好きな人との別れに、エミリアの心は砕け散る寸前にまで追いやられている。あるはずのない罪を被り、負感情に堕ちていく。

 

大切な人が奪われ、行き場のない疑問は咎となり、自らの手で自らに突き刺すエミリア。眼前に浮遊し、自己否定の海に沈む愛娘を引き上げようとするパックの声も、彼女には少しも届いていない。

 

すきになったこと。仲良くなったこと。甘えてしまったこと。期待してしまったこと。なにもかも全てが、死の原因に思えてしまう。いや、

 

 ——出会ったことすら、いけないことだったのだろうか。

 

 

「でも……それでも、テンとは……ずっと一緒にいたかったのぉ……っ!」

 

 

人並みの幸せを、望んではいけない人生だと思っていた。人並みの人生を、願ってはいけない存在だと思っていた。

 

人生観にも等しいそれを破壊したのは、他でもないテン。彼が、この心を、我儘にしてしまったんだ。

 

自分というエミリアを受け入れて、受け止めてくれるから、欲張りな女の子になってしまったんだ。

 

テンと生活を共にするうち、いつの間にか、満足できていた幸せの量じゃ満足できなくなって。欲する度に欲した以上を頑張って注いでくれるから、もっともっと欲しくなる。

 

家族(パック)以外で自分を素直にぶつけられるのは、テンだけだった。

 

こう言ったら嫌われるかも、とか。

こうしたら嫌な目をされるかも、とか。

 

そんな不安も一切ない、真に心を許せる人は、テンだけだった。

 

 

「すき、すき……だいすきだからぁ。やだ、やだぁ。だめ、やめてぇ……てぇんぅ」

 

 

拙く、幼稚に、想いを紡ぐ。

 

あのとき、この言葉を伝えることができたなら、結果は違ったのだろうか。テンが死ぬことも、なかったのだろうか。

 

思うだけで全身から気力が抜け落ち、いつしか治癒魔法の勢いは衰え、テンの体に泣きついたのを最後に、灯火も途絶えて。

 

 

「エミリアって呼んでよぉ……。もう我儘も言わない、欲張りにならないから……ごめんなさいするから、起きてぇ……ずっといっしょにいて……っ」

 

 

罪を羅列したエミリアが、テンの体を抱きしめる。死を認められない一心で啜り泣く様は、幼い子どもと遜色がなかった。

 

エミリアの心が、壊れた。

 

泣きじゃくる娘をまざまざと見せつけられ、パックは悟る。次いで、なにもしてあげられない無力感に駆られ、その次には娘から大事な人を奪った愚者に殺意が一気に燃え上がり———。

 

 

「……これは」

 

 

纏う空気が変わったパック、その変化を敏感に感じ取ったロズワールが、小さく身を震わせる。途端、周囲の温度が急激に低下し、肌に触れる大気が攻撃的に冷えた。

 

前にも一度、味合ったことのある空気感。全身を芯から凍り付かせてくる冷気には既視感が強く、自然と、ある一つの記憶と、存在の姿が鮮明に思い浮かぶ。

 

雪で覆われた大森林の中、半日ほど続いた、地図を書き換えるほどの激闘。

 

刹那でも気を抜けば命を落とす死戦の最中、幾度も直感した死の錯覚、反射的に魔法を構えさせられる濃密な殺意、その存在の名は、

 

 

「——終焉の獣」

 

 

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