『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』通称『トレセン』は全国に複数存在するウマ娘の養成機関である。
その中でも府中に位置するトレセンは『中央』と呼ばれ、主にトゥインクルシリーズでの活躍を目指すウマ娘の所属する所謂エリート学園である。
そんな学園の廊下を一人の青年が歩いていた。黒の髪をツーブロックでまとめ上げ、若干鋭く冴えた瞳は希望と期待に満ちている。身に着けているスーツは機能性を重視したもので、デザインは質素にまとまっており、その胸には窓から差し込む光に照らされて小さく主張するバッジがつけられている。
青年の名は羽柴健治。今年正式に中央のトレーナーとして就くことになった新人である。健治は足取りも軽く廊下を歩く間に先日の出来事を追想する。
「正直、少し驚きました」
シンボリ家当主は眉間を指で揉みながら呆れたように続けた。
「貴方が優秀なのは教師から聞いていましたし、カリキュラムを短縮する可能性も考えてはいましたが…まさか…。いえ、それよりも。試験合格おめでとう。これでようやく一歩が踏み出せたわね」
「はい。ありがとうございます。自分でもこんなに早く合格できるとは思いませんでした」
笑って答える健治に当主は気を取り直したように頷いた。
「正直出来過ぎだとは思いますが、これで慢心してはいけませんよ?あくまでこれは第一歩。これから先が大変なのですから」
「はい。気を引き締めて、邁進してまいります。…それで支援の…その…」
「あぁ、そうでした。昔から言っていますが、我がシンボリ家が支援したことはあまり外部に漏らさないように。目敏い者は気付いているかもしれませんが、一応ある程度は隠していますので。それと…貴方が気にしているのは支援の見返りですね?」
「はい。実際の所、支援が無ければ私はトレーナーにはなれなかったかと思いますので」
「その謙遜的な態度は美徳ですが、謙遜のし過ぎは周りを不快にさせますよ?成したことは大きいのですからもっと誇りなさい。それに支援など無くとも、時間はかかったでしょうが貴方はトレーナーになれていますよ」
さて、と仕切り直して本題に入る。
「…では見返りとして、これからは我がシンボリ家の専属トレーナーに……」
覚悟を決めて身構える健治の顔を見て当主はにやりと笑う。
「…というのは冗談です」
「冗談…ですか?」
「ええ、冗談です。家としてはそうした方が良いのでしょうが、私としては貴方の行く末に興味があります。自由にトレーナーをやってみて、その先どのように成長するのか。どのように皆に影響を与えるのか。若き精鋭がこの業界に一石を投じられるのか、とても興味深い」
いつもは輝きのあるエメラルドの瞳が、アグネスタキオンのような淀んだ瞳に変わっていく。研究者気質なのか、座った目がどこか恐ろしい。
「なので見返りは要りません。どうしてもというのなら、ルナ…いえ、ルドルフの助けになってあげてください」
「それはもちろんです。ですがよろしいのですか?私としてはそれはお返しになっていないのですが」
「それで良いのです。貴方はこれから大変でしょうから、あれこれ言うのは酷というモノです。単なる好意と思って受け取っておいてください」
座った目が柔らかいものへと変化する。
「そういえばあの約束は守れていますか?」
「『担当を持つまで皆と連絡を取らない』と言うやつですよね?それは今も守っていますが、理由をお伺いしても?」
「まぁ単なるサプライズですよ。サプライズ。あの子たちは今も貴方がフランスに居るものだと思い込んでいます。どうせなら驚かせてあげた方が面白いでしょう?」
そう言って頬に人差し指を当ててウィンクする姿は今までの上に立つ者の姿と異なり、親しみを感じさせるものだった。
歳を考えるとあのあざとい姿はどうなのかと失礼なことを考えながら歩いていると、割り当てられたトレーナー室に到着した。中に入り、必要最低限の物がある事を確認してから椅子に座り、クルクルと回る。
