【十月二日木曜日午後九時 茅ノ間唯姫の自室】
「澪様、行きましょう!」
それは、突然の事だった。勉強をしていた唯姫が前触れもなくピタッと手を止め、此方に振り返りそう言った。
行きましょう────この言葉に、私は敏感に反応する。
私がここまで来た目的────そう、温泉だ。今日は様々な出来事に巻き込まれたが、本来の目的は温泉で変わらない。湯に浸かり、先日の疲れとイライラを昇華させる為に、ここ湯野浜の地を目指して来たのだから。
心做しか、唯姫の顔も綻んで見える。やはり、温泉の偉大さは誰にとっても共通のものなのだろう。
「今すぐ行きましょう」
唯姫が勉強している間暇潰しとして読んでいた『プリンキピア・マテマティカ』を床に置き、着替え用の下着が入ったリュックをさっと持ち上げる。
「それで、温泉というのはどこにあるのですか?」
「少しくらい待ってくださいよ、私の準備がまだです」
果たしてここの温泉は、一体どのようなものなのだろうか。唯姫は、ここの食事処の系列店だと言っていた。同じ建物内にあるのか、はたまた全く離れた所にあるのか。サウナは付いているのだろうか。こんな時だというのに、楽しみで仕方が無い。
そして、閉塞感が強いこの部屋から離れる事が出来るという、一種の安堵感もある。こんな部屋に住み続けるなんて、普通であれば精神が狂ってしまいそうなものだ。
「それじゃあ行きましょう。ちゃんとついてきてくださいよ?」
そうして私達は、温泉へと向かい始めたのであった。
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【十月二日木曜日午後九時十分 温泉宿 泉海】
「ここです、入りましょう」
連れてこられた場所は、先程まで居た建物の随分近くに位置していた。外に出て少し歩いた所にある、月花亭とはよく似た風装の建物だ。入口に提げられた暖簾には、温泉マークとともに『泉海』と書かれている。
建物の中へ入り、靴を鍵付きロッカーに仕舞い込む。簀子から一段上がり、これぞ温泉といった感じの畳床を、黒色のハイソックスで踏み進む。
「こっちですよ、澪様」
向かう方向に迷っている私に、唯姫が手を差し伸べてきた。手を取れ……ということだろうか。
「え、ええ……」
「ふふっ、ありがとうございます」
差し伸べられた手を取ると、唯姫は柔らかく微笑んだ。小さなその手は、弱い力でくいっと引っ張ってくる。
そんな彼女の手は、暖かい────と言えば、嘘になってしまうだろう。ひんやりとした冷たさが、肌にひしひしと伝わってくる。
「あれ……唯姫さん、受付は?」
ふと、唯姫の向かう方向が脱衣所だということに気がついた。普通であれば、受付を済ませてから向かうべきであるが────
「────だって、私の家ですよ? お風呂に入るのに受付なんて要ります?」
「ですが、私は部外者で……」
「えっと、この時間はそもそも受付閉まっちゃってますから。九時から深夜の清掃が入るまでが、私達の入浴時間です」
どうやら、このまま私が入るのは無問題らしい。推測するに、唯姫は事前に何かしらかけ合っていたのだろう。
「そうですか」
そうして、流されるように温泉へと進んでいく。
それにしても、これ程までに綺麗な温泉があるとは思いもしなかった。ここら辺は古い建物が多く、新しい温泉が建ったという話など聞いたことも無かったからだ。
そして、今になって気がついたことがある。
(唯姫……私よりも背が高いんだ……)
脱衣所にて、隣に佇む唯姫は、とても瑞々しい肌色を余すところ無く晒している。黄緑色の髪には綺麗な艶があり、見る人は誰もが妖精のような、幻想的な何かを想起してしまうことだろう。
────とは、唯姫を過剰評価してみた結果だ。
「……なに、見てるんです?」
「いえ、何も」
