In the dark forest(暗い森の中で) 作:kanpan
代行者、言峰綺礼。
聖堂教会の神父の息子として生まれた彼は敬虔な信徒として熱心に修行に励み、勤勉に教会の任務をこなした。
だがそれは彼に喜びを与えなかった。
言峰は生まれながらにして欠落した人間だったのだ。
彼は普通の人々が美しいと思うものを美しいと思えない。
その事実に気づいてから、言峰はそれを克服しようといっそう苦行に邁進した。一般的な価値観を理解できるはず、皆が美しいと讃えるものを自分も美しいと思えるはずだと苛烈な修行を続けた。だがその願いが叶う事はなかった。
彼は人並みの道徳を持てないにもかかわらず、いや持てないからこそ人並みの幸福を求めた。
一人の女を愛し、家庭を築こうとした。妻は言峰を愛していた。言峰も妻を愛そうとした。妻との間に子も生まれた。
だがここでも、言峰にとっての幸福とは妻子の苦しみに他ならなかった。
妻は言峰にとって聖女だった。あれほど自分を理解し、癒そうとする人間はこの先現れまい。そう思えたその女ですら、彼の欠落を埋める事はできなかった。
女が言峰を理解し、癒そうとすればするほど、この女の嘆きが見たいと思う自分がいることを言峰は思い知った。
そんな感情を愛だなどと認められはしない。そんな感情しか抱けない者の誕生は間違いだ。
そうして言峰は自ら命を断とうと決断した。だが言峰に先んじて、女は自殺した。女は自らの死を以って言峰に示そうとしたのだ。
「ほら。貴方、泣いているもの」
貴方は相手の死を悲しめる、他人を愛せる人なのだと。
だがその時、言峰の胸の内に浮かんだのは
“どうせ死ぬのなら、私が手を下したかった”
という気持ちだった。彼が悲しんだものは女の死ではなく、女の死を愉しめなかった、という損得だけだった。
第四次聖杯戦争。
妻を失って間もなく、言峰は父親と遠坂家の当主の手引きによってこの争いに参加した。もともと聖杯戦争に関係も関心もなかった。当初は父と遠坂の指示にしたがい淡々と任務をこなしていただけだ。
この神父と魔術師が裏で通じ合う茶番のような争いのさなか、想いもかけない事に言峰の長年の探求の答えがもたらされる。
金色の鎧をまとった原初の英雄は言峰に教えた。
”お前は世界を美しいと思うことができる。ただその対象が他の人間と違うだけだ。”
言峰はようやく自覚した。人の不幸が、悲嘆が、絶望が自らの愉しみ、悦びであると。
気づいてしまえば単純な事だ。彼は妻を愛していたし、人間を愛している。だからこそ、その苦しみが見たいだけなのだ。
魔術師たちがお互いの悲願をかけて殺し合った聖杯戦争において、言峰は最後まで勝ち残った。ついに姿を現した聖杯は彼の願望を叶えてみせた。
宙に浮かぶ聖杯から零れ落ちた黒い泥は辺り一面を破滅と嘆きで埋め尽くした。
紅蓮の地獄。風に運ばれる阿鼻叫喚の声。舞い踊る炎の壁。
それは言峰の胸の内の空虚を満足感で満たし、歓喜の昂揚で高鳴らせた。
崩れゆく物は美しく、苦しみ悶える者は愛おしく、耳に届く悲鳴が快い。
神の愛より外れた道が、これほど色鮮やかな喜びに満ちていたとは。
ああ、いま私は生きている———
確固たる実存として、ここに在る———
言峰は初めて識った。初めて実感した。己と世界の繋がりを。彼の内に潜む本性は、普通の人々とはまったく違う在り方で世界を見ていたのだと。
聖杯は言峰に彼が求めていたことの解答を与えた。
だがそれですらあの聖杯の中に眠るモノのほんの一部分であったにすぎない。
言峰はそれを生み出す次の機会を淡々と教会の任務をこなしながら待ち続けている。
再び聖杯が降臨するその時を。
そして言峰は今もまた異端の魔術師を狩る戦いのさなかにいた。
代行者のチームの仲間たちは次々と敗れ去り、すでに言峰一人だけになっていた。
暗い森の中でうごめく屍体たち。言峰は黙々と