ふとそういえば生徒名簿をまだ見ていないことに気付く。情報は大切だ。早速タブレットを取り出そうとしたところで部屋の扉が開いているのに気が付いた。
「やっぱりここだったね。これからよろしくね。ミスタートレーナー?」
「……」
部屋の中は静寂が満ち、外の小鳥のさえずりしか聞こえなくなる。少し間を置いて椅子の軋む音と共に静寂が破られる。
「久しぶり、シービー。4年ぶりかな?」
「ふふっ。そうだね。何で連絡をくれなかったのかとか色々言いたい事はあるけど。…お帰り。健治」
「あぁ。ただいま」
ミスターシービーの差し出した手を握り、握手を交わす。そして目を鋭くさせた健治は手を離すことなく尋ねた。
「それで?どうして在校生がここに居るのかな?入学式と新任式は新入生とトレーナーのみで、在校生は通常通り授業中だよね?」
トレセンは中高一貫校のような体制だ。中等部の内に能力を伸ばし、トレーナーと契約をして高等部でデビューする。ミスターシービーは健治の一個下なので今は高等部1年で、入学式も新任式も関係なく授業中のはずなのだ。
「あはは」と目を逸らしている。何とか誤魔化しのセリフを考えているのだろう。とりあえずソファーに誘導して話を続ける。
「…はぁ。まぁサボるのも程々にね。それはそうと、何でここに居るって分かったの?」
「ん~。勘ってやつ?こう…ビビッと来たんだよね」
「やけに恐ろしい精度だね…。ここに来た理由は?」
「昔馴染みに会いに行くのに理由が要るの?」
「…なーんか釈然としないけど、まぁいいか。そういえば今年デビューだよね?調子はどう?」
そう聞くとミスターシービーはバツの悪そうな顔になる。言いたくないなら言わなくてもいいと言ったが、現状を語ってくれた。
「それが…今トレーナーが居ないんだよね…」
「…は?」
衝撃だった。この時期にトレーナーが居ないウマ娘はかなり少ない。チームという制度があるため、大抵の子はあぶれない。それでもトレーナーが居ない子は、言い難いが全てのトレーナーに才能無しの烙印を押されているか、もしくはかなり性格や素行に問題のある子という事になる。
健治の知るミスターシービーはかなり友好的で誰とでも仲良くなれるし、今回のサボりを考えると素行にちょっと問題がありそうだが、トレーナーが付かないほどのモノでは無いはずだ。ということは余程才能が無いのかもしれない。
そうなってくると健治の手に余る案件だが、昔馴染みが悩んでいるのだ。手を貸さずにはいられない。とりあえずは何故トレーナーが居ないのかを聞いてみることにする。
「今まで仮で契約したことはあるんだけどね。なんか合わなくてやめちゃった」
「アバウトだなぁ。具体的にどんなことが合わなかったの?」
「ん~。トレーニングメニューがぎちぎちだったり、追い込みは止めろって言われたり。天気のいい日に散歩して練習に遅れたらガミガミ言われたり?」
「いや~うん。遅刻されて怒らない人はあまり居ないと思うよ」
「でもキミは怒らないでしょ?」
「そりゃあ付き合いが長いし、遅刻どころか約束をすっぽかされたことも多いからね」
「……」
耳の痛いことを言われた際に耳をぺたんと畳んで聞こえないフリをする姿は昔と変わらず、自然と笑ってしまう。
「でも実際問題どうするの?トレーナー居ないとデビュー出来ないよ?」
「…?目の前に居るよね?」
「いや俺新人だよ?そんな気楽に決めて良いの?」
「うーん?なんで?みんな初めは新人でしょ?それにキミなら変なこと言ったりしないでしょ?」
「いやまぁそりゃそうだけど…」
それなら大丈夫と胸を張るミスターシービーに、それで良いのかとジト目を送る。
「ん~じゃあこうしようよ。アタシはうるさくない、アタシを理解してくれるトレーナーが欲しい。キミはアタシで経験が積める。利害関係の一致ってことで」
なるほどそういう関係もありか。確かに健治にとっては損のない提案だ。問題は健治自身がミスターシービーの足を引っ張らないかだが、そこは努力でなんとかしようと考える。
「よし、分かった。そうしよう。ただ一応最低限だけはトレーナーらしいことをさせてよ?」
「あはは!それはもちろん。ちゃーんとアタシを見ててよね、トレーナー?」
