【十月二日木曜日午後七時半 茅ノ間唯姫の自室】
唯姫の語りが終わる頃には、目の前に置かれた二つの丼は底が見えていた。唯姫はとても満足度の高い海鮮丼を平らげ、いかにも幸せですという顔をしている。
対する私は、明らかに具材に対するご飯の割合が大きすぎる海鮮丼を腹の中に詰め込み、今にも精根が尽きそうだ。
「ところで……唯姫さん。これからどうする予定ですか?」
「予定? 明日になったら動きを見ながら探りを入れるつもりではありますけど……」
「いえ、そうではなくて。今日のこれからの予定です」
「ああ、そういうことですか。私は温泉に入る時間まで勉強でもしてますよ。それともまだ、事件に関するお話がし足りませんか?」
受験生だというのにゲームばかりしている人には、是非ともうちの一年生組を見習ってほしい。ほら、月様、貴女のことですよ。
「今は大丈夫です。私も少し疲れましたから」
「私のベッド使って休んでもいいんですよ?」
唯姫の表情は冗談めいていた。彼女は勉強机に向かい、棚から教科書を出して広げている。
「……いえ、遠慮しておきます」
「そうですか────ってあれ? なんか携帯の音鳴ってません?」
床にポツンと置かれた私の携帯が震えていた。唯姫もそれを見つけたようで、こちらに何かを促すような視線を向けてくる。
『────ピロリンッ♪ピロリンッ♪』
「鳴ってないですね」
「ほら、鳴ってるじゃないですか」
「気の所為────」
「気のせいじゃないですよ」
仕方が無いので携帯を手に取る。勘解由ななからの着信だ。
「はい、京極澪です」
『れーいーさーまーっ!』
「……何でしょう?」
少々怒っていそうな声色だ。唯姫はこの時点でこちらに這い寄り、携帯に耳を近づけている。
『まだ頓宮教導官のとこに行ってなかったんですか!? なーんーでー関係ない私が怒られなきゃならないんですか!』
唯姫は怪訝な顔をした後、携帯をつけているのとは逆の耳に、そっと耳打ちをしてきた。
────なんとか誤魔化してください。
「……」
『澪様、聞いてます?』
「……聞いています。」
『今どこにいるんですか?』
「便所です」
『汚い! 澪様汚い!』
「おトイレです」
『……そうですか、門限までにはちゃんと行ってくださいよ?』
「分かってます。それではお休みなさい」
『あっ、ちょっ待っ────』
プチッ────
「澪様、頓宮教導官に呼ばれてたんですか?」
唯姫は勉強机に戻りながら、そう問いかけてきた。唯姫はこの事を知らなかったらしい。
「ええ」
「どういった理由で呼ばれたんです?」
「分かりません」
「何があったか分かりませんが、絶対に行ったりしないでくださいよ?」
「そうですね、私も嫌な予感はしています」
先程の事件の話を聞いた以上、頓宮教導官に接触するとなると、高確率でこの身に危険が及ぶだろう。勿論そんな危険を冒したくはない。
(────ん? 少し、おかしいな)
電話の事で、数時間程前の会話を思い出す。
(唯姫はななからの電話の事を知らなかった……となると……)
「────唯姫さん」
「はい、何でしょう?」
振り向いた唯姫の目を見つめる。唯姫の顔は、どうにも不思議そうだ。
「どうして唯姫さんは嘘をついたんですか?」
「……どの嘘の事でしょう?」
唯姫の顔が、明らかに曇った。
「休講になるのは今日から────これ、唯姫さんの嘘ですよね?」
「……」
唯姫の顔が、ハッとしている。
「何故嘘をつく必要が────」
「────そんな事も分からないんですか?」
唯姫の顔が、呆れたような表情になった。やはり唯姫の表情はバリエーション豊富だ。
「そんな事……」
「ここまで何の話をしてたかもう忘れちゃいました? 全く、澪様は何も考えてないんですね。私はもう答えを何回も言ってますよ?」
(話を整理してみよう。海岸を歩いていたときの電話で、ななは休講になるのは明日からだと言っていた。対して、唯姫は休講になるの今日からだと言っている。唯姫が否定していないことから、これは嘘。でも、そんな嘘をついても簡単にバレるし、何より嘘をつく意味が分からない。唯姫の行動にしては不自然じゃない?)
「……まあ、そこに気がついただけでも成長です。澪様流石ですね!」
心にもありません────と声のトーンが言っている。
(唯姫はななからの電話の事を知らなかった。つまり、唯姫は私が休講の話を知らないと思い込んだうえで、嘘をついていたことになる。そして、嘘をついていたときの唯姫の目的は……目的は────)
「────っ!」
「ようやく分かりましたか? 遅かったですね〜」
「私に────来て欲しいから……」
「……私は澪様が来てくれるなら、何だってするつもりでいました。だって、私は澪様のことが大好きですから、ね?」
「……私のことが……」
「いやだなあ、私にこんな恥ずかしい事を言わせるなんて。澪様も罪なリリィですね」
「……そうですか。理由については納得しました」
「じゃ、私は勉強に戻りますね〜」
(唯姫が……私の事を……)
私が他人から好かれるなんて、今まで考えもしなかった。
入学してからの私の言動を振り返ってみても、傲慢で怠惰で色欲で憤怒で────おっと間違えた、勢い余って身に覚えの無い大罪まで付け加えてしまった。
それはそうと、自分に好かれる要素なんて一切無いと思っていた。そして、今もそう思っている。心境はなんとも複雑だ。
「────澪様?」
「……はい?」
「何ぼーっとしてるんですか?」
勉強するって言ったじゃないか。ぼーっとするくらい別にいいだろう。
「私も疲れてますから」
「へー。ところで、なんで私が澪様の事が大好きなのか、分かってないみたいですね」
唯姫は相変わらずだ。まるで心を読んだかのように話し掛けてくる。私も同じことが出来たなら、どれだけスッキリしていることだろうか。
「……ええ。全くもって分かりません」
「私は澪様の愛情に惚れたんですよ、覚えてませんか?」
「覚えてませんね」
「まー仕方ないですね、私と澪様じゃ“記憶力”が違いますから」
「……?」
「私は覚えてますよ、澪様のその本心。決して忘れることはありません」
何を言っているのか分からない。もしかしたら、気にしても仕方の無い事なのかもしれない。
「まあ、分かりました。分かりましたから勉強しててください」
「私は何があっても、澪様の事が大好きです。でも澪様、勘違いはしないでくださいよ? 澪様は周りから見たらクズなことに変わりはありませんから」
上げてから落としてくるパターン。これは心に大きな落下ダメージが入った。
さて、私も勉強することとしよう。勉強机の傍らに立ち、上から唯姫が勉強している様子を覗き込む。これは嫌がらせでは無い、勉強だ。
「……澪様、何してるんです?」
「勉強です」
「嫌がらせですね」
「違います」
「……そうですか」
(開いているのは数学の教科書。何か変な解き方でもしてたらすぐに突っ込んでやるとしよう)
そう心に決めたものの、突っ込む隙は無く時間が流れ去っていくのであった────