不意に森の暗がりの中に光が走った。屍体の群れの上に浮かんでいた鬼火の昏い炎が、まばゆい閃光でかき消される。光と共に強い魔力がほとばしっていた。高度な戦闘魔術。この場所でそんな魔術を放つ者がいるとしたら、それは代行者の宿敵たる執行者の魔術師たちに他ならない。
魔術の雷撃が、炎が言峰の周りの屍体たちを一掃した。
言峰の目の前の闇の中から人影が進み出る。この人影に覚えがある。だいたいこういう頃合いで彼女はやってくる。
「やはり君か。マクレミッツ」
薄く笑いながら言峰は現れた人物に声をかけた。
「ええ。久しぶりです。綺礼」
バゼットも軽く微笑みかえして言峰の背後に回る。バゼットは言峰と互いに背中を任せて屍体の群れに向き合った。
これが彼らの三度目の出会いだった。
お互い組織に報告せず、自身の判断で信頼するに足ると判断して手を取り合う。そんな微笑ましい些細な
執行者、バゼット・フラガ・マクレミッツ。
神代の魔術の継承者。魔術師たちから畏怖される封印指定執行者。
その肩書きはバゼットの実力に見合ったものだ。
だがそれは彼女の心を満たさない。そんな大仰な肩書きを持つ者には似つかわしくない、凡庸な悩みが彼女の心を常に苛んでいる。
魔術協会の中で戦闘能力では右に出る者がいないと言われながら、バゼットは自分を誇りに思えない。私はそんな肩書きにふさわしい人間などではないのだと自虐している。
幼い頃から何事にも強く興味を持てず、冷めた子供だと言われてきた。バゼットは神代のルーンを伝える家に生まれ、物心つく前からその家の習いにしたがい魔術と格闘術の鍛錬に明け暮れていた。確かにそのあたりに一因があるのかもしれない。
だがとりわけ抑圧されてきたわけでもない。むしろ両親はバゼットが子供らしい遊びに関心を持たないのを不憫に思っていたのだと、彼女は知っている。
作業のように一日を過ごすのだな、と父はすまなそうに言った。しかし父が悪いわけではない。
バゼットがそんな風に過ごしていた理由。それは諦めていたからだ。
希望を持てない彼女は、希望を持たない事で毎日をやり過ごす。
希望を持たないのは、怖かったからだ。
異能の者であれ、常識を越えた人間であれと期待される自分の本当の姿は、あまりにも脆弱で不安定で、どこにでもいる普通の人間と変わらない。
そんな自分が何かを願うなんて許されない。願ってもきっと失ってしまうだろうと。
何ができるのかわからないけれども、自分にできる何かをなし得たかった。そんな平凡な希望ですら、バゼットにはつかめないものに見えていた。
壊す事でしか感謝されず、繕う手を持たない我が身。
結局、自分は周囲の期待にこたえられない。
鍛えれば鍛えるほどに、努力すればするほど、自分は周りから見放されていく。
そうバゼットは悲観している。
そんな惨めな気持ちのまま生きて行く事を、心の奥底では楽だと感じている。それはありふれた一種の処世術だ。人々の多くはそうやって自分の弱さを飲み込んでごまかして生きている。
だが、その楽さをバゼットは自らに許す事ができない。
その惨めさに耐えきれず、その弱さを克服したくて自らを鍛え続ける。
そうして外見を取り繕って
終わりのない鍛錬にもがく日々。それでも悩みは解消できず、先が見えない息苦しさ。それは背負いきれない重荷になって彼女の心を押しつぶそうとしている。
バゼットの心の中をある想いが掠める。こんな重荷はもう手放してしまいたい。
誰も必要としない、と。
そうあれたらどんなに楽かと、
言峰綺礼。
この男は、決して人と交わらない。
誰も必要とせず、誰を憎んでもいない。
人として完結した強さ、通常の
けれど、だからこそ裏表がなく、一言で”悪”と言いきれる。
……そんな危険な男のどこに惹かれたのか。
ただ思ったのだ。
この、誰も必要としない男にもし必要とされたのなら、それは何者にも勝る安心なのではないかと———