目の前に居るのは茅ノ間唯姫────そう、今朝バス停で出会った、茅ノ間唯姫だ。
「あれ、澪様じゃないですか。どうして此処に居るんですか?」
聞きたいのはこっちだ────と言いたい気持ちは抑えておく。聞いたら負けた気がしてしまう。
「多少の休息があってもいいでしょう、今日はそういう日です」
「私の家がこの近くにあるんですよ〜。今日から講義が休みらしいですから、荷物だけ持って戻ってきちゃいました」
(────っ!)
内心は少し驚いていたが、表情には一切出さない。この程度の反応を予測しておくことは自分でも可能だ。この近く家があるというのも、嘘の可能性が高いように思えるが────
「そうですか。私はもう少しここでゆっくりしていきますが、茅ノ間さんはどうですか?」
「やだなあ、澪様ったら疑り深いですね。それなら私の家までついて来ますか?」
「……」
(やっぱり────この子の今日の行動は、どう考えても普通じゃない)
唯姫は多分、ワザとこちらに変だと勘づかせるように誘導している。
しかし不思議なのは、今の今まで同じレギオンの仲間として過ごしていて、一切そういった行動は無かったと記憶している。勿論、変な噂の一つも聞いたことがない。
「……少し私は席を────」
「────澪様」
唯姫は急に声のトーンを落とし、先程の芝居じみた表情から突然、冷たい真顔となった。
「気をつけた方がいいかも知れません」
瞬間、時が凍ったかのような錯覚に囚われた。
「……っ!」
(これは一体どういう……)
何の警告なのだろうか。そして、この警告にはどんな意図があるのだろうか。良心からの警告なのか、脅しにかかっているのか。今の自分に想像出来ることはあまり無い。あるとすれば、昨日の殺人事件絡みか何かだろう。
「……茅ノ間さん」
「はい〜」
普段通りの口調と表情に戻っていた。まるで夢でも見ていたかのような感覚だ。
「休講なのは明日からと聞きましたが?」
「澪様、学校からの連絡読んでないんですか?」
「ええ。休講だというのは勘解由さんから聞きましたが……」
「あー、気を遣ったんじゃないですかね? ほら、澪様そういう情報には疎いみたいですし」
あくまで何事も無かったかのように会話は続く。情報に疎いというのは間違ってはいないし、訂正する気もない。
「そうですか、教えていただきありがとうございます」
「どういたしまして〜」
「…………」
そうして、その後は他愛も無い会話を続け、そろそろ帰ると言った唯姫を見送った。
(気をつけて……か)
もう少しぐらい説明があってもいいんじゃないか────とも考えたが、あれも強く印象づける為の手法なのだろうと納得した。
これ程までに手間を掛けた警告。少し悔しい気もするが、気にせずにはいられない。気にしなくていい道理も無い。
(まあ、今気にしても、分からないものは分からないか……)
そう思うことにするも、しばらくはこの出来事が頭から離れないのであった────
【十月二日木曜日午前十時四十分 湯野浜 休憩所】
唯姫と話し込んでいたこともあり、だいたい一時間ほど休憩所に居座っていただろうか。目的の温泉には午後六時頃にでも入ろうかと思っているので、まだまだ時間には余裕がある。
つまり────暇だ。
とはいえ、私には先見の明がある。暇になることは見越していたので、数学の教科書を荷物に詰めておいた。
(今日はどこを……あっ、そうだ……)
数学の教科書を手に取り、思い出す。
最近はななともう一人、レギオンの先輩の為に数学を教えたりもしている。そこで使用する問題を作問している途中だったのだ。早速続きに取り掛かる。
(うーん、ななのレベルなら、この問題は流石に簡単すぎる。捻りも何もない……)
過去の自分の作問にケチをつける。
(絶対値のついた積分は……教えてないけど、まあ少し考えればできるかな)
英ヶ野の成績学年一位は伊達じゃない。その気になれば、聖橋大学にだって余裕で受かるであろうポテンシャルがななにはあった。教え甲斐が有るというものだ。
(月様にはまずは……基礎の基礎である部分積分を理解してもらわなきゃいけないかな)
月様────柊月は、同じレギオンの三年生だ。最近になって、数学を教えて欲しいと頼み込まれた。三学年のこの時期なので、数Ⅲの大方は履修が終わっている筈であるが────ハッキリ言って、月様はかなり遅れをとっていると思う。まあ......教え甲斐が有るというものだ。
(極限も同時に教える必要があるかな……複素数平面は、もう諦めてもらうしか……)
こうやって、相手のレベルに合わせた作問をするのが私、京極澪の趣味の一つだ。
難しいだけの問題を作問するのは好みでは無い。既知の知識に加えて気づきを得させ、発展させる力を伸ばす。これこそが教材開発の意義なのだから。
例えば────トマトが苦手な一人の少女がいたとしよう。その少女のトマト嫌いを治すために、ミニトマトを大量に突き出して無理矢理口の中に詰め込んだりするだろうか。
勿論、そんなことをする人はいないだろう。本当にトマト嫌いを治そうと思っているのであれば。
ケチャップやトマトジュース、トマトゼリーなどを段階的に取り入れ、徐々に耐性をつけていくのが一般的である。
中間層向けの学校の教材は、言わばトマトチキンカレーのようなものなのだ。トマトが大好きな人にも、大嫌いな人にも同じものを食べさせる。そして、トマトが苦手な人のトマトに対する嫌悪感は、一生治ることはない。トマトが大好きでトマトしか食べたくない人を、満足させることもない。
……いや、後者については一概にそうとは言えないだろうか。
ともあれ私は、上にも下にもズバ抜けた彼女達の教材開発に努めるのだ。
ちなみに私はケチャップすら喉を通らないため、この方法でトマト嫌いが治ることはない。
(両辺のxに関する微分で、部分積分を用いてy'yとするところを説明して……)
…………
────気がつけば、時刻は十二時半を回っていた。
お腹が悲鳴を上げている音も聴こえる。ああ、今日は朝ご飯を食べ忘れていた。
集中していたため気が付かなかったが、携帯には一通のメールも届いていた。
(通知……? 誰からだろう)
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New 11:05 From:月 To:澪
【件名】明日の午後
澪ちゃん! 明日暇なら遊ぼう!
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────思わず作問ノートを破り捨てそうになった。
どうやら月様は、自分の立場を弁えていないようである。大学受験を控える身で遊ぶなんて……とまで言えば、少しばかり酷かもしれないが。
(『駄目です、勉強していてください。』……っと)
月様からの誘いを冷淡な文面で一蹴し、手早く荷物を纏め、腰を上げる。
窓から見える外の様子は相変わらずだ。しかし、今の心境の所為であろうか、完全に日が登った空も微かに鈍色に見える。
こんな気分では休暇も楽しめない────と、昼ご飯のことを考え奮起を促そうと試みる。
(ここでお昼ご飯を食べるならやっぱり、海鮮かな。お金はいくらでも出せるし豪勢にいきたいけど……)
もう既に、頭の中は海産物でいっぱいだ。美味しい食べ物は心を満たすことが出来る。
度重なる出来事による疲弊を癒すため、気分を上げるようなことを沢山思い浮かべる。そして、それを浮かばせる頭脳に積もった倦怠は──────明らかな異常事態に気を配ることを拒んでいた。