着慣れた制服を、手馴れた手つきで身体から外していく。唯姫は既に服を脱ぎ終わり、メッシュのポーチとフェイスタオルを片手に扉の前で待機している。
私も衣服を全て外し終わり、タオルとヘアゴムを手に取り浴室へと向かう。
「あれ、澪様、シャンプーは持たないんですか?」
「備え付けのを使いますから」
「トリートメントは置いてありませんよ?」
「使わなくても大丈夫でしょう」
「なんでそれでそんなに髪がサラッサラなんですか……」
特段髪のケアに気を掛けたことは無いが、どうやら、私の髪は他人から見てサラサラの部類のようだ。
「普段から髪には気を遣ってますから」
「え〜! それなら今日は、私の浴室セット貸しますよ?」
「いいのですか? ありがとうございます」
「どーいたしまして!」
貸してくれるというのなら、有難く借りることとしよう。
漸く、浴室へと足を踏み入れる。
唯姫の後を追って浴室の扉を潜ると、目の前に広がったのは温泉の数々。掛け湯もあれば、足湯もある。外から確認出来た通り、中はかなりの広さだ。
浴室の奥につけられた扉を開けてみれば、そこには露天風呂も存在していた。今日は冷え込んでいるため、露天風呂に入るには絶好の日だろう。
そんな温泉への期待を一旦胸に仕舞い込み、シャワーの前の椅子に腰をかける。
(あっ、そういえば……)
確か唯姫は、自分の浴室セットを使っていいと言っていた。椅子から立ち上がり、シャワーの音がする方へ少し歩いて唯姫の姿を探す。先程腰をかけた場所の、小さな壁を挟んだ逆側にその姿はあった。
髪を洗っている最中の唯姫に、後ろから声を掛ける。
「唯姫さん」
「あっ、勝手に使っていいですよー」
何を言いたいのか察してくれたのだろう、何も言わずとも答えてくれた。そうして唯姫の隣の椅子に腰をかけ、唯姫の前に置かれた三つのボトルを手に取ろうとした。しかし────
(あれ…………どれが、シャンプー?)
その三つのボトルは全て同じ、透明な容器だった。恐らく、温泉などへの持ち込み用に中身を移し替えているのだろう。
「ピンクのがシャンプーで、白っぽいのがトリートメント、よく分からない色のやつがコンディショナーです」
手に取るのを迷っていると、髪を流し終えシャワーを止めた唯姫が口頭で教えてくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ〜お気になさらず」
手には多めのシャンプーを取る。私は唯姫と比較しても髪が長いため、洗うのにはかなり時間がかかる。
しかし、身体を洗っているだけの時間を嫌と思ったことは無い。手を動かしていると、何かと考え事が捗るからだ。
(唯姫────彼女の恐ろしい面を今日、知ってしまった。でも、こうしている分には到底あんな面があるとは思えない。だからこその恐ろしさというものがあるんだけれど)
唯姫について、再び確認し直す。正直に言えば、全く、現実感というものが湧かないのだ。
(今まで、唯姫という人物をよく知らなかった。それだけじゃない。同じレギオンのメンバーでさえ、よく知らないことばかりだ。他人を見る事は苦手じゃない筈なのに、一体何故…………まあ、別にいいか)
考えても分からないことは分からないと、思考をシャンプーと一緒に綺麗さっぱり洗い流す。
(そういえば唯姫、私が思っていたよりかなり大きかったな……)
胸も身長も目の当たりにして、私のソレよりも大きいことに気が付いた。手を握った時は気が付かなかったが、並んでみるとその差ははっきり見て取れる。私が唯姫より大きいのは、どうやら態度だけのようだった。
────そんな事を考えているうちに、唯姫の姿は隣から消えていた。既に温泉に入っているのだろう。
そうこう考えているうちに、私も髪が洗い終わり、温泉に入ろうと椅子から立ち上がるのだった。