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ふぅ。ちょっと緊張しちゃった。微かに震える手を握って開いて繰り返す。緊張の糸が解けたせいか、ソファーにドカッと座り込む。今、健治は書類を取りに事務室に行っている為、部屋はアタシ一人だ。先ほどのやり取りを振り返ってみると、恥ずかしさに見悶えしてしまう。
授業をサボって屋上で風を感じていたら、廊下を歩いている彼の姿が見えた。髪型は昔と同じで身長がかなり伸びている。その横顔は見間違えるはずがない。自然と足が動いて、彼がフランスに行く前にプレゼントした微かなコロンの匂いに誘われて、部屋の前まで来た。
兄のような存在だった。一人っ子だったから兄弟が欲しかったアタシにとっては特別な存在。一緒に遊んで一緒に寝て、アタシのワガママを苦笑しながらも聞いてくれる。元々飽きっぽい性格で、いろんなことに興味を持ってフラフラしているアタシを他の子は好奇の目で見てきた。だけど異性で唯一彼だけは普通に接してくれた。両親以外で唯一心置きなくワガママを言える存在。
暴れそうになる尻尾を理性でコントロールし、深呼吸をして部屋に入ると、窓際で椅子に座ってクルクル回る彼の姿が見えた。フランスに行く前と変わらず子供っぽいところに自然と笑みが零れる。彼がこちらに気付いたタイミングで声をかける。
「やっぱりここだったね。これからよろしくね。ミスタートレーナー?」
第一声をどうするか決めてなかったから、変な感じになってしまった。彼も固まってるし、どうしようかと考えてたら、彼が立ち上がって返事をしてくれた。言いたいことはたくさんあるけど、とりあえずは『おかえり』と『ただいま』を済ませる。
と途端に彼が目を細めた。この目は何かしらこちらの落ち度を指摘するときの目だ。サボっているのは事実だし、耳を畳んで他所を見る。彼は諦めたかのように溜息をつくとソファーに案内してくれた。
どうしてここに居るのがバレたのかって聞かれて内心冷や汗をかいた。とてもではないが匂いを追って来たなんて言えない。咄嗟に第六感と答えたけど大丈夫だろうか。話題を変えようとすると彼の方から変えてくれた。願ってもない展開だ。アタシがトレーナーが居ないことを伝えると、彼は驚きの顔と共に少しだけ考え込んでしまった。
何故居ないのかをアタシに聞かれても困ってしまう。性格や目標の不一致としか言えない。アタシとしては楽しく自由にレースを走れればそれで良い。勝ちに貪欲な強い子たちと一緒に走れたらもっと良いって感じなのだが、これまでのトレーナー達はやれ『才能を潰すな』だの『ちゃんと練習しろ』だのうるさいのだ。
おそらく彼もアタシの話を聞いて察しているんだろうけど、彼からは決して言わない。何故なら彼がアタシのトレーナーになる事はアタシの為になるか分からないからだ。多分アタシに迷惑がかかるんじゃないかとか、そんなところだろう。遠慮なんていらないのに。
何とか説得してトレーナーになってもらえるようになった。
ソファーに座ってボーっとしていると、安心したからか春の陽気につられて眠気が襲ってきた。本当はもっと話したいことがあったん…だ…けど…。
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事務室に行き、たづなさんから契約用の書類や手順書等を貰った。流石に新任式から2時間も経たずに契約書を必要とするとは思っていなかったようで、大変驚かれた。誰と契約するのかを聞かれた際に、ミスターシービーの名前を出すと、少し悩まし気に『こちらからもなるべくサポートしますので、大変と思いますが頑張ってください』と言われた。受けたからには投げる気など毛頭無い。
それからトレーナー室へ戻るとミスターシービーがソファーで寝ていた。行動が読めないのは昔からで、なんだか懐かしい気持ちになる。仕方ないので自販機で缶コーヒーを2本買ってくる。ミスターシービーの寝顔を見ながら飲むコーヒーは、いつもと違って少し甘いような気がした。